揶白 (KF)

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    祈りと擬宝珠カテゴリ

     

    creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=116365

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  • 交換士とは委嘱の関係だ

    藩とは縄文からの古い人のことで、委とは、丘が丘、役所が役所と言う事だ。。学校で初めて「委員会」を習う様に、自分からして任すことでもないという意味。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    夢をもって大切にしてきたけど、

     

     

    大きな大きな溝があって

     

     

    真念を持ちたい我が気持ちと、許されないような悲しさの蓄積と、疲れと、

     

     

    こうしたい、世界にこんなものがある、そういう風に憧れるものの為にいたい、でも出来ない。寂しい。

    でも、何か足りない中で愛して生きていく、そう生きていたと思う古来の、生き方の条件だけが残っている。

     

     

     

    寂しい。血が吹き出そうなこの穴を完全に埋めて、男が微笑む。

    寂しいと言うこの傷を完全に癒やして、女が微笑む。

     

     

     

    人の良い怖さと、悪い怖さがあって、悪い怖さは怖くなくて、

     

     

    先住民という言葉と、あるべき一人で越えていく壁と、もうあなたと死ねたら良い、という花のような漠然とした星の様な胸の期待と、

     

     

    黙り込んで木板を積むあの人の理由が、切なさと絶望が心にぐるぐるし、せい

     

     

     

     

     

     

     

    北に向かうと、女の方の耐え難い恐怖の顔があって、

     

     

    私は国籍や歴史を思い浮かべた頃、「もう愛さないぞ。」という答えを持って、寛(ゆた)のたゆたに、誰かにたいする愛情とも違う。いつから積んだか責任の木に、箱に、心が入っていて、当たり前にそう動いて良い悪いよりも先にこう決めるという自由な「わたしの冒険」の淵には、モネかマネのびよびよした睡蓮のくろい歪んだ水の影がある。背景が、わたしを包むものがずっとずっとウルトラマリンで、絵には、可愛い秘密、見てやらぬ秘密、目を閉じる秘密、そんなモラルはあっただろうその時代に、もし写実が光って、イラストでも純然な文的作品でも絵とはこういうふうにある、と思う中にいてこういう複雑な水の影を一本の線で描いたことに感銘を受けていた。世界がこういうふうにあると思う時に、傍らで色々感じ、勉強していて、こつこつ描いて行ったらこう描けて来た、のかな。

    すると、「否定」は、そこから初めて人と交わす絆のような心なのかな。自分の中に昔広がった風と何か大きなものを思い、私が削れても砕かれていても、変わらない空があって、それを、日がな安定していた美術生活から正確に刳り抜く。

     

    正当化と押し合いから隔たれた、そんな場所にぼちぼち向かいたい。

     

     

     

     

    アメリカ人は嫌い、日本人はもっと嫌い、フランス人は一番嫌い。

     

     

    私が私にたいする身にたいする平等三権を手に握りしめて、

     

     

     

    やっと心を抱くような。

     

     

     

     

    落ち葉がパリパリ鳴る道を踏んで、ロープを引っ張って歩く。

     

     

     

    悲しくて、感動をして、

     

     

     

     

    悲しみは、ただ大きな真白なダンボールになって、

     

     

    私はそれを切り裂く鋏と、孤独が欲しいのだ。

     

     

     

    それが欲しくて、は「働く」という歩く税となる。花や花のまにまに見えもせず、いつでも社会から消えそうな役人で特に、「自分を知ってほしい。」と思う。

     

     

     

    歴史的注意

     

    意気を準備するのに、わかんないけどという見えないことの準備をすると、枠が見えないものになってるから、それをやると重なってて運気が倍になるはずだから、先の問題にも自分が回り込めるし、動く軸が悪い方を目印にすると体がそっちに傾くから、間に見ててくれるの嬉しいし、板にチェーンとかも付いてるからじゃらーって

    ついてきて巻き込むし、それじゃヤバイから。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    そんなことを書いていたら、死ぬのはまだ先で良いヤ、と思えてくる。背には権威がないと誘導しにくい。そんなで、客観性に前向きさを取り戻し、照って苦しみ出している。修行と、「受難でもないカスみたいな苦しみ(特定された複数の

    人名)」がある。大変だから細く見分けている。あっても良い手間と時間だ。

     

     

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  • 理性と精神

    「メヒシバ」

     

     


        意味を求める、どこかへ渡す為に弧を張るのだ。私は、ただ歩いて行くよ、と言う。楽しいか?と聞かれる。 楽しい、と答える。空想のフォルムが、想像であるように鳥などは空を作る。鳥などは亦、空がどれだけ好きだろう。私は、自分が足からどこまでが鳥でひかりが過ぎ去るのかを心細く知っている。

         私だけが死んだ、と思ったら、心が死ぬ人なんてざらにいるだろうと思った。自己の認知より早く先に、黒すぐりを得、雲は初めて「不在」と言い自由と戯れている。

    翡翠の様な川に心が伸び切ったのだ。偉い人が、跳躍と言っている。

     

    草が好きだ。

     

     

     


        形が、崩れるも何も冬の雪だから始めから凍っていて、サクサクと音が鳴り、無表情で赤も口紅も残さない。思いとその軸が、家屋として影になる。モダニズム、はこうでなくちゃ。ページを捲る度々、様々な事が過去になる。またたくまに静観され、明日にはいない者。それを知るのは、いつでも手動。

     

     

     

       跳び跳ねる波を、新品の皿をざっと分ける、私を知らない人に一番告げたいのは、私の町は自然が多いから、心が空気になって生きれている。この高度だけで色んな風を掴んで、読む。こう言う古楽が繰り返され、名を持つ。肉片を捉えても、心が動かないから迎えども驕りとして有る。私はなナメて捨てる。思いやろうとしても出来ないからだ。霊とは、磨いたものだ。深呼吸して、指を立てて天を見上げる。私だけが、地球の上にいる。自転から振り落とされて来た人は完結している。胸の中に、ここに在る重力のない目たちをじっと見るんだ。形を超え、それは梵天の現れる私の表現として場面が変わる。無として、私の勇敢な死たちは力として幸福の種を積む嵌。水も角も鮮やかだ、自然的なら私は石になりたい。今頭の中で一杯なのは、対象して建物と暮らしている人の事。ただそう思う、自分はこうでこういう風に思い考えている。彼は誰だろう、私は「優しいね。」と言った。私は自分の手を見て、ぼんやりした夢の向こう、テレビの知識の中の物産や、名々や金星のことを見たことないじゃがいもの凹凸を触る。この詩の中、この細く白い糸にたいして愛しさや恋しさは強過ぎて重い、飴みたいに溶けてしまう。私は自分の手を見て、手の中からアッテルが叶えたかったことと、振り向かない背とその中に積まれた責任が菜の花畑に浮かべる。細密でほろほろした花、茎とか緑の意味は未だ辛く、釈迦としか思えない菜の花や石の無心の菜の花と、固まった絵。思いの内から確実に存在する固まりの有る石と、君と僕を、初めからだと思う。私は腰を上げ、心の出生をアームに代えて二度と戻らないと言う。

    靴を履く、体がまた全ての事を吸い込もうと、鈴の様に鳴っては光るのだ。担う、と言う字の遥かで恐らく会える、人。

        蓮の研磨は、私が、と言うよりは、自分としての、言葉の事だ。ただ自分としてのと言う、何かもっと抱けるスケールにこそ見えないものを題にした仏壇の洗練である。それは、易い。

        生の言葉が、自分の何にも連結しない記号として、白黒としている。色彩豊かな主体、間隔、モノクロの研磨、秋の実、秋に取られるブローチを作っている。

     

     

     

     

     


    「どぶ」

     

     

        眉間には目があって、人それぞれでスケールが違うらしい。この眼と言うものを広く持つには日頃の行い、人間観、が及ぶ。趣味なんかは当然である。

    見えない者なのに、見える!、とぶつけてくる人も多い。人に会わないと目が腐るのだろう。音符王子、心の馬鹿なとき、音符王子、軽い言葉の筋力を養いとして彩飾のない空の世界、を地道だけで行く我なのである。道にとっては私には楯が必要で、一日中かかったが「よよい」と言う楯を考えた。連獅子の親のイメージで、相手と同じくらい息を吐く、と言う方法。孤独としての私、あなた。前髪の先にあるあなたの二つの目。目標から、どこにも行かない。愛してる、ららるらりらら。雷音さえ澄みきった僧の目に押さえ付けられる。雷とは、また世に有る限りの緊張感で身体的な成立ちがある、応えられるものだからである。懐かしみが互いの中から生まれ、草原というものは、奥行きはこの大地を広げて行くかは彼ら自身にあり、それが当然の事だとした目は激しく見過ごす事物である。私は、もっと物々しい水晶のそれに憧れる。漆の様に黒く、銀絵がちかちかする、月かと思えば川辺に消える、道かと思う煙は白く、中に閉ざしてオーロラ。すざく、すざく、星を紙に描いてそのまま死んで行く。闇は、闇からずっと木星を、糸を降ろして孤独ばかりを巻いて自分を失う。

     

         一曲で私は、双葉の緑割れた木の割れた硝子の木の、こう爆発している私の彼氏と、とても綺麗な手を繋いで明日を夢みる。朝はひらいて、めくるめく地獄や人の親しみがある。

     

     

     

     

     

    清潔な闇=あなたの赤留さ

     

     

    私は眠れなくて=あなたに会えない

     

     

    すき     すき     すき    すき?   すき、

     

     

    という詩を読んだ   どう思うかって

     

     

    いうことを、子(おまえ)がそう言いなさい

     

     

    ですから

     

    あなたが、あなたを怖いか   って

     

     

    それを、            どこまで、どれくらい

     

    知っていますか

     

     

    私はこれを知った時に

     

     

    ようやく初めて

     

    自惚れた                 の

     

     

     

    君はあなた     と、言えるかな

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    理性と精神

     

    雪を欺く 雪と見間違うほどもきわめてまっしろなさま。  結晶の中で、それを形成する私の道具の一筋を並べる。 良い意味で仲の良い無の相互がまずあり、この点からして、少し世界を変える。私の実際話してみた人から、意識が線を捉えて、 最初の点から、線を書いたりよもや図形を描くにはまず紙がいる。なんせ奥行きを捉えるのだから、 無空間の平行移動する「あく」にはびくともせず、躊躇する心という善は、違い、厚みを持たない軽さを咥えて、その皮膚の、反射も吸収も量の無成長である一定したA4の白いコピー紙の塊を佳しと思う。 アッテル 「こういうじゃがいもみたいな詩も、魔力を緩和しますからね。自分は黒鉄の螺やねんけど、ま、使いやすいように切ったらよろしいし、それがやりにくい言う原因はやっぱどこも全体的にとつ国と言って、結局何をしはんねやろ、専門的になるんかもっと漠然としてるんか。魔力と浄化って対抗対比していて良いですね、何かそういう趣味的漫画が描きたい。どちらも清めでは同じやけどね。光ったロングヘヤーがいきなり揺れながら下にたれて来たらと思うとめっちゃわくわくするし、過去の恐怖もあるし。清めは、右手と左手に自我と自意識を合わせる様な、自我と今の自分を合わせるような、濁ったものと美しい柄で心を肥らすような、足し算やからね。」 大川のように厚く 詩や動物のない世界は、叶えられない自分の手に持つ色彩たちや、ニヒルの青色の川に埋もれ、それでも生きているうちノイバラが同じ背高になった時、天萬はある日「家」に帰る。 「金魚の鰭はすずしかった」 明度が、足をはやした金魚に合わせられ、cm(センチメートル)を全く否定しないが、重さに傾倒するのが易い、単一的な素朴な、垢のない単位と、 高さを表現する祈りとしての、一尺、半間という寸法は違うが、間違って大切にずっと持っている。 何も言ってられない世界とは、客観性が、その中の、一体どこに佇んでいるのか分からず、一枚の紙の様に表と裏がいっぺんに一緒になっていることだ。 こういったからだの主体となるマリアの「客観性」について。生の精神のはなし。神に該当するスケールの考え。だから、土地霊的な良さ。 内部に込み入ると誰だって繊細なガラスの心を持っていて、 精神が、それら飛び散る破片や破片からみごと躱す。 葦を生やし、踏みしだける更の道もあり、 その身体能力の自意識を高く見ようと宇宙の中心を捉える。 霊の銀河の、手にりょうてに掬うような死。ただの水。色鉛筆の様にぽたぽた零れる。この中に次元が存在していて、目印にしながらそう思いながら、自身の前にあるカラの箱を潰したり畳んだりしていると、ちゃんと積み重ねられ、三年もこういった約束をしていれば、 修行の行き来を見渡す違った道が見えるようになる。 テントウムシ(リーダーさん) 「何か自分にたいして意味のあることを相手に説明して貰える、ラクやってん。 わかってくれる、ラクやってん。 動くのは、しんどいねん。 働いているところは、楽しいねん。」 さっきの金魚。肉欲とも肉体とも言えない、これを仏語で「欲」と言うこともきっぱりとは新しかった。本当に、凍りついた雪がさくさくと分けられ溶けるように釈迦尊は青く美しい。「欲」とは、このために要る欲、要らない欲、と人は必死に言っていたが、人が完全に言葉にするなら、「蟲(ム)ー」と言う。物質のようなのびたラーメンのようにはにはなれない。その奥で集中していると気付かないが、透明ではあるが厚みを無視すれば直感が鈍ってしまうように、空がどこにあるのか?問いかけを願った胸が、 私は黒い、体から感情というものを水切りして、体からあふれる感情を受け止める柔らかい鉄に為(な)り、心で心をバウンドしながら、方角を求める。 地図からぱらんときえて、真ん中のぐにゃぐにゃした鏡の中は、そんな方位でなく周りが臭いかずで、これは、そいつの元がシで、元に向かう「源(みなもと)」と言う助線に合ってる。対して生じることからの始まりが天神に向かう。オワ、と言う名前の幽霊のこと。近くから、 何とも思わず、自分の中にあるものも確かめず、外側だと思っていたのなら尚更に、自分の外側にあるものを、連れてこられて他人に渡したらしい。 ずいずい、自我に区切られた限界のある肉体を愛し、限界性から求められる肉体であるから体の緊張に向上し、飛躍し、 森で、屋根を建てるように、ごつごつと岩を靴で登るように確実に詩の中で、白鳥座に届くくらい、黒も白も心を追い上げ、目を開けると蔦の壁が、 暗い下から、いつか目指したこの道が、私の目は何本も黒い電線を鳴らし、私の目は何層も黒い水を反芻した。萎縮した。石を割って体を磨いた。 綺麗な川岸で、 夜明けを祈りぐるぐる灰と紫を巻いて行く。 広間にいくつも積んである木板が、端のもう丸みがかった長方形の木板が、私はそれを一枚、持っていて、 この黒いが、筋のある、感性を細く垂らすことで、ガコガコと勝手に並べている。物事への抵抗と、水を泳ぐ為の小さな工夫と、空、これらを素材に岩を捏ねる感じだ。前を見て。 果(このみ)を採り、水を汲み 薪(たきぎ)を拾い、食(じき)を設け 乃至(ないし)、身をもって 牀座(じょうざ)となせしに 心身は倦(ものうき)ことなかりしなり 時に奉事(つか)うること 千歳を経て 法のための故に、 精勤(しょうごん)して、給侍せり。

     

     

     

     

     


    我過去の劫を念うに 大法を求むるを為っての故に

    世の国王と作れりと雖も 五欲の楽を貪(むさぼ)らざりき 

    鐘を椎(つ)いて四方に告ぐ 誰か大法を有てる者なる 

    若し我が為に解説せば 身当に奴僕と為るべし

    時に阿私仙有り 来りて大王に白さく 

    我微妙の法を有てり 世間に希有なる所なり 

    若し能く修行せば 吾当に汝が為に説くべし

    時に王仙の言を聞いて 心に大喜悦を生じ 

    即便(すなわ)ち仙人に随って 所須を供給し 

    薪及び果苽(このみ・くさのみ)を採って 時に随って恭敬して与えき 

    情(こころ)に妙法を存せるが故に 身心懈倦(けげん)無かりき  

    普く諸の衆生の為に 大法を勤求(ごんく)して亦己が身 

    及以五欲の楽の為にせず 故に大国の王と為って 

    勤求して此の法を獲(え)て 遂に成仏を得ることを致せり

     

    今故(いまかるがゆえ)に汝が為に説く

    仏、諸の比丘に告げたまわく、

    爾の時の王とは、則ち我が身是れなり。時の仙人とは、今の提婆達多是れなり。提婆達多が、善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜、慈悲喜捨、三十二相、八十種好、紫磨金色(しまこんじき)、十力、四無所畏、四摂法、十八不共、神通道力を具足せしめたり。等正覚を成じて、広く衆生を度すること、皆提婆達多が善知識に因るが故なり。

    諸の四衆に告げたまわく、

    提婆達多、却(さ)って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号を天王如来、応供、正徧知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と曰わん。世界を天道と名づけん。時に天王仏、世に住すること二十中劫、広く衆生の為に、妙法を説かん。恒河沙(ごうがしゃ)の衆生、阿羅漢果を得、無量の衆生、縁覚の心を発し、恒河沙の衆生、無上道の心を発し、無生忍を得て、不退転に住せん。

     

     

     

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  • 修行の態度(編集中)

     

    「理性と精神」という名のもと、シッダールタ(杉のドクロとその詩)や、ブラフマン(覚醒、悟り)を目指していたのがこの夢中である基本だった。夢も死も物の光も人も、何でも混じえて、

     

     

     

    南無(नम namo)の「無」が何もない、じゃなく、

     

     

    その名が理性と精神で、寧ろ、何でも有らなければいけない、という意味のことを深い記憶から思い出している。

     

     

     

     

     

    仏の形を語にもし言葉に語るには、止まりを、自身の止まりを、その得ないものを語れなければ復説出来ない。

     

     

     

     

     

    遠くをいくら見ても、


    黒い電線が森のように生えて、見わたしがしにくいが、

     

     

     

    あらゆる間には、

     

    (美しいとか醜いとか私は興味があるが、

    気にならないのに気にしていた、そうとも別に本当に気もそっけもないのにいきなり跳ねる「何の上達もないのに」薄い気配がある。それは、近くにいた7日のひと、7日ごとに釈迦に名前を読まれる。要はドクロと仏にゆわれる。)そこからは、不気味なほど自然に全然違った話や形が漏れている。

     

     

    人が見抜く為にたまに干している「もの」たち

    ワカメに縛られいる。

     

    大体考えが、網タイツを完全に前に出すなど少し前に流行ったラグジュアリーに徹底している。歳の功、国籍の着物(服)。心の中を木のように有るのではなく、存在感がペラペラに薄く、目をまた心だと思う人の立場からしてはこいつの見た目がはなやかで乗しがつよいので気分のなかを一緒に泳いでしまう。

     

    こんなふうにも表現される。人が手を込んで、可笑しくなり浄化されている。

     

     

     

    この要は蟲(ム)ーの為に、人の箇所箇所が閉じていて、勘違いをして進行しない。「見えないこと」を念願できる頭の柔らかい人なら良いが、いつも言っていた「見えると損」ということを考えれた。人は目指すものを見ているが、そこが自分にとってやり直すカショだと知りにくかった。

     

     

     

     

     

    もっと奥まった何か、「自分を照らす相手」には、向かえないこの限界を大切にする。

     

     

     

     

     

     

    街には、文学者、天神で働く者、仙人、僧、若者、汎ゆる人がごちゃごちゃにあって、良いと思う。

     

     

     

    洋服を着ていて、私は断然素朴であって

     

    仏教の教えってやつの、今は今をと言い、こうガタガタしていて、仏教の考えや、言いたいこと、を達成していると感じる。

     

     

     

    人には愛想と空想がある。別れだ蔑みだといって固執せず、私はある間隔にまさか人がいるとも考えていない無心の想像は続く。

     

     

    「正しい街」、

     

    清く正しく、こういった街の風景のまにまにアッテルがいて、話すと哲学など聞けたりする。聞けたりしたら、いいんじゃないかと愛をもって空想する。美学と哲学はカテゴライズがあっても特には分けない。

     

     

     

     

    神わかりを「仕事のように」理解して来ている。その為、死ぬとわかってても、逸らすことが発達している。そりゃそうだな。

     

     

     

    未来を考えるとき、自分の得ているもの、もっと今まであるものが、未来想像であっても今であっても、組込まれてないと一番ひつような、現代の自分が一番出来る「想像」が出来ない。思いやりこそが重く、受け止めて担ぐ。ぜぇぜぇ担ぐ。

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  • ザ石

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    心の中は強い

     

    自分の得になる方を自分の前に取って

     

     

    ちゃんと忘れている

     

     

    空に香を立てて思うと言う方法がこんなに見つかりにくい驚きの感想も

     

     

     

    わいを忘れへんか

     

     

     

     

    自分には選択権がないから

     

     

     

    「好きです」

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    黒い電線が森のように生えた、見にくいが、

     

    (美しいとか醜いとか私は興味があるが、

    気にならないのに気にしていた、本当に気もそっけもないのにいきなり跳ねる「何の上達もないのに」薄い気配がある。それは、近くにいた7日のひと、7日ごとに釈迦に名前を読まれる。要はドクロと仏にゆわれる。)そこからは、不気味なほど自然に全然違った話や形が漏れている。

     

     

    ★人が見抜く為にたまに干している

     

     

     

     

    もっと奥まった何かには、向かえないこの限界。

     

     

     

    香をたくを、ボタン押しておいてと言う人もいる。

     

     

     

     

     

     

     

     

    意識を叩かれ倒れていたのは本当だが、

     

     

    超意識みたいなものを、!~

     

    自我とするのか無意識とするのか。

     

     

     

     

     

     

     

    地元で、山の上のほうで一緒に乗っていた免許取り立ての車から降ろされ女の子一人で歩いて下山した。

     

    物(ぶつ)のように、純粋に関心していたアッテル客に渡した、アッテルを車から降ろした。

     

     

     

     

    私の心はバキバキになった赤いカーライトの様だったが、なんだか洋風に生きてる感じがした。

     

     

     

    何でアッテルは心を同じにしてくれないんだろう。この私のだれともいたくない気持ちだけ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • でこぼこ

    なるべく離さない、と思って来ているが、ヤル気を失って精一杯。

     

    ただ、今のペースで良かった。

     

     

    仏をみるの百万年早い。

     

     

     

    とつ国(凸くに)

     

    もっと、とか、更に、は蟲(厶)ーが行ってる。

     

     

     

    自分をとつ国じゃない、と考えるのも大切。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 明治が、厶(蟲)ーの天皇

    日本は古代から続いてる

     

    時間というもとの流れに合わせて、自分に任せる

     

     

    男働きの得意なやつ、造りの理解の好きなやつが、これからも暫くむしろ蟲(厶)ーをみていかな、でも、こうして自然に思えるなら良いと思う。次世代の次世代がある。

     

     

     

    天皇がその時の、その時のあって、いらっしゃて、争いはあったが戦争じゃなかったとおもう

     

     

     

    山や野のふんわり柔らかく理解するが、

     

     

     

    昔より広く今、海外の世界、客観性が出てきて、何が大事か言えないでいる。もし社会が出来るなら、

     

     

     

    精神だとおもう、ゆたかな内面(キリシタンに深い海外人)、と、ゆたかな精神、

     

     

    自分よりも古い動物は、感情を分け合う。得意な感情が動物に様々ある。精神だ。

     

    日本人が、要請されているんだと思う。伝搬していないことが強い心配

     

     

     

    蟲(厶)ーを、

    7日ごとに名前を仏が読まれる

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    蟲(厶)ーについて書いたことでも、勝手にコピーしても、言い換えてくれても、「実際に」声をかけてくれても良いからね。

     

     

     

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  • 廣田神社

    お願いごとリスト(自宅の好きな仏像にお頼みする。よく、「お頼みしましたぞ!」と言うが)

     

     

     

     

     

    ・水泳プールをしていたとはたして言えるだろうか、こんな皆を言う言葉だ。

     

     

    ・腕が当たってすいません。

     

     

     

    ・どこどこでどんな自分に起こったことを人仏にお伝えする。(ヒトボトケ、大阪でわかったが、ヒトボトケなら外でも深くならばしゃばしゃしてもいい)

     

     

    フロム 大黒天などの発散。

     

    (四天王寺、と場所を言わないのは「四天」として有名であるから、切り替えの言い方。)

     

     

     

    お祈りを自覚する人は、猛烈にこんな風にしていると思う。

     

     

     

     

     

     

    廣田神社

     

     

     

    ポテンシャルが整っていない→ポテンシャルが整っていなくて通ったその時、意志を問われた。方法は、私を売った。

     

     

     

    私、方法は自分でイメージできる、・色んな人と話してる ・想像を諦めない ・あるところからのガタツキが見えてあり、今実際本当は、もしかしたら解っている人もい

     

     

     

     

     

    古いひとに、蟻とうんこをかけた心のメッセージを私は拾った。あり、んこ。ありんこ。

     

     

     

     

     

     

     

    皆、素直な心に還るんだ、と、見渡そうとした時、人に何かにさえぎられる。→戻って修行する。

     

     

     

    もう怖いのではないか、と思うが此時、神が、「自分より間違うわけがない」という神道者と話して出会って論理を伝えたいのだ。働いている人は広さを完全に忘れて暮らさなければいけないときがある。

     

     

     

     

     

     

    北摂津で、必要な意識、と、役に立つ意識は違う。役に立つが、必要でない意識もある。その場合があるとこにはある。聞いて感じていると物凄く役に立つ必要がある、と受け止めるが何があったのか、私も個人で好きに気にすることが、大事だと思う。巻かれて揉まれていたが、真実を知るより空想派だった自分を思い出せた。

     

     

     

     

     

     

     

    一方が長けてもって、一方は助けたが自分は救われなかった。それは、大きさを感じるまま神話で、個人に帰結しない。

     

    アッテルのゆたかな内面世界。

    わたしのゆたかな精神。

     

     

     

    …自分は、精神を守ってほしいことがわかった。

     

     

     

    精神は、

     

     

    精神の強さや強さのことではなく、鳥とか猫とか犀を、このようなことをそう言う。

     

     

     

    摂津から高槻の白塚古墳へ。ヤマトタケルの話に戻る。黙ってたたかいを愛した人がいる。天皇が違うから昔の価値観からして争いでもないのだと、そんな鉄火の時の排気ガスかな、蟲(厶)ーを見てそう思う。

     

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  • 考えているかどうかはわからないけど

    ヤマトタケルを、心に見たら三回唱える。

     

     

    前に、性善説と性悪説と言って神は悪いのか?と問いかけたことがある。つまり、神が出ているのに神が悪いわけないだろう。

     

     

     

     

     

    タカヒムスヒ、カムヒムスヒ

    →ヤマトタケル

     

    (タカヒムスヒやカムヒムスヒに比べたら、ヤマトタケルは幼児の書いた名前みたいだ)

     

     

     

    何かはしました

    →ヤマトタケル

     

     

     

    ・守る為でした、守りました ・こうこうこうでした

    →ヤマトタケル

     

     

     

    自分も、私も、みんなといます

    →ヤマトタケル

     

     

     

     

     

     

    心に火がともる。

     

     

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  • 良いものを知ってる

     

     

     

    良い悪いがわかるのに客観性がいる

    それが心なのかもしれない

     

     

    何らか耐えてないと

     

    心はわからないくらい落ち着いてる

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