揶白 (KF)

絵画

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    菩薩とは、如来と違い飾りを付けているそう。

    如来とは、何か一つと云う。

     

     

     

    曲の皮膚のニウニウ猫、まさり君を如何とした

    女候、表し表し

    月がひくい

    とりあえず先言くで

    君の存在を「私」だけに、きき

    あなたが、すき

     

    「平面絵画」

     

    ところで、私には男性像と言うのがめっきりない。私はこの問題を解決できない、という納得で自分の女性像を手にする、が、あまりにもロマンチックじみて生活と云えばはかどらないので、エイジのdesignに焦がれていた頃です。顔の知らないマイフレンド。フライ・バードメン。愛で解決する気かよ。返してくれよ私の屍、と君の終わった恋、私の始まった恋の、共通点は平行線ではなく別れ際の空白余白である。もっとあなたに合わせて喋れるのに、と立ち止まるが、事もなく大澤と何処へ行くのか空を、見渡している。思いの男性は、よもやただの俺たちの壁であると俺たちは云う。思い出で百年生きるのだろうか?(キスミー・クイック/いくえみ綾)

    自分の女性像も最早肉体でしかない。

    大澤さんも苦しい。

    もつと精神的でなければただ女に食われるぞ。

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  • 末広がり

     

     

    色々な事を抱きしめて、

    恋をして、

    絵を描く。

     

    後はボンドの固まりを待つだけだ。

     

     

     

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  • 連絡ノート

    Re: OfficeSuite ウィン凅ドウズPCダウンロード

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    https://miruko.sakura.ne.jp/poem/mtsg.cgi?mode=review_view&mn=腹フフ春らるるぶ酒さ?ソヒラルら

     

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  • 作品を作品と命題するのも学識ですが、ね。男性同士は仲良くなれないのでしょうか、そうなら中性的になるしかなかったとはいえ、これは幸で、男性をナメられない。確かにいち男であるとしても、そしてそれが丸っきり「自分」であったとしても、世界の方、対自分の方が先に回るから、認めざるを得ない。

    「自分」なら、全く異性と付き合うのが平凡だと思うが(凡庸ではない)、思うだけで真實に触れない。

    「あなたは男性ですか?」

    そういうことも聞かない。

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  • 仏教とキリスト教

    仏教とキリシタン、

     

    国をかけて偉いことと、
    個人的に偉いこと。

     

    どちらも偉い、啓蒙しているからだ。


    では、二つに分かれている。
    哀しみ(佛子)の因縁が何か? 「問い」を埋めるように書いている。

     

     両者は先っちょが違うのだ。
     人が個人として偉く、其の中に、国、心、宗教への愛が溢れて居て、こういうこの方法での成功(此の前提を備えたのちの「成功」という意味に於いて)は、輝きがある。目に見えて
    輝きといえば、分からないところがあるのが日本だ。そういう特徴がある。人が国の思想の権化であり、そうあろうと云う事で民(ひと)に認められる。国の思想を頭にして、後はどこ吹く風か、詩情のあるようでないプライドが我々の感性的に治まりきらないので、キリシタンには上がることは無い。
     何故先に国を歌うかという、それは大人に成長した「私」が、啓蒙した「私」が、感覚的に、他の為を想うのである。
    不完全だが、他国の方、異なった宗教の方にはご了承を願う。
    此れも、日本も、持って生まれた貧しさだからだ。私は此れを隠し続ける。一見して宗教こそではないが、そこには、永いあいだ研ぎ続けられた「道」と云う美学にしろ何と解釈しても、考えが、これが光を持ち、私たちは集合したのである。皆様に輝きや想いがありますように、光に願うばかりだ。(祈りもまた磨きを入れられる道なのです。)

     

     

    何が愛か、いとおし。今一度。

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  • 今の「私」という言葉

    生き方には、

    押し上げていくやり方と、

    佇むやり方がある。

     

    いずれも上品であるとは、何と人を元気付ける。無私とは、人に安心させる構えで迎えてくれる。

     

    「私」と云う言葉を使うのは子がいるからです。ゼロ歳から施設に居て余り育てられていないのですが。

    まぁ、それにしてもあなた自分が子供の頃を覚えてますか? 傷つけ、傷つき、友達や日常の中で育った。

    それと、親の元気が何よりではありませんでしたか?

    自分はそれだけを考えて、例えば母子が離れているのなら尚更、子も親も想って居て、

    親が先に、経験と知識を持って未来をとっ捕まえてやるならば、自覚することは、子にも人間関係があり、一人じゃないということです。だから私は子どもたち、と云って愛しく思います。その次世代もあるんですよね、考えるとビックリ。

     

    タダ輝くと云う事が美しいかはわからない。

    誰か、何かへ豊かさを齎す光になりたい。

     

     

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  • 揶迫について。

    夢は夢だらう。

    いくら才能があったって、

    人が、選ばなかったんだ。

     

    悠さん、いっちょ哀しみましょう。

    宇宙の涙、僕が零します愛おしさ。

    ぽろんぽろんと響くのが、残った塊のことを、

    花弁一枚、幾枚、愛に

    あなたそれら映そうと思う。

     

    私も亦目を磨きたい。

    越えていく信憑を、

    驚いたのであるが驚くまで

     

    何のわたし達の哀えない事。

    知らぬふりをし、笑い合う。

    簡単に理解しないと云う事が、安直にもあきらめずに居て今だ不安だ、生きていたとか、壊滅してない、

    その事の「希望」を持って書く。いつものように、彼女から走って逃げ切る事に

    まだまだ立ち向かうつもりだ。

    生きていたとか、壊滅してない、その証拠としてそばにいて欲しい人がいる。

    悠さん、私は失敗をしますかもしれません。

     

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  • No, shake my body now.

    アメリカ人になりたくて、そういう形も行先も持っていないけど。

    ここはとても危ないのよ。

    厳しい所が嫌なので拳をあげずにいる、私の温度は0度。

    日本とは違う教えだった

    私らはたしか嫌われていた、そのうちそっぽ
     さほどそうではないけど

    嫌なことを口に出さずにいた(理由はない)

    目を閉じた時、私にも彼らと同じような事が起こっているかもしれない

    「互い」を言えなくてもその時は通じ合う気がした

    アメリカ史を読んでいる、孤独の文化であるのかも知れない、何せ一人で発言して行くそう云う積み重ねで、だからいう事が深い)

    温度的には、孤独はまだまだ合わない

    「孤独だといっても、あなたは癒せる」

    癒えない孤独と云っても、そこには荒野が有る

    日頃、孤独になれないアメリカ人が汗をかいてわざと長く喋る

    やっぱり、少しだけ言葉を交わして、彼、彼は、家に帰って行きました


    父に叩かれたら、
    何でも叶う気がする

    b'aby 彼の鏡かも
    my baby そんなことは云えないけど
    Bow! you  can use it.
    you can use it.
    器用に

    Knowing the love of others makes me sad.
    愛を知れば哀しくなるから

    Lady and Man, high voice,
    lonly, LOVE, ワイルドネス, good night.

    そこには始まりも終わりもない

    My shoes is Used.
    My セーター is Used.

     

    Will it you are close tree?
    be it, 

     

    yes. 

     

     

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  • 学問的存在者(レス・コギダンス)

    無について読書して居る。


    カント…「無の哲学Ⅱ」 福岡正信

    俗である
    時空が若し、純粋な思考の諸形式
    「私」の範疇であるならば
    時空を越える、とは余りあんまり夢のない事、
    一見して俗(ただもの)を超えていく

     

    俗とは、私に無を教えて呉れる(手におさまりきらない事から)
    世の中は、私にマイカラーを教えて呉れ、(色とりどりなことから)
    笑顔は、その色がどんな煌めきかを教えて呉れ、
    浮く笹(うきよ)は、私に明日を諭して呉る。


    ハイデガー「存在と時間」…実存とは 現存在は、みずからの存在そのものにたいしてさまざまな態度をとることができ、またつねに何らかの態度をとっているものである。わたしたちはこうした存在そのもの(ダスイェーニゲ)を、実存とよぶことにしよう。現存在という存在者の本質は、それが事象として、「何」を含んでいるかを示すことによっては規定できない。この存在者の本質は、みずからの存在を、みずからの存在として、存在しなければならないということにある。だからこそ、この存在者のよびなとして純粋に表現する言葉である現存在という語が、選ばれたのである。

     

    「実存は本質に先立つ」超越論的な真理、主題、一つの類のようなもの、普遍性、

    それでも本質を諦めたくない。


    「私」が時空の中に居る、と云う事がもっとも豊かである。時空を、其れをどの範疇で言うのかは、国々や思いによって違うだろう。
    我々、「私」の盲点として、
    知識は欲しがるくせに
    中国には 今だ「経験させてもらうには値しない」
    させてもらう、「私」はこの角度からささっと入り込まなければ漢詩を知り得ないのだ。


    アリストテレス…「存在は多様な意味で語られる」
    ハイデガー、カント…わたしたちの周囲を見回してみても、大地があり、樹木があり、小鳥たちがいる。これは自然の事物であり、生物である。さらに家があり、机があり、書物がある。これらは日常生活の道具である。これらの事物や道具がわたしを囲み、わたしたちの日常生活を作り出している。

    デカルト…「レス・コギダンス シウェ・メンス・シウェ・アニムス 思惟するもの、すなわち精神、すなわち心

    惟(おもう、これ、ただ)」

     

     

     

     

     

     

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  • 哲学に於いての良文

    今更ながらカントを読んでいる。

    岩波の篠田英雄訳です。

    大正七年。

     

     哲学と云や詩的な性格も備えているためなかなか思えぬ事で有るが、此方のカントを訳し切られたのちの前書きを信頼した、そうゆう事が書かれて有ったのである。

     

    (「実践理性批判」に初めて接する読者ドイツ語を知ると知らざるを問わずに、せめてこの訳書によって原文の意味をできるだけ忠実に伝えるに努めることよりほかに何ものもない。このことを為すに当って、すべてカント自身の著作からの引用とはいえ多くの注を加えたばかりでなく、しばしば訳者の説明句を挿入したことは、古典の翻訳としては確かに不体裁を免れないにも拘らずこれを敢てしたのは、読者が相成るべくはその時、その場で文意を理解するに便ならしめるためにほかならない。カントの言うように、哲学は哲学的知識とは異なる、哲学は学習せられ得る学ではなくて、我々はこれによってせいぜい物を哲学的に考えることを学び得るだけである。)

     

    カントのこの本は純粋理性へ批判されるのでは無くなんと実践できる純粋理性が存在する、らしい事から書かれてあります。

    一ページを捲って、

    私は対象を哲学そのものとして、「純粋能力は実践してきた性のうちにあるのだ、」と自己の哲学それへ噛み付いて云うが、やっぱり「誠に実践理性されてる事は、言葉としてフィロソフィーと云うのしか得るものがなくて、フィロソフィーと哲学は違う」と思い、若しくは実践する主体が日本人は其呼称を抱いてわざと逸れているか、

    詩に似ている若しくは分かれない事柄である、書かれて居る通り何故か哲学は行うこと、で有るから「する事、やる事」ではあり得ないのである。重くあれど軽くあれど翻訳亦、学問はついやせばこう、皆で纏まらない言を一列としてくれる。

    時と神を友にし。

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