揶白 (KF)

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揶白 (KF)

絵画

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  • ドローイング、トラック

    2022/03/19

    絵画

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  • ラクガキ

    2021/12/20

    絵画

     

    こちらは大澤さん。

     

     

    大澤さんのラクガキが、何か力になるかもしれない。これら祀りの様子である。(わたしは、背が高いだけですべての中心であったり、まして巫女ではない。しかも何の操作もできない。携帯をみてるが、ぼーっと何か考えているだけだったり、今はオール・アラウンド・ゴースト、世の中をめちゃくちゃにする幽霊を全種類持っている。私は霊媒をいそしるおばちゃんであり、抜擢されたが、普通に絵画家志望だ。そこで見渡すのが、したを見る人が多い。霊の何の知識もないのにもかかわらず、幽霊を神だといい。私を見てくれないので哀しい。)

     

     

     

     

     

     

     

    大澤さん本人、おかしい。

    自分で書いている。

     

     

     

     

     

     

    わたしのお爺ちゃん。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    これらは、漫画のコマだったのだ。

     

     

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  • 自分の手を使う

    2021/11/08

    絵画

     

     

     

    もののふとして、

    スマートフォン、「物」、アプリを扱うことで、携帯を捨てるような回顧心と、モノを持って行くことと、どちらも否定しない感覚を正常にしたかった。

    映像作品かと云われれば特にそうではなく、「女優の様に撮られたいか?」と聞かれれば、やりたいのは表現で、自身が女性だ男性だ等として否めない猛烈な自意識や、それを含めたそのどちらでもない形而上の「私」や、この哲学的な「私」と付き合う事に、見えて来て、感じ取れる線の初々しさと、箇所々に存在する「云いたい事」としての芸術性等、それらが何と巷に埋もれて居て自然な感覚がする。「他者と異なる私の大きな顔」には文明が有り、即ち移動を施す様な営利、非営利の言葉が無いので有る、第三者とアーティストの違いとはそれのみで、本来的にはそれにたいする交渉が無いが、文化の成長のうえでは一般的な、街の様な素朴な新しさと、並立していて前に出てくる「ひらがな」や生活を細かく削除するような動きとともにメディアと唱えるには一線を引く。自分が変わらないことにファッションが有って、興味があった。この様な、通う説明までを展開し補足することで壁を壊す、「作品」としてはキーを成している、映像としては町人中として仕方がない様な感覚とともに「非メディアである」と断言した時に初めて展示(メディア)を可能として、化けない作品となって能う。そう告げる芸壇の思想に酷く興奮するべきとして強く構えるのです。

     

    「ほな、どれが作品か?」と聞かれるのは楽しく、星程の複雑さも増して嬉しい事。

    未定|揶白 (KF)〈CREATORS BANK Works〉

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    未定 by 揶白 (KF)|CREATORS BANK〈クリエイターズバンク〉

    絵画・揶白 (KF)さんの作品「未定」のページです。CREATORS BANKは、イラスト・グラフィックデザインなどのクリエイティブ作品が集まる国内最大級のWebポートフォリオサイトです。

     

     

     

     

    題無し|揶白 (KF)〈CREATORS BANK Works〉

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    絵画・揶白 (KF)さんの作品「題無し」のページです。

     

     

     

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  • 「絵画の回答」について

    2021/11/07

    絵画

    10年前、以前rocoが、「頓智」として歌手とアーティストを対比して「私はアーティスト」と云う事を述べた。

     

    私が日記に、歌手とアーティストは違う、と書きました。

    それが、反響が凄くて、、。ここで述べさせて頂きます。

     

     

    まるであなたは、それともアーティストですか?と、圧をかけんばかりに張り切って、末尾に「歌手とは何か?歌手の方から聞きたいな。」と、云った立派な「作品」だった。翌日、大澤氏がブログにたいして、同じように張り切った男性のギャグとして「アーティスト」と自己プロフ覧にて書き加えた。と、云うこの一連の様に、

    アート…は、食べていく画家では無いのだから、絵を決定する何かとは自分が叶えたい事、つまり感動した事を全て全責任としている。だから、お金をトドメやきっかけにして活動するアーティストがいても、内部に、価値に対して「盗用」は存在するが、営利、非営利が有り得ない筈だ。微妙な差が、いつも有る事はアートをしていて、実際絵の具や筆に触ってわかりやすいものとなる。たとえば村上隆さんは、アートビジネスと云うのは、「お清めアート」なのだろう。だから凄いのであって、
    私は微妙な差によって、絵を拝借出来る様々な距離が存在することを感じ取っている。

     

    重点的に云うが、

    寛容は、「はい。」という前に行っていた、と云う言葉だ。

     


    アートするでって云う事は、信じる事のやりたい事をして行くんだから、トラブルは対局であり内部的であり、受け入れてゆくものの、事であり、

     

    トラブルと云えば先ず至って恋のように、大澤さんが黙って、無許可で、私の絵の中の鉢植えを自分の絵画に置いたことで、そこから数年目に大澤さんのイラストを印刷して私がこの絵画の上で前向きな返信をしてからは、キャンパスの壁の閑静な趣きに沿えるような、コロナ禍のどうしようもない現実の中で、その様にしっかりと「額ぶち」と云う壇を考え、この架空上の家一軒の完成を目指す、家族さえ知らない。せめて、最低は家一軒、空気の様な逢瀬と絵画と、水の様な生命(アート)を心にして光の果てしなさを望みたい。それは、我々の夜、月下のファン・ゴッホの「つづき」の話の様に真近なことなのです。

    しかし、いわゆるこれは「絵」ではない!自分にとって価値があるものは、

    こういった、はっきりいって「行為」に対してアートと私は呼ばれなければ、ならないのだ。「私」とは構造的にrocoでもあり、大澤さんだ。神秘の理論であり穐斉として経って行く、ほつほつと、これは花だ。

     

    完全に近ければ、自分の中で目立つほくろ。それは自意識過剰と云うもの。

     

    穐斉と経って行く、ほつほつと、これは花だ。

     

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