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2021/05/21
情報量があまりに多いので
うまく忘れたり、
何かを書いてうまく忘れたり
何の注意もしないで気を良くしている事だったり、
食って考えたり、
心を動かすことは大切だ。
逆に良い事を考えたり。想像する。
梅ラボさんや、村上隆の絵を見ると、
整理出来たり、目を清める事が出来るかも。
他人同士そうやって進んで一千年。
梅ラボさんのサイケな絵は、「情報量の多さ」として頭の理解を施してくれるし、醜さについてはたかぽんの作品がゆとりを与えてくれる、
「松ちゃん」が、降りてきたのだ。「勉強」になる、深い夜だったのだ。深く噛まなければなるまい。
京人(げいにん)っちゅのは、スターや、スターのあったとこ、出っちゅんはアイドルや、アイドルはスターや、アイドルつまりスターが現れたっちゅうのは、この世の終わり、のように本一冊読む事と一緒に辛いんや。
本を読みなさい、という事で「ベーシック」でした〜、アロハ〜、イキリ〜。ゲンキ〜
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2021/05/21
https://youtu.be/dtvGseqDA6I
こざるでって、死ぬかと思った
浜田ぱみゅぱみゅを観ているとおわかりの、
無頓着なアホやけどほっといてほしいのは本間の事で剣道着来たら何か耐えれるからそのままにしてたら注意されたり優しくされて1億年(わたしとは)
あるちょっと不幸なありふれた少年はダイナミックに転んでから地の果てまで落ちてしまい、喜びと虚無と抜け出せずに生きているので「なんでやねん」に共感する。
ぬいぐるみの「ねん」を云うとき、イーと断る、私たちを制御する光の怨念の振り付けで有る。
断絶と和を選んでいるのだ。
(舌だって出している。これは偶然の重なりをわざと誂えたプロモ。何となくそれを理解している私、とは別にレイアウトの美しさを思っている私の伸びきった動画。
かぁによく似てる。道頓堀川のように離絶した親友かな子の、襟懐は人を断るリスクの先は、道頓堀川のように深すぎて何にも悟る事が出来ないから、
私はおこっているのてす。その言い訳を聞いて、はっきりするんではなしに寂しさを埋めたい。飴玉を貼った私の日記を読んでくれただろうか。自分はミーハーだからとわかって身を引いているに違いない。田舎臭い大きな心を恥らってる私と違い、垢抜けているぬいぐるみ(かぁ)の佇まいが、「友達」という言葉を教えてくれる。私は大阪の事を考えると溜息が止まらなくなる。)
DA PUMPのUSAて光が形になったとこを初めて見たし、初音ミクの千本桜は、千本見るとして、
ジェーン・バーキンの新しいアルバムは最高で、
かにえうえすとも踊っている、、ような気がする。
東京が下座なら、大阪は上方やと、
如来がそんなナリをしていて、
難波を云えば、更に上京する行動に打ちひしがれて、
HIP HOPの〇〇さんの東京と云う歌が、私たちの目の黒さと、黒人文化をかけて、「話」を落としているのが間抜けである。まぬけ、と云う御キャラ。何でも織り込んで進むしかなかった東京の、東京での自己アピール、そこで何となく出来ちゃったキャラ文化である。大阪でそれがあったらやらしい。
何も、云わせない、情けない、無言が可笑しい、桜を見る。日本からくり抜いて、ちゃぷんと波に浮かんた帽子や、ジャパニーズヒップホップのカッコよさを夢や憧れについて思いを捲って、お歌の気品を再び知るのだった。
森くんはいつもチェホンのクラッシュのユーチューブを観ている。
何でも書く目的はあるとして事実を書くより理想に文を合わせていったら、古代的なのだが、事実をつらねるだけでもリアルストーリーは展開するからそこからなにかが派生したらヤバイので何も云わない。無言である。夢を、叶い安く。
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2021/05/21
私たちは、協力する心があって、
それによるから、「破壊」を取り行う超本人って云う人が有る。これが、美しいマシンで、
愛も美も守る私たちの美しいマシン。
やましさを、私は私で一つ一つ解いて来た。
自分よりも長い光が現れて
それにより、菩提、閻浮提、五蘊場を
理解させてもらっている。
天鵞絨びろうどのすこぶる格好いい「祖」にたいして、この敵か味方か分からない神に、甘える気持にて畏怖を表現する。悲しい、って云っても、大和は止めることが出来ないんだから、信じる力を養う。
女がどうとか、所詮ファッショナブルであることだよ。日本の兵隊さんが云って励みになった。恥らわしいと云えば、
しっかりしようって互いに呼びかけ合って、だから山を越え谷を越え、夕日が来て、黴の生えるような夜、星空を思い出し、朝を向かえ何事もなかったように生活を思う。だから堂々巡りではなくて、自分が人間で有ったら、高さなんていらないって矛盾しているけど、考えは洗練され、怒りをもつ。怒るって哀しいってことやろ、閻浮提で、そんじょの事で、は、無視するし、そうでなければ、理解させてもらう。恥じらいと云えばこういうことで、如何にも。
箆かんざしを持って居るという、云いつづける。小ボケに神はユーモラスがちゃんと時代に沿って、と主張する姿がかわいらしく、大和の連なりにして西洋的な私たちがまがたまや、刀に代わってスマホを持ち、その大量で有ること、雑で有ることから、低下した質を、古来に対峙して“円滑でない頭のわるさ”“うまくボケている、ボケてなければいけない”として差によって自分の身を抑える事で、和と云う本来の質の落差を縮め、回復させる。
身の差でも歳の差でも「気張り」を未来の人には伝統したい。
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2021/05/19
カビ、サビ、カビ、サビ、カビ、サビ
という面白い詩を読んだ。
黴が出たら寂び、黴が出たら寂びのツーテンポを、究極の悟りである。嬉しくって抱き合うよ、はある歌手の曲名。レコードが回るのは、まだ先です。なんの事だかは、いつもわからないのだか。
私も幽霊日誌を書いた。
幼稚園の頃は、のぼり棒で一番上の上までいくことと、鉄棒の逆上がりを数十回転をする。人並み以上に人懐っこかったので、良く拒絶をされた。それが、嘘付きの、私の始まりだ。
衣食住と聞いているだけで、素直に全て取り組み、卵二個と野菜を一杯、トマトと、その味噌汁と納豆ご飯(ねばりと念をかける)を、毎朝食べ、古着屋で薔薇柄の優雅な服を選び、無印のパジャマを着て、麻のシーツで寝る。チャクラ(気の通り)が陰部から始まるというのと、体の幸せについては、良く考えた。精神の恒常と云うけど、根は、土にも、空にも伸びるものだ。体や、精神に備わった機能を全て愛すことは、なかなか考える事が出来ない。
私は生き残った。
「高さ」をテーマに、三年前程から考えている。日々思う事は、「あなた」のその思いやりや、優れたところも、この世でない誰かといえば、おかしいが、精神に住まうその誰かは、遥か彼方だって見ていると思う事。「わたし」じゃなくて良い。さっきの真実を、口に含め、感じ取ります。感じ取ってはいるが、手一杯だ。高さというのは、上下、を考えていたが、天地は、上下のほか前後左右も、あるんだと知る。私はいつまでも、どこまても拡大して行ける。何かに、取り組む事の孤独が、凄く好き。
今日は昨日から何とDr.と云う日本の、欧州の、集団にsi500とsukebei、等の周りで邪魔する全ての“悪霊”で私は、四角く固められ、「一人VS1000人が毎日や」それが来た時皆と、病院と云うものを痛んで失望していた。
娑婆の世界は時間なんか関係なくて、武士もよくいて気さくに話をしてくれる。しかし、武士という身から、権限的に持てなくて身が歪んだ人も見受ける、そういうひとにぶち合わされては、びっくりしていたり「あるかもしれない自分」について考えたりする。
神は、神がいない時があった。「この様に、」生玉様の、御札を見つめて考えていると、医師と私たちと全員で全てのふこうを遠ざけ、神の話を聞くことが、中国の何者か偉い方の考えによって、その優しい医師たちによって叶った。私は光ってる。昨日から何度も苦しくて体中のエネルギーを暴発させたり
、暴れる。私の何もかもが停止しているから。生活も停滞していて、何かを神と誤魔化せば、物事も綺麗なままだ。神は命を信じてしまう。鳥が生まれたのだから。
悪い事をしたい者もいて、はしゃぎちらす。そういうことが一晩続いた。仏に括れがあるのか、曲線はいつも月を描いた。
sukebeiというのも悪がしこくで、昔、いじめたので、私は背中に穴を開けられ自分のうらみつらみを怪力でぶつけられるから、その中で私は、辛さで感情が抜けてしまい、人に心を開けなくなり、かといって私には過去や芯があるから負けずに冷静なやつになってやった。感情がないわけじゃなくて、哀しみを誰にも伝えられない事だった。開けられた穴のおかげで私の樟脳のなかで精霊や霊がむにゅむにゅと動いている。この世で怖いのは、母よりもお化けと思うので、私は胸から硬直して、泡を吹いて倒れる事が出来たら可愛いのだが、私の精神は木のように硬く、しっかり冷たいので、すぐに気を取り直してしまう。私に本当に興味を示してくれて、優しくしてくれたり、同じ志を持つ者もいる。大丈夫だ。何となくわかっていて、後から気付いたのだが、sukebeiの動きはどう見ても、魂がとうに抜けてからだった。怖っ
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2021/05/16
本日、作ったファッションショーのビデオ。
https://youtu.be/__3eG-FRAzY
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2021/05/15
僅かな冒険心を掻き立てて、
プラスの気持ちでプラスをよぶ方法で、
何が起こるだろうか? と、そこでまた考えるのだ。変に、情を通わせてもそこに物語を生むほどの積極性もないので、何も喋ることや、記憶はするだろうけど、何も覚束ないはずです。私は字を余し。どこにどんな目を向けるべきかは今の所不明である、英語のようにたったか進めない文学に拘っている最中で、わからない心細い女がまた情けなく、あまり、話すことの出来ない時期だ。
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2021/05/15
山や阿修羅界隈で見つけた
まぁ、下記のまろやかな世界系調査文などを、もっと纏めれるとして働き手にリターン(リリース)出来れば、追い抜かしは無い気がする。私も本当の苦労はこれからである。
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2021/05/15
仏陀は、
我ら親よりも海に出し、絶対に違うぞという船の、ゆくえの成功を願う事が、新しかったのた。
ただ、シッダールタと叫ぶからには、悩みがなさ過ぎた。それを補って埋めて行くのは私たちの精神。
シッダールタと云うからには、自分も寺かと思うが行き先は神社、で有る。
悟りとは、「私も仏陀になれますように」と神に対して願うことだが、気分が低迷している。毎日妖怪を見ている。要は、自分の徳は土地から聞けるし、徳が何となく分かれば、性格を信じれるように高めたら良いのだ!
高めること自体にそれが有る人も、頷くこと自体にそれがある人も、観察していること自体にそれがある人も、孤独でないこと自体にそれがある人も、
光は“それなり”の形をするし、心が清々しく、楽しいと思うなら、やらないと。でも、間に間に沢山の茨があって、その時は回り道をゆっくりして諦めないで居る事かも知れない。自惚れとは、優しい気持ちがする、自分を好きとは、眼前の相手を見ないとしても、勇気を持って勇気と云う抵抗がある限りは、そして上にジャンプして、立ち止まる。
愛情を持って考える事も出来るのだから。
折よく、機械だと自己を見なしても、いつまでもそう思った主観は、自我として有るのだ。霊の根本的に、それを実存と云って、「私は夢を見る」と云う気持の至って本質よりも長者としていずれも在るかのように思えるのだから、映画はいつだってちょっと哀しいので有る。この事を、こういった「水平」な事を、世界の定位置として、及び天地の線を引くこととして、人間の心に刻まれたら進むべき一歩を格段に縮める事が可能だと思い、何かを考えてた映画の続きを描いて、観て知る日が近づいている。
海の幸である「不幸論」は、幸福を諦める安き事では無い。ひたすら続いて行く事を受け入れる為の、綿100%クッションは手縫いで有る。
如来壽量品を訳すると
https://video.fc2.com/content/20210530FK1XT7gk
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2021/05/15
「許せない」気が起こって来るのを、細やかに宥め、努力して。
ぼうっと来る怒りと、云うのは、大抵自分の失敗について思うので有り、すると、失敗したと認めれば、対価として正しい道を戻すことが出来る。「悔しい」と云った思いとして、恥じらい、生を濃厚にする為に生きる。
(愛から)離れられないのが、定理として、これをそこで発見した。人間であることが実存的にあって、私は構えて居る。離れる事が出来ないという態度に関して誇りを持って、構えて居る。
気持、と云ったわりかし、小さなものに、これだ!と云ってやまない。人間、と云った霊長に対して、People
と云ったアホらしさに対しての回答が、「気持」だとか云う事に於いて思うのは、悲しさの余地が見合って、相当美しいと云う事で有る。何か感じる肉体の悲しさがその精神と和合する云う事で有る。
全身で「悲しい」と想った、白人の人に対して、理屈が、同じ位の深さなら、まぁ、この言葉の意味を許して貰えるそうな。
私にとって不都合で有るが、こう云う広大なまでに及ぶ心の清澄は大澤氏の赦しの努力が起源となって居る。「私」は生まれて、「あなた」、母たちを見る瞳、仏などに従えて、いったん大澤氏から嫌われてしまうと、もう這い出せない危険な気持が何となく不快なのはわかるだろうか。
この様な水に対して、心は、最初から何もかもが複雑な事であると決まりきった様に、心へ簡易に着する。「見上げれば千のタンバリンを打ち鳴らした様な星空」
京都の芸術で見かけるが、複雑で有る程天体に近いのかな、と思ったので有る。
機械の片付け方を、何者かは既に知って居るのかも知れない。
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2021/05/15
中国人に、裸一貫で、と声援を受けても、気持ちのカムフラージュをする事が多い。
私は、女で日本人だ。多分、拳に反すから、誤魔化し続ける事をお許し下さい、それは決して醜いかもしれないが。
心一つで、と云っても、こちらは森だったのよ。草茂って居ただろう。理に反するから、宜しくお願いします。間違ってはいないけど条理が立つ。
自分を知られない事は哀しいし心細い。「自分」とは?を、答えられなければ、人間の役に立たない。私は失っていた理論をせっせと上げる。
「どう思う?」と、側のギリシャ人に聞く。
我ら、日本人は波しぶきを上げないで、勢いを余らせないで、冷静に、若しくは沈着に、
発言してみる事の、それは世界的なユニバーサルの社会性に遭遇する。新しい「アピール」。
これはコピーではない。書物の持つ滑らかさを気に入って、絵の背景や空白に切り込み、飾るように歌舞伎絵をイメージしてる「走れメロス」の、富嶽百景の1ページ。
木原氏が、昔、小説を千切ってキャンパス一面に貼り付けて居たが、何かに対する物凄い抵抗と生み出した「発言」で有った。その横で日々私は未来や将来や今だと云った哲学より、母の他界、とゆうよりは18だったし、疑い深かったし、違和感と、そこから来る世間ズレを悩んで居たのだが、木原氏の「発言」に対して物凄く敏感になるが、そういった事は誰も助けてくれない。皆が「ひとり」であり、苦悩とモチーフの間にある恋など、が、自由に散漫した美しいアトリエの中。
褪せがないことを驚愕するが、「木原氏、歌人にまっとうな客観性を。」
あなたに対する震えを、ただのヤキモチに纏められてしまってはいけない。抱え込んで、発酵させていた。迷惑な音楽家よ散れ、こんな思いで私は立っている。そんな心理的な事はいまのアートにとっては邪魔で仕方が無くて、詩的な佇まいというものがからっきしほとほと下手な大澤氏をどうしても黒く考える。
私は気を使ってるし、わかってる、云うぞ、自分の霊感は偉大だと。
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