揶白 (KF)

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  • 道々

    2024/03/01

    動物と虫

     

     

     

     

    目を閉じて話しかければ仕事において力をくれる。

    神話が心的に立つ予感は無意識的にあっただろうが、一極を応呼するスキルに影響する理解が昔に消えていて、それにたいして答えないことに客観的には自然体のイメージがされにくくなっていた。

     

     

    語るにはこういう下りや凹みから、覚えると希望を述べやすくなる。

     

     

     

     

    この暫くの間、日本の神はこうある。

     

    2023/07/14

     

    祈りの方法(擬宝珠など)

    先駆的に神社の多い日本だが、神解りにある程度の平等さがある。今、私が生きていることが、伝えも伝統も、どの国の人も同じ時代という観点から、神を知る。新しいと思うのは、いろんな別の国の人がそれを何と驚いて知り、新しいことにたいする構え方と道だ。

     

    道は、この時、いつでも傍にあるものだと

     

    ここに続してるから、自分という個でしかない私からする意識体が、どんなに小さなこれを聞く。

     

    初心も心のブレーキも、訓練なのならば、憧れる蛙の様な対象を目掛けて実に訓練なのならば伝え遅れるところをその場で拾っているのである。この間に合わせのようにやっていくのは劇化で知っている通りの特別な教えで、この忙しなく間に合うことが恒常的なのだ。何故なら全盛期の夏は野原にて勘があった。次は名を馳すという。その次は休み。勘がそのままブレーキになった頃より、

    自分が選ばれなかったことよりも聞きに行くことは、常に伝えている。私は、そうがどうすればそう伝わるのか考えて書くのは模写している。今言ったことを次に言っても遅い。ニュアンスの違いを見分ける程人は敏感だ。

     

     

    この時だと、躾なければ思い出せなかったのではないだろうか。でも、この時にこの時だといい点呼する限りは自分は偶然、副次的存在である。自分の計脈を辿り自分が自分であるとこの時言えるのは必然であるが。これらを客観的にあやふやにする嘘が、リカイの為の仮縫いとして読むとどこからともなく始まったであろう布が健気にヒラヒラ浮かんでいるのを見る。それが真だとして書き進めて行く態度である。

     

     

    間違わされた~をOLが嫌みなく言う、これを嫌みなく言うことは難しいから目はっとした。天はシンプルに理解していて、無意識体で動くことをする心行を、般若心経を知らない方がやっている。

     

    無意識界は、その価値あるその所で奢り高ぶらない事が本陣であると言える。

     

     

     

     

     

     

    次に自分の話、触れ合っていてもこちらは自分のことだと取り掛かれることは運動会で覚えた身体性による。懐かしいと思う人もいる、どこかがいい加減動けない間は動いても仕方がない。こうしてても出来ることを確実に増やしている身のことを新たに書く字の為に忘れず自信にしておきたい。ちなみにこれはあやふやな間に何も触れずに建てれるしずかな電話ボックスだが、教え方と言うと捕った魚を、端のアラもだしにしたり、そのまま塊ほど大きくスープに入れたり大切に食す。それが本当の贅沢なのだ、と言って来たが、食べ物屋は蟲ーが来たら完全に閉めるものだったことから久しい。ま、何をしたかと言うと、昔は男子も裁縫や花生けをしていたと言うこと。自意識強く、こういった才能を諦める態度こそは大きな自尊であるが、最後の問いかけから方向性を考える。私はここで、自分という意識を持ち、精神性の自負から帰る。

    勘違いを続ける人、という外側に向かう為のキャラカードを引き出す。私は詳しくは解らないが、物語という土着にそっくりと馴染む、人の生き方について着眼があるのだと思う。感じれる完全な社会性をよそに、何か覚えていないといけない自己自身。空気の毎日変わるなかでついて行ける。実体がどんな風に存在しなくても、間合いに真剣な気合いだけはそこに残し記憶に残しているだろう。こうわかって初めて、多分きっと自分とは違うことをしてみようとしたのであろう繊細なシルエットを思うと、全てを間合いに託すことで社会も迷わない決心がついた。

     

    言いたいのは、思いがけずも多く著名そのものよりも人が凄いということ、感覚とは道が平坦になっている敷地に生まれていても、遠いならより心掛けをし生きる、向かって感じればば伸ばすことが出来るからだ。伸ばせた結果こそ、自知の小ささたとえそれであっても嬉しいものだ。

     

    こうした再び捉えることの出来た観点から、前に立つ希望の人に希望を与える、自分の中の神が増える、そう伝えると落ち着くものだ。自分の中の神が増える、理解の良さを日本人の私たちは一つになり言葉を掬い出している。

     

     

     

     

    言葉が小さくなってすまぬ。🐜

     

     

     

     

    さっきのここから自分の話。

     

     

    蟲(ム)ーが、点々といて、敷居を大事にする観念とともに、端まで大事に思う「教え」から、自分とした「私」は蟲(ム)ーじゃないが、想像も意識の方向も地球の公転が関連しているのか合間って、創価の池田会長は蟲(ム)ーだが、(わるいものを地球は早く集めようとするから同じ箇所に2体いる。)当然それらは、強い肉欲で神を嫌うから私たちの意識は神社に行く道の行く行かないを間違えてしまうことが多すぎた。こうして神社は、最近まで敬遠していた。江戸時代でもそんな日々が続いていて、何故なら、当時は国柄の鎖国からよそを知らなかった。当時の釈迦からは、国に外がある、と聞いてかなり驚いた頃だ。「でも、何かがあるから私が知っても意味がない」とする方が多かったと聞く。それはそれで広々としていたと想像で思う。

     

    日本の拠点となる山あいでは、考えたこともない急に浮んだ客観性だが向かって、神にめちゃくちゃ詳しい人々、という考えたこともない~、

    が、山のこだまにあちらこちらから響く。ゆうなれば、誰が誰といってもそこまで話さなかった。恋や愛だと呼称して人にたいして暴れるものを国を無関係に掃いている。

     

    あれがあかん、これがあかん、その声は枯れていて目立った。春、新芽を生やしてほしい。自分も落ち込みから直り、すこしだけ容姿的なって考えたら何か増えるのかな、減るのだったら嫌だな。自らがする、思うというのの客観的な態度の示しが、自分もわかる何か凄い大事な礼儀で先だったら、幸せとして修行の肥やしや、上向き、人生の上達に易くなったら気が向くな。性交渉がもしあって、伝え方がこうなる程には仲そのものを展開して来たのかな。

     

    実直でなくなるような、性格と反する本質的なことをがらんどうに空けたら

     

    何か得るには、何かを捨てなければいけないことが、劇的に昇華され、必要な誰かその影、その神の生き方として思うことに、未知なる世界の世界観のエッジが磨かれて研がれて来ている。研磨という、あらいと、とぎの

     

     

     

    仏教の勤行をは、決まっていつ読んだら良いかわからない。上からそう伝えるのだろう。そして、題にたいして何の決まりを知らない実存主義的態度から、独自に話しかけていく素振りには仏の存在がしっかり表現されるだろう。いきなり行っても理解できるわけない著名寺院を感じていると、確か金閣寺は何もなかったが、京風でそのそれだけを完璧に表せるという。

     

    そう、私もたしか一人になったのはそのへんだ。どうか私の考えをお守り下さい~

     

     

     

     

    何かを、あれに素早く伝えるには日頃の慣れた自分が必要。

    「一人」にどうしても、頑張ろうとかやっていこうとか、はいらないのだ。やっていくには、力みは必ずいらないのだ、やっていく気あんのか、自分でそう思ったことを悔しく思ったらあかんのだ。そう、あれは拭えない自分史上の汚点。甘えたりしたのは、同じ国の人だからとゆうそんな頼りや、国の人だからじゃない。もっと違う単調な感情の吐露のような。感情とも違う。そんな人はここ現地にはいない。聞いて想像を膨らませるが見たことはない、話し手も見たことないとひたすら騒いでいたのだった。寡黙な人も怖しいとちゃんと思うのだった。

     

     

     

    彼らの身体性を見る限り、世界観には到達してたと思うで。動物がいた。良い霊だった。自分が直せる自分のことを言っていた。自分が動物を上回る人間をちゃんと目指してること、蟲ー退治の可能な人だと言ってた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    気持ちが波打ったり、高鳴ったりドクンとするのは、その土地感にある、海神だ。実際にプールでも浮いてみて、重いものは下に行き軽く浮かぶひかりの体を覚えてみよう。

     

     

     

     

     

    神様に、あれはなんですか?と聞いたら、直で詳しく教えてくれると思う。

     

     

    もっと知りたい!こういう悩みでこういう解決を望むよりも、希望を聞いてくれる。

     

     

     

     

    そういう風に、純粋に興味に向かえたり、

     

     

    持っているこころの運命感などの

     

    不思議な解消が起こる。

     

     

     

     

     

     

     

    様々な伝承のあるなか、想像の真実が曖昧に広がっていくようなものではなく、人間の厚みのもっとしっかりかりある考えに想像の源流の神がいる。目に目映いことだった。何とかしっかり自身が人生に定着して、自分の現実色に取り入れようとする。目にこそ目映ゆかったこと。

     

     

     

     

     

     

     

    日本にいても、同じように理解する人そのものを眼前にする、我らには我らの受難があって良いと考える人の方が多い、考える楽しみで一杯だ。

     

     

    こんな私を、哲学家はどう思うのかひとしきり鏡を思っても、

     

     

    学問的なことは実際気にならないおとうとの方を見ている。

     

     

     

     

     

     

    アジアと言う明るさに向かえない人を見ている。仏を感じていたら神を交え、このようになり知識を取り戻している。

     

    自分は大穴牟遅神、神のポケットの中で色々被ってるが、

     

    今運と天運が二つある、このうち祖が心を守る故に自分は予想だにせず決められていたこの季の希望(キノキボウ)である。

     

    神社に行くと、「この日は有名」と言う。故に待ち構えていた精霊が多い。

     

     

     

     

    儀式が本当に儀式になる時と、神仏の違い

    2022/09/24

     

    蟲ー

     

    生活をする事も大切な儀式。

     

    「紙垂」と言って、これは人の角が大切だといっている。

     

    人の角が大切だというので、人の即ち良いところをムー本人が知らず知らず削ぎ取ったことがわかる。こんなにムーの仕出かす悪いことを覚えている。神は、心に叫ばなくてもわかるから楽しい話をしたい存在のことを、説明するには、脱力して自分のチューニングをとり、「良い加減」での理解をする事が、何かを叶える。何かを聞く為の澄んだ耳をし、佇みをすることで自が叶えたい事を叶えると仰る。お救い下さい、と、願うなら自分の知識を備える事を教える。自分がまた、毎日、人の努力をしてから神と遊ぶことが出来る。

     

     

    仏が在る、私やあなたの心に有るなら、

     

    この限界の中に天上界と言って、

     

    愛されるよう、の言葉一つでもめっきり角が痩せたと思う。角が取れるは良い時の言葉にして全然違う。

    都としては東京より先輩の方である。何が都会かわからないが心ってやつが進歩的だと言う意味で、稲の高さが有る田舎のほうが島の都会だと言うだろう。私は東京訛りがあるが、生まれは大阪だが間もない時に区内にいたことがある。新宿、渋谷、町の響きを親から愛する時間や、そういう美しさを孤立して願えたとき、関西は、感情の幅として埋蔵金のように詰まって、大ぶりに喉を詰まらせていたんだと思い至った。知らなかった感情が有るらしい。お構いなくどぞ良いから知ってほしい。大阪人が期待に弾む胸とは裏腹に、現実を歩く自分には社会が有って、先に守るルールの有る中で必ず会えると思う。願い、それが、誰かであっても仲が先立つ本土の中では惜しかない筈だ、と、別れないようにを願い凌いでおく。この中で、自分が、どこかで役に立とうとする自分よりも、どこかに行って学ぶ自分の方がしっくり来た。「自分、自分」と言わなくて済むから、世話を焼いて貰いやすくなるからだ。

     

    神の悪いとき

    こんな言葉をどう思うだろうか?色んな解釈をして良いことだ。視線を瞼を閉じ45度下にして避けるのは、自分の知る佳(よし)のないことに対してだ。

     

     

    想像力は、良いほうに届くのだ。神が気を流せるから地震と言って、人には命が有り、気を付ける事はお守りになるから、いつも逃げることを考えたい、逃げることまでを考えれて、徒労しなくては進歩出来ない。

    怖さこそが、人にたいして良い意味で有るが、程よく「嫌う」この正しさ。

    一方が、

    恐さ(したごころ)。自分がこれに負けたまま自意識がないと「いらない」と思われる。

     

     

     

     

     

    アッテルは、祈りの時と人間の時の両方があると思う。これをIと云えるなら、いちにんで有るなら愛に慕う。不思議な言葉だがそう思う潔さが有る。

     

     

    自分の強さの邁進を、寺に行ってお願いする。「どうしたらいいか?」思考を、神社へ散歩して伺う。「自分」にとって、寺って何を対照とするだろう?神社は何を、どんな考えを対照とするだろう?

     

     

    「心の中」を、優しく思い描いて頑張る。

     

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