揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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    Works 46
  • 無心の概念が考えること

    世の中、色ってのは黄色だけじゃない。

     

     

    穏やかな明るさ、やさしさ

     

     

     

    「色付き」には、黒色と既に決まってあり、

     

     

     

     

    全てを守るような赤色など、

     

     

     

     

    特徴ない人に求められない。ということ。

     

     

     

     

     

     

    気になりまくるなら、その理解があなたに足りてませんよ、という、

     

     

     

     

     

     

    色そのままのほうが、人が砕けて魂に近づけるから、止めることが出来ない。

     

     

     

     

     

     

     

    「私でいる意味」が、思ったことが、同じだった。

     

     

     

     

    時間は、流れる空気そのものは、心にあらかじめ組み込まれている為に、分かたれない。

     

     

     

     

     

    質問という「ですか?」は、

     

     

    質問という作品の「ですか?」の語尾は、

     

     

     

     

    自分に折り込んで、自分は傷ついても自分に聞いて、畳んで、

     

     

     

    自分が聞きたいことを、自分から絞り取って、

     

     

    自分が聞きたいことにたいして自分を包括していて、しっかり

    わけを理解している。

     

     

     

    答えを完全に求めているから、

     

     

     

     

    「ですか?」になる。

     

     

     

     

    ノイズがないのだ。

     

     

     

     

     

     

     

    フランス人でも、「そのプレッシャー」について、自分が聞きたいなら、

     

     

     

     

    このような礼儀があったら、いくらでも質問出来るが、まず聞いたことがないだろう。

     

     

     

     

     

    もともとある、礼儀の文化にたいして仏道が叶ったから、

     

     

     

    受け入れる。

     

     

     

     

     

     

    こういう簡素な考えが広く、映画などで観て美しかったので覚えている。大阪も陰気で、途切れている空気や文化があって、同じではないだろうか、とこの役場気質で、「途切れた、忘れてしまった」記憶が私の端にある。

     

     

     

     

    感じる透明なイメージを、その一文をいま何か書こうとするのは、自分のことだけだ、とすぐに分かる。

     

     

     

    人前の許せるたった一瞬を。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    思い、感情がわかると思う自分は、

     

     

     

     

     

    他人の思いまでわかるやつなのか?

     

     

     

     

     

     

    自分の心に手をあてて、すると、

     

     

     

     

     

    自分の影、フォルム、が取れる。

     

     

     

     

    書いてるこのブログは趣味で、

     

     

     

     

     

    違うかったら違うと言える、この便利さに感心している。

     

     

     

     

    自分のただの趣味だからこそ葉脈があり、それが出来る。

     

     

     

     

    「違う」というめっぽうオリジナルの一言を盗むのにこんなに手こずらせる人は、自分とは違う。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    「私」の文脈から、こんな姿では情けなく

     

     

     

     

     

     

    魂から私が私自身を隠す何かが、あった。

     

     

     

     

     

     

     

    ところに、「しきい」を踏んづける何か様子が見える。

     

     

     

     

     

    「過去、なにかをしたんだ。」

     

     

     

     

     

    (わたしを見つける前、いや、見つけてもいないのかもしれない、ただの、悪行の名前が浮かんでいる、と「見える」、で良い  )

     

     

     

     

     

     

    この「読み」は、日本人も久しく有難いような気がして思いがして、そう、こう特徴や、良い事を、遥々の方に知ってもらえるのも嬉しい、と聞いている👍

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分が泡になるから、相手に思いを伝えるのを止めてしまおうじゃ、時間は待ってくれないだろう。しかし、彼は消える、でもなくそのまま泡になって立ち止まり浮かんでしまった。

     

     

     

    自分のペースは、

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    私は、まぁまぁ破茶滅茶で

     

     

     

     

     

    人の心配よりも、平気で天真爛漫に生きている。

     

     

     

     

     

    あり得ない体力と、人の、持つことが出来なかった知識がある。

     

     

     

     

     

     

     

     

    (ボコボコでも元気は元気だから)可哀想でない、と言う方が、

     

     

     

     

    本来の、

     

     

    母国っぽい。

     

     

     

     

     

     

    「自分でどうにかする。」っていうアツさは、

     

     

     

     

     

     

     

    誰でもわかると思う。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    それで、違うかったら違うと、言ってくれれば、

     

     

     

     

     

    凄く良かったことを、見逃せず、なんにたいしてかも知ることは出来ない、として恨んでいる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    「自分は可哀想じゃない」

     

     

     

     

     

    と、言い続けなければ理解されない。

     

     

     

     

     

    この時、しつこさ、

     

     

     

    悪い部分を自分に開け放つ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    ところに、方位的なそうさを感じたが、

     

     

     

     

     

    誰かの勉強らしい。

     

     

     

     

     

    誰かが勉強しているなら、済む。荷が、降りる。

     

     

     

     

     

     

    真面目なら、流れる気が良いから。

     

     

     

     

     

    この「伝わる」の意味を思い出している。

     

     

     

     

     

     

    勉強は、「食べたい」じゃない。

     

     

     

     

     

     

    「自分の心に手をあてる」方位とは、

     

     

     

     

     

    そこからのもん。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    大雨、雷だ。これが昔から続くと馳せても自分からは、全く繋がっていないような

     

     

     

     

     

    過剰なリアル感や「まるっきり家の中」の様な曇り、を感覚的に感じる。

     

     

     

     

     

     

    縄文人が、大阪弁で「そうしてるねん。」と微笑んでいた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    人は、こういうところに育っている、という私の自然体を感じ取って、許しているんだと感じている。

     

     

     

     

     

     

     

    古代人の言う感謝だ。

     

     

     

     

     

    感謝の意味の、その中の一つ、だ。

     

     

     

     

     

     

    美しいひとだな、と思ったけど、

     

     

     

     

     

     

    このまま話し続けていられる程には、

     

     

     

     

     

     

     

    自分は何かをしていない。

     

     

     

     

     

    屋久島にも行ってない、星空も見に行ってない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    母国を超える太古の教え。

     

     

     

     

     

    話すところ、古代人にとっても「社」は、かったるいことのようだったらしい。

     

     

     

     

     

     

     

     

    一方、大切だと思う人も大勢いて、

     

     

     

     

     

     

     

     

    学校のようだったのか。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    「修験」では、ムーは既に「足下」に修められ、「もの」が自分に入ってくる箇所は一つと決まっている。

     

     

     

     

     

    外部の誰かに希望を抱いて話しかけたい気持ちが零れている様な、大澤君が、ベランダの上から道の私を思い切り見下ろし、

     

     

     

     

    「楽しんでいてん。」

     

     

     

     

     

     

    と、言ったが、

     

     

     

     

    ベランダ、部屋、道、という構図からは、

     

     

     

     

    真実がまず一番重要ではないものだと、

     

     

     

     

    想像だけで出来ている二次元的世界を、自分の前に佇む景色、世界に

     

     

    本の挿し絵のように、挟みたいのだ。

     

     

     

     

    こういった新しい試みが、取り組まれている。

     

     

    新しい試みに向けて実際、取り組まれている。

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  • お化けは怖くないがお化けの顔が怖い

    巻きがある時、他の良いとき悪い時を分けて下さい

     

     

    上にお願いすることをこう纏めた

     

     

    それをしとけはどこも一緒

     

     

     

     

     

    あっぢもこっちも見ず、ただ上

     

     

     

     

     

     

    力づくなら力づく

     

     

    善意で言う、私に悪いことをさせたようにしたは、した

     

     

    なにか良いことをしてもらってて人生の最後に気付いたらいい、その時の後悔なら良いと思う

     

     

    自分にも分がある、善意をもっている

     

     

     

     

     

    自分に人にあるのは裁いてる、という言葉ではない

     

     

     

     

    逆に私などを裁いてるひとのアシになって仏に運んでやっている

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    円滑な自分から、全てを良くする

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  • 自分に出来ること

    桜木の矢

     

     

     

     

     

    避けるんじゃなくて、紛れる

    嫌うんじゃなくて無関心を指す

    そのまま回って自分に有る道だけで出来ている、これは真っ直ぐ。

     

    (これは真っ直ぐの私)といったら、房が付いたみたいに長く引く。

     

     

    長く引く姿勢にどちらか合うか。

     

     

     

     

     

     

     

    自分のご先祖と話したりなかった自分が悪いのか、

    誰を自分から引いたのではなく、誰がここまで引っ張ったのかを気にする。おおよそ強い理由はない。

     

    私には、いつでも意や徳をするから、それを取ろうと言う「威を借りた姿」でやってくるが、いつでまでも、それはいるが、そう考えてみたりもしても、(名を馳せたい後悔の浮遊霊、)余裕でそんなことは、私もはじめに考えているが、自分は人に見つかるような鈍着をせずここにまでは持ち越さないから比較して優れの方が自分は嬉しく、自分の注目はそこにしか行かない。

     

    彼を拝んでやるかどうかは、私の好き嫌いだ。

     

    悔しかったら拝んでやるといい。

     

     

     

     

     

     

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  • 豚の飼育イメージ

    イメージした豚の飼育(わたしの霊感世界)はこんな感じ。

     

     

     

     

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  • こういった延長にしか流れない時間

    90年から平成の悪い出来事は、惑星地球じたいが端のほうに旅し、

     

     

    地球儀の複雑な回転方法を見てたらイメージがつくが、

     

     

     

    自分的には、それなりに険しさを感じ取り、成長していると実感している。

     

     

    高差は地によってあるが、もっとわからない時間が高度な流れ方をしていて、険しさを心に締まえている。

     

     

     

     

    険しさをリアルだとして、リアルに感じていたらコアに行って終わりだと思う。

     

     

     

     

    若い時は、リアルを求めたけど、

    飲み屋で上司と話したり、友達と無言の会話をしたりする方が、恋愛に遭遇したりする方がずっとリアルだった。何故なら自分が死ぬと言う端を取れず、てんで年寄ってこう鈍くなった矢先に、背中をかいてくれとやって来る。

     

    人と泣けるより、自分の為だけに流す汚い涙や、死ぬことや、生死をかけた何かが、リアルなんじゃなくて、自分が死ぬという端を取ったことにエッジがある。

     

    大阪人の、「あなた、滑っている。」というサムイという語源だ。目が黒い。

     

     

     

     

    悲しいことがあって、

     

    またか、とテレビを口開けて見て思うのか、

     

     

     

    生まれた時から、平成からの今のこの時を、時間を生き抜いた自分から考えるのか、

     

     

    「学ばせて貰っている」と、いう真の意味はどこだろうか?

     

     

     

     

    ほっときゃいいのに私を押しどかして、私の先祖に話しかけるひとがいる。

     

     

    それを許さないのが守護神の先祖であるところだ。

     

     

    むしろ、「教え」てやろうなど言う人はおらず、全否定だと察し解るだろうか?

     

    魂が、仏の教えなど出来ないからだ。高差があっても魂が人霊にたいして、浮遊霊がそのナニカとする私が説明書になる為には、相手も仏でないと通らない!「私のことを説明してくれる」物は、手頃に求めに街に歩くことが規定となるだろう。私はそいつの後も先も知らない。

    湧かない、と言う説明の必要な守護もある。

     

     

    物を食えば確実にへり、確実にそっぽを向かれていた知れぬ時間がゆるりと流れる。

     

     

     

     

     

    そんな悪いことを毎日しているから、自分の肉体から追い出されて浮いて、案の定、まぁまぁ高所にやってくる。自分の先祖から追い出されたひと、つまり蟲だ。

     

     

    上は皆同じだ。

     

     

     

    (守護霊、色んな言葉があるが、自分でしっくり来る言葉を使う。)

     

     

     

     

     

    チャップリンみたいな、格好のひとが、

    何故か陽気なふりを無理にして、近づいてぶつかってくる。そして消える。

     

    「風船持って早く帰って。」と友達に言われていた。

     

     

     

     

     

     

    昔から蟲にまみれていて、見えるようになったがそのまま大きくなり顔のしっかり出て来た私は、自分自身の理解度も上がって蟲と混同される昔の頃とは別人だろう。

     

    人霊は他者への理解を求めていて、強い気持ちで肉体から浮いて来ている。こういった「もの」は、一生ほっといても良いから、因果や物事の定まりが理解出来る。自分が在れば「もの」は有っても問題ないからだ。

     

     

     

     

    周りが無理だったら、よそなんてもっと理解しないと思う。惑星の自転から遠のかれて振り落とされている様子だと私は「見て」、

     

     

    恥じらう気持ちなどがわかったら、忍耐強く目を覚ましてあげている。

     

     

     

    自分とこに理解されろよ、と思った。

     

     

     

     

     

     

    除霊も色んな方法がある。嬉しい気持ちとして「除霊されてんけど」と、言う煙のお便りがある。

     

     

     

     

     

    強度がめっきり吊り合いが取れていないのに、

     

     

     

    置いた石など、

     

     

     

    何でこんなとこにあるのだろう、私は怪我した。と、言ったら、

     

     

     

     

    何もかもをみようとしている、わるいやつを気配した。

     

     

     

    古代人にがっちり睨まれたと思う。

     

     

     

     

     

    自尊心はあるのですか?

     

     

     

    と、質問し出したそこに男がいて、

     

     

     

     

     

     

    私が、あなたがそれがわかったら見てくれる人です、と答えた。

     

     

     

     

    近くに一歩をさすように石ころが積まれていた。

     

     

     

     

     

    思い出したが、私は誰なんだろう、という哲学系で、

     

     

    友達が、いくら考えて言葉で理解しても仕方がない、

     

    悩みは解決しない、と言った。私は、

     

    悩んでいること前提で、それを初めて哲学や思想と言い言葉自体がそれから纏まりを避けていて凄い、

     

    浮遊霊に、辞書のようにいても、肉体から浮いた以上人間以外の全てを見ているのだ、お前はキメラだ立ち去れ、なる言葉を言えた。

     

     

    叫んだあとは、浮いたわけも知らないが、怒ってますよをどうにか説明し、帰りを説得する。

     

    よって、自分が何者かの美顔器具であっても悩みさえあれば平気だった。

     

     

     

    木、とはまず観察したら形としては、二千年以上生えた縄文杉などでない限り中途半端だ。何を完成させようともせず静かだ。私は自然が好きだからこうで良い、バツグンだと、これを理解してほしいのは、理由がきっと知ってて解るだろう。

     

     

     

    木と話すのに、自分で、好ましく、ふさわしく、文脈を取ってみるのは、効果がある。心が視覚化して正常になる。

     

     

    心が綺麗、心が汚いと、言うが、心はもっと生で、自分があらわす透明なこの概念や、想像が、形として取ってみせれるかどうかだ。

    出来るか否かが問われるなら、やってみる。

     

     

     

    ニコリ。

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  • 神のようなトモダチ

    世界に自分のような人や、私を見てくれている人が、もしいて、

     

     

     

    立体生活上では、自分たちと

    「重なったり、離れたりする」らしい

     

     

    そんな人を想像したところ、

    色んな違いを感じ取ってみて察するに、「それ」が、人間なんだとわかった時の気持ち、が不思議だ。

     

     

    運命と思い走っていく経験も大切で、

     

    意識が死んでるのか、誤魔化されているのか、心理的なものか、こういった気力がない。

     

     

     

    食い違ってても、偶然を含んだ運命を受け入れて歩んでいるだろう。

     

     

     

     

    こうなるときは、強い無関心的な関係を感じ取って、すかさず、それでも大切に「今」を選ぶ。

     

     

     

    向こうから私から感じ取れる気持ちにたいして何を言っても、ちゃんとハズれているらしい。

     

     

     

     

    近づけば大事に持つ厚みが、それぞれにあって、近づけない。

     

    私は私に集中する。

     

     

     

     

     

     

     

    こういった積み重ねが、基本と前にしているテーマからも逸れず、希望を大切にしたままある。

     

     

     

     

    あなたは、自分を教えた人に心置きなく関心せよ。

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  • 必要と不必要

    昔のひと、を想像しても、影も声も想像出来ない。

     

     

     

     

     

    仲の良い霊はある。

     

     

     

    ご先祖でも、別の守護霊でも関係ないと思う。

     

     

    そういう格調にたいしては名詞がないから。

     

     

    上にいるかたはみんなそう。

     

    その中にすっぽりはまっていくら形を考えても、考えても、それは単なる自分なりで現実にないのだからないのだと思う。

     

     

     

     

     

    血は形の感謝のかの字ではない。ワタシがいたからあなたがいることが出来る、こう話される口説き文句で、

     

    先祖、守護神、私、これらは関係とは関係がない。

     

     

     

     

     

     

     

    ただ「あなた様」が「あなた様」を見たいならどうかご覧になれますように。と私は和解する。

     

     

     

     

    こうする。

     

     

    私には理由がないからケンカしてもわざと自分から分けたりしない(出来ない)

     

     

    思うほど、当然あなたを思って早くアレコレを前に出さなと焦っていた。

     

     

     

    私がいるそこには「ダレ?」かがいて、

    自分を認識してもらえない、ことがショックなんじゃない。視界上、わかってもらえそうにない絶望のような

    わかってもらえる術がない(この時間)、たいして霊でもなく、肉体やお供えもの、これら他人を盗むを、「もの」という。それと自分とを別に思わないことであまり考えにくい。

     

    見ている者として言うに、おそなえものを、売った、売らないは、それがわりかし偶然じゃない。

     

    おそなえものなどは、私は売ってないから、こういった精神の限りで、普通に売る売らないの考えも「もの」でなくなる。しなかった、売っていない、ということの結果が、大切な場でしかこれまた現れない。

     

     

     

    こんな後に物事出てきても、ガクッとするだけで気を張り上げ、天の良いことを少し知っててそれと、話の訓練で前後の確実、その意識や。怒りたいけど怒れないのとも違い、怒るはしだてがなく理由が事前にあって怒れない。のは、怒りたいけど怒れないかな。

     

     

     

    私は狭い思いは気にならない、お家があるから。細さは気を使うので、今は下を向く(お頭を下げる、神覚えが今はアツイ)。

     

     

     

    確かにある時離されたことが、導きの証拠であったけど、

     

     

     

    教えることは静かに纏めてから。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分を見上げるために、平行に移り、暴行を繰り返したは、犯罪だ。

     

     

    自分を見上げるために、ダレにたいしても躾をすることは、同じように平行に移ろうとしていて、似ているから近い。

     

     

    正義感ではなく、前がない。私は追わない。

     

     

     

    こんなものの下にたまに私はいる。用意がないから通過しない、霊に話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから

    (明け放せない)ただの心。

    確信するために私は理由を色々握ってたてるけど

    見渡さないものの中で、私は私だけを見渡して、こんくらいあれば、心を描いてる、心で生きてる、事となるだろう。

     

     

     

    とがとになってとと言ってる。

     

     

     

    こう感動し合うとか、疎遠でも時空が合う。

     

     

     

     

     

     

     

    どうしても重要にならない「もの」

     

     

    私の前で私より小さい形になってる。

     

    私に浮かんでいるそれは、

    こんな空心を一切もっていないやつたち

    ただ者ではない、

    判るほど毎日怒っている。

     

     

     

     

     

    しかし、昔から気になっていたもの憑きの、ものの正体がわかって、

     

    非常に興奮している。

     

     

     

     

    そいつの足跡に構えなくなるくらい理論は成立しているが、悲しみは忘れられないくらい情がある、昔はこんな執念じみるより読み手ともなり愛想を嗜み、今は本をたっぷり読めていて、「せつない」「かなしい」とか感性を肥やすうちに何に向かわなくとも自然に覚えていられることをよく知ってる。

    辛いことを噛み砕けなかったから、毎回忘れて雲にいる過渡期、思ってくれてありがとうございます。それでいてもいつも巡っていた。

     

     

     

     

    街歌舞伎、暗転の思考がある。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    用意がないから通過しない、話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから、

     

     

    怒りたくても黙ってるときは、自分が希望した人間性を破るからだ。

    我慢だけなら我慢でいいし、

     

    恵まれが自分にあるなら一心かけなあかん、

    この責任しか考えなくていい。

     

    細かい事であるなら、責任は自分に向かうからこの言葉があるし、つよさに任せるなら当然、責任感とは別れを生じさせる。

    私は、上でもなく下でもない一心に置いて

     

     

     

    身ごと老廃物を追い出し自らの栄養とは分離を叶える。

     

    後はもう、自転する善に任せるだろう。

     

     

     

     

    私が、後ろに下がっているのは

    「誰か」にどかされたんじゃなく、今の修行テーマ「蟲」(ははがた)(ははがたは木のほう、ちちがたは道のほう)

    によっては、必ずこうだ。

     

    (必要ないとも思われた少名彦)

     

    それと、その蟲の存在がわかって間もないから。

     

     

    気になってる人が実は多いと思う、流れを扱う神仏がある、

     

     

    従い、これに使われる人を「巫覡(ふげき)」という。日頃の勉強によって、犯すものが自分を利用出来ないのが、文脈としてわかる。責める相手を、優しそうな私にする身では次元を生まず。「あの子」に言った方が勇気が湧く。

     

     

     

    私は世に暮らすを言う、

    私は、普通じゃないに決まってる。視線をまず気にしてはいけない。気配のみ、それを感じてこれだけで生きる。それが太くなった。気持ちをいづれからも隠し、恥じりもなく、花風思う変わらない姿勢を達成する。ではまず、目を考えるとき、地がどこに位置しているかを、一度見たら離さない。

     

     

     

     

    先が曇りだが、天であるし、

    この、前が曇りの私の状態でも歴史には重苦しい時代もあったと思う。今がそれでも、喜ばしいことには変わらない。

     

     

     

     

    時代に遭遇出来たことが嬉しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    気になるのは、

     

    こんなんがありますよ、こんなカガクと、注意や心配があります。と、おう見てやるよ、と気軽に答えているひとが、いるとして、

     

     

    私はその時そのひとに必ず発生している心の影りと、相手は、本当に気軽なのか?ということの心配だ。お金で済んだらいいけど、人にかかってきたら、

     

    そういう歌劇があって、それをみたから黒い化粧をしたくあって、計算もある、

     

     

     

    もしそうなら、低俗として、私からは土着や命といった責任からは、果てしなく追い出すことが出来る。

     

     

     

     

    カガクの自慢。この間に、こういった暗いややこしいことから声をかけられた人にもまた沈黙という言葉と言語があって、土着していることには私と変わらない和とテイシキがある。心は、感情を確かに含めて揺れてるしかないから。私はこうしっかりと俯瞰した先で人としての自他の変わり、ポスト構造主義を唱えられる。

     

     

    いずれにしろ、その人にある「他者」の存在が、妄念か空想かさらに想像か、人なんて、自分のように存在したものじゃないだろう。全てを包み込む人がいたら、神をとらえることが出来ないのだと知った現実をもっと旅して歩いてやるのだ。そういう人が本当にいた事の伝説を崇拝し、継承するには、自分の力を専念する事だ。影になり影としてより覚えたら、

     

     

    自分にある懐疑も晴れる。

     

     

     

    最後に、上から見聞した理由がただ喋りたかった、じゃ人としてでは気安く遅いのだ。成長出来るだろうか?

     

     

     

     

    自分が何をしてるかもわからない。

    自分がどこにいるかも知らない。

    知らないから何をしてもいい。

     

     

     

    立ち入るのなら、いわんや面があり、

     

     

    自分に解らないところにはそれくらい難解な強い世界がある。

     

     

     

     

    よって、明らかに「表」である。

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 光の新聞

     

    藝術や思想などのルールや言語コンテクストの意味伝達は近代市民のさまざまな生活様式にはステレオタイプ的にも不相応であり、それにもまして棚に上げて壇上だけが現場だとは言えなった近代では、時代の個人に表現を帰し事態を生き抜く力の痕跡が作品となりえたのだ。「リアルな触感」はダミアンやミシェクのように現代の高い科学技術でビジュアルイメージとコンセプトの足並みを揃えた名作のみならず、ポロックのドリッピングや郵便配達夫シュヴァルの宮殿、ぺったりとスタンプのようにはりついたようなリキテンシュタイン、なにもかもがごちゃ混ぜに結合してラウシェンバーグの混乱、といったものはわけのわからない行為は人生や哲学が混乱した形式として現実味を帯びる。何の感動や共感もなくともそれぞれの生き方においてはどの技法も密着したリアルな行為に読み解くことができるのである。どのようにして人が芸術というものに規定されたがるのかはわからないが、商用のデザインや、一度の印刷のみで役割を終えるプリントものなどを除いては作品は積極的な交渉のカードになり、人類の科学技術の財産と比べられることのできない個人の完全にオリジナルな財産となるのであれば、「芸術作品であるという通知」はより円滑にするための付加価値のステータスなのだろう。

     

     

     

     


    冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。

     

     

    (上を、思った通りに書く)

    冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、

    意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、

     

     

     

    言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。

    (これが大澤君。)

     

    記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、

     

    (全部、自分が全身で受け取っていた。ただで吸い込まれていない。)

     

     

    私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。

     

    (逸がそれる、その言葉で晴れる程度をわざと暗くする浮遊霊、その浮遊霊にくっ付く浮遊霊&ムーたち。何もわからなくて良い、ということは分かっている。浮遊霊を除けば良いと良く考えていたが、何が浮遊霊かの見分けは難しい。見えない攻撃をして逃げているやつだ。まみれていて形のなる、たとえ「ツクられたわたし」だとしても、そんなわたしを、上回る私は常に乗り越えている。ムーの合間にたまに映る修行霊「私」の除霊とは、浮遊霊ほどそのまま浮かせているタイプ。死んだからって許せない事は許せないと思い奮闘していたら思いと心が調和して浄化を深く学べている。

     

    ガイドの姿だ。)

     

    悪霊を捉える技術はあっても、見ることは難しい。ただ、祓いを知ることで世界を明るくするのは間違いないだろう。自分の世代が壁に慣れず間に合わなくても、鍾乳洞を思い浮かべるように、何十年、百年も道を踏みしだいていると慣れてくると思う。

     

    祓い、は単純に願いを叶える努力を自分に課せ続けることで、裏がない。ストレスを感じても排気量があるからフリーだ。

     

     

     

     

     

     

    そして私とはこれに似た。かなしそうであっても感覚的に大丈夫そうな気がするのは正しいとはっきり言う。

     

     

     

    大澤君は、何を言っているのかわからない所が腹立だしかった。一つ、悲しい思いをさせてしまったことに負い目があるが、そんなこんなで謝らなくても距離感が成り立っていた。)

     

     

     

     

     


    粘度が高いということでセメダインを想起させる手製の油絵の具だが、特筆すべき点は画質革命である。

    顔料とオイルを混ぜ合わせただけの絵の具であるから、したがって体質顔料を一切含まず、また単一顔料のみで作られているため発色が良く、彩度が高く、鮮明な色彩となる。そのため混色しても濁りにくい、ホワイト混色しても白っぽくなって狼色になりにくいのだ。

    幼生の気心に未昧(ふまい)さを思い返したのが好機となり、以後は手づくりの油絵具ばかりもちだす。しかし実のところ絵の具に対する不満を改良する昂奮などというのは書くことが発明である子供に、もの言ってもさっぱりわからないだろう。




    印刷の文化が人々の考え方や表現を変えてからは、絵の具を作ることが発明だとは誰も思わない。

    しかし昨年にこのような体質顔料を一切含まない絵具の新たな製品が世に出た。それが昨年に限定販売され理想的な油絵具の研究にして注目を浴びた、東京藝術大学&ホルベインの二社ブランド製品「油一」である。

    稀少で高価な折り紙付の「油一」(ゆいつ)と、お手頃だが目分量の調合で不安定な手製の絵の具とは比べ物にならないであろうが、
    いまのところヒビや割れ、シワなどひとつも起こっていない。乾燥が速く、定着がしっかりしているので(保障なし)、ブラック系以外はテレピンのみで大きく薄めても難なく使用できた。手製であってもそなりに、ソレに近いものが比較的簡単に作れてしまう噂のやり方を実施しているのが功をそうしているのだろう。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    フキダシを入れて漫画を作る予定

     

     

    山の者供

    2009/06/08

     

    日記・ブログ

    裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。

     

    (聞くだけで迷う)


    どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。

    これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば

    鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。

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  • 映画を観よう

     

     

     

    千と千尋の神隠しや、もののけ姫、ハウルの動く城などを観ている。

     

     

    どれも街と自然が共存している。ある学者が人間から出たから建物は自然だと言っていた。建物と自然が共存するイメージは、今、自分が自分の霊と闘っている姿と同じだ。

     

     

    徳の平等を感じない事には、こういった思考は無理だ。

     

     

     

    私は剣を抱いて豚を飼育するイメージをしている。イメージの為に関係ある町を自分に聞いて向かう。

     

     

     

    自分に何でも聞く私が着目したのは、生まれる前のことである。何と驚くのだが、自分が生まれる前に既に土地があることである。私は早速郷土と言うワードを持って自分の町の感覚を取り戻した。それから、感じた本題は、予想通りだったのであるが、、

     

     

     

     

     

     

     

    オタクだと言っている私の豚を飼っている、と言う世界観を考えている私はオタク。と言う身を誰にも言ったことがない。

     

     

     

    それを描くには、剣の雰囲気を形取る力がいる。もう出来ているが、差し金のような辛いものが背を引く。天に聞いたところ、私の磨き切った伝達技術による美しい背の姿が憎い、と話しかけているだけだった。伝達君と言って潔く、と告げたら、見れば、すっからかん。私の充実した感覚とは程遠い年寄りの精神は、水はねとすっからかんの言葉の意味と取り替えて、若さを取り戻してほしい。そう告げると笑った。私は空を眺めて、これが、山椒を噛む渋さだと発見する気持ちはどんな感動だろうか、そんな事で私の日々は完全に埋まっている。

     

    あるものだけを使ったほうが、想像が固まり吸い付く様に広がって行く。もっと考えれる人間になって欲しい。

     

     

     

     

     

     

    宮崎駿監督は、私は漫画の方も読んでいたが、自ら蓄積された詩感によって感じ取っているものを見せて貰っているような、

     

     

     

    「作品」というのはたまたまで、もっと続きがあることの様子にたいして伸びてくる夢みたいな葉が、定義を起こさず自分にはない印象が「家の人」を感じさせる。作品という緊張感を持って建てられた自分自身にはまだはっきり見えない、遠くに佇む家、

     

     

    アニメーションはどれもそうな気がする、近づいてみなければ近づけない。

     

     

     

     

     

    その輪郭がどこからやって来たのか、考えれば考える程わからなくなる。

     

     

     

     

     

    動物になるには自分以上を踏み込めないように、線は切り込まれ、似るということを諦めない。自意識にたいしてまるでパンクかと思う人もいるが、こう軽く飾っても良いが、しっかり設置した上でも飛ぶことが出来た。何でもない顔の感動が、形として正体をつきとめられ、とある瞬間が自分自身のモダニズムを壊すように黙って降り積もった雪。アニメの圧迫とはこういった見たままの感覚と、大きな目が合っているからだ。生まれた時から光を見ていた、と考えられる。光には目がない、と言っていた大澤君。その輪郭がどこからやって来たのか、長いこと考えるのは良い。

     

     

     

     

    私は、要るか要らないかを研いでいる。結果的に彫刻になっている最中、この最中が映るわけが知りたい。

     

     

    それが出来るまで、こうしろと言われた前に、こう思う自分を許せるか否かを考えている。「鉄の“ような”もの(なまり)」が、人工的な想像もするが、自然とするのは、作ること自体霊だからだ。故に避けるという動きが想像に加えられている。向かいたいのにこれでは、自分でプレスしなければいけない。自分の怠惰を笑い飛ばすようなイメージで言葉の練習から始めた「詩・メッセージ・詩」も、どこかに同人はいるようで、大事と思われる前は、取って付けた枠を守るというテーマについて行けず妄想の方が自分には面白く相まってそのまま乗せるとえらいどやされた。形をそのままに独自に所得したワーズに癒やされて何とかしていたら、成長している。

     

     

     

    私の町は「台所」と言い、鉛を、頭に置く様に修行した人もいるし、そういったディテールを持たず、自分に何もないと感じるが、感じれば感じるほど、幸福を感じている。こういった想像の後に自分を透かすように開眼出来る。

     

     

     

     

     

     

    今のこういう、新しい時に新今宮の新世界を見ると映えている。その土地はもとはどういった性格なのか、今やってることや、しなければいけないことに必ず応援してくれる。古地図だ郷土史だ、と物を学べるも良いが、何か、良いな、という感性が、物事のバランスと噛み合っているのを手放していない。何かしたといくら言われても、していないからしていない、やってるやってないのこういったが争いが続いたって答えるくらいならマシ。こういった絶望が不必要なので、無視をしているうち、無視の強さに関心をもった心霊なので、有名な心霊現象となったのだろう。逃避したり流すのが礼儀だと思う。

     

    何も持っていない、こういった感覚の親しい人は多く、大陸に出世している。

     

     

     

    立ちはだかる林のように、いくつかの暗い心を、思い通りにすべく、

    その時見た仏像に恥ずかしさを感じていた。

    巨大なキャンパスを固形の美しい鉛の代わりに取り出した。

     

     

    芸術とか大きなものなら、人としての緊張感の中で詰めた方が良いし、絵とか小さなもので良いと言う人は一人でも良いものを描くだろう。

     

    無茶に愛用を勧めている。無理には言えない。

     

    今、思うと持っている着物の接続器となるその広さではないか。

     

    そういった意味で、輝きを自慢出来なかった。私は、絵の苦手な人は何か悪いことのあったせいがあると、原因結果だけの板みたいにいうが、当たったらすまぬ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    そら

    2009/05/30

     

    日記・ブログ

    制作のための撮影と趣味の撮影がごちゃごちゃにアップ。
    こっちは趣味。

     

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  • 睫毛と目

     

     

     

    身を鍛え、造り出す道のことを、

     

     

     

    切り拓くといった良く動きのある言葉を、背負い込む。

     

     

    刀を持っていても戦えず、毎日途方に思いその日を暮らしていた武士の時代がある。

     

    毎日鍛えに励むが、輝きには考えを思う事のない限定された籠こそ空を舞っては、意味を持つ者を一筋の光から覗いた時、長い辛抱と悔しさが単なる水たまりのようでも心には浮かんだが、まるで話しかけ、

     

     

     

    本当に一筋に繋がっているんだ、と知れる。

     

    嫉妬というたがわない絵の具を、どこからやってきたのかどんな鉱物を取るのかを鬱屈した焦燥と逼迫の中ともプライドとも、回想とは光を打って、何だか無意味な、不思議な絵は指輪を探して行くのを堪らえている。水滴を「見る」為だ。

     

     

    何もない空間を、大きく縁取るあなたが、

     

    「言葉」でもなく、今だに憶えていることを、あなたの方法で聞きたい。私がわかるのは、何だろうか?を問う態度が基本姿勢が道に掛かってる。

     

     

    歴史は、私にとって意味を感じさせる時は、愚かさのことを考えている時で、優しさに繋がる何かとも違う。大切なのは今だ。

     

     

     

    馳せる、ただそれだけを理由にして受け取るのは、自分に解らないことだ。そこに秤り知れない何かを見れる。これが、同時なのだ。

     

    意味を忠実にあらわす腕力を鍛えている。

    言葉が、内容化する瞬間を、色としてか、形式としてか、こういったモノクロームの美しさがいくらでもしたたる。

     

     

     

     

    睫毛と目、滑らかに繋がる身体の像が、今は「みんな」を表してるように見える。一貫、と言う言葉だと思う。

     

     

     

    佇んでいなければいけない方のその理由がわからないように、「私」の顔は初めて輪郭を取った

     

     

     

    譲れない誰かがいて、対して自分がいる、鏡の中の、

    運命と言う敵でも、鍛冶屋は闘いに行くのだから。だから、気派手な容貌より棒を持つ人の方が映えている。

     

     

     

     

    行動に一徹を諦めないのなら、現行一致が心に宿るように、角を見做す。平面の誕生の瞬間をキャッチする。毬のスピードにまた対して筆とは響く。キャンパスに野が色付くときは、十分の歩数に意が求められる。何も描かれてなかったら、破綻したということが、何もない中では人間だというパスになる。形のあるものと、音楽を師とする様な形のないもの、これを自由に想像するこのある道。

     

     

     

     

    方法は、同じだが嵌らない石と輪を気にしている。彼が本当に唯一の相手なのか、今世、分からないのは、

     

    存在するかしないかを、説明を要する赤道のようにして、私は、こういう地図がある、イラストがある、アニメーションがある、こう平面がある。これと、実際不確かな地球の形が、丸であると知っていて、自分がこう関心があり夢を見るこの想像は、現であることとは、事象二つとして、赤道は存在する、と思う。

     

    詳しいことはわからないが、この増加の感じが、自分、私にあるべき生活を温めている。たとえポリ袋であってもそれが卵のように包まれた感覚。自分からわたし、という羽化の過渡期だ。仏に頼む暇よりも悲しみを感じている方が、無意味という題にぐっと近づく。ぐっと「かつて」の自分を引き寄せる。

     

     

     

     

     

     

     

    自分の想像では、

     

     

     

     

     

    サカナクションの「ルーキー」という例えば詩、があって、

     

     

     

    「行かないで」という国旗に、

     

    ・見渡して

    ・思い出して

    ・羽撃いて

    ・口づさんで

     

     

     

    という、この「私」の腹が、野にいるずっと昔からの祖から聞こえると知った。

     

     

     

     

     

    自分が早解りの為に、巫覡(ふげき)と言ってまた神意を伝える人々という責任を持って、これは巫覡の中でも巫女ではないが、そこに広い広いコンタクトを感じながら、己を知する。

     

     

     

    子供の頃に経文を読まされていた。確かに音感が良くなった。

     

     

    「己を知する」とは、昔から良く伝わり、緊張した言葉だが、間隔の実感とともに有った躾として、こういった流星群を読み聞かせる。説明ではなく、こういった礼儀の手ほどきが空間を拵えた上に備えられる。胸を打つ。

     

    必要をだけ携える。

     

     

     

     

     

     

     

     

    阿弥陀を唱える念仏の心の人も、自分で試したいのだと思うのだ。

    宮か役場なら、役場から打ち出す書の方でも、それが集大成になる様な、働く黒い蟻と思うにしてそんな者ではない。

     

     

     

     

     

     

    躾は、いくらやっても、動かないカラダとは、もともとあるべきものだけを吸収するからだ。「カラダ」というないこと、と有ることは似ている。総体として心の筋力をつける時間を大切にして欲しい。

     

     

    スピリチュアルメッセージという私の霊をまた一つの平面という次元の認識をすることを限定に、説明書など色々搭載している。

     

    こんなに何もしなくて良いトイレの存在を知ってるだろうか?これは、ウォシュレットといって蓋を開けるのも閉めるのも自動でしてくれる。是非、着目したいのは手間をなくすより、何でも一つにしている感じが、目をはっと驚かせる。

     

     

     

     

    感動は、こうなってる、自分の目の前にこうなってること。それこそを鵜呑みにしてしまう。踏み込む石と石が遠いって、入ってるんだから責任持って飛ばないといけない。飛べないんだったら、飛べるように。

     

    何故なら、それからどうなるかを、あなたしか誰も知れないから。

     

     

     

     

    私からはこれにて。

     

     

     

     

     

     

     

     

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