揶白 (KF)

絵画

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  • 倭国

    倭国は、古来の中国人が呼称した「日本」の名前だったんですね。
    弥生時代、紀元前150年倭人が漢の王朝に朝貢してる。
    七世紀まで、日本でも「倭国」と称され続けた。
    二世紀に日本で紛争が起きる「倭国大乱」
    それを卑弥呼が王になり鎮める、
    これは不思議ですが、そんなこともあるっちゃあるでしょうね。
    ちなみに邪馬台国は九州にあったとコテは考えます。
    大阪人からすると九州は豪酒、豪快など花があって、王朝は、いいな、どんなんやったんかなと思う。ずっと歴史の長い所だから、雲間に降りて筆をついやすのだ。
    それから古墳時代(大和時代)とほぼ同時代が七世紀まであって、
    飛鳥時代およそ700年頃、難波京があると言われているが囲って本当は奈良より最も以前の最初だ。
    大阪もまた大和朝廷のくだりがあり、邪馬台国の噂があるが、このことだったと思う。九州の花をつまらないとそれぞれ思うのはまた大和朝廷のせいなのだ。自分たちを称えるこのスピードとしては、いまでもよく感じている大和は、滅んだけれど、踏ん張ったのがずっと今に残る。道頓堀はよそに行く海などに繋がっておらず、貝や魚は街を歩いているのだ。川はUターンして住之江の工場に旋回し、海遊館の簪を一等付けて、翡翠の湖だけを呑む。阿呆も同然、だかこの気の確かさ。しかし自分の「死」を笑い、しっしっしっ、と言って詩に強い。対して王朝は苦労と云うよりは、


    男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
    その風俗は淫らではない。
    男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
    着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
    稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
    牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
    兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#弓の種類参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
    土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
    家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
    人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
    倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
    特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
    集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
    敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
    長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
    身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
    女は慎み深く嫉妬しない。
    盗みは無く、訴訟も少ない。
    法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
    宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

     

     

     

     

     

    このように洗練されていたから凄いのだ。つまり、仲間、家族、自分たちの理想を行っていた。

     

     

     

     


    自分たちの理想をもうやっていた「ハイカルチャー」とはここにあるもの、自然体な自分と一体なのだ。密接に生きていたから犯行も「盗み」までで「殺人」の考えがなく、私が木を走り毎日生きているとしたら広大な自然に包まれた運動神経や直感は、私たちは理解出来ない、祖に近づく為にこの足から頭を柔らかくしなくちゃ話が出来ない。どちらかを選んでいては自分が本来展開していた思考の勉強が取れていないから動けない。
    大阪の古い文献には、「酷摘み」という難しい言葉があって、自分にたいして一つの不幸を担ぐ、という意味。
    「上方」は気が優しく、温厚だ。
    その抵抗として気を強く持たなければ潰れやすい。黄、黒、黄、黒、繰り返すうちに偏ったバランスが直った所も多い。

     

     

    私は字に惹かれて古書をよく読むのだが、
    江戸時代とかだいぶ、筆で書かれた古いものだが俊越なのは、自己日記と計算を足して合わせ、お洒落に書いていて慣れているのである。漢字が躍々してて綺麗。
    秀吉の大阪城の蔵には書物が何万冊も貯蔵されてあったらしいが、見ず知らずの人に焼かれた。

     

     

     

     

    上方文学は、難波京後の平城京にムーと悪いやつらがいて、中臣鎌足(リーゼントを囃す様に帽子の丈か一番長い、不良のトップとして、ヤンキーとタイマンする)が打ち砕いた。ほほんとした平安時代(貴族社会)になり、歌も万葉集ものから意見箱になったり、意見箱であるから意見もあった、その意見に意見もあってこれぞのほほんとした鎌倉時代(手出し無用の武家文化)の夕映えとなった。その孫が室町時代で、しゃんとして頭を隠す、しゃんとして帽子を与えてくれる、しゃん、しゃん、としてたらこの夜更けは、戦国時代、そろりそろりと面を被って素通りの、捕まらないようにくるっと袖を立て、吉と出るか凶と出るかぶっそうな所。真っ直ぐ進めば、漆黒の江戸時代。三百年の平和はお手のもの。あかん、波、あかん、波、刀はあかん、と帆を立てグッパイを言った「誠」だね。明治時代、清少納言の色気さ大日本帝国。ツギハギのある、「私」の生まれた「町」だぜ。誰も人なんて忘れていない、あるのは思想、ドイツ曼荼羅宇宙の端から制覇する。と、思って何さ、ある筈のない戦争時代だ。菩薩も精神をお隠しになったんだ。をな、ある筈がないんだ平気でしていた馬鹿が。嗚呼!これムーだね。パラリラパラリラの尾っぽより、大正なんて言えねぇが、言えねぇから間違いだ、不正解だ。不正解から生まれてどこ来るんだ昭和時代。あっち行けくそばばあ!

     

     

    良い匂いの文具にこの心恋に落ちたことがある。【悲しみ】とは「私だけのことと違う事」である。自分ばっかり言えない心の響きが「かなしみ」として鳴る言葉になる。
    難波京のその頃、私はどうしていたかと前世なるものの思いを巡らす。
    その頃いないよ、と霊媒師のおばちゃんが云うてたが、なんか動物とかでおりませんでした?とごねて、「かもしれないね、原子はここにあったやろうね。」
    虫かも、蟻か蝶々だったのかもしれない。悪い虫で蜘蛛に食われていたのかしら。

     

     

     

    小枝を積んで、二宮金次郎。松明(たいまつ)を知り、車の速度を加速させる今の人。

     

     

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  • 九州

    九州には都があって、正統なことからこれを考えます。

     

     

    蟻 昨日気の良い所と話し、私どもが死の町の出身であること、良い所に行きたいと考えながら脱出を試みているうちに文章(し)を連ねながらお腹一杯になる一生のこと。あと、私たちを殺した僅かな犯人たちと暮らして修羅場を毎日感じています。誠の名前を雲中と言います。雲の折に公正してくれればという天の祈りもまた天神に天秤などありませんから人もまた人。故に己が下している間に何かせい。

     

     

    蝶 満足していて明るいカラーで表すことが出来る。こういう風に言ってしまった時、蟻は苦痛を持たせるが、蝶は飛べなくなる、、と思いきや蟻にもなる事が出来る。くるくるの触覚が(精神的な)権力であり、識ることで翅を大きく広げている。

     

     

    蟻は、風に強く

    蝶は、風を楽しむ

     

    風は、欲がなく軽いから適当に飛んできて欲がないから服の切り返しが早い。梅ラボさんはそれを応用してパターンを繋げた人。

     

    歌は、私たちは笑います、という事です。可、可、欠、と書いて古いものですが、何の実りを伝えたいのです。

     

    お洒落をするでも、好きなことをしなければ述べ手になれない。

     

     

     

    見かける私は大体この姿

     

     

     

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  • 言葉を人に手渡したいです

    言葉をより良い形で伝えたい。縁が何かとか、それよりも縁を養うをその有るなし慎ましさや、

     

    今日話していて、私に教えてもらいたい人はおる。とはっきり思い出し、日々、日も夜もない角が落ちた世界では、インスピが起きないから、「縁」がある皆あるとして葉先で意向をぱっぱ変えることなく自分の最も良い形をさぐろうと呼びかけ合った。要は、もともとをもっと伸ばす。

     

     

    そう思うと何かの悪い縁で普通のブスではない人をもっと伸ばす!となる。

     

    「もと」があって、今がある。このもとを信じるのだ。もとを信じる気持ちを強ければどうだろう、何が足りなくてどこに動けるのかがわかって来る。出来ない自分として現れるのも自由だし、そこから達成に向かう思考が作れる。

     

    来世があるなら、この人と同じように顔面的には自分も真っ平らに生まれたい。自分の意向を通すばかりでなく全体の人がもうちょっと天に近づけるならと思うと何億年もかかる、釈迦が完成していない事の説明になっています。

     

    こんなものを見た。エウロパという木星の衛星である。

    私やあなたの、ムーに付けられた傷ににていないだろうか。「あなたは私を知っています」とか、「どうしたの?〜」とか思い、見て癒やされる。

     

    未来を小さく見るのか、未来が小さい大きいではなく自分と同じように見ないのか。小学校で揉ませないのか。傷付いた時にただそばに沿っていないのか。悪いと思わない孤独の自分や、考えを「教え」てあげたいと思わないのか。子供に次世代があると考えたら、自分が母子、父子の追憶の中で、親はもっと自分で良いんじゃないかな。自分だけで、白っぽく纏める必要はないゾ。

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  • 愛について

    力について

     

    結果、神に近いところに住んでいたかも知れない。この私、伝達クンと、聞いた人がそう日々考え邁進したら過ごす誤差だけになる。

     

    私の飛脚が神がかっている。これだけで、いくら菩薩をはかってみても私と実際に会ってみて「仲」の現にあるうちは偉さが必ず計れないように、菩薩をはかる、特異な試みが在ったのはあんたであるとなる。飛脚を持っても格調は人として初めから失っていることなる。仏道にして「我、一国の王」と説くことばがあるのである。一国とは、私の精神、私の体、のようなこと。ここで、何でも分解してしまうような狂気の「閉廷」を目的にすることと示しがついた。

     

    示しがついた「私」という養うべき社会語とともに有りて無い「心の中」を輝かせる。心の中、ここに内的外的として外部的客観性が丸っ切り無い。開けているようで全く疎外もしてるし拒絶もある。心の内には客観性が有る、心の内とはつまり自分の友達や「家族」には何でも話すのである。人の心自身をコンサートホールにしようなどとする自分の願望ごみごみ未消化の呪いのたまもの生モノは、力ずくに押されてぺしゃんこになり見るが、覚えとけよとなる。何も「私」は浄化レーベルではないのだ。何の心も繋がらないめちゃくちゃ他人は、一億年先もこのままだと諦めて納得した。

     

    愛について

     

    優しくなりたい心と言葉の関係とかつまり芸術を学んで、かゆいところに手が届くようになった。何の変哲もない普通の人だ。美意識はともかく。

    だから、詩語としては「自分を神だと言うには早い」とある。人に親切に出来た事は、一片にあるが、私を含めてしたいかしたくないではそうしたい人がいる。私は、この為に自分の正直にたいして緊張している。

     

    仏道的天才なのだと思う。芸術では自分は秀才が良い所だとわかる。芸術(ことばのこと)をそれを真面目に学んでいたことで花開いたんだ、と伝えることがある。こう言ってみて、自分の大きさが確かめれた!

     

    生きてる間は、ムーを「止まったもの」とまで意識が向くように自分の心を動かせればいいのか、と思います。

     

    あなたの見たもの魂が、体あってこそなので自然です。飛行せず、知らない人について行かず躾を守り、震えるときに震えて、感動すべきことに感動している高さです。

     

    ムーがいる中で、悪い人(普通の悪い人じゃなくて、何の思念もないのに嫌なことばかりしてくるようなわざと)には別に怒らず元のキャラクターへ。

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  • 歌舞伎絵

    この、どんだけ着るんだろう感。これが大切だと思う。

     

     

     

    貧乏人のヒーロー

     

     

    座布団が翼にもう成っているのだ。これを構えるのだ。

     

    この美し方。観音と手十分。

     

     

    色合わせではなさそうなのだから、むしろこんな風な何でもかんでも見つめて前を見る大人になって欲しい。

     

    私はこんなお洒落を普段している。中に赤をあっさり来て紳士と遭遇する。コロナ禍でも服は迷って着ている。

     

     

     

     

     

     

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  • 彩色

    闇のバランスの取り方が難しかったんだと思う。

     

    ムーで知能が遅滞したし、そこで出来た細い道は人が発展させたし。

     

     

     

    闇を光だと言ったらたちまちムーの顔に。

     

     

    闇は闇であるが、黄色い月とか、湖のほとりとか、ゴジラとか、毒になってしまった僕とか、優しさの方である。

     

    昼型の人より高彩色なのは何でだろう?兄とフランス人に聞いている。

     

    黒でも、ピーチブラックやランプブラックがある。無色を表すのは、桃の実を焼いて作るつまり生活に身を溶かして行く人の魅力のことだか、有色である事が自分には「無」と説く人も多く、正道を何度も確かめながら言葉を集めている。燕の巣作りに似ている。丁度もともと気のよい燕が春を感じているみたいだ。無欲だ無欲だと言って、巣を払うような悲しみのないように。僧ブラックの人も、悪い自分が想像出来ないと子供を正しめるなんで出来ないでと言っていた。

     

    伯父とかお年寄りは、はっきり言って表情が有る、感情が多い。愛しい気持ちと怒りがすっぽり手の平に入ってるらしい。こちらは巻かれるのが仕事となっている。

     

     

     

    兄が最近蛍光色を軽く持っているが、あれは明度が高い、と言う。仕組みなんて聞いたらあっさり教えて貰えるだろう。持つものが少なかった年数だとか。

    アッテル思考は羨ましいけど、真似をしたら自分は何ににもなれなくなるから。結果、よくわからないものを何となく積んでいてごちゃごちゃしてるが、これが要って、掃除機的なアイテムやフルモダンな家が却って要らなかった。

     

    こんな動画がある。https://youtube.com/shorts/U1kB8wfmt5c?feature=share

     

     

     

    怖ろしいおじいちゃんとキリスト教の若者の姿だが、自分が観ている演目のタイトルが「極東」と娘と韻を交わしていた。

     

     

    キャンパスでしかも油絵でいっぺん描いてみ、とすっぱく言っている。あれが上手いとか判るのだ。大地を千年続けTシャツを着ているアッテルの色彩感覚は、シャガールやマチス、パリコレを見ても分かるように手が届かないのだ。しかし、同じ時代に生まれてお揃いのようにTシャツが現に着れている。オーバーサイズで十分「こんにちは」を言えているから気に入ってる。そもそも着物は、昔は花魁でもないのにこんな風に街では鼻血が出るくらいの色めきがあった。https://www.google.com/search?q=%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E%E7%B5%B5&client=ms-android-zte&sxsrf=ALiCzsaQcjH7S68wwCSOoI3gHlUoEobWpA:1663682378234&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjsubHpw6P6AhXMGaYKHUAqBR0Q_AUoAXoECAIQAw&biw=1121&bih=2002&dpr=3#imgrc=3a-aLm6ql-G_yMそんなものはくだらない、と戦後は蔵に消したという美徳だけが要ったらしい。騒がせてすまぬ、らしい。

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  • 天の養い

     

     

     

     

    前回の日記とは丸切り関係はないが、陶器の柄を見て繋がって行った話を発表したい。

    格調には気品があり、この言葉はともかく「格」の話になってくるとこれはもともとあなたの頭の上にある仏界の話なので、理解や集収は出来ないこととなっている。

     

     

     

    物事の理解は、

    「何となくわかる。」何となく、このぼんやりしている時間が大切でこのまま頑張って行くのである。

     

     

     

    十八代目中村勘三郎さんのお皿、これが欲しい。花だと思い、エを思うと歌舞伎の精(お皿の主という)にバウンドされてここに持って上がる。

     

     

     

     

    青花。

     

     

     

     

     

     

    青を青のままこれだけ書ききってる。と、思うと凄い。

    句がある、と先程の歌舞伎の精が言ってた。見物している。

     

     

     

     

     

    青花の、これまた繊細なものです。私の強さとは違います。

     

     

     

    そもそも今から「私たち」の話をしますが、釈迦ではなくどこかに格が降りていて陶器を教養として見つめることが困難です。

    この狭い中に汲々に押し込める桜をは可笑しさと彩色的な希望があります。毒にしかなっていないのは、ぼーっと口を開けて生きてるか単に力量がありません。

     

     

     

    私は目を悪くせず深い青を見つめます。

     

     

    私はこれが一番好きです。

     

     

     

     

    こうされたことを覚えてるけど、ぼんやり月の様に思い、気持ちが宥められるのです。

     

     

    ですからこれくらいを取り、取ったら取ったのこの風情を心の楽しみにして居ます。この色からそんな心が光って来てうっとりさせます。

     

     

     

     

     

    これらを全部括って

    親父の心をも咲かせておる詩的おじいちゃんが私たちにはいます。

     

     

     

     

     

    道頓堀の様に見え、あれを湖と説きます。貧しいのです。

     

     

     

     

    ほんならこうで良い、と「はは」は云います。

     

     

     

     

     

    それに続いた迷う歪みを描かれます。

     

     

     

     

     

    これらのお話でした。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    おじいちゃんしかこう持つ事は出来ません。

     

     

     

     

     

     

    「わい」らは覚えます。

     

     

     

     

     

     

    桃のこんな日でした。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 長期に渡るミステリーツアー

    彼が、大國主を殺していたとして、

     

     

     

    一角が、

     

    隠れるところを目掛けて

     

     

    勘違いして生まれて来てる

     

    から、ここに来るのが偶然じゃない。中国人が、「中国人〜」というような人も中にいる。到達していないのに、到達しています顔を平気で崩さない。

     

     

    自分たちが名乗ることはない

    (地平で単に仲良くしたくないと思ったから)

     

    詩的言葉として、中学でも三年馬鹿にされ、高校でも三年馬鹿にされ、大学でも三年馬鹿にされた。

     

    「馬鹿にされる」はっきり言葉になった。

     

    (高いもの盗りすぎて)

    気がつっぱって

     

    すっぱい汗(見た感じ)のやつら。

     

     

     

     

     

    こういった古い日本の陶器の欠片である。顔を見たら漫画でしか見たことのない驚きのブスだった。ムーよりコミカルだった。これは、何とも戦術の光だった仁徳はんの作った不思議なラビリンスである。

     

    (ムーは最初から自分を昔の偉い人だとしんじたまま仏の顔でもなんでも良さそうなものを精神力のなさ故に無意識的に力の限り盗んで来るので社会ではトントン拍子があり逃亡を達成したらそこから自惚れのほうが美味しくて精神力がない故に一度の反省もしないまま必ず帰らないから衰老するまで一見誰にもわからない。)

     

     

    一方、ある辺はヒーロー気質な人がある。話すだけで「私の毒」を抜くテントウ虫である。

     

     

    テントウ虫は、他人のあらゆるものを取らず、赤くなって慎ましくしている。秋祭りがあるのでそっちに息をせいている。

     

     

     

    そいつは、ムーより上くらい。前には邪魔があり、八方とは時間のことである。それを消して考えないから「無」という在るが表される。無がなにか高貴なものだと話して来た上で人が一度無格なら、マイナスの話を加えると世の中の闇である「人間失格」が明らかになる。このラインだけを説明すると、言葉の尻をはしょって社会生活をし、行き先が上下運動しか残っていない。「(優しい、面白い、高い)ウケる、自惚れれる」の2点張りがひたすら続く。定型文とした優しい、面白い、高い、に及ぶ肝心な思考が本人たちをよく見たら綺麗にない。自分だと思ってる間、それを食べたとこの道順、覚えた味を懸命に定型にしてあとは探すだけだ。

     

    ウケると自惚れれる、大人になってこんな二点張りの無成長な人を、私は受け入れない。

     

     

     

     

     

     

     

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  • 悪い人の向こう

     

    悪い人の向こうに行き

     

    自分をリセットしに行く。

     

     

     

     

    自分を優しいと思ってる

     

    優しいと思ったまま進んで来る

     

    「は?」とかで返される

     

    奈良都(と)である

     

    この町でわかるのは

     

    人には色んなことがある

     

    ほっといてもらえる

     

    優しい自分じゃなくて良い

     

    優しくなくていいなんの比較しない

     

    自然体な心から

     

    精神の健康が出来る

     

     

    ただ大きくなると考えている中で

     

    現代があって、高度な精神力がいると

     

    分かる気と分かって貰いたい気で言葉が生まれた

     

     

     

     

    黒と言う色は全ての色を含めた色である。使うのが難しい。

    理解で治めようとせず少し相手にし、話をすることで自己を伸ばす。

     

     

    良い人っぽくても、シークレットブーツが浮いて来る。

    この様子をふたりで見る。

     

     

    ステゴなら

     

    守る責任がないから、暗い過去など守っていく私らである。

     

    「私が私であるために、栄誉は欲しいの〜」

     

    間違ってたり、合ってたり、間違ってたり、合ったり、間違ってたり、合うたり。

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  • ゲームという想像力

    ゲームである私と、

     

    名付けのある自分と、生活して暮らしている自分とを客観的に見比べる事が出来たら、大抵の言葉に耐える事が出来る。

     

     

    このゲームは、3Dとなっています。一面、二面、三面、、ひたすら地上に続いてキャラクターに触る事は出来ます。地平線を望む限りクリア可能で、私もプレイヤーだと言うことをお忘れなく。

     

    あなたが自ら進んで行く中での変わる視野こそに菩薩がありますが、信じてもらわないと、信じるってもっと心の内の話だから切実であり、自分以外の理解は自然と削がれて行きますから、何を思っていても信じてね。

     

     

     

     

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