揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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  • 歳が有れば

     

     

    歳が「有れ」ば、自分がどれくらいの貯金があって、これだけはと抱えることが出来る。だから、どれくらい払えるかがわかる。そして、

     

     

    男女も二つに髪を結った麻の着る美しい、裸足で森でも街(もり)でも駆け巡る菩薩が、私たちを見守ってくれている。

     

    大きな石を、賢さで動かす光は、天女なら何故「私の答え」が天女なのだろう?と考える。天女と天神を測る静かな天秤の前。

     

    傾きは、なにで直るのだろう?

     

     

    人は、祖を見て、人は「このレベル」がこんなに低いを知って嬉しかった。と、言った。不安でたまらずほんとにほんとに安心したから。

     

     

    本当に歳はなく、心の広さを知るのは、歳が私の順序になる。前者はのっぺりした数だが、もう少し美しさがある。向こうが霊格で、こちらが肉体では重さが吊り合わない。「繋がりが無い」ということになる。

     

     

     

     

    (ム)蟲ー、このニュアンスは最初に高い、嬉しい霊界で言うと、

     

    ・重くてすすめない

     

     

    決して地蔵通りでもたのしい。その知識だけをわくのように取り、中身も内容も生じない。そのヒトは知識を待っていない。本人は、知識と理解したのではなく、悪いことをしたから急いで自分から逃げる中の取っ掛かりを覚えている。何事にも定着しない、その目の座った様子は、他周りの人間の優しさがロールケーキか切り株に見える。よく見えないが、(ム)蟲ーは不安そうにほっとしている。

     

    久しぶりに街から持ち帰った(ム)蟲ーのショットを話そう。

     

    ①食事店。店員「いらっしゃいませ。」蟲「タバコ吸いに来たんですけど。」

     

    ②下品な言葉で女性をからかう僧ムー。拝む。

     

    ③DJムー(レゲエ)

    MC「みんなの愛してるもの、全部俺によこしてくれたら大丈夫やからぁぁー!!Whoooooo!!!」

     

     

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  • 宇宙の川

     

     

    祖神大和の王卑弥呼が伝える為に、人が「自分」をどうしても聞く為に、

     

    一度、私を巫女と言い、語りの亀裂のあったその土地の道を繋ぐ。厳かな顔でこちらにどっしりと座り掛ける祖霊を見た時、それを退かせる私の力を見るのだ。任せることの信用と試し。私は、そういった神社の心ならつづら打ち。巫女とは元のプライドが随分違い、もう太鼓はぼろぼろであった。

     

    缶で出来た、小花が散りばめられた金色のもやの茶入れの柄には闇から来る風のかまいたちが描かれる。心に差し込むかなしみが蓮葉のような形を作り、そこに金色という映えた色が目に映る。乏しい緑の川から自分は溢れこぼれ、道頓堀の堀に流され浮かぶ。死体の様な私自身が、茶入れを包む茶巾となり、悲鳴はまた桃や白の小花になり中で氷っている。

     

     

     

    巫女がいる、歌い手がいる。つづら打ち、「物事の正解が隣だった」と説く。

     

     

    私は温故知新を感じ入ってその素晴らしい景色を真心に描く。霞むくらいの大海、目に映る先には自己がいる。光から、離れられないのだ。

     

     

     

     

     

    様々な前司を述べられ、光が心を通る中。鬼島に残る迎え船の行く理由を知った。「俊寛」の演目がその月に松竹座にあった。

     

     

    行為とは、自分に起こっている心の活動であり、

     

    起こす本人たちが、自分さえ感じ取れないものとして行動をするがそこに他者が映ったためしはない。それは古いやつでもなく、自分はこうしたのだと光りながらきっと消える。「影」に宙という概念ががあれば、恒河沙阿僧祇があり、良さも悪さもその中を登る。私はそれを見てそのヒトに人間じゃない仏が待つ。人の重い命について考える。何故なら、生じる時だけはひとりなのだから。死は必ず誰がいるその場所について語るのは今いる私ではなくもう死んだ人や神なのだ。

     

     

    卑弥呼が伝える為に、人が「自分」をどうしても聞く為に、

     

    一度、私を巫女と言い、語りの亀裂のあったその土地の道を繋ぐ。厳かな顔でこちらにどっしりと座り掛ける霊を見た時、それを退かせる私の力を見るのだ。任せることの信用と試し。私は、そういった神社の心ならつづら打ち。巫女とは元のプライドが随分違い、もう太鼓はぼろぼろであった。

     

    缶で出来た、小花が散りばめられた金色のもやの茶入れの柄には闇から来る風のかまいたちが描かれる。心に差し込むかなしみが蓮葉のような形を作り、そこに金色という映えた色が目に映る。乏しい緑の川から自分は溢れこぼれ、道頓堀の堀に流され浮かぶ。死体の様な私自身が、茶入れを包む茶巾となり、悲鳴はまた桃や白の小花になり中で氷っている。

     

     

     

    巫女がいる、歌い手がいる。つづら打ち、「物事の正解が隣だった」と説く。

     

     

    私は温故知新を感じ入ってその素晴らしい景色を真心に描く。霞むくらいの大海、目に映る先には自己がいる。光から、離れられないのだ。

     

     

     

     

     

     

     

     

    行為とは、自分に起こっている心の活動であり、

     

    起こす本人たちが、自分さえ感じ取れないものとして行動をするがそこに他者が映ったためしはない。それは古いやつでもなく、自分はこうしたのだと光りながらきっと消える。「影」に宙という概念ががあれば、恒河沙阿僧祇があり、良さも悪さもその中を登る。私はそれを見てそのヒトに人間じゃない仏が待つ。人の重い命について考える。何故なら、生じる時だけはひとりなのだから。死は必ず誰がいるその場所について語るのは今いる私ではなくもう死んだ人や神なのだ。

     

     

     

     

     

     

    これはさっきの茶入の色違い。もっとラクに捉えて、人が笑えることを許せる人になって欲しい。

     

     

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  • 安全、自分を見返る

    誰かに見られてる、と思ったら大違い。この場合、「誰か」ではなく、「何か」である。だから、「何?」である。法華経で「所以者何…誰かではなく、何か異なるもの。おまけで「者」と言ってあげる。」と書いてある。

     

     

     

     

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  • 脚立から落ちて灯篭が倒れて来た話

    枝を伐る時、

    脚立に乗っていて3メートルから落ちた。灯篭の方に引き寄せられ、

    灯篭がまさか落ちてきて、腕で払った。へし折れた脚立が倒れてきて灯篭が同じ方向に倒れるから、その下にいた。灯篭と脚立が同じ方向に倒れる。脚立にはチェーンがついていて開かないようになっている。脚立が倒れてへし折れ、灯篭が落ちてきた。地面に落ちたらジャンプして助かる。

     

    灯篭を腕で払って助かった。それを家の人が見ていたから、頭も落ちたら危ないって言われたから、病院につれてもらって捻挫で済んだ。

     

     

     

    灯篭

     

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  • 詩の遠くを視る心

    独白人格一致

    2010/01/30

     

    制作

    日本の作品群を一筋の歴史の流れがあるのだろうか。



    つぼみ、花、種といった前後関係としての現象で大概すると、


    (1)宗教、イデオロギー、人間理性への理想などの目に見えない閉目塞聡の自己特定
     ↓

    (2)映像、音楽などの目に見える外部記憶による自己投影
     ↓

    (3)動物化した10代による二次創作の10年後(必ず成長しているはず)の姿は?



    ということになる。

    同一の人格を一致した人になるのか、映像メディアでは現実が性的に不一致となるため分裂的、多重人格的になるのか、それらのどちらになるのだろう。



    自分の中でしっくりくる絵。私の分身。文化的遺伝子の利己的コピー。


    どのような言い方でもいいのだが、

    「私の個性だけが持った感覚」という内部感覚と、

    作品=外部記憶とが同じものとなるときにはじめて作家は同一性とオリジナリティを獲得するのだ。

    こうした鏡像的な共感となる例は思いのほか少ない。

    というかほとんどない。まれ。多くは現代の生活と絵を描いている自分との異なる二面性を持った解離的な生活のなかにある。





    20世紀絵画の歴史でも分裂。西欧大陸内派と外派とで大きく分裂をし、

    おおまかに言えばシュールレアリスム(物語)と抽象表現主義(痕跡の現象)とに分化していき、単に絵を描くといった行為にとどまらず、

    ますます知的で複雑な多重人格者となっていった。



    どちらかといえば、異なるを主義であっても両方やっちゃうような生活の反面を回避したのだろう。棲み分けれない。

    ややこしい。




    わかりやすく現代日本と西欧絵画との不一致な関係とはこう考えてもらいたい。



    (A)シュールレアリスムは物語であるためほとんどスキャナーなどでデータ化することができた。よって現代の日本に伝えられた。

    (B)抽象表現主義は人生論であるため、パソコンなどに取り込むことができなかった。日本には伝わらなかった。




    日本でシュールは流布したが、西欧の抽象は日本ではやらなかった理由である。



    それではここで登場した上記(A)の物語論と(B)の表現論とに切り分けて概要をほんの少し述べよう。

    まずデジタルな物語論の中には時間の幅と物語表現(キャラ/キャラクター)が含まれている。

    一方、アナログな表現論の方では、過去の描いた跡の残り、加筆はもちろんだが、消去も含めて加算的につみあがっていくタワー式。



    言い換えると、


    ①物語→原稿に漫画、イラスト、連続写真=先に時間という枠があって、その隙間に表現を差し込んでいくという感じ。

    ②表現主義→キャンパスに厚く地塗り=先に過去の表現の痕跡があり、後に連作として時間を持った物語をあらわす。


    つまり、物語とは先に時間が有り、後に表現がくる。
    表現主義は先に表現が来て、後に物語となるのだ。

    互いが逆だ。一致しない。



    これらを聞いてどうおもわれるだろうか。

    ノートにペンで漫画を書く一般的な日本の絵の一面が①、

    西欧的に広いアトリエで巨大なキャンパスに筆で大量の絵具を乗せる一面が②、

    交差することのない平行線のように思われた。




    ざっくりと上記のような二重生活を棲み分け続けていたものの、

    しかしながら現在はこれらをあますところなく統一。

    ①と②をひとつの行程で行えるシステムを改良した。

    物語論をシステムに置き換えたのである。



    その行程とは、

    写真撮影や紙をもちいて原稿作り→入力した画像データを加工→独自にプリント出力したあとこれらをキャンパスに大量の樹脂で貼る。

    という感じだ。



    アナログ→デジタル→アナログとなっている。

    一行程だし、前後関係も保っていられる。

    しかも続けていくうちに、私には目に見えるはずのないデータがついに目に見えたのだ。





    この一連の行程をいいかえれば、

    原稿作り→超平面化→表現主義→・・・

    となる。


    こうしてやってきてはじめて気がついたのだが、(発見のはなしが続出して乱文)



    中沢氏の言うメディア印象論を念頭に、

    アナログは世界感を前後の姿を連続している現象そのものとして感じさせ、

    一方デジタルでは未知の世界へと実際にはつながらず、つながっているそのラインだけを感じさせる、

    コントローラーを握った人の入力の錯覚が引き起こすもの、

    といったミクロコスモスの読後感そのままだ。



    しかしながら論理、抽象とは異なって

    実証的な実践でさらに一言つけくわえるならば、

    透明樹脂であるアナログの方が未知の世界そのものである。

    アナログに未だ隠された世界があったのだ。






    透明な塊。屈折する光。目を疑う光景。遠近感の消失。

    透明な塊に閉じ込めたれた古典技法の人物画というのは実は、

    奥行きが出てリアルに見えるのではなくて、

    奥行き知覚のゆがみが魅せる「完全な非日常」をリアルに感じているのだ。



    他にも紙でレイヤーの重層構造、油性で透明化、水性ボンドで表層化、

    効果といったら乗算、インク溶かす、破る、裏返す、裏彩色、ペンでのグリザイユなど、



    なんのこっちゃわけがわからない。



    イマツF氏はこの知性構造を少しはわかっているようだった。

    なんて頭が良いやつだ。後日、印刷屋の私に写真データを渡してくれるみたいだ。

    それを上記の行程、内容にするのが楽しみでたまらない。



    デジタルの原稿からパソコンでイメージは8割がた思い通りに行えるようになった。

    これはツールの思想があれば安易にできるが、

    アナログの表現主義での過去としての痕跡と見せる技法は上をみてごらんのとおり、

    読んでもまったく意味がわからない。ペン画以外はほとんど偶然から生まれる仕様だ。





    アナログ→デジタル→アナログ

    ときたら察しの良い方はお気づきかもしれないが、

    次は・・・→デジタルとなるだろう。



    独自に作ったマルチ撮影台をつかってアニメにするつもりだ。

    多分2年後に・・・。



    読んでとおり特殊な技法を使うため、

    そのアニメ作画を外注することができずに困り果てて、

    だから身近の人たちに画期的なニス(樹脂)の使い方を伝えていたのだ。

    実は、撮影、デジタル編集、未知の樹脂の技法を使いこなせる人を選んで声をかけていたのは、未来のアニメ制作のためであった。

    ウニプリントをつづけながら、漫画とアニメを作っていくつもりだ。

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    ウニ

    2009/10/24

     

    日記・ブログ

    なかなかHP化ができない。

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    立つ瀬なし

    2009/10/16

     

    日記・ブログ

    すべて「選外」とのハンコをいただいたのは、全国規模の美術の公募。

    1つ落ちて2つ落ちると、不思議なことに3つ目は落ちたも同然の気分であった。

    次の瞬間にはもう気分は転換されていて、よそはよそ、うちはうちと疾風のごとく籠絡を決め込んだ。さっさと旗を丸め終えたあとには、なぜか爽快な気分だ。すべて落選はどういうわけか気持ちいいのである。夕立ちの後腐れのなさよ。空が軽い。DMの表紙のレイアウトをおもいついた。

    手元のほうはまだまだ混雑していて、思いついたばかりのダイレクトメールと、詳細用のHPに手をつけはじめている。

    ちょっとした企画をはじめるところだ。

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    宝塚造形芸術大学が変わる

    2009/10/03

     

    学校

    クリエイターズ・バンクは携帯などのモバイルからでも日記を更新できないものだろうか。自宅はオフえ環境なのでまったく更新できない。いつもauでネット検索したりやウェブメールを見たりしている。

    来年から宝塚造形芸術大学の名前が変わり、「宝塚大学」ヅカ大となる。
    全入制の一般大学になるのだろうか。

    私の通う洋画コースを含め日本画と美術理論、アートセラピーなどこれらをすべてをひとつにまとめた美術学科へと規模を縮小。

    美術学科では教授・生徒ともにけっこう削減かな。来年、当大学から芸大という冠が消えます。

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    お知らせ

    2009/08/03

     

    作品更新

    2009年、宝塚造形大学のアートフェスにてちょっとしたイベントをします。
    詳細は後ほど。

    場所:宝塚造形芸術大学「本音のアートフェス」
    期間:9/20〜9/21の二日間
    HP:http://honne-artfes.com

    団体名「大澤出力センター」
    出典名「プリントクラブ」

    そのため途中経過ですが、現在手がけている作品を少しアップしました。

    大きい画像はこちらから。

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    かんせい

    2009/07/21

     

    活動記録

    したたるインクの先には木目細かな海綿のようなものが行く手をふさぎ、溜め込まれた容器の内にあるすべての顔料たちはそのインクタンクの出口にむかって流れつぎつぎとスポンジに吸い込まれていく。鮮烈な噴出の霧を撒き散らし紙面上をすれすれに横切り空を渡ると、次の瞬間には散布されたわずかな色の数が加えられ、異なる色の粒の集まりが加法と混ざり合う純然たる水溜りの末路を迎えたときにして、色というモノがその実態の姿を見せる摂胞された混色の灰色が残り、細い繊維を濡らしていた。



    印刷物を用いた作品のうち写実風に仕上げる技法が完成しました。絵でもあり、写真でもあります。

    こちらの方では徐々に完成した画像をアップしていきます。また依頼の受付もやっています。

    このイラストの大きな画像はこちらから。

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    作例 Photomerge

    2009/06/29

     

    作品更新

    こちらの作例は少しめずらしいものである。

    何の変哲もないマツバギクの写真だが、どういうことかというと、

    この写真の元画像はデジタルカメラで撮影されており、ピクセル数が約10000×10000pixel程の大きさだ。

    画素数でいうと約10,000万画素の画像である。

    使用したカメラは610万画素のPENTAX K100D。
    レンズはFA28−70mm F4。



    600万画素程度のデジカメで10,000万画素をとることはできない。
    しかしながら何十枚ものショットを一枚に合成することにより、巨大画像データを作れるのだ。

    今回は Adobe Photoshop CS4 での「photomerge」という自動処理で合成した。
    CS4の処理機能は旧バージョンよりも驚くほど向上している。それによって完全にとはいえないまでも、一見して細かな描写までもを合わせることができた。


    このマツバギクをよく見ていただければ、破綻している部分をみつけることができるだろうが、私は紙にプリントして、そこからさまざまな技法を用いた本番であるから、この程度で十分の合成である。

    ちなみに驚愕の10,000万画素とは、写真プリントでは2メートルに引き伸ばしても高精細で印刷できる。

    Photomergeはコチラ

    新たに画像アップしました。

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    あれこれと

    2009/06/12

     

    活動記録

    日に一枚。帰宅すると印刷しよう、ときめてプリンタを回しはじめる。
    ミッキーの電話器がさまざまな加工をほどこされて4枚刷り上がり、
    次にガラスに閉じた金魚のアクセを透明度に変化をつけ4枚プリントをする。

    印刷が私に与える影響とはどのようなものか量りしれない。
    先程日に1枚をプリントすると言ったばかりなのに、おおきくこえて15枚ほど過多に刷ってしまい、そうするちに朝の4時になってしまう。大変な発見をしてしまった。無茶苦茶楽しいのである。

    「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる」 W-J.オング (『声の文化と文字の文化』)

    印刷も書くことも、ことばも、もともとは声の文化によって本質的には聴覚の音素だったそうだ。つまり、演説や対話が最も人々に理解され、説得するものであった。これとはうってかわって、活版の印刷がはじまった約1600年から現在まで、技術となじみはじめて生活に深く内面化した生活の我々の意識とは、音から視覚空間へとおおきな革変のなかに未だいる。こうした卓見をまとめたオングは印刷が意識に及ぼした影響のについても紹介してある。

    「印刷はプロテスタントの宗教革命を実現し、カトリックの宗教的慣行を方向転換させた」「近代資本主義の発展」「全地球の探査を実現」「家庭生活と政治を変えた」「かつてなかったほどの知識を広める」 などなど。

    さて後読感としては「宗教的慣行を方向転換させる」インクジェットのプリンタが
    我が家にあることを実感するばかりだ。

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  • 芸術という言葉は早い

     

    人生上がる、と考えていたが靄が晴れて下り道のその行きが光るのを見る。自信という言葉が新しく、それなりに辛い思いをしていた自分は忘れてしまう。一番辛かったのは小学校だったと、それを思い出す。

     

     

     

     

    一面は、南方熊楠の植物園のような草木だ。この海で、大学時代の友達と泳ぎ、浮き輪やビートバンで浮かんで、目が合うと笑いあっていた。大学は、大人の考えをするところ。想像は夢と心で解読する。人は人と手を取り合い道を上るが、頂点からの行き方がわからず朦朧としていた。私が地図を持ってるので、充てにすると良い。

     

     

     

     

     

     

     

    こちら私から幽霊が発生しているのではなく、現実を捨てて遊び過ぎて肉体から浮いたひとを良く視ることがある。分かりやすく言ってこういうことだ。

     

    大体はすぐ上がり戻ったり守られるが、いろんな色、ものに埋まった幽霊だが、ぽつん、と残るひとがいる。そういったひとは釈迦に呼ばれもう戻らない。

     

     

    後に、過ぎ去って穏やかになりました。よりも、一緒の方が良いだろうと今日道を歩いていて思った。

     

     

     

     

     

     

     

     

    大学中退後、絵画を上達する為に一人っきりで籠り続けた結果、自分は頭がぼーっとするだけだった。

     

     

     

    それで、ほぼ二十年後自分が考えるのは、

     

    製作をする日々、その場の製作だ。製作にたいしての成功よりも、ただ何か作りたい、と言う自分のような者のために、

    日々を繰り返す、そうやって生きていくことを考える。完成品という現物がないけど過程があり、身体を動かすことで心が広がり、語ることが出来るなら良いと思うのだ。こういう風に油が伸びる様な、それが仲間でもなく、成長する大人の製作仲間。語ることが出来たら、間に似たような物があり、同一感、同一視するような人でも個に目を動かすことが出来る。

     

    現物より過程、そういった枠を考えている。線か手前にはっきりあると感覚にゆとりが出来、人の存在する緊張感は張り布に馴染んでいる。よって場を求める。

     

     

     

    そういった場は佇み方を知ってる者に伺う。私はバイトを定着させなければ、精神もいそがしくガレージ代を払えない。一安心出来たら、あの日から止まった自分の活動の続行することが叶う。

     

     

     

     

     

     

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  • 助ける

     

     

     

     

     

     

     

    初心者の構え、八方、十方(四方のこと)

     

     

     

    それを通すのが、私の役目。

     

     

    それが他に送られるのを見届けるのが私の役目。

     

    自分と一緒じゃない、と言わなあかわん。

     

     

    君は、まだ開いてない、見えるのは、

     

    眉間の目のヒント。

     

    生活の中や自分の想像で、研がなきゃ意味ない。

     

     

     

     

     

     

     

    何かある時代だ、しかしこのような距離の大きさをまじまじ実感するのは初めてだが、何かある時代は、今までもあったのを街から見ていた。巨大な遺跡や古代遺産の考えを想像することに、今や、噂や、移動する光、通過する光、物との一体、これらは、街時代は、街時代のテンプレートがカラフルな下敷やそんな道具のように思い浮かぶ。伝え、祈り、理解、好きな光の知識こそ身につける。水も、火も、闇も、岩や石も、これらは光。光、それは霊なるもの。そこに埃がたつからだろう。風があり、向かってそれを闇だと分かれば木が生える。

     

     

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  • 足のないやつ

     

    女性がいて、男性がいる。そこに人があり、ゲームの様に何かが入っていると思えた宝箱である。

     

     

    男性が開き、

     

     

     

     

    在るとは無いことで、

     

     

    少女の怪しい微笑みは、

     

    夢で見た空箱と同じなのだ

     

     

     

     

     

     

     

    こういった文がある。その人の意思が書いてある。

     

     

    術は、

     

     

    伝えるための

     

     

    もほう

     

    留まり

     

    術に

     

     

     


    題は、異ならず。

     

     

     

    術に停泊はないから、それを誰でも出来る。男性と男性はこう告げないだろう。

     

     

    美しい鳥も、これをするために断りをいれる。周りに挨拶する、駄目だったら留まる、こういったひとつひとつの動作による文の思念は表現を帯びる。

     

     

    自身の言葉でも、術を含むが、

     

     

     

    言いたいことより自分が出てしまわない為の、

     

     

    意志!

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 「美味しそう」について

    他に比べて狭い為、風が必要だから、良く物を入れかえることで利器の継続を叶えている。

     

     

    今は見回りに良い物が少ない、こういった視点がある。

     

     

     

    風を回すその為に物を立てる店舗も、ZARA等見分けられる。

     

     

     

     

     

    私はこういった利器が楽しく、

     

     

    物事の現物がないが計算は回っている。様子が「美味しそうだ」と感じるか違うかで、仕上がりは変わる。対象を美味しそう、と感じた人が美味しそうに表現するわけで、何を感じていたのか、それを思い出すのは、働くという善に、このためにひつような術道である。

     

     

     

    美味しそうなものを、ここに置く。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    服が好きでペラペラになりたいくらい好きだ、

     

     

     

    そう言ったら、

     

    結構「私の表現」は上手く出来てると思うと、H&Mの方は言って下さった。

     

     

     

    体操のお兄さんの様だ。客観性とは、色んな深い理論がある。即ち、身の体操を、いつか向かう為の運動とは心思いの。思想は、また運動そのものと連結して、そういった運動から、こういう連なりの存在や、かつてのフェミニズム、イズムの理解を道びく。統合してこれら試みから、こちらが見ることの叶える歴史とは、

     

     

    歴史を観るには、優しい気持ちではない。いつでも厳しい方、それも程よい厳しさを選べる人になって欲しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    食う、は、断りの力量そのものまでを養い、力量そのものであり、力量そのものの力を自慢する、その力量の程度に気付く実の食い終わりこそになかったひとは、食うのを止めるべきだ。人間だという定を失ったから、何かに頼る。勘定払え。1074306 難波 MIZUHO、この十分。そして、これからよその他人を使わず、ノートを使って欲しい。

     

     

     

     

     

     

    自分の歩みからは、何でも引き出せる。それは苦しみでも、渋みでも、同じ喜びだと思う。その回顧に、想像に、辛かったという自信、この丸を打つことで、器を作れる。幸せはこのように入る。

     

     

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    https://zawazawa.jp/eiblf3cjbjrxlihq/

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  • 親と子

    子供を育てるのは大人で、

     

     

    自分で終わりじゃない、自分に終わりがないとする大人は、

     

     

     

    それ故、その為、言葉が大変だ。

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