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2023/07/08
世界に自分のような人や、私を見てくれている人が、もしいて、
立体生活上では、自分たちと
「重なったり、離れたりする」らしい
そんな人を想像したところ、
色んな違いを感じ取ってみて察するに、「それ」が、人間なんだとわかった時の気持ち、が不思議だ。
運命と思い走っていく経験も大切で、
意識が死んでるのか、誤魔化されているのか、心理的なものか、こういった気力がない。
食い違ってても、偶然を含んだ運命を受け入れて歩んでいるだろう。
こうなるときは、強い無関心的な関係を感じ取って、すかさず、それでも大切に「今」を選ぶ。
向こうから私から感じ取れる気持ちにたいして何を言っても、ちゃんとハズれているらしい。
近づけば大事に持つ厚みが、それぞれにあって、近づけない。
私は私に集中する。
こういった積み重ねが、基本と前にしているテーマからも逸れず、希望を大切にしたままある。
あなたは、自分を教えた人に心置きなく関心せよ。
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2023/07/08
昔のひと、を想像しても、影も声も想像出来ない。
仲の良い霊はある。
ご先祖でも、別の守護霊でも関係ないと思う。
そういう格調にたいしては名詞がないから。
上にいるかたはみんなそう。
その中にすっぽりはまっていくら形を考えても、考えても、それは単なる自分なりで現実にないのだからないのだと思う。
血は形の感謝のかの字ではない。ワタシがいたからあなたがいることが出来る、こう話される口説き文句で、
先祖、守護神、私、これらは関係とは関係がない。
ただ「あなた様」が「あなた様」を見たいならどうかご覧になれますように。と私は和解する。
こうする。
私には理由がないからケンカしてもわざと自分から分けたりしない(出来ない)
思うほど、当然あなたを思って早くアレコレを前に出さなと焦っていた。
私がいるそこには「ダレ?」かがいて、
自分を認識してもらえない、ことがショックなんじゃない。視界上、わかってもらえそうにない絶望のような
わかってもらえる術がない(この時間)、たいして霊でもなく、肉体やお供えもの、これら他人を盗むを、「もの」という。それと自分とを別に思わないことであまり考えにくい。
見ている者として言うに、おそなえものを、売った、売らないは、それがわりかし偶然じゃない。
おそなえものなどは、私は売ってないから、こういった精神の限りで、普通に売る売らないの考えも「もの」でなくなる。しなかった、売っていない、ということの結果が、大切な場でしかこれまた現れない。
こんな後に物事出てきても、ガクッとするだけで気を張り上げ、天の良いことを少し知っててそれと、話の訓練で前後の確実、その意識や。怒りたいけど怒れないのとも違い、怒るはしだてがなく理由が事前にあって怒れない。のは、怒りたいけど怒れないかな。
私は狭い思いは気にならない、お家があるから。細さは気を使うので、今は下を向く(お頭を下げる、神覚えが今はアツイ)。
確かにある時離されたことが、導きの証拠であったけど、
教えることは静かに纏めてから。
自分を見上げるために、平行に移り、暴行を繰り返したは、犯罪だ。
自分を見上げるために、ダレにたいしても躾をすることは、同じように平行に移ろうとしていて、似ているから近い。
正義感ではなく、前がない。私は追わない。
こんなものの下にたまに私はいる。用意がないから通過しない、霊に話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから
(明け放せない)ただの心。
確信するために私は理由を色々握ってたてるけど
見渡さないものの中で、私は私だけを見渡して、こんくらいあれば、心を描いてる、心で生きてる、事となるだろう。
とがとになってとと言ってる。
こう感動し合うとか、疎遠でも時空が合う。
どうしても重要にならない「もの」
私の前で私より小さい形になってる。
私に浮かんでいるそれは、
こんな空心を一切もっていないやつたち
ただ者ではない、
判るほど毎日怒っている。
しかし、昔から気になっていたもの憑きの、ものの正体がわかって、
非常に興奮している。
そいつの足跡に構えなくなるくらい理論は成立しているが、悲しみは忘れられないくらい情がある、昔はこんな執念じみるより読み手ともなり愛想を嗜み、今は本をたっぷり読めていて、「せつない」「かなしい」とか感性を肥やすうちに何に向かわなくとも自然に覚えていられることをよく知ってる。
辛いことを噛み砕けなかったから、毎回忘れて雲にいる過渡期、思ってくれてありがとうございます。それでいてもいつも巡っていた。
街歌舞伎、暗転の思考がある。
用意がないから通過しない、話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから、
怒りたくても黙ってるときは、自分が希望した人間性を破るからだ。
我慢だけなら我慢でいいし、
恵まれが自分にあるなら一心かけなあかん、
この責任しか考えなくていい。
細かい事であるなら、責任は自分に向かうからこの言葉があるし、つよさに任せるなら当然、責任感とは別れを生じさせる。
私は、上でもなく下でもない一心に置いて
身ごと老廃物を追い出し自らの栄養とは分離を叶える。
後はもう、自転する善に任せるだろう。
私が、後ろに下がっているのは
「誰か」にどかされたんじゃなく、今の修行テーマ「蟲」(ははがた)(ははがたは木のほう、ちちがたは道のほう)
によっては、必ずこうだ。
(必要ないとも思われた少名彦)
それと、その蟲の存在がわかって間もないから。
気になってる人が実は多いと思う、流れを扱う神仏がある、
従い、これに使われる人を「巫覡(ふげき)」という。日頃の勉強によって、犯すものが自分を利用出来ないのが、文脈としてわかる。責める相手を、優しそうな私にする身では次元を生まず。「あの子」に言った方が勇気が湧く。
私は世に暮らすを言う、
私は、普通じゃないに決まってる。視線をまず気にしてはいけない。気配のみ、それを感じてこれだけで生きる。それが太くなった。気持ちをいづれからも隠し、恥じりもなく、花風思う変わらない姿勢を達成する。ではまず、目を考えるとき、地がどこに位置しているかを、一度見たら離さない。
先が曇りだが、天であるし、
この、前が曇りの私の状態でも歴史には重苦しい時代もあったと思う。今がそれでも、喜ばしいことには変わらない。
時代に遭遇出来たことが嬉しい。
気になるのは、
こんなんがありますよ、こんなカガクと、注意や心配があります。と、おう見てやるよ、と気軽に答えているひとが、いるとして、
私はその時そのひとに必ず発生している心の影りと、相手は、本当に気軽なのか?ということの心配だ。お金で済んだらいいけど、人にかかってきたら、
そういう歌劇があって、それをみたから黒い化粧をしたくあって、計算もある、
もしそうなら、低俗として、私からは土着や命といった責任からは、果てしなく追い出すことが出来る。
カガクの自慢。この間に、こういった暗いややこしいことから声をかけられた人にもまた沈黙という言葉と言語があって、土着していることには私と変わらない和とテイシキがある。心は、感情を確かに含めて揺れてるしかないから。私はこうしっかりと俯瞰した先で人としての自他の変わり、ポスト構造主義を唱えられる。
いずれにしろ、その人にある「他者」の存在が、妄念か空想かさらに想像か、人なんて、自分のように存在したものじゃないだろう。全てを包み込む人がいたら、神をとらえることが出来ないのだと知った現実をもっと旅して歩いてやるのだ。そういう人が本当にいた事の伝説を崇拝し、継承するには、自分の力を専念する事だ。影になり影としてより覚えたら、
自分にある懐疑も晴れる。
最後に、上から見聞した理由がただ喋りたかった、じゃ人としてでは気安く遅いのだ。成長出来るだろうか?
自分が何をしてるかもわからない。
自分がどこにいるかも知らない。
知らないから何をしてもいい。
立ち入るのなら、いわんや面があり、
自分に解らないところにはそれくらい難解な強い世界がある。
よって、明らかに「表」である。
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2023/07/06
藝術や思想などのルールや言語コンテクストの意味伝達は近代市民のさまざまな生活様式にはステレオタイプ的にも不相応であり、それにもまして棚に上げて壇上だけが現場だとは言えなった近代では、時代の個人に表現を帰し事態を生き抜く力の痕跡が作品となりえたのだ。「リアルな触感」はダミアンやミシェクのように現代の高い科学技術でビジュアルイメージとコンセプトの足並みを揃えた名作のみならず、ポロックのドリッピングや郵便配達夫シュヴァルの宮殿、ぺったりとスタンプのようにはりついたようなリキテンシュタイン、なにもかもがごちゃ混ぜに結合してラウシェンバーグの混乱、といったものはわけのわからない行為は人生や哲学が混乱した形式として現実味を帯びる。何の感動や共感もなくともそれぞれの生き方においてはどの技法も密着したリアルな行為に読み解くことができるのである。どのようにして人が芸術というものに規定されたがるのかはわからないが、商用のデザインや、一度の印刷のみで役割を終えるプリントものなどを除いては作品は積極的な交渉のカードになり、人類の科学技術の財産と比べられることのできない個人の完全にオリジナルな財産となるのであれば、「芸術作品であるという通知」はより円滑にするための付加価値のステータスなのだろう。
冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。
(上を、思った通りに書く)
冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、
意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、
言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。
(これが大澤君。)
記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、
(全部、自分が全身で受け取っていた。ただで吸い込まれていない。)
私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。
(逸がそれる、その言葉で晴れる程度をわざと暗くする浮遊霊、その浮遊霊にくっ付く浮遊霊&ムーたち。何もわからなくて良い、ということは分かっている。浮遊霊を除けば良いと良く考えていたが、何が浮遊霊かの見分けは難しい。見えない攻撃をして逃げているやつだ。まみれていて形のなる、たとえ「ツクられたわたし」だとしても、そんなわたしを、上回る私は常に乗り越えている。ムーの合間にたまに映る修行霊「私」の除霊とは、浮遊霊ほどそのまま浮かせているタイプ。死んだからって許せない事は許せないと思い奮闘していたら思いと心が調和して浄化を深く学べている。
ガイドの姿だ。)
悪霊を捉える技術はあっても、見ることは難しい。ただ、祓いを知ることで世界を明るくするのは間違いないだろう。自分の世代が壁に慣れず間に合わなくても、鍾乳洞を思い浮かべるように、何十年、百年も道を踏みしだいていると慣れてくると思う。
祓い、は単純に願いを叶える努力を自分に課せ続けることで、裏がない。ストレスを感じても排気量があるからフリーだ。
そして私とはこれに似た。かなしそうであっても感覚的に大丈夫そうな気がするのは正しいとはっきり言う。
大澤君は、何を言っているのかわからない所が腹立だしかった。一つ、悲しい思いをさせてしまったことに負い目があるが、そんなこんなで謝らなくても距離感が成り立っていた。)
粘度が高いということでセメダインを想起させる手製の油絵の具だが、特筆すべき点は画質革命である。
顔料とオイルを混ぜ合わせただけの絵の具であるから、したがって体質顔料を一切含まず、また単一顔料のみで作られているため発色が良く、彩度が高く、鮮明な色彩となる。そのため混色しても濁りにくい、ホワイト混色しても白っぽくなって狼色になりにくいのだ。
幼生の気心に未昧(ふまい)さを思い返したのが好機となり、以後は手づくりの油絵具ばかりもちだす。しかし実のところ絵の具に対する不満を改良する昂奮などというのは書くことが発明である子供に、もの言ってもさっぱりわからないだろう。
印刷の文化が人々の考え方や表現を変えてからは、絵の具を作ることが発明だとは誰も思わない。
しかし昨年にこのような体質顔料を一切含まない絵具の新たな製品が世に出た。それが昨年に限定販売され理想的な油絵具の研究にして注目を浴びた、東京藝術大学&ホルベインの二社ブランド製品「油一」である。
稀少で高価な折り紙付の「油一」(ゆいつ)と、お手頃だが目分量の調合で不安定な手製の絵の具とは比べ物にならないであろうが、
いまのところヒビや割れ、シワなどひとつも起こっていない。乾燥が速く、定着がしっかりしているので(保障なし)、ブラック系以外はテレピンのみで大きく薄めても難なく使用できた。手製であってもそなりに、ソレに近いものが比較的簡単に作れてしまう噂のやり方を実施しているのが功をそうしているのだろう。
フキダシを入れて漫画を作る予定
山の者供
2009/06/08
裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。
(聞くだけで迷う)
どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。
これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば
鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。
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2023/07/06
千と千尋の神隠しや、もののけ姫、ハウルの動く城などを観ている。
どれも街と自然が共存している。ある学者が人間から出たから建物は自然だと言っていた。建物と自然が共存するイメージは、今、自分が自分の霊と闘っている姿と同じだ。
徳の平等を感じない事には、こういった思考は無理だ。
私は剣を抱いて豚を飼育するイメージをしている。イメージの為に関係ある町を自分に聞いて向かう。
自分に何でも聞く私が着目したのは、生まれる前のことである。何と驚くのだが、自分が生まれる前に既に土地があることである。私は早速郷土と言うワードを持って自分の町の感覚を取り戻した。それから、感じた本題は、予想通りだったのであるが、、
オタクだと言っている私の豚を飼っている、と言う世界観を考えている私はオタク。と言う身を誰にも言ったことがない。
それを描くには、剣の雰囲気を形取る力がいる。もう出来ているが、差し金のような辛いものが背を引く。天に聞いたところ、私の磨き切った伝達技術による美しい背の姿が憎い、と話しかけているだけだった。伝達君と言って潔く、と告げたら、見れば、すっからかん。私の充実した感覚とは程遠い年寄りの精神は、水はねとすっからかんの言葉の意味と取り替えて、若さを取り戻してほしい。そう告げると笑った。私は空を眺めて、これが、山椒を噛む渋さだと発見する気持ちはどんな感動だろうか、そんな事で私の日々は完全に埋まっている。
あるものだけを使ったほうが、想像が固まり吸い付く様に広がって行く。もっと考えれる人間になって欲しい。
宮崎駿監督は、私は漫画の方も読んでいたが、自ら蓄積された詩感によって感じ取っているものを見せて貰っているような、
「作品」というのはたまたまで、もっと続きがあることの様子にたいして伸びてくる夢みたいな葉が、定義を起こさず自分にはない印象が「家の人」を感じさせる。作品という緊張感を持って建てられた自分自身にはまだはっきり見えない、遠くに佇む家、
アニメーションはどれもそうな気がする、近づいてみなければ近づけない。
その輪郭がどこからやって来たのか、考えれば考える程わからなくなる。
動物になるには自分以上を踏み込めないように、線は切り込まれ、似るということを諦めない。自意識にたいしてまるでパンクかと思う人もいるが、こう軽く飾っても良いが、しっかり設置した上でも飛ぶことが出来た。何でもない顔の感動が、形として正体をつきとめられ、とある瞬間が自分自身のモダニズムを壊すように黙って降り積もった雪。アニメの圧迫とはこういった見たままの感覚と、大きな目が合っているからだ。生まれた時から光を見ていた、と考えられる。光には目がない、と言っていた大澤君。その輪郭がどこからやって来たのか、長いこと考えるのは良い。
私は、要るか要らないかを研いでいる。結果的に彫刻になっている最中、この最中が映るわけが知りたい。
それが出来るまで、こうしろと言われた前に、こう思う自分を許せるか否かを考えている。「鉄の“ような”もの(なまり)」が、人工的な想像もするが、自然とするのは、作ること自体霊だからだ。故に避けるという動きが想像に加えられている。向かいたいのにこれでは、自分でプレスしなければいけない。自分の怠惰を笑い飛ばすようなイメージで言葉の練習から始めた「詩・メッセージ・詩」も、どこかに同人はいるようで、大事と思われる前は、取って付けた枠を守るというテーマについて行けず妄想の方が自分には面白く相まってそのまま乗せるとえらいどやされた。形をそのままに独自に所得したワーズに癒やされて何とかしていたら、成長している。
私の町は「台所」と言い、鉛を、頭に置く様に修行した人もいるし、そういったディテールを持たず、自分に何もないと感じるが、感じれば感じるほど、幸福を感じている。こういった想像の後に自分を透かすように開眼出来る。
今のこういう、新しい時に新今宮の新世界を見ると映えている。その土地はもとはどういった性格なのか、今やってることや、しなければいけないことに必ず応援してくれる。古地図だ郷土史だ、と物を学べるも良いが、何か、良いな、という感性が、物事のバランスと噛み合っているのを手放していない。何かしたといくら言われても、していないからしていない、やってるやってないのこういったが争いが続いたって答えるくらいならマシ。こういった絶望が不必要なので、無視をしているうち、無視の強さに関心をもった心霊なので、有名な心霊現象となったのだろう。逃避したり流すのが礼儀だと思う。
何も持っていない、こういった感覚の親しい人は多く、大陸に出世している。
立ちはだかる林のように、いくつかの暗い心を、思い通りにすべく、
その時見た仏像に恥ずかしさを感じていた。
巨大なキャンパスを固形の美しい鉛の代わりに取り出した。
芸術とか大きなものなら、人としての緊張感の中で詰めた方が良いし、絵とか小さなもので良いと言う人は一人でも良いものを描くだろう。
無茶に愛用を勧めている。無理には言えない。
今、思うと持っている着物の接続器となるその広さではないか。
そういった意味で、輝きを自慢出来なかった。私は、絵の苦手な人は何か悪いことのあったせいがあると、原因結果だけの板みたいにいうが、当たったらすまぬ。
そら
2009/05/30
制作のための撮影と趣味の撮影がごちゃごちゃにアップ。
こっちは趣味。
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2023/07/05
身を鍛え、造り出す道のことを、
切り拓くといった良く動きのある言葉を、背負い込む。
刀を持っていても戦えず、毎日途方に思いその日を暮らしていた武士の時代がある。
毎日鍛えに励むが、輝きには考えを思う事のない限定された籠こそ空を舞っては、意味を持つ者を一筋の光から覗いた時、長い辛抱と悔しさが単なる水たまりのようでも心には浮かんだが、まるで話しかけ、
本当に一筋に繋がっているんだ、と知れる。
嫉妬というたがわない絵の具を、どこからやってきたのかどんな鉱物を取るのかを鬱屈した焦燥と逼迫の中ともプライドとも、回想とは光を打って、何だか無意味な、不思議な絵は指輪を探して行くのを堪らえている。水滴を「見る」為だ。
何もない空間を、大きく縁取るあなたが、
「言葉」でもなく、今だに憶えていることを、あなたの方法で聞きたい。私がわかるのは、何だろうか?を問う態度が基本姿勢が道に掛かってる。
歴史は、私にとって意味を感じさせる時は、愚かさのことを考えている時で、優しさに繋がる何かとも違う。大切なのは今だ。
馳せる、ただそれだけを理由にして受け取るのは、自分に解らないことだ。そこに秤り知れない何かを見れる。これが、同時なのだ。
意味を忠実にあらわす腕力を鍛えている。
言葉が、内容化する瞬間を、色としてか、形式としてか、こういったモノクロームの美しさがいくらでもしたたる。
睫毛と目、滑らかに繋がる身体の像が、今は「みんな」を表してるように見える。一貫、と言う言葉だと思う。
佇んでいなければいけない方のその理由がわからないように、「私」の顔は初めて輪郭を取った
譲れない誰かがいて、対して自分がいる、鏡の中の、
運命と言う敵でも、鍛冶屋は闘いに行くのだから。だから、気派手な容貌より棒を持つ人の方が映えている。
行動に一徹を諦めないのなら、現行一致が心に宿るように、角を見做す。平面の誕生の瞬間をキャッチする。毬のスピードにまた対して筆とは響く。キャンパスに野が色付くときは、十分の歩数に意が求められる。何も描かれてなかったら、破綻したということが、何もない中では人間だというパスになる。形のあるものと、音楽を師とする様な形のないもの、これを自由に想像するこのある道。
方法は、同じだが嵌らない石と輪を気にしている。彼が本当に唯一の相手なのか、今世、分からないのは、
存在するかしないかを、説明を要する赤道のようにして、私は、こういう地図がある、イラストがある、アニメーションがある、こう平面がある。これと、実際不確かな地球の形が、丸であると知っていて、自分がこう関心があり夢を見るこの想像は、現であることとは、事象二つとして、赤道は存在する、と思う。
詳しいことはわからないが、この増加の感じが、自分、私にあるべき生活を温めている。たとえポリ袋であってもそれが卵のように包まれた感覚。自分からわたし、という羽化の過渡期だ。仏に頼む暇よりも悲しみを感じている方が、無意味という題にぐっと近づく。ぐっと「かつて」の自分を引き寄せる。
自分の想像では、
サカナクションの「ルーキー」という例えば詩、があって、
「行かないで」という国旗に、
・見渡して
・思い出して
・羽撃いて
・口づさんで
という、この「私」の腹が、野にいるずっと昔からの祖から聞こえると知った。
自分が早解りの為に、巫覡(ふげき)と言ってまた神意を伝える人々という責任を持って、これは巫覡の中でも巫女ではないが、そこに広い広いコンタクトを感じながら、己を知する。
子供の頃に経文を読まされていた。確かに音感が良くなった。
「己を知する」とは、昔から良く伝わり、緊張した言葉だが、間隔の実感とともに有った躾として、こういった流星群を読み聞かせる。説明ではなく、こういった礼儀の手ほどきが空間を拵えた上に備えられる。胸を打つ。
必要をだけ携える。
阿弥陀を唱える念仏の心の人も、自分で試したいのだと思うのだ。
宮か役場なら、役場から打ち出す書の方でも、それが集大成になる様な、働く黒い蟻と思うにしてそんな者ではない。
躾は、いくらやっても、動かないカラダとは、もともとあるべきものだけを吸収するからだ。「カラダ」というないこと、と有ることは似ている。総体として心の筋力をつける時間を大切にして欲しい。
スピリチュアルメッセージという私の霊をまた一つの平面という次元の認識をすることを限定に、説明書など色々搭載している。
こんなに何もしなくて良いトイレの存在を知ってるだろうか?これは、ウォシュレットといって蓋を開けるのも閉めるのも自動でしてくれる。是非、着目したいのは手間をなくすより、何でも一つにしている感じが、目をはっと驚かせる。
感動は、こうなってる、自分の目の前にこうなってること。それこそを鵜呑みにしてしまう。踏み込む石と石が遠いって、入ってるんだから責任持って飛ばないといけない。飛べないんだったら、飛べるように。
何故なら、それからどうなるかを、あなたしか誰も知れないから。
私からはこれにて。
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2023/07/04
上アッテルと、私たち
(実際どんな話かはまだわからない)
部屋花火
https://photos.app.goo.gl/ETsQfA5WqY7o2PUY6
かなしい。…ごはんがお父さんになる、
俊寛、過去三ヶ月の我々の気持ち。色んな理由を知ってはいつつ、わけを聞き、黙って置いてけぼりにされる哀しいような美しさ。
私はこんな風に、昔からあった金箔の文様が憎しみの線を書きてと感じつつ癒やした。これは缶だが、缶って不思議な気持ちがする。
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2023/07/03
私に何をしようとその人のやることはその人全てだから自分とは無関係と言うことだ。例えば、良いことでも悪いことでも、
良いことがその上を行くならもうそれは友達なんだろうけど。
センチメートル… 使ったことがない。
そんなもんが、通用したらおかしい。というのは、刃先が下になっていたり、無関係な死体と親しむことにたいして、生命力によってからかっているのは、全く違うからだ。私のようにあらかじめ抵抗力も強くないのだから、早く、はやく、死んだ人と喋るのをやめさせ、分けてあげてほしい。分別をさせてあげてほしい。
「誰に向かって」その自覚が大事だと思う。
地に向かってる人だろう。
私はどこまで行っても、そいつが非在だと確認したい。周りは私を単なる揺れてる火と気安く理解して、私を受け入れてほしい。
どんなにかたちか変わっていても、何の違いのない顔面が点在している。これは、人と異なって一律価という。
木を見て森を見ずと言い、
肉厚が何かを言ってても、自分の願いがすこぶるノイズでも、私を含めて森を見た時果てしない平等性が広がっているとわかる。
私がここでこれらに何をしても、“そいつ”は既に法を破り犯している。人の命は取り戻せず、人の人を守りたいという私の気持ちは、あなた が、そいつを私の身と混同せす剥いだ時、空に飛ぶ。
その人の自由は奪えない、というが、どこまでも干渉がない、どのくらい干渉がないかと自浄し、自分を崇めるといういう意味で、不必要なことばだと思う。そいつの姿が、人とか自由の討論には入れないと思うオーバーサイズであるのを見ていたからだ。
見て、ひいた。 震えた。
それっきり避難することに端に寄ったことからでも生命力で道が開けていることが解った。分かってもらえないと言う悪夢の下でぺちゃんこだった。その次に凄まじく襲いかかる憎しみは、なんでこんなやつも見つれないん!?または、私を見つけれないん、という失望だった。
「私、自分自身」の視線にたいする誤解を恐れず!
を念頭に置き、未知なる無の修行向上に取り掛かっている。
ただ在すると言う言葉を、チャレンジする内心の自由は、相変わらず変わっていない。そこにある悪意に自分を溶かし身の光を養うのだ。
誰かが、何かしている途中かもしれないことをもし見ても、悪口を言うなら本人の前で、と思っているし、
この間に「キモい」のは、小言に違いない。
そういう思いにたいしてはいつも、緊張している。その時に、自意識のなかの、いらんもの、が解り、オープンに徒歩ってる。
・その力強い気持ちを無理矢理、何かではなく必ず人が止めている「気がする」のは、みればかなしいからだ。嫌だと流されず天に聞いているが、こちらを見ている。
心からすると、表、があり、
私はまだまだ優しさが表に現れる、優しくなる過程の中だ。
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2023/07/03
法華経の自分なりの朗読 https://video.fc2.com/content/2021060872gtPsht @fc2videoより
昨日のはなし。
女殺油地獄のはなし
https://video.fc2.com/content/20210531SztgMGFL @fc2videoより
約束されてんのに、気にする事のおかしい箇所を主張する。
ペースを落とす段取りを組んでいて、なにが解りか、何がセカイのテーマなのかを自分なりに考える。意味不明のなにかかわからない中で自分で片付けられることを一人で目一杯探しても、それだけはひとつも無駄にならない。良いことなら、いくらやっても良い、という言葉を思い出しつつある。
正しいなら堂々としてたら良い。いくら何でいようと、気が気で、ちゃんと持ってるのなら。腐ってしまった自分がいるのなら、謝り拝み続けるのも知識になる。
神がいる、ということはソンな幸せじゃない、ということで、私自身、穏やかを約束する。
古来中国ではその名を、「福」と言い、差し引かれている。文学的にして初めて色んな意味があり、圧に抵抗したり、大切な何か、それらを守るが意識だけでしかやっていけないんだ!、ふかい深紅の理由の背中を橋や塔の途絶えていたこの隅から私は教えたい。この掛け軸は、鈴のようなテレパシー、とも出来る。こういう二項は懐かしさがある。私は色んなアニメがそれを聞く素養だったが、そういう事が本当にあって、伝えずにいれなかったのだと思う。纏めて「伝説」と言うのを新しく知り、歯が立たないカンジでいる。「これもあるし、これもある。」というタイトルには、「あれか、それか」という手が着かなさそうな外来書物が置かれている。後者にそれが、まま価値の高い物で、身を縮ませた師範がある。そこからは、永遠に論議がなされる。
こういった循環論法は、幸せの憧れである。日蓮僧侶が早朝三時の勤行で、四角いお堂をくるくる周りながらお経を読んでいるが、ああいうとこで、天霊は遊んでいる。「達人」というレベルに史観が強くあった、その想像が取り戻す事が出来る。上手く取り戻せる…。息呑むが単に優秀として、ただ人民として、人種関係なく道力は運ばれていることをかつて知ったんだ。私はそこからわけもわからないのに涙している。
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2023/07/01
妄想が自分の想像に絡みついて、どれがこうとか、妄想しても、力とか元気を失くした。いくら妄想が下らなくても、悪意と違う。良いことなんやと、わかって嬉しい。
「私」は、ろうそく火。ここに客観性の意味としての影を除き
塚という地名が土地にあって、大国主がいて、テイシキという神があり、
死んだように見える人でも、陰陽で言ったら陰とし、
Q、どうしても私が、悪いのは何やったん?
悔しかない。一焦ってる。
A、あなたが持っている、すてきな数珠を失った。
このとき、
→起こることと、
起こり得ないことがある。
踊躍がない変哲のなさに怒ってるんや。
それは徳である。道になる。
チームワーク、それ以外は途方にない。
先に限界を定め
自分が税。
和国を表している
九次元役場
役場…感じががらって変わっている。
こう起こってる!
こう自分に起こってる!
その、背景。
・そいつぁ、目の世界じゃない
・見届けに来た
・精神上、心とした体のなかで「非在」
・毀笑
街では「墓」で通っている。
逞しい争いが古来あって、そこにはわざと捻りがあった。終始沈黙した、長い長いキスのような昇華。
まるで、時空のそういうものがたまに心に映る、
同じ世界にいる。
ずっと何の勇気をもなく、へいきじゃないからカッコつけて生きている。自分と混同出来ないその人の人生まではさわれない。知れない。何かと溶け合わすこともなく、くっきりとした愛や次元から、吸着されるような形ではみ出ている。いくらその人を上にしたまま避けるように動いても、その人の紙の平行感や、その紙が受け取る光や、反射する光の量は、変化しない。
どうせ関わりがないのだから。思い切った省略が、洗練となっている。
心が満ちて、求めてない。
祓い が、漢字(難字)。
自分だけが良くいて、
相手がめっちゃ働いているようにも見える。
こんな考え(大行)をしていたのは、昔から。
住吉神社…方位、自分の生まれが南西、星が東、養いが北。北が北故にいま夜となって閉じられていた。
を、あるきながら思い出す。
住吉様は、ムーを五行的に含んで修めている。
ムー…方位、というくらいの付くのだから、未満として含まれない。
「天王星」「冥王星」が見つかった。天王星が見つかり、冥王星の意味がわかった。
プラス、善悪の勉強をし、耐えた。確かな歩みがある。
士農工商穢多
導き(士)と、生きとし生けるものの、執念(農)によって、求められた(商)これからの(工)
漂っていて問題がない(えた)
「えった」ともいう。 被差別身分として固定化されたのは、江戸時代以降のこと。 「穢多」の称が一般化した後も、関西などでは「かわた」、東日本では「長吏(ちょうり)」などと自称した。
学校では、士農工商えた非人、と身分を習った。 えた非人が部落にいると昔ながら聞いていた。非人以外、並列の関係をするのだと、考えてわかった。
趣味は利器となる。思いとかくりと合わさった時、何か光がする。
利器からいったん遠のいた過去がある。固めてる…一旦、途絶えた道があり、それを歩いていると
龍とかほうおう(は、別な気がする)は、あれは多岐。種類が多い。天狗とか、松系の太秦、龍の龍、
感覚的な昇龍の。
摩(マー) 世間の自分、という覚醒の、そのままの様子。
自分を知る名称は、みんな勝手に自分とこで知る。
一金五円 ヨソンスジンに騙された人
犬の方が偉い→犬は偉いで
道をさしている。逞しいと思う。犬の毛はしっかりしている。
「そんなんに負けたん?!」
女が名を馳せようと待機していて
ある時についた傷を、知らんうちに治そうとしていた。痛まないように柔らかくいたが、自分を知らない何かもわからんやつ(?)が、
伝え押し拡げようとした。(普段、一笑に伏す出来事だった。)(自分だって責任があるからどれが何かを)
薄情…「色んな人」を感じる。
ないことを追っかけていたが表現したいのは、出来る出来ないじゃなくて
伝統の「証拠」がなかった。
…ムーに当てるやつ
客観性だけ。信愛がないが、違う定式が律になって土着してる。〜完璧に書く意欲で堺
人、という主題で含まれる虫みたいな私。
高津神社…地元。
〜こうやったは絶対ないからな。
日本橋、長堀橋から見て城が向こう。侍がこの辺から構えてる。いろんな心に突き刺さる矢が
満身の心に混ざって虐げられてもオタクになりたい、という気持ちにさせる。
強靭な摩擦熱によって生み出された主義、を、がそこにあるのを自分は本当に良い意味で感じ取った。いくら人間の性表現を精神にしてても、そんな内部構造はない。
そんなこんなとは
全く異なる実存、 の説明
・正気じゃない!…五、とだけ読む。それが不健康とは違う!
続けなきゃいけないし、易くそう出来た。
今、という時間はどんな理由にも連結しない。
普通に聞き入れていて良いことがある。
…これまでに、何か有った(人たる覚え、辛い記憶)の明見。
学的なもの、とゆうのは聞き手、受け手の気持ちが偏る。
これがこう、見定め、をするのは意外とカンタン!踏み込めば付くというものではない。どうしたかは今覚えていない。
開き直るのは難しいと思う。普通は是というのを、感じるが、自分とこのテコや括りに「だめ」と
・感動が重い
自分に足りないのは、勝手さや。心の中の集中力。
ちゃんと陽気な人にたいしても、過分がない。
精神が健康だったらと言う理由で、地道な
ムーは自分がムーと必ずわからないから、どれだけ楽に受けれるかをせよ、
「だめ」が、否じゃなく、
しゅっとする、その時は、資本(物以外の物)
…たんに妄想とか、水を切った、解
ストレスが溜まると体が透ける。…何のイメージ喚起もさせないムシューダのメータのような自分。
妄想が自分の想像に絡みついて、どれがこうとか、妄想しても、力とか元気を失くした。いくら妄想が下らなくても、悪意と違う。良いことなんやと、わかって嬉しい。
「私」は、ろうそく火。ここに客観性の意味としての影を除き
塚という地名が土地にあって、大国主がいて、テイシキという神があり、
死んだように見える人でも、陰陽で言ったら陰とし、
Q、どうしても私が、悪いのは何やったん?
悔しかない。一焦ってる。
A、あなたが持っている、すてきな数珠を失った。
このとき、
→起こることと、
起こり得ないことがある。
踊躍がない変哲のなさに怒ってるんや。
それは徳である。道になる。
チームワーク、それ以外は途方にない。
先に限界を定め
自分が税。
和国を表している
精神的に役場
役場…律ががらって変わっている。
こう起こってる!
こう自分に起こってる!
その、背景。
・そいつぁ、目の世界じゃない
・見届けに来た
・精神上、心とした体のなかで「非在」
・嬉笑
街では「墓」で通っている。
逞しい争いが古来あって、そこにはわざと捻りがあった。終始沈黙した、長い長いキスのような昇華。
まるで、時空のそういうものがたまに心に映る、
死んだ感覚がするけど、
同じ世界にいる。
ずっと何の勇気をもなく、へいきじゃないからカッコつけて生きている。自分と混同出来ないその人の人生まではさわれない。知れない。何かと溶け合わすこともなく、くっきりとした愛や次元から、吸着されるような形ではみ出ている。いくらその人を上にしたまま避けるように動いても、その人の紙の平行感や、その紙が受け取る光や、反射する光の量は、変化しない。
どうせ関わりがないのだから。思い切った省略が、洗練となっている。
心が満ちて、求めてない。
祓い が、漢字(難字)。
自分だけが良くいて、
相手がめっちゃ働いているようにも見える。
こんな考え(大行)をしていたのは、昔から。
住吉神社…方位、自分の生まれが南西、星が東、養いが北。北が北故にいま夜となって閉じられていた。
を、あるきながら思い出す。
住吉様は、ムーを五行的に含んで修めている。
ムー…方位、というのだから、未満として含まれない。
「天王星」「冥王星」が見つかった。天王星が見つかり、冥王星の意味がわかった。
プラス、善悪の勉強をし、耐えた。確かな歩みがある。
士農工商穢多
導き(士)と、生きとし生けるものの、執念(農)によって、求められた(商)これからの(工)
漂っていて問題がない(えた)
「えった」ともいう。 被差別身分として固定化されたのは、江戸時代以降のこと。 「穢多」の称が一般化した後も、関西などでは「かわた」、東日本では「長吏(ちょうり)」などと自称した。
学校では、士農工商えた非人、と身分を習った。 えた非人が部落にいると昔ながら聞いていた。並列の関係をするのだと、考えてわかった。
趣味は利器となる。思いとかくりと合わさった時、何か光がする。
利器からいったん遠のいた過去がある。固めてる…一旦、途絶えた道があり、それを歩いていると
龍とかほうおう(は、別な気がする)は、あれは多岐。種類が多い。天狗とか、松系の太秦、龍の龍、
感覚的な昇龍の。
摩(マー) 世間の自分、という覚醒の、そのままの様子。
自分を知る名称は、みんな勝手に自分とこで知る。
一金五円 ヨソンスジンに騙された人
犬の方が偉い→犬は偉いで
道をさしている。逞しいと思う。犬の毛はしっかりしている。
九次元役場、
役場…感じがががらりと変わっている。
「そんなんに負けたん?!」
女が名を馳せようと待機していて
ある時についた傷を、知らんうちに治そうとしていた。痛まないように柔らかくいたが、自分の知らぬ何かもわからんやつ(?)が、
伝えようとした。(普段、一笑に伏す出来事だった。)(自分だって責任があるからどれが何かを)
薄情…「色んな人」を感じる。
ないことを追っかけていたが表現したいのは、出来る出来ないじゃなくて
伝統の「証拠」がなかった。
…ムーに当てるやつ
客観性だけ。信愛がないが、違う定式が律になって土着してる。〜完璧に書く意欲で堺
人、という主題で含まれる虫みたいな私。
高津神社…地元。
〜こうやったは絶対ないからな。
日本橋、長堀橋から見て城が向こう。侍がこの辺から構えてる。いろんな心に突き刺さる矢が
満身の心に混ざって虐げられてもオタクになりたい、という気持ちにさせる。
強靭な摩擦熱によって生み出された主義、を、がそこにあるのを自分は本当に良い意味で感じ取った。いくら人間の性表現を精神にしてても、そんな内部構造はない。
そんなこんなとは
全く異なる実存、 の説明
・正気じゃない!…五、とだけ読む。それが不健康とは違う!
続けなきゃいけないし、易くそう出来た。
今、という時間はどんな理由にも連結しない。
普通に聞き入れていて良いことがある。
…これまでに、何か有った(人たる覚え、辛い記憶)の明見。
学的なもの、とゆうのは聞き手、受け手の気持ちが偏る。
これがこう、見定め、をするのは意外とカンタン!踏み込めば付くというものではない。どうしたかは今覚えていない。
開き直るのは難しいと思う。普通は是というのを、感じるが、自分とこのテコや括りに「だめ」と
・感動が重い
自分に足りないのは、勝手さや。心の中の集中力。
ちゃんと陽気な人にたいしても、過分がない。
精神が健康だったらと言う理由で、地道な
ムーは自分がムーと必ずわからないから、どれだけ楽に受けれるかをせよ、
「だめ」が、否じゃなく、
しゅっとする、その時は、資本(物以外の物)
…たんに妄想とか、水を切った、解
ストレスが溜まると体が透ける。…何のイメージ喚起もさせないムシューダのメータのような自分。
要って良い力がある。
・自分でも気にしたあかん自分、自意識、客観性、この強さによって、ひめてもない力を付ける。
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2023/07/01
気持ちを簡単に送る
2023/06/22
生命磁気(回帰)のオーバードライブ。
という凄い言葉を、漫画で拾った。実際、そうなのだらしい。
スサノオがそこにいて、凍りついていた。その中に「私」は籠もって凍てつく心を神の剣に治療させてもらった。
「摩」マー、
という古い言葉が、ある。力こそ世間の中の自分、自分としての世間。
いいか世は体。
悪い気持ちには、高鳴る心をぶつけ、
良い気持ちには、掴んで対応に向かう。
人を試す、この事がなんで失礼か
物し付け
「あなたはどうですか? あなたは、どうしたの?」
と声を出していちいち自分に尋ねる。
他人に心に湧く感情にたいして、
まず自分自身の頭上に「あの人は〜ですか?」と聞く。
いつも心許ない。
あとは香を立てる。
煙を、浄化グッズ。
これが、整えとなり、
全てを届けてくれる。
この煙を、朱雀と言う。
自分の気持ちを他人に伝えようと、中途半端に念じても、
その人は、あなたの重い気持ちを肉体に背負い込んで受け止めなければいけない。
何も届かない時間が流れる。
気遣わない冷たさが、そのまま重たるさとなるからだ
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