揶白 (KF)

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  • おおきにコーヒー

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  • 大阪の格調の奇跡

     

    コレ〈 才六、もう日も傾きに。

    日の暮れは早いものじゃが、くれぬものは米じゃナ。

    ト、ほやく。

     

    それどころか今から五、六百年前も前の万歳が、立ち舞える千秋万歳いづくにも

     

     

     

     

    「まねし万歳、来てもらい、一日歩いて米一粒」

    京都ではこういわれる。

    大阪ではそれが「米一升」である。

    いわば女性的な品の欠けている、ということで

    完全にオリジナルであるとか、そういった格調としたもの、

    我々は失うことの雅(まさ)を、それそうとしての美学を説明するのが難しい。

    カテゴリー内に居ない星の「米一粒」なのである。だとしたら、わんさか溢(あふ)れても止まない涙の水が、一升と例えられてもいいのではないか?

    この学問的なイズムを扱ってもらう、採用して貰うために上京するのです。

     

     

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  • 雑記まとめ

    「神秘にかけて、私は描かない」詩的要求は画面上役に立つ。故にいろんなことを絞って単なる絵の具と単なる思想の塊が、絵になれば。無有の、無有的な価値観はとうに整頓されている。

    昔は何でも「描く理由」にしたが、物を言いたい事を纏めることが出来なかったので、必要のない時期は必ずある。幻聴にうなされながら、平面画、(印象派の影響で、やってる事は全く違うが共通する事はある、)美の構造をエヴァンゲリオンから捉えていた。全く詩でも扱ったことがないのだが、アホではなく、忙しかった。
    こうやってデジタル化の進んでる中、純粋に目にくる、目に訴える作品を望むが、生活の中に一度埋もれてしまった。
     色彩を操る西洋画家たち。フランス絵画に憧れたが、今一度、自律して自分が浮世絵に立ち返って。

    印象派を見る時気が狂いそうになる。物や美への恋。

    頭に思いついた理想を描くには、モダニズムやそういった思想が必要だ。数打って研いで、考えて行く、ような思考法は自分には合わなかった。アール・ヌーヴォーや漫画のような無駄さが絶対要る、静寂である、という事からダダへ視点を移す。ダダの先には許容がある。強く希望を感じる。しかし、ダダ的な作品は絵的に拙く、広がらずまるで思想の図鑑かと思えるが、後の思想を大きく見渡せるから、やっぱり偉大で、ダダ以降に立っている私を色々考える、「考えさせた」のである。
    シュールレアリズムの憧れを捨て、生(なま)になる。そして、からの、私のモダニズムである。どんな絵になるだろう?デザインとは異なる実存である。デザインには夢がある。私は現実をくり抜く、そこに残る夢を塗る。 コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.19 (Mon) 09:13


    動物の色彩感覚は乏しく、二色か三色である。動物である我々は多く、色彩(ものごと)を感知出来ないのである。色彩とは光の表現だ。亜熱帯の極彩色の夢を見たことがある。「私」はそこで感じた真っ黄色のもしくは真っ青な羽を分けるように書いている。ゆるりと歩きつつ、感覚を取り戻すようにそんな成長の仕方、行きつ戻りつ。



     漫画家の方が画家より巨匠と云えばそうである。溢れかえってわからないがそういう人が多い気がする。時間芸術である。
    私もナイフとランプを鞄に入れて旅立ちたいものだ。漫画家はもっとイキっても良いと思うし、そのとき“私たちの目のもの”となったアニメーションなどは売らない態が、客の、作家に対する新しい角度を、つまり網膜に色彩を与えてくれるのである。貪欲であるとは、それ以外のあらゆる物事省いて行くことだ。価値があろうがなかろうが、ただ立ち止まり、適当に傷ついて、そういう対人間と自分の心だけに関わるとき、「私」は動けて、たとえ酷い中にあっても相手の文脈(ライン)を感じる事が出来る。何であっても、作家の奇跡度が漫画を読み溢した感情にある。
    漫画を読むが、読んでも詩などと比べて自分には何も起きない。この芸術性である、とは、思いっきりフィクション、思いっきり虚構、本を閉じたら次、と安く読める。
    漫画家を先生というのはいつからだろうか?絵に対して注意を払うからには先生だろう。先生を持たない私は、先生と言わなければならなくなった日を待ち望む。台詞の構造でも学べたらどんなものが描けるだろう。私にとって漫画は勉強で、アートはアートだから使う頭が違う。どこで始めたら良いだろう…詩的であることには、何も意図する必要がない。ここに詩を学ぶ意義が有る
    。それ以外、詩人である時人は本当に社会人として、エロティシズムとして役に立たない。そして人のアート性と詩は“似ている”。 コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.20 (Tue) 07:32


    画面を見ただけで私に夢が溢れてくる。
    私の性的な意識は一番ありふれた赤である。
    夢の構造には、「抑圧」がある。

    現実には元々無意識(夢)のレイヤーがかかっていて、私たちはメタを理解する。言いたいのはそのトップコートの質である。
    シュールレアリズム、無意識を現実へ、この試みは強い西洋学で、「私」にはそこに記されてある無意識は無い。客観性は他人のものだし、フロイト心理学の奥は深淵する森である。それを自分なりに変貌させた、単にコピーしたバラエティグッズ、そういった浅はかなもので無意識を扱うべきではない。三界に至る、という自ら自身の行為、そういう言葉にしたい。無意識を、ただ単に裏表だけの紙のようなものにして、傷つくのは心ではなく繊細な目である。だから、反抗する。「萎縮」である。時間は取るがその為が却って健康なのである。無菌ルームが“近代的に”物事を整頓するかも知れないが、イズムとは全く、かけ離れた事である、無菌ルームが神から遠いのではなく、イズムでない、ということが遠いのである。ただ単に犬猫が無邪気に包んだ無意識であり、睡眠しているように見え、思える。「私とはここまで意志があるから」、啓蒙の素材として為り得る。一個人一家のimaginationとはコラボではなく、ボケツッコミの和なのだ。

    意識の強さとは何だ?
    高さであるか、私は顔という言葉から何を省略し、または何を残し、美人を描いたのか。自意識とは、直に自分への興味であるが、外面的に錯誤している。女の内的な“入り口”を潜る「精神」は…
    こういった2つの平面画に対して、比較した時に格差があり、平面画家の私は、筆とキャンパスの摩擦といった性交を、絆を、ルサンチマンとして破る。漫画の散らかった布団から起きて詩を労働する為である!破ったのちに見えてくるのは、流れる水や、真のモダン、今云えるのはここまでである。

    いつも特別な朝ではなく、
    みそ汁とごはんorおじや、を繰り返す。コテ
    Member
    記事日時: 2020.10.21 (Wed) 18:02


    散らかった街の底に月が浮かぶ。
     美術が必要になってくる場合、感情のひとつひとつを星にした時、それを「私」はどれくらい持っていて、それで何が出来るだろうと考えてしまった時です。此の心の窮屈な箱に砂糖が花のようではありませんか。本の中で想像している。美しい苦しみだつた。川端康成の小説は、真面目にしていることと波波にしている事が合わさって目にちかちかした。





    熟練者は此の暇にモダニズムを見つめる。私たちはその目の勉強をする。先生と「モダニズムを考える」と云う一句を作った、理想(夢)が有る。
    毎日勉強してたら精神も強くなるだろう。
    辛抱してたら心が強くなるたろう。


    白っぽい考え
    開国して欧米が入ってくると幸せの概念などについて考えを立ち止まらせたり、思想の概念が昔と比べて大きく変わってしまった。
    取り戻すはずのなかった計算の方法、左右均等の取れた考え、私たちにとっては豊かな心。
    弱い精神を知り、今度は他人の強い精神に影響を受ける。
    優しさは何と、時に魔力のように人を引きつけてしまう。心は養うものらしい。私も自分の精神を鍛えたいけど我慢している、矢先に、自分に優しくすることも精神力だと気付く。非常に毎日を豊かにドラマチックに過ごしている人など、いったん素晴らしい世界を観ると、そっちに向かうが心頭滅却して信心を試してみたい、どこに行くかわからないって楽しい。何か望めて、何が見れるだろう。
    気持ちが黒か白かどちらかに偏ってしまうと、混色のグレーになり見失うらしい。
    俺は「GLAY」だぜ、と夢を云いたい。

    最終編集者 コテ [ 2020.10.22 (Thu) 15:11 ], 編集回数 2 回コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.21 (Wed) 21:50


    「学問」…菅原道真
    「嘘」…ついたら自分の何かを没収されて損
    。わけがあるなら△。
    「不足」…応相談
    「我慢」…数学を勉強したら実る
    「ラク」…我慢の先です

    梅田さん…おみかんとこたつ×ビジネス…故に新
       阪急で至福の一時を。
       そない遠くへは行けない…心中
       ビッグ・スターに出会える。
       ミナミの人間とは合わない。
       今は勾玉の知識について追っている。
    大阪さん 谷6…神が中国系、あらゆる川沿いであったためひんやりしてる
    隣町も知り合わない。

    ミナミさん…色々ある。
    心斎橋…品について

    四ツ橋…アメ村がある。王道の恋。

    堺(さかい)はん…町人が「俺たちで作る」と起こったまち。 コテ
    Member

    記事日時: 昨日 07:58


    星屑の学問である。

    硝子のはへんが小説のうちに、裏表紙に閉じられこれは溶けた。長々と読書して来た物語。物語というものは、虚構からくり抜かれた、掬い取られた「私の現実」である、物語も私もそれ以外に輝く方法げなかった。
    それにしても「私」はこの本を最後まで読んだ。読破した。
    同じ本をよんだり、同じメタ・フィクション世界に佇んでも人と人で自分の感想があるはずだ。


    一昨日は「漫画家の光」
    昨日の章は「神聖なルール」「恋敵貝塚」「大阪市民」おまけの章に「アンダーグラウンド」「分裂病」「県民の恐怖とこれから」「ご先祖様が猫」
    映画を観たみたいに肩をいからせていた。


    最後にタイトルが来るので、いつもなんのことだかわからないが、丁寧に捲っていく。 コテ
    Member

    記事日時: 昨日 08:50


    第67章「モラル」


    ・それを「場所」と云うのか
    「惑星」と云うのかで迷う人がおる。
    場所…アイデンティティの大事(おおごと)か、
    夢を叶えてしまった分、心が栄養失調になるのを、何にせよ避けるのがモラルである。本に敷かれたメディウム(ことば、台詞、ふきだしという媒体)の理解が理性的だ。
    心の豊かさがバロメーター、数値化され、人(一つの星)ではなく、物事を価値にして行く。そうすることで選べたら、自分に夢が再び降臨することを願える。そういった健康状態まで心は回復する。

    諦めない心がビリヤードを打ったように作用して、ヤングの小ざっぱりした纏まりを基準、ニュートラルにもう一度戻した。


    良い歌を思い出した。命の尊さである。うろ覚えだが、

    「遥か群衆を一人あとにして
    今日も聞こえる微かな声
    どこへ向えというのか 果てない空を

    何が幸せか 生きる喜びを
    すでに語れる言葉もなく 約束もないけれど
    苦しみでも悲しみでも 人は誰も生きていたい

    散らばった夜空の星ほど その時を互いに息づく
    我ら変わらぬ命なら
    もう一度目を覚ませ
    明日の朝に」


    私は既に人(一つの星)に依って、宇宙旅行に行けるのだ。誰に出会え、何を話すだろう?心にどんな事が起こるだろう?ミナミの街が宇宙改札に見えてきた。
    「まいどコテさま、気ぃ付けて歩きや。」

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    人間か人間じゃないか、と云う話はひとと昔した言及された事があります。第三者が居れば「自分が人間か人間じゃないかという話をいちいち考えるからややこしなくる。」と、言う人は必ず現れますし、お前は人間か、と言われるのをくちくち悩む時期もあります。詩からは逸脱したコメントすいません。

     


    考えるとすれば、何を考えないかと言うことで、宗教から民族を守るのかも知れない。そういうのって生きてる間、足の付く間に身につくことだからあんまり語られないです。
    インターネットがメール用だとは初めて知った。
    人間が宗教をつくっているんだから宗教は嘘だ…いヤ、本当に人間が作るのやろうか?
    玄こう様の認識は固いのだなと考えたりしてるわけですが、これって、想像力が書くとしたら答えたい気持ちです。関東の方はゼロ歳の時住んでましたが気が短いと言われてますが関西と比べるととても長いと思いますし、その分温かいと思います。裏で動ける気風と清貧のようなものがあるけどあつかましさがないです。
    馬鹿者は本当に居て心強いです、それが男女だと仲を決め込んで「私」を全て話したくなる。

    「人間何かを感じてるだけで良い」という躾が自分にはあって、大分悠長をこうして例えばしているのですが、何を考えないでいるかを大事に思ってます。人体実験などは、お前よ悪を抱えるのであれば今だ行け!って昔の人は思ったかも知れません、真っ暗ですがまだ希望が若し有ります。そう思うと今の方が絶望ですよね、や、怒っていて良いんですよ、絶望ってでも少なからず惹かれていて、悲しみとかの悪い状況じゃない。
    宗教と思想を混同した私は立ち眩みました。
    逆に何もないことってありがたいですよね、でも、何もないことは何もないんじゃなくて、何らか今だ形(つく)られていない、精神上、今だ哲学がみえない、花はそんな「無」の感覚です。

    え、人間ってそんな悪かったの。って言うのが、この詩にも伺えて、白い月がどこにあるのか中に探したりします。煙と添えてあって非常に美しい。その元で絶望だっいう噂をする。ペヤング ペヤング ペヤングと云って帰って行く「無常」の。その方向にいつもの常の、周りのおろおろしさを読みます。
    親を思って胸がきゅんとじわっと痛くなったりする暇がなかった。親を忘れるとそこに魔が入って来て、
    人の神は、佛が親だったり、母が親だったり、
    詩が親だったりするわけで、
    (人間は)少なからず夢を見るものです。親から一度捨てられる事はあっても、こちらには親を捨てる権利が無くて、自由はそんなに自由じゃない。なまえをたべたなまえ様には年上ながらに色々考え(感じ)て欲しいと思いました。


    私は音があるところ言語だと理解し思った、恋が始まりで、ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカと云うのは、タラークで、何て言うか、言語に意味があるのではなく、意味に愛があってニュアンスで言語が伝えられたのが、音があるところ言語だと理解し思ったのが言語如来の空の起源。これが中々続かなくて。ソワカという、「です」は、古ではなく、古来の品を伺え美しいと思います。菩提を離れてペラペラ喋ると、
    「おお、坊や強なれや!わたしキャラもんや、…道頓堀にて。」でも密教って言っちゃいかんのですよね。真言は詩ではないけど、骨格ではある。何故なら、乳がどこから来たのかを私は思う、考えると云う事を単に思考ではなく、感受と云うのなら大した事だと思う。マントラが詩を超えて居て、我らを叩き落とすために「真言」の梵字(詩)が光る。故に周りの人がどうあれ愛(恋)の向こうに行けるんじゃないかと思う。学ぶことが一杯ある。

     

    読ませる相手が不明、もしくは居なかったりして、読みづらい詩を書くのかも知れません。ここでお詫びします。この自己療養とは、この場合この詩に限った言葉でして、自己完結、を普段から真ん中に置いてるわけではありません。もっと完結できるように取り組みたいのですが、ここでは後から読むと抜かした言葉が多く、失敗ばかりでした。言って頂けて嬉しいです。私も人間的な、にはこだわってまして、こうなったと思います。ご感想ありがとうございました。


    読ませる相手が不明、もしくは居なかったりして、読みづらい詩を書くのかも知れません。ここでお詫びします。この自己療養とは、この場合この詩に限った言葉でして、自己完結、を普段から真ん中に置いてるわけではありません。もっと完結できるように取り組みたいのですが、ここでは後から読むと抜かした言葉が多く、失敗ばかりでした。言って頂けて嬉しいです。私も人間的な、にはこだわってまして、こうなったと思います。ご感想ありがとうございました。

    確かに自由は奥に有って、しかし慎ましくしようというところに奥底が有る。今も大変楽しくお話しをさせて頂いています。

    縁を諦めたところに裂け目があって、亀裂がある。けど無駄に紡ぎたくはないがわからないところだ。裂け目があって、亀裂がある、そこに詩を想う。
    しかし、統失とは「教えれない」立場らしく。

    14年間のキス、に知性を感じます。圧迫されました。
    やるべき事が全然出来てなくて、しかしこれから埋めて行こうと云う希望を感じました。東京は、全く新しい希望。そんな事が出来るかいな、と思うような。意外な事が、感動が小さくあって、宇宙のどこかでも、新星が誕生しているような希望。が美しく、、映画ドラえもんの世界。でも「そういう優しさ」と「その思考」って折り合えるのか、心配。

    多少の愚かさが要ると思う。多少の愚かさとは、生命保険、ショップ店員の押し売り、など晴れの雨傘で、一見ではあまり白くないことだ。ひとの施す黒さなら少し考えれば受け入れれ、
    14年間のキスとは、要は先を見る目だと思います。

    あ…、お読み下さって頂けてたのですか。私が精神科に掛かっていますのは本当で、それ故言葉一つ誤り大変なものになっていた、という怖れが酷く、失敗しないようにしようと思っても、無理で、最近詩の歌い方がわかって、直ってます。
    大変参考になりました

    考える暇を時々感じられます。「俺に脳みそはひとつもないぞ。俺に脳みそは一つも無いぞ」と、或る詩人が言っていたのですが、自分の考えと思いを全て纏めて消化したのちに自分からぽろりと出てくる、声になるのは、初めて発散出来る言葉だと思います。そこで分かるのは相手の気持ちです。優しい詩だと、感じておるのですが。


    返信ありがとうございます。
    文と詩人が違うとは、他の云うことなので、私も本当にはわかりません。本当にわけのわからない事で、こまっているのですが無明と云うからにそれなりに良くない事が御座いました。言葉を見出した後は非常に安心で、更に無明がこういう意味なんだ、とかを強く噛み締めてます。
    ただ学を受ける事と詩人は違う、とは私の思うところで、何を云いますかというと、
    無意味(キャンパスと一体になること)と、時間を無にする事は全く異なる、これ私の詩の師が云って居り、
    すなわち「無心
    」は良い意味での孤独だと私の解釈ですが感心し、気遣う術として、そのテキスト主義が有るのだと思います。そこに仰る自由があるからです。
    流動することが日常とは皆言いませんよ。そう捉えるひとの方があまり居ないと思います。やはり私は躍動のイメージを致します。「死の淵で死の意味を忘れる」、私にとって良い話でした。

    「殺してやる」選んでる事がひとと同じで、それを否定して
    もっと書けると思います。
    、詩を理解してる時、少なからずその人は詩人です。何が詩って、日本語の性質がわからないと馴染みませんよね。「私は肩についてる幽霊とよく勘違いされる」と云う詩をよく書くのですが
    が、こうやって人と話せるこの時間を大切にしたいと思います。

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  • 動画の咀嚼、アート


    「こうして仏陀は釈迦を許し、世間(よのな)から追い出したのである」

    エメラルドさんと云う詩人の方がいるが、
    一行一行が人々のものであり、一行一行は離れている。感じる行の言葉を軸に、自分の連想する事や思いを、応答するように綴る。とそれがロープになり、連絡網になり、詩が筏(いかだ)のようになり、川なのか海なのか、旅立てるように設計されてる。
    息をするように漕いで行く。
    文章が下手なのは最初だけ。笑われる時間は長いだろう。
    稼ぎ手(武力)と作り手(粘土等)は普段別だが、この場合は役割負担をしているのである。詩を理解してる時、その人は詩人なのである。

     

    「アート」

    アートはそれが思想であり顔がない。ブランド性がない。そう云ったものがない。


    梅ラボさんの作品とは、御本人の言葉である、これは死体らしい。
    死体とは何か?
    では、生物とは何か?

    モダン的な、即ち理想を一回作って、それをみんなで壊して分割し、作って行こうと云う、既存のものを突破するデザイン、詩についての「死」である。

    一コンピューターの能力が今まで見たこともないようなものをつくる。

    「パソコン」が制作の現場になった。
    パソコン上の空間が制作の現場になった。
    こういった無形のものから、プリント、即ち現在をする、そうして事物になる前の段階でパソコンで作っちゃおう、というわけである。絵に起こす為に、(「絵画」とは、単純に絵になる、とか、詩的だとか、神ががるとかそういう意味だと思ってる。)レイヤーを敷く、メディウムの事にレイヤーと言っているが、半紙を重ねて、平面的に働く。光を表現するのだ。
    アニメーションのキャラなどの顔は、あれは人間の顔から色々省略した線が見られる。髪はともかく、造形するとかいったものではなく、わたしたちの自然体が美しいと云えよう。)自分の内で塗り重ねたその圧力が光る西洋の油絵とは異なりつつ、「私が私になる」といった意味で他者から同意されるだろう。
    私の地元は大阪であるが、思想的に力まない事が善しとされ、観る人を見返す、「こうこうこういうことをする」「それをする」んじゃなくてあれも出来てこれも出来ると云うのが柱(はしら)である。
    それを裏切っているようで、非常に負い目がある。
    描いた少女を切って分裂させて、組み立てる。「パソコン」の怖ろしさを臨む。それがキメラである。キメラにせよ、学問は、あらゆる脅威から前向きに道徳へと昇華させる。人のアート性より信じたい所だ。

     

     

    身の回りで触るものが数年で変わってしまった。ペン、本、テスト、新聞紙、から携帯、プリンターなどのメディア自体を手にする機会が増えた。
    感受性とは、
    持ち運びの出来る画像、
    技術的な面の変化、
    それに対しての変化はおそれるにしろ、一般性を失うべからず。

    絵に印刷プリントをそのまま使用する、
    持ち運びの出来る画像、技術的な面の変化、新しい技法。
    私は自分の制作に印刷物を扱う事、使う事で、そういった意味のクオリティーを上げることで内面的に進みたかった。

     


    精神的になるという意味で肉体的な事柄の逃御がなされる。
    ギリシャの彫刻など、見ていたら所によっては受け入られたのかも知れない。例えばもし、神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、近代にも伝わる軍人の埴輪、万能の力としてある、としたら二度と使えないはずで、その中にいる身として、楽しくしてるから、許されているのだ。
    服が、馴染む。「動きやすいけど、禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この締めくくりで私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、幕府の整頓された考えより、古来を含めているし、何より美術は誰でも理解しているのである。

    「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かいたい。

     

     

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  • 人と光の関係

    本をそんなに読めて居ないから、にわかさんだ。学問のタマシイならある。
    普段に詩人と名乗るのは、知識の完成に於いて詩を含み、詩の最上級を手にした勲章であるから、詩人とば人を黙らせ、また億劫にさせる。詩人とは人を黙らせ、理想をうたう存在者だ。学問には余計な客観性がないからだ。光がまた詩人を黙らせる。

    私は自分に言い聞かすが、応援してくださる方は多い。
    こんなもったいないやつを正しいとする、自己弁護して、人を和めるのなら、と諦めない日々を送っている。思いつくが諦めない事が日本的な霊性である。そうだから、めちゃくちゃで、まず道理が通らない。


    過ぎたところから始める。
    だれてしまったところから始める。
    ここからが勝負というとこで、余裕をつくるためである。
    繰り返し覚えることで、フランス人のテンションに近づくかも知れない。
    中国人の博識に触れるかも知れない。
    これで一片を守って行く、どうせならそういうポジティブな事に取り組みたい。
    自分を、変えるわけではなく、

    自分のまま、宙を見極める事。太極拳でよくあるが、力を抜く(事が出来るのだ)。
    格好の良さというのはそういった内面の研磨なのだ。左右対称が本当の美人だと云われるが、こうね、光に真っ向から向かわなくても光に対して体の、心の均等をはかる。蛾などの害虫は、蛍光灯などを群がっているのをよく私たちは目にするが、蝶などの昆虫の様に、自分を認識したいものだ。
    左右対称とまではいかなくても、地球を光で守りたい。惑星だって実は球ではなく、歪んでいるらしい、それを模さないか。
    そうすることで、身近な光に気付くのだ。

    こうして、ギリギリに光を躱せ、精神的にはしかとした不屈不撓のかっこいいパンチを打つことが可能となる。

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  • あがり下さい

    寿司は醤油を舐める口実らしい。

    私は寿司女。醤油がための、出来損ないである。

    日々夫のこと(日頃気づいたが寿司と一体になるような醤油男ではないらしい。俺は男だ、と断言したままそれっきり意思疎通を図れない。)、ああした方がいいんちゃうかな?

    こうした方がいいんちゃうかな?と考えて、気をすり減らせてる。夫は白米があまり好きではないらしい。炊飯ジャーに佇む私。白米の代わりにチーズケーキでも焼こうかな。

    あまり話をせず、夫の素振りを見つめながら

    私はアホですから、そんな古風な家庭である。ふたりともおじいちゃん子である、少なくとも私はそうである。おじいちゃんはエイジといって、気の落ち着いた人である。夫とエイジじいちゃんを会わせたくて、けどそれは男同士の会話なので、私は感情を立てる時以外、身を引いている。敬意には見返りがない、と思う。私は自分を寿司だと思ったとき夫に対する尊敬が生まれるため、夫から敬意を払われることはまだまだない。実はそんな夫を許せないでいる。

     

     

     

     

    何度やってもあるとこ偉くなれへん。

    この世界はそういう立ち位置。私は、

    あなた、あなたの偉い人じゃない。

    あなたの偉い人やと思う。

    それは変わらない。

    あと私の偉い人はエイジじいちゃんやと思う。

    だから、片目で、「そう思えたこと」なんか宛にならない。

    私も精神を高めたいし、後に付けたもんじゃなくて、

    誰か、本当に偉い人じゃないのままに関わる。それはこなようにかもしれないと最近思う。

    いつだって影がある。それは気付きにくい、知らないのだから。あなたの良いと思うことが、私に良いとは限らない。心を閉じたいのに開かなければ駄目なんだろうか?心が痛い。

     

     

    タイミングやね

    絶望と苦しみの中で生きてる。

    どうしてあなたは絶望しているのかな?

     

     

     

     

     

     

     

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  • 性について

    男というのは、外に出ていくから嫉妬をまのがれられない性的に。その、性をのばす

    女も男もなにかしら緩和しとかなあかん。

    性をのばす、つまり人間をのばそうと思ったら、この心は、もっと美女、もっと美男がいるからだ。自我であって欲とも云えない。

    落ちこぼれだとして、落ちこぼれた風に少し知識する。

    清さは諦めない。

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