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2022/08/28
私自身が立ち直ってきたことに、ムーは何も関連しないじゃないか。ムーを拝んだり、祀ったり何もかもした後、こう言える時代になって来た。
祀られたムーもいたんや、と内容的になって
笑ってるのは人。私は今日も年上のムーとか見ていた。
精神界。
仮に心の中を、もっともっと目を瞑って考えて良い、とは良識を大前提としていう。
心のわるい人を想定する。
自分が、親や周りに今まで躾けられて来たこととか解れないので、軽薄だし、そういった周りを無視した人とは喋れないと思う。省く。あなたが他人だと選んだこのめちゃめちゃ他人の世界があなたにたいして優しい存在ではないから、優しくして欲しいと感じるなら私なら必死で周りにしがむなど言って帰ってもらう。自分のことを認識してくれ、決して解ることはないこの水を告げることだ。他人のもとあるご縁を祈る水。そんな時間を、執着とか自意識がどんどん食ってヨボヨボにする。塩を撒く。だから「気が選んだらお帰り下さい」とお願いしている。本当に好きだ、ハマったは、また知性活動なのだと思う。世話はない。
お願いをする態度ではないぞ! と言われるその時、ありのままの自分の体とか供養そういったものが優先だ、何故なら道だからです。そうじゃない、と思えば自分がそうすればいい。「誰」がどこにいるんだ。私はその辺をより強く睨んで噛んでいる。しかと話せる人と話したとき、自分が修行者だと分かる。こういう世界の敬語と社会語は全く別なのだ。その中で、社会だったらいいのにな、人を苦しめる時間さえは許されている。頭がおかしいから普通に頭がおかしくなる。
人には噂が有るのだと思う。最悪の人とかよく聞いたけど、例えば全く相手にしてないのに指示を無視して「私が!」と押しのけて行き、良い顔をして、その裏で人の希望を横取りしている。哀しみを忘れたい人の空気に乗っていつまでもいるが実際自の悪さで喋ることが出来ない。こういうどこに残りもしない噂のご本人が何とムー。ムーに苦しめられて食われて来た人はムーにしか見えないので、こういう辛いことを、正しく人に伝えるのもめちゃめちゃ高度がいる。ちゃんとムーに向かって怒ってくれたらと不意に思うがムーは地球と逆走するので必ず公正しない。全く相手にしない人の考えは正しい。だから、ムーに「(食べた者を)吐きなさい」と唱えるのが望ましい、本当だと思う。ムーは、必ず自分自身がわからない良い所にいる。例えば祟りなどは、その字通り必ず知性が起すものなのでムーは必ず起こさない。起こさないというよりは、起こせない。祟っているひとの前に自分事として虎の威を借りたムー。ムーのいないその昔、性格ぶすが駄目だとして、排除したそう。その後「ぶすはどこだろう?」として笑いを失い虚しくなった町がある。性格ぶすはまだ何もしない、しても受難であるが、ムーは何かしかしないし、天国に行こうともしないまして地獄にも行かない。
だから、ムーがもしいなくなるとすれば、私や人に変わる勇気があるかどうかだか、ある、と答えておく。後悔しても良いような気がする。
家を、部屋が散らかる時はそのままにしている。色んなことがあって寝ぼけているのもある。常識的に何も持たず、ちゃんと自分の息を詰める綺麗さも有る。私自身がこうじゃないと、他人の花ばかりを言ってられないことと、そのままにしているのは占い(まじない)である、こういった自分の勉強の大きさがある。
と、言っていたら何もない部屋を作っても良いのではないかと言う事に気付く。だだ、あの時に悪い人に見られたくないのは今もそう思うからそんな心の動きがある。自然だと思う。もとからそう有ることが精神だから。
人に、自分の心に相談することだと思う。ムーを省いて考えなきゃいけない。
箱に入るような覚悟は一般的に完全にあり、お告げによってその中ではないこの中というのが有る、を知る。
不意な視界を許さぬこと。
精神界を喜び楽しんでいま す。 目上の人などの存在も
精神などで気ばかり強くは
なりません。
伯父などをみて人生にたいする味の方がより高いと思 うからです
霊の勇気に感謝するとともに祈りの取り組みをしてい ます。
(何に何を祈ればいいのか、こういう自分はボケているのか、その意味がわかって来ました。)
もっと身を任せられるようになりたいです。
トラウマを直す為に生きているというところがある
課題としたのは人間の力
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2022/08/28
メディア、客観性の登場。
意味ある煩悩
「風姿花伝」を読んだことがあるだろうか?なぜ、能に傾倒するかというと、自分より国のことをよく知ってるからだ。国が、自分より自分のことを知ってるからだ。
自分の「顔」を、見せてもらえるのは三十から。
メディアは、戦後生まれた有る社会のこと。そうして何が自分にたいして生まれ生きているのかメディアとはつまり、客観性の登場である。
意味ある煩悩。
テレビによってヒーローになれない自分(自分の理解者)が現れる、
主観的でなくなった。客観性が高くなった。まず、論理が良い悪いではない。そこまで行き着くのに必要な忍耐を敬う。
足して必要なもの→口頭で自分の物語を語れるような優しさ
メディアと共生して行こうとしている。
ヒーロー
自分の歩く中で、いちゃもんを聞き通す。これだけでも格について学ぶからだ。
意識の高さは良いことだと思う。得た客観性は気高いと思う。両方をやって行くのなら、それなりの勉強や、年寄り、年配との会話が必要だ。十才下は、生真面目に生きていて確か競争がなかった筈だ。
姿勢とは、熟考して譲っていってはいけないんだと思う。受け入れるなら、その渦の中に投入されてあることだ。何かで噛み合うことを習ったり、横の関わりでももっと熱的で、鮮やかな富が有って欲しい。では、色んなことを譲ってきた中で、優しく出来る上の世代って面白いんだろう。そこに自分とは違う所がある。
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2022/08/28
問題は、私がこれらを勉強して知ったのではなく静かな日にネット詩などで拾い集めた言葉ということだ。自分が興味を持ってわかったのだから、人も意味がわかるのを解るのであり、わかるとこが、神妙だと思う。私の偶然が、人の色んな順序を守っている。
名の話(神)と無名の話(仏)の間と言う、ここで自分にも主観があるが、外に向かう客観性では煩悩がある。
釈迦如来など、
聞いて喜びを光を、目指していくが、
一直線では自分自身のことが減りはしないだろうか?
同じところに行きたいのであれば、同じくらい厳かでなければいけないのではないか。
今にも、聖く記述する人有られる、
私とは方向を示す。
昔から優秀な人がいるとして、
人を比べることすらやめ、お喜びになられる。
人と比べ、そう生きて来たのなら、あなたはかく在りし仏だろう。
その為にちゃんと生きているのなら、あなたはかく在る仏だろう。
それについて喜んでいるはずだ。
仏道をこう解ける、進化だと思う。
無心の熟知について、無にたいする「点」の違いが三界に有る。三界は国のこと。
「顔」についての美しさに縁深く点を思い
「線」は、「私」を切り分け走る者である。ムー
「次元」は、その奥。そう認知する「私の内側」に有る。
それらは、時間に「面」している。何か流れの在るものに面している。
ここに怒りが有る。
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2022/08/28
音の高度とは、
信じる力とは、
何か憤りのある中で光の言葉を導くこと。
「素晴らしい」「愛します」とかでは、
現存する物事を、くつがえしてしまう。
闇の中で心の奥底から生き、
これが、光を引き出す。ということになっている。
目に見える光にならなくても良い。
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2022/08/27
どうして罪もないような人が人の為に手を汚したとして、挙げ句罪を被らなければならければならないか、嫌だと思う。
悪すぎる人なら、その人たちがいつもより早く自を食う、言葉も悪いが、私は同時にこう考えることに気付いた。
想像すれば、私は一人でお願いごとをしよう。
私の想像力は、使えないだろうか?
あと、とても大事な相槌を思い出せた。清潔とは、自分が理解していたら心の中でさえ整えられる。心をよく考えて来た、感情があることも、面があることも。この「心の中」も、私の想像力を使えないだろうか。日々願う。
やっと思い出せた。
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2022/08/26
自分の体験をするために自分以上に客観的になれな いが、そこで大きく苦くもうと思い十字信仰でも行 われている。 罪の意識。 痛みを緩和するのは知恵 出来ることをとにかくやらないと神が 「見えな 」 出来ることをしない回避として自己肯定があ るのかも知れない。 神、 何に足もとを取られるか。
気迫、こうなる苦しみについての慣習がないことに ついて、どんな精神的文化がありますか? 気迫の苦し みなど、 またこうほぼ一緒に聞いた時、どんな学習を されるのですが?
自分は精神的とは、単に穏やかに話すこともそういいます。 ざっくばらんに言ってしまうと、刀の技が、目立って挙がりますが、 こうあることの祈りで、 もともとこういう目的を持った修練なのだ。 修練や努力家の大切さが大きくなって、 だからそこであなたが努力家なのだと察してますが、 見えないこととして感じ取ります。
精神の概念がこのように何とも分かる。 キリスト教の精神神秘について、何となく感じるようになったのですが、 信じられて来たことが長い為か、 私の方は怖れを感じないでいれています。 少数の恐い人間はいます。 老いが似てるのかも知れません。 アメリカは若さについて丈のある国と思いま すが、向かわれたりしないのですか? 自分に品がない 自己解釈の仕様、 野で働くような気丈夫、そこに立って、自分に近付いてあげる程、 他との接し方や話す事にどんどん気付ける。 マイペースという類いまれなるスピード、 光によってそれは行われる。
自分に対する取り組み、こういったものが)
知り合えないけど、 お通りになる、お休みされる心の喜びと、新しく自を知る興味で一杯です。
自分が怖れない、知ることの出来なかった存在にたいして報いる為にも、自分を変えず出来る事を増やしていく俯瞰出来る心を自他かまわず育てていく。そういう風な考えです。
負に面した場合、選択する自信は歩数を覚えています。
今日わかったのは、私の国というものの位置からして、極東の端にあるもので、また長寿の気質があり、自己経験(他に向けた、何かアドバイスの出来る)としてあるのだと思い、前向きに捉える事が出来る。それを、他に向けたアドバイス出来る自分自身という希望。教えとは違うもの。
豊かな野菜としての説明、自己表現をするだけで十分なんだ。人生、に近付いたらまたドラマが繰り広げられる。
忙しい。
昔から日本にて隠れキリシタンがいる。キリスト教は、当時としては特に他であるがそこで要る、必要だと思われた心の関係性が人によるこの考え。深い意識で実際触れ合ったと思う。和はまた何でも混ぜるのではなく、空気を読む、身を引く、理知して和するという。大変な罪の話を聞いた。大きなものに目を大きくして、自分から離れた生き方をする。本当に悪い人はいるけど、その中のその奥の人。小さな声や、小さな言葉。自分以外を生きるのだから、記憶がわるくなる。物事を覚えられない。
他を消しきって生きるのだから、しかし、許されているのであり、また「私」も同じくして痛みを享けることに尽くす。もっと海に身を許し「悲しい気持ちはいらないよ、僕は君の笑顔が欲しいよ。」と、御前に歌い知恵を絞れる喜び。自己が歌いたかった感情を振り絞る。利器がある。人に力があることを感謝する。
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2022/08/25
天井といっても聞こえが良く ないが 仏界はまた頭の上に 有る。
虚空蔵菩薩から聞き受ける
善と悪 ではなく 善と地獄の地が分かれた 釈迦如来は こうしたいと云われた 仏を蹴り落とした。 躾けをであった。
依って(難読熟語)
こうしたいと意思を同じ所から 蹴られるムーは悪であり、 名前をムーと呼ばれる。
その仏は、地で笑われることに喜びを信じたのだ。 私は自律があると知る。
これは、良い! と思うこと 有って、
そこにムーがいる
調子を横倒しにしてやって来た
ただ自分のいうなれは犯罪を
背負ってどこかに運ばれている
胸に手をあてたり、見回しても、
わかる。 頭を下げる心の清まい。 忘れなくても、もう大丈夫なん だと わかっ た
紙垂
自分が自分の手を加え 頑張って来たから神も頑張るん だ。
ムーは平気 平気で生きてないここに来て 知能がないのはおかしい
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2022/08/25
守護霊、私が何を望んでもあなたはあなた方のどうしたいかのままだと思います。
あなたは、吐き気のする重さの鞄を背負って来た自分に自信を持つように、ただ人の嫌なとこを聞いてみる力を私に宿します。括弧な滅ばぬ霊性とする為にどのようにしたらいいですか。
「人は人。」と仰います。
私は、己におののくのではなく恐怖を恐怖することを人に伝えたい、精神的な根性を。
これは私がこのまま霊媒としてずっと活躍する覚悟のあるという意味です。
最近頭の上に仏界があることの光をみました。
失くしたものが、出てきた。絶望と失望はちがう、失望は失ったから前者に比べてはまた戻ってくると聞いたことがある。全能というムーの試し方。努力には一切いない、なにかへのハマり方がだらしなくハマって出る気がないのは引き篭もりだ、努力を常にその外側からいていじめてくる
ムーを、人にたいする言語を喋ってるムーが普通に対等にいた人であった自分の覚えの正しさをいつも思っていた。普通に対等にいたをしらばっくれる努力をこんな微妙なことを必死でしてしまうから信じられない。
仏界にムーはいません。単に犯罪者のたましいが運ばれているのを見ます。
ムーを正そうとする人は出てくる。
心の手前では、自分にたいする優しさや感謝、その為に自他を肯定しないそういう気持ちも必ずあります。
しかし、
憎悪がある、ムカつく、嫌だ、という意味で私はムーを「犯罪者」と言って人として拒否しています。
ムーが表面上学識や、技術を持ってもそこにいるのは必ず他の霊や神で、本人がよく見えれば価値のある高さはありません。多分、昔悪いことをして約束を破ってもう一回している。
デプはだめ、ハゲは運命、というチラシを見た。
欲の分、ちゃんと運命をつけられていて、知能を覚えられず アリバイにだけ動いている。 すぐに心もなくなってる。
横形にしようともコロナで非ない 何にも成さえしない。 自己形成なんで汚ないと思う。
長いあいだ、「お前はどこ?」かと 聞かれた。どっと流れない涙 買いた。 涙が体を要埀ななかせな その時が見れなくなった。
欲の分、ちゃんと運命をつけ られていて、初めからよその となっている。ここに来てそうまる 知能を覚えられず アリバイにだけ動いている。 すぐに心もなくなってる。
横形にしようともコロナで非な 何にも成さえしない。 自己形成なんで汚ないと思う。
長いあいだ、「お前はどこ?」かと 聞かれた。どっと出ない涙が貫いた。 その時、神が見れなくなった。
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2022/08/25
少し強くなりました。
最近の観察
出来るとこまでの繰り返し
ムーロを突きだして いた、その後から脂に乗っ ていた(脂に乗る... 物事がは かどる)
嫌がる事をする、つまり誰 もしないことをして「かっ こよくなった自分」に興奮 が止まらなくなる
人で居続けようとする場合 は 何か出来た自分に興奮する、ここが違う。
前者だと、 耐えていないこ とになる。 かっこいいこと の、精神的に耐えていな い。
・しばらく苦しみを楽しむ (自分の明かるいところ)
・ムーを離さない努力
(ムーで起こる多少の出来事)
動けない、金縛りなどによる人前での精神の弱さ
自分はそうじゃない、 人前にそうでても堪え忍ぶ
という意味で自信をもつ
「私の意味」
私は普段も生活しています。そこでわかったその時の自分とはを纏めました。
お不動や仏を見て、卒倒してファンになる、こうなるよりも、 奈良などで古いその建造を 実際見て
天上界の人と自分の違いとか、フィギュアを買って慕う
私は、声のでかい者としてこれを教える必要がある
同じように上記をこう考えてる人は居る。
天上界といえば神が何か?ここでは
自分より物事を知ってる人と例えましょう。
彼が言うには、人ははみ出していても考え反省する為よいそうです。
考えることが適さない時代も、考えることが適す時代もあり、そのどちらにもいたということと、戦国など忠義と言っている苦しい日々は今もありそこに生きている自分として、色々悩むのが無駄じゃないことを感じています。
色んな物の理解が出来て安心する時間が増えました。
「緊張感は安心している状態 から作り出す
お年寄り おばあちゃんも 言いたいことを詰まらせる が、ボケてたわけじゃな
い。
これからの人が知ること と、ボケないことを祈る
これを前向きに取り組んで いける、」
守護霊に祈る、それは本当の味方のご先祖様。
体が痛いけど、 見る、こう一本で見れるの
なら
ただこれが仏に起因する眼 識を磨いてることになる
そういうスケールが自分に ある
「これからも続いていく取り組み」
聖と同じには立てない
この自戒が大事だと思う。
尊敬の意味と今自分のこの持つ気持ちと バイタリティを家で祈る。
有るものの感謝を込める。
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2022/08/06
この枠の中で霊質を磨いて、この枠の中でしか研(と)がれないから、
危害のないことの美しさ、
万力を考えられる。
これが出来る。
あなたが、あなたの心と対決していなければいけない。チャクラやグラウンディング、果ては先祖との会話を知って置かなくちゃならない。
僕
ヨガが、体にほぼかならず良い、
けれど、本当に裸足になって、
自分の住んでいる土地の感触を知っているだろうか。
あなた
天になり、いちからコンクリートの美しさ
此のここに出(い)ずった自分
この自分自身の魂 を、
感じたことがあるか。
強さとは何だろう?
単純に強くなりたい、と思える事がある。
気持ちが光に偏ったり、
このように高齢者になると、自分さえ忘れる。
強さ、
神の力を持って居ても、
地元の公務員の人の方が上に来る。
強ければ強い程、そう有る。
外国人は、「パワー」によって、闘い瞑想をする。
ここで量を、考える隙が無いから
人が好く。
この枠の中で霊質を磨いて、この枠の中でしか研(と)がれないから、
危害のないことの美しさ。
この万力を考えられる。
澄んだ目、清さ、
万力を考えられる。
これが出来る。
気流の話をしよう。
ゲームで見た、自分が自分の手から火が光り、
破壊もしくは、その相手を包んで気絶させる。
人の心を打つなら、
あなたが、あなたの心と対決していなければいけない。チャクラやグラウンディング、果ては先祖との会話を知って置かなくちゃならない。
ヨガが、体にほぼかならず良い、
けれど、本当に裸足になって、
自分の住んでいる土地の感触を知っているだろうか。
天になり、いちからコンクリートの美しさ
此のここに出(い)ずった自分
この自分自身の魂 を、
感じたことがあるか。
鳥になったら、
体を見渡して、
体の動いていない部位、動けない部位を、
優しく触ってみよう。愛は、
学び取れる愛が、ある。
だから、身近な体に触ってみる。
「私の知らない先へと行きなさい。」
私の知らない先へと行きなさい
人が、意味を背負う悲しみだったら、
「本」をこれから読むあなたの ここに、
無条件な意味
心に意味があるから。
私は、心と聞いて
〈悲しみ〉
漢字でありますよ、あるがままの豊かな言葉
が、 サガンや時代の歴史を静眼するのです。歴史はお前にただあるものではなく生きているお前に向くから、優しい死を考えない。
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