揶白 (KF)

絵画

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    Works 46
  • 九次元の記録、その限界

    唯物的な話し方でするが、

     

     

    運命論など、とても関心を持っていた。

     

     

     

    スピリチュアルメイトと言う、広義な意味と、予めの相関性であるツインソウル。と、こう分かる理解をすることに成功した。

     

     

    星空と今やってることを照らし合わせ、方向と勉強が合ってるか確認する。

     

     

    共同体だという言葉に光を焰かに感じて関心事が、心の中などに表されずフォーカスが自身のちゃんと内部やセンターにあって精神の活気を毎日感じている。

     

    森だという第一義の中で

     

    この鏡の奥の月宇宙の生活では、風も立っていて、我が神殿のほうに追われていずこから参り迷われる魂を花や葉から見ているが

    何かの食欲があって、けもの(ムー)に襲われることもあるが、宇宙のリズムで攻撃は跳ね返るらしい。

     

    通貨として必要なもの

    ・モラルの葉

     

     

     

    雑に積み重なった語の収納が何と出来るコンパクトを渡す。

     

     

     

     

    玄関の立札にこんな事が書かれているのを見ただろうか。

     

    課題である専門を、平行し続ける限りずっと込み入ってしまう心の書類、あたかも他人を避ける知の林の塀柵を、これが、太陽の回りで人面など見ずとも意識が何を伝えているのかを認められるものは青信号だと思うが、時の場合は必ず何の感情も自己で解決して行く私はとても孤独好きな性格だ。

     

     

     

    魂よ、その心臓に、家に迷わず帰れますように。

     

     

    ラッキーアイテム 

     

    巴ともなる直感的世界を、封じる(とじるというよりは綴る、光として興味を持って森、街(もり)に眉間を開示する)という意味で葩もと呼んでいる。実際、部屋

    のどこかに鎖をかけると、閉鎖を意味する五行(さとり)となる。

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  • 蟲(ムー)を任せたのは神で、その間に足が入る

    蟲(ムー)は、要は中は死体の塊で、

     

    それを持て、とは人は言わない。

     

    悲しさとは癒えることのない感情で、いくら良いことがあり凍える肌を溶かせても、

     

    何も忘れちゃいないから、これを前提にした時、確かさを思う。落ち着きを得ていて、笑うことが可能であり、

     

    その上に、涙を拭け哀しみを癒やすことができても、

     

    悲しさは当然心として。ブラスに変わることがないという意味が登場の骨格なのだ。開かない心は意思ではなく、もっと深い風に従っている。

     

    耐える力や言葉を持たない、と言えば、守られるものを得ない。

     

     

    減らす、といった惑星とかの意志の逆をすると適当に振り落とされ、死を蔦って消えることができると思いきや先はよその宇宙旅行である。地球でだめなら確実に愛を根源とする外界では殺されるだろう。

     

     

    美しさ よりこれを持つといけないように、

     

     

     

    私は震えた。

     

     

    「あなた」が人の命を減らすことの差し引きは重大とお取りになられる。それに伴う供養をされ得るからです。仏教とは仏を早く知ることの事で、考えには平等のことだ。影からこそこそ意地悪を打てば、私のような世俗は怒って良いだろう。よこしまだったそいつの上には邪神という最初の神とも言われて、自分の先に守りがある。自己理解の先には守りがある。この嫌な思い自体を邪神と溶かすのだ。そいつはむでありつづけて、私は自分の仏道をしっかり守れる。そういった変なやつの実在非在を認め、己が無となり人生に組み込まなくなる。おまけで、言われる漢字の無の形態を説明するなら有ると発言し得ること。仏は在ると有りを展開し尽くし既に仰る。この元に心の無を実在させるために、今修行。間隔が有るにおいて引きと攻めを足しかける。時間差という想像を捨てたかのような、あるはずない面をない所を理由にしてカタチを置く、こういう人がいるが、これは物の考えじゃない。つまり、下界のものだった。仏が会社と言われていた意味が解り、ある人が大阪さんに社長と叱咤されていた声が今響く。あの日が、空中では己々の岩を抱えたまま間隔を持ち、丘を越え今も見渡せる。輝きを見ていた日から変わらず開いたままの空をどうか大切に。開いて有るままだ。仏がいても、自分は何もないことの風紀と寂しさが決して静かな影を描いている。この状態が平常で穏やかを持つんだ。足りてるとは、立派な時間がそこへ完成を秘めて希望しているものを抱えること。あとさきが本当にいらないなかで、その物の成長を見惚れ生活している。その上に加える、とか足すと言う事には寒さの感覚や生理的な嫌悪をし、身動きが出来ない。定規を持ちして端を取っても無関係と現され、普通に生きてる忍耐性なら浄化的に消える記憶なのだ。あらゆる心の感情を肯定したとき心に他者が無くなり、悲しい自として座ることを考えていた。さらに私を自我が包んだ一人の心となり、鏡をして、精神を受け入れることを叶えた。「悲しいのは私」が、「悲しんでる私」と成ったこの時、今回は凹みを表現しているのを感覚的想像で見たのである。相関という言葉の激しさが果敢な纏めが、相関的なノイズを消した。さっきみた消えていくその欠片が泡立って吹く水の波紋を私は草原でニヤリと見ている。その時、神が風景をしているのをみて、詩性を持って親しげな様子を話したくなった。近所のスパワールドで、あの神は誰ですかと伝えることも出来る。

    実際的な勉強と、直感的な感性の研究で、神が言いたいことを感じる為に。勉強を嫌いな神様だと。

     

     

    任されている人のムーを自主分解出来ない形で、押しつけてはいけない。あらゆる壁を抱擁して来た仏の生死を駆け抜けるか如く勢いの修行を見る。だから、その前にいるのなら信心しかない。その精神であるのだから、続けてみる、やってみるのは悪くない。なにもない無辺を、感じ込んだときに上を向いて釈迦に謝れば、目は治る。子供の時は歩けた無辺世界を今歩けないわけがない。

     

     

     

    性を六根清浄といい、養いに求めるを人は磨かれて来た。

     

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  • 確かに咀嚼される主義の道

    前回言った霊獣と仙人。仙人のイメージを昔から正していた方を読者として知っている。

     

     

     

     

     

    組み込まれて格好いい雷神がた、や、独断の動きをしていく格好よさ、は様々であって険しい地球に寄り添っている。自分の住まいを鵜呑みにし、目の外を見つめる。自然の理に自らのファッションを自の思いから覆して何とか近付こうとしていて、そこに透明な詩人を見ることを楽しむのだ。

     

     

    やっぱ精神に形はあってはいけない。

     

     

    「血に濡れて、私は休む。」

     

     

     

    傷にガーゼをあてるようなもので、人生の20分。

     

     

    夢とは自分の現実がフォルムになっていて、と理解する今、「夢」を適えていてはいるが、希望している、する、と対面したときのこの圧力や弾力の壁に抵抗して行くような前向きな、わたしの修行、私のこと、と言えるこの光の中の状態とは全く違って、満身して石を岩に削り立てることは、減ることとは程遠いのである。肯定を確かめるような○の字は、

     

    この布を重ねて癒やす生活空間とは単なる出来事で、物との対峙や対象の解決、には至ってない。ナカマルが一昔に仏道を日本語で「解決して行くのなら、〜(なんたら)」と言っていた。

     

    尚、見えず証拠がないからといって、あっても仏語では自我、いはば己に関わる何かを確証することにはならないから、目の奥から広がっている視界とは、ページの厚みにより立体化した「奥行き」とは、線の数を増やすこと即ち目の彩度の高まりなのだ。私は岩の上から摩擦される雨水の縦線を皮膚に感じている。静かな。

     

     

     

     

    上記の上はSWORDの「CROSS OVER 斬」言っていた安らぎの美学で、仙人を表していたのだ。と、何とか言って、こう言った地道な努力と甲斐もある中では、何の説明や論説があろうと広く間違っているからにはいかづちが降りるのである。外道とも言われるのは神仏、人間、のこう言った繊細なもののヨソと言う訳である。その広さという面積は線になっていない状態で、つまり私の身部の一体は関係しない。線は、の一言のうん、やYESによる、板のようにも小さく思えるが、我が家を守るかたちで創作する唯一の方法として、主題を持ち、主題があると言うのは仏道に繋がっている。私は仙人です、様々な面から見ても、こう見ても不審を感じられるが、信用出来ると言いたいのだ。点を、作れそう。

     

    文で心を表現してみると滅多に降りず、普段は幻想を石としているので身なりの事正しとは無縁である。まぼろし、こう読んでみるとも実存を感じる。一人立ちに関しての際に回し読みされた実存の本の内容はこうである!

     

    実際に存在しないが、存在する。と、言う文殊のままに言葉を描けるこの奥深さや文性の尊びから満足を済ませていて尚かつこの一縷の信用を取りこぼされたことで怒ってしまった。頼りなんか、信頼なんか、肉体のその三角定規にはなかった筈だ。何を図っても解せないのはこれが理由だ。真実に穴を開けシヴァの用意を既にこしらえてくれていたことには認識する。

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  • 一息つかされた

    天神のその場所に誇り高く、挑戦をし、意志を確かめ。

     

     

     

     

     

    今何でも詰めるより、

    後世代と分かつ

     

     

    ほっといても明日が来るのだ

     

    この方が定説に沿ってる

     

     

    その間に精一杯、私らに努力させた方がいい。目に見えないが大人の方が大事で後にヒイテいる様に怒りが込み上げる。

     

    ナカマルさんのゆうこと聞いとけば良かった って、私も思ったことがある、

     

     

    同じ後悔をしない権利はあなたにはあるのだ。自分を治めて。

     

     

     

     

     

     

    太宰治の斜陽という本に、狐と狸の嫁入りではどうお支度が違うのか、と、戦争時代のその春と何でも咀嚼していく冬のような今を照らし合わせぼんやりと心を持つ、白くひかった曇り空を眺めている。美しさにグゥの音がしてる。

     

    霊獣。  スースーのことだ、稲荷系なので想像力のない今何の説明も出来ないが、この獣の字は蟲(ムー)と違って間違いなく漢字だ。

     

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