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2010/01/30
日本の作品群を一筋の歴史の流れがあるのだろうか。
つぼみ、花、種といった前後関係としての現象で大概すると、
(1)宗教、イデオロギー、人間理性への理想などの目に見えない閉目塞聡の自己特定
↓
(2)映像、音楽などの目に見える外部記憶による自己投影
↓
(3)動物化した10代による二次創作の10年後(必ず成長しているはず)の姿は?
ということになる。
同一の人格を一致した人になるのか、映像メディアでは現実が性的に不一致となるため分裂的、多重人格的になるのか、それらのどちらになるのだろう。
自分の中でしっくりくる絵。私の分身。文化的遺伝子の利己的コピー。
どのような言い方でもいいのだが、
「私の個性だけが持った感覚」という内部感覚と、
作品=外部記憶とが同じものとなるときにはじめて作家は同一性とオリジナリティを獲得するのだ。
こうした鏡像的な共感となる例は思いのほか少ない。
というかほとんどない。まれ。多くは現代の生活と絵を描いている自分との異なる二面性を持った解離的な生活のなかにある。
20世紀絵画の歴史でも分裂。西欧大陸内派と外派とで大きく分裂をし、
おおまかに言えばシュールレアリスム(物語)と抽象表現主義(痕跡の現象)とに分化していき、単に絵を描くといった行為にとどまらず、
ますます知的で複雑な多重人格者となっていった。
どちらかといえば、異なるを主義であっても両方やっちゃうような生活の反面を回避したのだろう。棲み分けれない。
ややこしい。
わかりやすく現代日本と西欧絵画との不一致な関係とはこう考えてもらいたい。
(A)シュールレアリスムは物語であるためほとんどスキャナーなどでデータ化することができた。よって現代の日本に伝えられた。
(B)抽象表現主義は人生論であるため、パソコンなどに取り込むことができなかった。日本には伝わらなかった。
日本でシュールは流布したが、西欧の抽象は日本ではやらなかった理由である。
それではここで登場した上記(A)の物語論と(B)の表現論とに切り分けて概要をほんの少し述べよう。
まずデジタルな物語論の中には時間の幅と物語表現(キャラ/キャラクター)が含まれている。
一方、アナログな表現論の方では、過去の描いた跡の残り、加筆はもちろんだが、消去も含めて加算的につみあがっていくタワー式。
言い換えると、
①物語→原稿に漫画、イラスト、連続写真=先に時間という枠があって、その隙間に表現を差し込んでいくという感じ。
②表現主義→キャンパスに厚く地塗り=先に過去の表現の痕跡があり、後に連作として時間を持った物語をあらわす。
つまり、物語とは先に時間が有り、後に表現がくる。
表現主義は先に表現が来て、後に物語となるのだ。
互いが逆だ。一致しない。
これらを聞いてどうおもわれるだろうか。
ノートにペンで漫画を書く一般的な日本の絵の一面が①、
西欧的に広いアトリエで巨大なキャンパスに筆で大量の絵具を乗せる一面が②、
交差することのない平行線のように思われた。
ざっくりと上記のような二重生活を棲み分け続けていたものの、
しかしながら現在はこれらをあますところなく統一。
①と②をひとつの行程で行えるシステムを改良した。
物語論をシステムに置き換えたのである。
その行程とは、
写真撮影や紙をもちいて原稿作り→入力した画像データを加工→独自にプリント出力したあとこれらをキャンパスに大量の樹脂で貼る。
という感じだ。
アナログ→デジタル→アナログとなっている。
一行程だし、前後関係も保っていられる。
しかも続けていくうちに、私には目に見えるはずのないデータがついに目に見えたのだ。
この一連の行程をいいかえれば、
原稿作り→超平面化→表現主義→・・・
となる。
こうしてやってきてはじめて気がついたのだが、(発見のはなしが続出して乱文)
中沢氏の言うメディア印象論を念頭に、
アナログは世界感を前後の姿を連続している現象そのものとして感じさせ、
一方デジタルでは未知の世界へと実際にはつながらず、つながっているそのラインだけを感じさせる、
コントローラーを握った人の入力の錯覚が引き起こすもの、
といったミクロコスモスの読後感そのままだ。
しかしながら論理、抽象とは異なって
実証的な実践でさらに一言つけくわえるならば、
透明樹脂であるアナログの方が未知の世界そのものである。
アナログに未だ隠された世界があったのだ。
透明な塊。屈折する光。目を疑う光景。遠近感の消失。
透明な塊に閉じ込めたれた古典技法の人物画というのは実は、
奥行きが出てリアルに見えるのではなくて、
奥行き知覚のゆがみが魅せる「完全な非日常」をリアルに感じているのだ。
他にも紙でレイヤーの重層構造、油性で透明化、水性ボンドで表層化、
効果といったら乗算、インク溶かす、破る、裏返す、裏彩色、ペンでのグリザイユなど、
なんのこっちゃわけがわからない。
イマツF氏はこの知性構造を少しはわかっているようだった。
なんて頭が良いやつだ。後日、印刷屋の私に写真データを渡してくれるみたいだ。
それを上記の行程、内容にするのが楽しみでたまらない。
デジタルの原稿からパソコンでイメージは8割がた思い通りに行えるようになった。
これはツールの思想があれば安易にできるが、
アナログの表現主義での過去としての痕跡と見せる技法は上をみてごらんのとおり、
読んでもまったく意味がわからない。ペン画以外はほとんど偶然から生まれる仕様だ。
アナログ→デジタル→アナログ
ときたら察しの良い方はお気づきかもしれないが、
次は・・・→デジタルとなるだろう。
独自に作ったマルチ撮影台をつかってアニメにするつもりだ。
多分2年後に・・・。
読んでとおり特殊な技法を使うため、
そのアニメ作画を外注することができずに困り果てて、
だから身近の人たちに画期的なニス(樹脂)の使い方を伝えていたのだ。
実は、撮影、デジタル編集、未知の樹脂の技法を使いこなせる人を選んで声をかけていたのは、未来のアニメ制作のためであった。
ウニプリントをつづけながら、漫画とアニメを作っていくつもりだ。
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2008/07/14
現行の製作に溢れ出す絵具の感覚を持ち得る限り、何者からも隔絶されてあっても、いわゆる情報のジャンクフードを相殺し、事態を白紙に戻すことを許すことができるのである。この「時間を無にする」という宗教家の寝言が、リアルな触感としてキャンパスと一体になる「無時間」といえることは、死の観念やエロスに対して抱く異常な関心事に似て非なるものである。このエロスとタナトス(死の本能)といった相反する衝動の分析や芸術の解体運動とともに精神的病理の表現獲得、社会的背景などといった「時代を反映をしめすものである爛熟した西洋藝術」から離れていくうちに「内部体験などをした認識」による儀式的生活である東洋思想に及び、またさらに思想の分裂は進み、体系的な写実や言語構築からの脱構築を許容し異なる人や文化、地域などのあいだを旅する作家の両義的な視点を求める声が大きくなった。藝術や思想などのルールや言語コンテクストの意味伝達は近代市民のさまざまな生活様式にはステレオタイプ的にも不相応であり、それにもまして棚に上げて壇上だけが現場だとは言えなった近代では、時代の個人に表現を帰し事態を生き抜く力の痕跡が作品となりえたのだ。「リアルな触感」はダミアンやミシェクのように現代の高い科学技術でビジュアルイメージとコンセプトの足並みを揃えた名作のみならず、ポロックのドリッピングや郵便配達夫シュヴァルの宮殿、ぺったりとスタンプのようにはりついたようなリキテンシュタイン、なにもかもがごちゃ混ぜに結合してラウシェンバーグの混乱、といったものはわけのわからない行為は人生や哲学が混乱した形式として現実味を帯びる。何の感動や共感もなくともそれぞれの生き方においてはどの技法も密着したリアルな行為に読み解くことができるのである。どのようにして人が芸術というものに規定されたがるのかはわからないが、商用のデザインや、一度の印刷のみで役割を終えるプリントものなどを除いては作品は積極的な交渉のカードになり、人類の科学技術の財産と比べられることのできない個人の完全にオリジナルな財産となるのであれば、「芸術作品であるという通知」はより円滑にするための付加価値のステータスなのだろう。
冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。
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