揶白 (KF)

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  • 詩の遠くを視る心

    独白人格一致

    2010/01/30

     

    制作

    日本の作品群を一筋の歴史の流れがあるのだろうか。



    つぼみ、花、種といった前後関係としての現象で大概すると、


    (1)宗教、イデオロギー、人間理性への理想などの目に見えない閉目塞聡の自己特定
     ↓

    (2)映像、音楽などの目に見える外部記憶による自己投影
     ↓

    (3)動物化した10代による二次創作の10年後(必ず成長しているはず)の姿は?



    ということになる。

    同一の人格を一致した人になるのか、映像メディアでは現実が性的に不一致となるため分裂的、多重人格的になるのか、それらのどちらになるのだろう。



    自分の中でしっくりくる絵。私の分身。文化的遺伝子の利己的コピー。


    どのような言い方でもいいのだが、

    「私の個性だけが持った感覚」という内部感覚と、

    作品=外部記憶とが同じものとなるときにはじめて作家は同一性とオリジナリティを獲得するのだ。

    こうした鏡像的な共感となる例は思いのほか少ない。

    というかほとんどない。まれ。多くは現代の生活と絵を描いている自分との異なる二面性を持った解離的な生活のなかにある。





    20世紀絵画の歴史でも分裂。西欧大陸内派と外派とで大きく分裂をし、

    おおまかに言えばシュールレアリスム(物語)と抽象表現主義(痕跡の現象)とに分化していき、単に絵を描くといった行為にとどまらず、

    ますます知的で複雑な多重人格者となっていった。



    どちらかといえば、異なるを主義であっても両方やっちゃうような生活の反面を回避したのだろう。棲み分けれない。

    ややこしい。




    わかりやすく現代日本と西欧絵画との不一致な関係とはこう考えてもらいたい。



    (A)シュールレアリスムは物語であるためほとんどスキャナーなどでデータ化することができた。よって現代の日本に伝えられた。

    (B)抽象表現主義は人生論であるため、パソコンなどに取り込むことができなかった。日本には伝わらなかった。




    日本でシュールは流布したが、西欧の抽象は日本ではやらなかった理由である。



    それではここで登場した上記(A)の物語論と(B)の表現論とに切り分けて概要をほんの少し述べよう。

    まずデジタルな物語論の中には時間の幅と物語表現(キャラ/キャラクター)が含まれている。

    一方、アナログな表現論の方では、過去の描いた跡の残り、加筆はもちろんだが、消去も含めて加算的につみあがっていくタワー式。



    言い換えると、


    ①物語→原稿に漫画、イラスト、連続写真=先に時間という枠があって、その隙間に表現を差し込んでいくという感じ。

    ②表現主義→キャンパスに厚く地塗り=先に過去の表現の痕跡があり、後に連作として時間を持った物語をあらわす。


    つまり、物語とは先に時間が有り、後に表現がくる。
    表現主義は先に表現が来て、後に物語となるのだ。

    互いが逆だ。一致しない。



    これらを聞いてどうおもわれるだろうか。

    ノートにペンで漫画を書く一般的な日本の絵の一面が①、

    西欧的に広いアトリエで巨大なキャンパスに筆で大量の絵具を乗せる一面が②、

    交差することのない平行線のように思われた。




    ざっくりと上記のような二重生活を棲み分け続けていたものの、

    しかしながら現在はこれらをあますところなく統一。

    ①と②をひとつの行程で行えるシステムを改良した。

    物語論をシステムに置き換えたのである。



    その行程とは、

    写真撮影や紙をもちいて原稿作り→入力した画像データを加工→独自にプリント出力したあとこれらをキャンパスに大量の樹脂で貼る。

    という感じだ。



    アナログ→デジタル→アナログとなっている。

    一行程だし、前後関係も保っていられる。

    しかも続けていくうちに、私には目に見えるはずのないデータがついに目に見えたのだ。





    この一連の行程をいいかえれば、

    原稿作り→超平面化→表現主義→・・・

    となる。


    こうしてやってきてはじめて気がついたのだが、(発見のはなしが続出して乱文)



    中沢氏の言うメディア印象論を念頭に、

    アナログは世界感を前後の姿を連続している現象そのものとして感じさせ、

    一方デジタルでは未知の世界へと実際にはつながらず、つながっているそのラインだけを感じさせる、

    コントローラーを握った人の入力の錯覚が引き起こすもの、

    といったミクロコスモスの読後感そのままだ。



    しかしながら論理、抽象とは異なって

    実証的な実践でさらに一言つけくわえるならば、

    透明樹脂であるアナログの方が未知の世界そのものである。

    アナログに未だ隠された世界があったのだ。






    透明な塊。屈折する光。目を疑う光景。遠近感の消失。

    透明な塊に閉じ込めたれた古典技法の人物画というのは実は、

    奥行きが出てリアルに見えるのではなくて、

    奥行き知覚のゆがみが魅せる「完全な非日常」をリアルに感じているのだ。



    他にも紙でレイヤーの重層構造、油性で透明化、水性ボンドで表層化、

    効果といったら乗算、インク溶かす、破る、裏返す、裏彩色、ペンでのグリザイユなど、



    なんのこっちゃわけがわからない。



    イマツF氏はこの知性構造を少しはわかっているようだった。

    なんて頭が良いやつだ。後日、印刷屋の私に写真データを渡してくれるみたいだ。

    それを上記の行程、内容にするのが楽しみでたまらない。



    デジタルの原稿からパソコンでイメージは8割がた思い通りに行えるようになった。

    これはツールの思想があれば安易にできるが、

    アナログの表現主義での過去としての痕跡と見せる技法は上をみてごらんのとおり、

    読んでもまったく意味がわからない。ペン画以外はほとんど偶然から生まれる仕様だ。





    アナログ→デジタル→アナログ

    ときたら察しの良い方はお気づきかもしれないが、

    次は・・・→デジタルとなるだろう。



    独自に作ったマルチ撮影台をつかってアニメにするつもりだ。

    多分2年後に・・・。



    読んでとおり特殊な技法を使うため、

    そのアニメ作画を外注することができずに困り果てて、

    だから身近の人たちに画期的なニス(樹脂)の使い方を伝えていたのだ。

    実は、撮影、デジタル編集、未知の樹脂の技法を使いこなせる人を選んで声をかけていたのは、未来のアニメ制作のためであった。

    ウニプリントをつづけながら、漫画とアニメを作っていくつもりだ。

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    ウニ

    2009/10/24

     

    日記・ブログ

    なかなかHP化ができない。

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    立つ瀬なし

    2009/10/16

     

    日記・ブログ

    すべて「選外」とのハンコをいただいたのは、全国規模の美術の公募。

    1つ落ちて2つ落ちると、不思議なことに3つ目は落ちたも同然の気分であった。

    次の瞬間にはもう気分は転換されていて、よそはよそ、うちはうちと疾風のごとく籠絡を決め込んだ。さっさと旗を丸め終えたあとには、なぜか爽快な気分だ。すべて落選はどういうわけか気持ちいいのである。夕立ちの後腐れのなさよ。空が軽い。DMの表紙のレイアウトをおもいついた。

    手元のほうはまだまだ混雑していて、思いついたばかりのダイレクトメールと、詳細用のHPに手をつけはじめている。

    ちょっとした企画をはじめるところだ。

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    宝塚造形芸術大学が変わる

    2009/10/03

     

    学校

    クリエイターズ・バンクは携帯などのモバイルからでも日記を更新できないものだろうか。自宅はオフえ環境なのでまったく更新できない。いつもauでネット検索したりやウェブメールを見たりしている。

    来年から宝塚造形芸術大学の名前が変わり、「宝塚大学」ヅカ大となる。
    全入制の一般大学になるのだろうか。

    私の通う洋画コースを含め日本画と美術理論、アートセラピーなどこれらをすべてをひとつにまとめた美術学科へと規模を縮小。

    美術学科では教授・生徒ともにけっこう削減かな。来年、当大学から芸大という冠が消えます。

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    お知らせ

    2009/08/03

     

    作品更新

    2009年、宝塚造形大学のアートフェスにてちょっとしたイベントをします。
    詳細は後ほど。

    場所:宝塚造形芸術大学「本音のアートフェス」
    期間:9/20〜9/21の二日間
    HP:http://honne-artfes.com

    団体名「大澤出力センター」
    出典名「プリントクラブ」

    そのため途中経過ですが、現在手がけている作品を少しアップしました。

    大きい画像はこちらから。

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    かんせい

    2009/07/21

     

    活動記録

    したたるインクの先には木目細かな海綿のようなものが行く手をふさぎ、溜め込まれた容器の内にあるすべての顔料たちはそのインクタンクの出口にむかって流れつぎつぎとスポンジに吸い込まれていく。鮮烈な噴出の霧を撒き散らし紙面上をすれすれに横切り空を渡ると、次の瞬間には散布されたわずかな色の数が加えられ、異なる色の粒の集まりが加法と混ざり合う純然たる水溜りの末路を迎えたときにして、色というモノがその実態の姿を見せる摂胞された混色の灰色が残り、細い繊維を濡らしていた。



    印刷物を用いた作品のうち写実風に仕上げる技法が完成しました。絵でもあり、写真でもあります。

    こちらの方では徐々に完成した画像をアップしていきます。また依頼の受付もやっています。

    このイラストの大きな画像はこちらから。

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    作例 Photomerge

    2009/06/29

     

    作品更新

    こちらの作例は少しめずらしいものである。

    何の変哲もないマツバギクの写真だが、どういうことかというと、

    この写真の元画像はデジタルカメラで撮影されており、ピクセル数が約10000×10000pixel程の大きさだ。

    画素数でいうと約10,000万画素の画像である。

    使用したカメラは610万画素のPENTAX K100D。
    レンズはFA28−70mm F4。



    600万画素程度のデジカメで10,000万画素をとることはできない。
    しかしながら何十枚ものショットを一枚に合成することにより、巨大画像データを作れるのだ。

    今回は Adobe Photoshop CS4 での「photomerge」という自動処理で合成した。
    CS4の処理機能は旧バージョンよりも驚くほど向上している。それによって完全にとはいえないまでも、一見して細かな描写までもを合わせることができた。


    このマツバギクをよく見ていただければ、破綻している部分をみつけることができるだろうが、私は紙にプリントして、そこからさまざまな技法を用いた本番であるから、この程度で十分の合成である。

    ちなみに驚愕の10,000万画素とは、写真プリントでは2メートルに引き伸ばしても高精細で印刷できる。

    Photomergeはコチラ

    新たに画像アップしました。

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    あれこれと

    2009/06/12

     

    活動記録

    日に一枚。帰宅すると印刷しよう、ときめてプリンタを回しはじめる。
    ミッキーの電話器がさまざまな加工をほどこされて4枚刷り上がり、
    次にガラスに閉じた金魚のアクセを透明度に変化をつけ4枚プリントをする。

    印刷が私に与える影響とはどのようなものか量りしれない。
    先程日に1枚をプリントすると言ったばかりなのに、おおきくこえて15枚ほど過多に刷ってしまい、そうするちに朝の4時になってしまう。大変な発見をしてしまった。無茶苦茶楽しいのである。

    「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる」 W-J.オング (『声の文化と文字の文化』)

    印刷も書くことも、ことばも、もともとは声の文化によって本質的には聴覚の音素だったそうだ。つまり、演説や対話が最も人々に理解され、説得するものであった。これとはうってかわって、活版の印刷がはじまった約1600年から現在まで、技術となじみはじめて生活に深く内面化した生活の我々の意識とは、音から視覚空間へとおおきな革変のなかに未だいる。こうした卓見をまとめたオングは印刷が意識に及ぼした影響のについても紹介してある。

    「印刷はプロテスタントの宗教革命を実現し、カトリックの宗教的慣行を方向転換させた」「近代資本主義の発展」「全地球の探査を実現」「家庭生活と政治を変えた」「かつてなかったほどの知識を広める」 などなど。

    さて後読感としては「宗教的慣行を方向転換させる」インクジェットのプリンタが
    我が家にあることを実感するばかりだ。

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  • 芸術という言葉は早い

     

    人生上がる、と考えていたが靄が晴れて下り道のその行きが光るのを見る。自信という言葉が新しく、それなりに辛い思いをしていた自分は忘れてしまう。一番辛かったのは小学校だったと、それを思い出す。

     

     

     

     

    一面は、南方熊楠の植物園のような草木だ。この海で、大学時代の友達と泳ぎ、浮き輪やビートバンで浮かんで、目が合うと笑いあっていた。大学は、大人の考えをするところ。想像は夢と心で解読する。人は人と手を取り合い道を上るが、頂点からの行き方がわからず朦朧としていた。私が地図を持ってるので、充てにすると良い。

     

     

     

     

     

     

     

    こちら私から幽霊が発生しているのではなく、現実を捨てて遊び過ぎて肉体から浮いたひとを良く視ることがある。分かりやすく言ってこういうことだ。

     

    大体はすぐ上がり戻ったり守られるが、いろんな色、ものに埋まった幽霊だが、ぽつん、と残るひとがいる。そういったひとは釈迦に呼ばれもう戻らない。

     

     

    後に、過ぎ去って穏やかになりました。よりも、一緒の方が良いだろうと今日道を歩いていて思った。

     

     

     

     

     

     

     

     

    大学中退後、絵画を上達する為に一人っきりで籠り続けた結果、自分は頭がぼーっとするだけだった。

     

     

     

    それで、ほぼ二十年後自分が考えるのは、

     

    製作をする日々、その場の製作だ。製作にたいしての成功よりも、ただ何か作りたい、と言う自分のような者のために、

    日々を繰り返す、そうやって生きていくことを考える。完成品という現物がないけど過程があり、身体を動かすことで心が広がり、語ることが出来るなら良いと思うのだ。こういう風に油が伸びる様な、それが仲間でもなく、成長する大人の製作仲間。語ることが出来たら、間に似たような物があり、同一感、同一視するような人でも個に目を動かすことが出来る。

     

    現物より過程、そういった枠を考えている。線か手前にはっきりあると感覚にゆとりが出来、人の存在する緊張感は張り布に馴染んでいる。よって場を求める。

     

     

     

    そういった場は佇み方を知ってる者に伺う。私はバイトを定着させなければ、精神もいそがしくガレージ代を払えない。一安心出来たら、あの日から止まった自分の活動の続行することが叶う。

     

     

     

     

     

     

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  • 助ける

     

     

     

     

     

     

     

    初心者の構え、八方、十方(四方のこと)

     

     

     

    それを通すのが、私の役目。

     

     

    それが他に送られるのを見届けるのが私の役目。

     

    自分と一緒じゃない、と言わなあかわん。

     

     

    君は、まだ開いてない、見えるのは、

     

    眉間の目のヒント。

     

    生活の中や自分の想像で、研がなきゃ意味ない。

     

     

     

     

     

     

     

    何かある時代だ、しかしこのような距離の大きさをまじまじ実感するのは初めてだが、何かある時代は、今までもあったのを街から見ていた。巨大な遺跡や古代遺産の考えを想像することに、今や、噂や、移動する光、通過する光、物との一体、これらは、街時代は、街時代のテンプレートがカラフルな下敷やそんな道具のように思い浮かぶ。伝え、祈り、理解、好きな光の知識こそ身につける。水も、火も、闇も、岩や石も、これらは光。光、それは霊なるもの。そこに埃がたつからだろう。風があり、向かってそれを闇だと分かれば木が生える。

     

     

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  • 「美味しそう」について

    他に比べて狭い為、風が必要だから、良く物を入れかえることで利器の継続を叶えている。

     

     

    今は見回りに良い物が少ない、こういった視点がある。

     

     

     

    風を回すその為に物を立てる店舗も、ZARA等見分けられる。

     

     

     

     

     

    私はこういった利器が楽しく、

     

     

    物事の現物がないが計算は回っている。様子が「美味しそうだ」と感じるか違うかで、仕上がりは変わる。対象を美味しそう、と感じた人が美味しそうに表現するわけで、何を感じていたのか、それを思い出すのは、働くという善に、このためにひつような術道である。

     

     

     

    美味しそうなものを、ここに置く。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    服が好きでペラペラになりたいくらい好きだ、

     

     

     

    そう言ったら、

     

    結構「私の表現」は上手く出来てると思うと、H&Mの方は言って下さった。

     

     

     

    体操のお兄さんの様だ。客観性とは、色んな深い理論がある。即ち、身の体操を、いつか向かう為の運動とは心思いの。思想は、また運動そのものと連結して、そういった運動から、こういう連なりの存在や、かつてのフェミニズム、イズムの理解を道びく。統合してこれら試みから、こちらが見ることの叶える歴史とは、

     

     

    歴史を観るには、優しい気持ちではない。いつでも厳しい方、それも程よい厳しさを選べる人になって欲しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    食う、は、断りの力量そのものまでを養い、力量そのものであり、力量そのものの力を自慢する、その力量の程度に気付く実の食い終わりこそになかったひとは、食うのを止めるべきだ。人間だという定を失ったから、何かに頼る。勘定払え。1074306 難波 MIZUHO、この十分。そして、これからよその他人を使わず、ノートを使って欲しい。

     

     

     

     

     

     

    自分の歩みからは、何でも引き出せる。それは苦しみでも、渋みでも、同じ喜びだと思う。その回顧に、想像に、辛かったという自信、この丸を打つことで、器を作れる。幸せはこのように入る。

     

     

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    https://zawazawa.jp/eiblf3cjbjrxlihq/

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  • 親と子

    子供を育てるのは大人で、

     

     

    自分で終わりじゃない、自分に終わりがないとする大人は、

     

     

     

    それ故、その為、言葉が大変だ。

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  • 功徳の得

    上から言いますが、

     

     

     

     

     

    物を楽しいことだけで済ます哀れは、それは誰でも目につきますが、それとは異なります。

     

     

    そう告げられる言葉を待てども、

     

     

     

    この人とは初めに無言の約束をしております。

     

    視点を曖昧にされました。

     

     

     

    名は、有言無益。

     

     

     

     

     

     

     

     

    若し、世界で心と心が出会うことが成り立つとします。

     

     

    その間に「信じること」が有って、

     

     

     

    諍いがここの心に、生じたものなのか、抜け落ちたものなのか、

     

     

     

    これで別れます。

     

     

     

     

     

    生じたものなら、自分の事として抱えて行けます。

     

     

     

     

     

     

    今、

     

     

    肉体的、精神的に強くなりたい、「お修行」は、一度は言葉の無を考えると思います。

     

     

    際に思い出される「修行」は違い、これは全体的な円満を指します。神道から発信されました。

     

     

     

     

    人は感覚が良いので、寺に災いがある時は向かいません。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    」       言葉を得るために我慢する。

     

     

     

     

     

    語らせる言葉の育てには我慢する。

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分に有るのは、

     

     

    理性とそれを考える心。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    心は、良いわるいではなく、それを超えた善の話しが法華経である。

     

     

     

    怒れるときに、笑う。

     

     

     

    これは、訓練だ。

     

     

    訓練は、訓練をする時間のあった者、なかった者、これらは等しい。それを注意深く躾る仏陀。

     

     

    菩薩の前提条件。

     

     

    「これ」が出来たら、易くそれに立てる。こうい(要)れる。

     

     

    それは存在し、

     

     

    私はこの間、「物」と思われて良い。

     

     

    詳しく知らないが、

     

     

    物事には静と動があり、

     

     

    無矛盾な物、物自体には、このうちで静が見つかる。

     

     

    こう言った言葉がある。「私は、「物」に縁深い。」

     

     

    この悟りから。

     

     

    始まる為。

     

     

    承諾している。

     

     

     

    この三つの項のうち、ど~れだ?

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    人でもつ、人で持つ。得て行くことの世界の間、それにおける世の間、この偉大な語にどこかに主語を見つけ出す事を秘める。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    思うのは、

     

    引手や背が必要だった時の際には、主体がどこにあるのかな、それを聞き得る姿や、聞きたい姿がある。輪と言うそうです。人の言葉を聞きたい姿たちに光の形があり、以て言葉で足りないときに輪があり、だから埴輪という、川文です。それなりの大きな語を現します。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自信を持て、は、自身その身で引き出せる言葉だが、

     

     

     

     

     

    苦集滅道は、本来ただ在る諸が集まる珍しいことの原因を「苦」だと言う。釈迦の現す仏世界に尽き、これを蟲と表すスケールを言った。

     

     

     

     

     

    こうした際には、「ご苦労様」位の掛詞に緊張感がある。

     

     

     

     

     

     

    ある人の解答「法話をしてくれ。」

     

    私の質問「法話こそは、自分自身の足で勝ち得ますよう。」

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  • コメント欄新作成と過去記事

    ムーが持っているノ~ト…

    2023/06/30

     

    ニューワールド

    ということは全然夢じゃない。

     

    夢でも何でもなくて

     

     

    人の夢はいい加減。

     

     

    目標と夢は似てるけどちがう

     

     

    目標はずっと追い続けるけど

     

     

    夢と目標は違う

     

     

     

    夢は現実にしたあかん

     

    夢の職業につきました

     

    そういう人は、上を目指しています、ってなるやん

     

    大体、夢を職業にするけど

     

    趣味を夢にする人なんかおらんわけやんか

     

     

     

    現実にあったことがない

     

    いつかそうなりたい、でいいやん

     

     

    現実にあったあかん

     

     

    それは夢やから

     

     

     

    夢を見たとき高望みがあって、守りに入る

     

    夢はおっきいところにおいとかなあかん

     

     

    追い続けるんが夢やから

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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    https://zawazawa.jp/eiblf3cjbjrxlihq/

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  • 魔人ブー

     

    要マップ…重なる矢羽の物化決定。雑誌が欲しい。

     

    日刊飛躍「九月 粘りの鬼by尊不動」

     

     

     

     

    前に出たら前に出なければいけない。

     

    霊のかたちはそのまま現実だろうか?肉体に当てはまるのか?

     

     

    答えは、発生してる精神界、想像界、こうした有るから有るのだ、といった他意のない仏世界の仕切りの中、受け取った何かを、神仏と持ちざるをえない。重すぎるなど言ってられない。

     

     

     

     

     

     

    じゃ、どうしたら良いのか?までは許容されるが、すっぱく一人の魂の目的自体が「こんな自分を知って欲しい」じゃ拒否される。「伝えたい気持ち」から反れているからだ。

    この二つは似ているが非ず。

     

     

     

     かたちの話しをいくら発信しても、ろ過され肉体には戻らない。

     

     

    霊に形が有るとしたら、肉体が霊界に深い知識があるかどうかという限界を水平線は貫く。霊自体健全、とか健康であったから愛されたのだ。潔さも、人の縁を養い続ける。

     

     

     

     

     

    自分の前がどこかで変わる。頂点に向かえるとは向かった自分がいて、その間に、私を養った背景にたいしてまた下っていく時の、その堪え方に尽きる。ここまでが、力。山はくだりのほうが、エネルギーを使う。

     

    太陽をギリギリに躱してこそ、曲がれたカーブ、そこで得たスピードを持ち帰る。その技術の習得に神を目指すという心がある、というだけで、それをコツコツしている、現実の状況、霊視を授けるわけだ。

     

     

     

     

     

    時間という十方、そこに車がある、人がいる、をわかる八方、これを捉えるを備えて、はじめて霊になる。

     

     

    物が、もともと霊だからだ。力がなければ付着として振り落とされ、宿されない。幽霊ならば当然、埃や鴉にも宿れない。はじめて霊感と聞いた感覚は、何か気高い物を感じていないか。それが分かり認識したときに霊視している、となる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    前に出たら前に出なければいけない。自分に合わない感性で、こうなった。

     

     

     

     

     

     

    これは、魔人ブーの進化した姿だが子供の頃見たとき、恐怖していた。進化しないから平和だった、とかそれがアニメだから面白い、とか、その感覚でいったら、気持ち悪い進化は進化であらず恥ずかしく、平面的に錯誤するより留まりを自分は選んだということだ。飛び出る、奥行きを得るのは、上記の他に方法はない。欲が強ければ錯覚して中に入ってしまう。

     

     

    私は乱れた髪を整える。進化前のブーだ。

     

     

     

     

    只、錯覚を楽しむ、という無欲な技術もあるそうだ。

     

    「人を傷つけるより、自分が傷ついた方がましだ。」とアニメなら恥ずかしくてもそう思って逸れなければいけない。人の許し、自己成長、四方の重力と一体になり、回避する「解脱」という方法た。

     

     

    アニメか現実かがはっきりした、はっきりしたところに色彩が浮かびあがる。二つの物事の互いの引き立つ姿勢で私はいたい。

     

     

     

     

     ひとりで持てないお礼があれば1074306 難波支店 Mizuhoこちらへ。メッセージの可否もご自由にどうぞ。

     

     

     

     

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  • 花びら

     

     

     

     

     

    天は知識、感触は地力

     

     

    知識だけでは体が凍る

     

    地力では回復力がある

     

    学べないもの、も有る

     

     

     

     

    心に感情が起こった時、

     

    心に感情を起こした時、

     

     

    視力だけを使う者は、悶え苦しんでいた

     

    心のないものは、死人だった

     

     

     

     

     

     

     

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  • 価値

    価値、教えのその時にはよく聞いたこの言葉がある。

     

     

     

     

    yeah yeah/aidonia

    この歌のタイトルは「いやや、いやや!」と言うこんな歌は、常に存在する。

     

    ジャマイカの曲をレゲエと言って、古来の言葉で抜陀薔薇と言う。その目が睨む空の実は、渡せるその時にしか出荷しない。それは、薔薇を持つわれら対象の価値よりも、われら音の受け手自身の身軽さや易くに懸かり、虹のようにいつの間にか表現される。価値は、話し手の方にある。受け手に古えからの光が突き刺さる。

     

     

     

     

    その時その時に出荷される様子はいつから?などは自分自身の興味の一つでしかないことを「イン ア ハート」と言い、クラブに行ったときにこれをすっぱく伝えられた。DJの兄ちゃんが「悪い音楽は、聞いてはい、け、な、い!」と教育する。

     

     

    人はリュックを背負い、出学しにクラブに向かう。現れているものそのものよりは店は本当に静かな箱々なのだ。これにアンダーグラウンドと言う思いが懸かっていてそれは南国の豊かな鳥のように判断を欠くし続けている。

    道端を渡り切る私は自分で見つける事の徳の、この可能性に注目して音楽を忘れていない。忘れることもないままで、未曾有の世界も知を育て、ただただ不増不減の成長に尽かせる。この具合、縦ノリに特化した私の身振りは、「横に揺れたあかんで!横ノリは悪い!ちゃらちゃらしたあかん!それはオカマや!追い出せ!SEY YOUUU!!!」と、DJの伝達を自分なりに学び守っているから、書く時にしゅっと書く。

     

     

     

    道が細く巻き付いた箱の風合いというのが、先なので、無闇に破ったら世間的な評判を落とす。しかし、裏を返せば、誰でも彼でも静かにそっとしてくれる優しい場所だ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分の言ってるのはこんなこのこにであった。

     

    目をやさしく思う、コンタクトの保護膜に。

     

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