揶白 (KF)

絵画

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    Works 46

揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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    Works 46
  • 誰かへの手紙

    高い意思や意識世界。


    真偽の神を思っても、


    精神世界の曖昧なことは真で、疑うことは偽である、


    人を傷つけた、例えばこんな事も、

    肉眼では見えない。こういった天上の言葉であるがこちらの歩みよりによりだけ理屈を捉える「私」なのだ。身体(こころ)からの歩みより「見える」。これが想像であれが妄想だ、このようにもう視れていて、天の与えられた一物を大事にしている。自分に近づきなさい、自分に近づきなさい。自分の軌道に乗れば、夢中になるからほっとくことが出来るからである。こういう風に言える分は、自己内の面で傷を癒す事が出来る。どうか心配しないで下さい。

     

     

    現実世界を捨てて遊び過ぎている、だから浮く。まだそして押し戻されるのなら恵まれているだろう。そこで不気味に残るものもある。すると、

     

     

    要は、死世界で何か言語が聞こえても、迷っている霊を捉える。その為にすることとは好きな仏像に「この方が道に戻りますよう」「この方が愛されますよう」と連絡をする。そして、神仏と話す場合は心許ないという慎ましさの形がある、という点。

     

    精神世界は、有無のどうしてもない真空も有れば、更に、真面目に生きている人だけに福が付くの。

     

    後、自分はこう思う、自分はこうしない、をちゃんと形作ること。上の霊は見てちゃんと自分に出来る祈りしてくれているから、自分たちも徳を受ける。善悪は定めがあり変わらず、悪さもその逆も有る。善悪は在るものとする。霊に決めず見ることだ。木だけを見てたがそうしていて見えてきた森に、しっかり下って行った私自身の足に高い到達がある。

     

     

    自分的な「ご本尊」を作っても良いかも知れない。

     

     

    私は静かだ。興奮しないのは、神仏と話す際であるので前の狛犬から身を練習するのだ。地(じ)を立てる力、それが食いつく爪なのだ!

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  • 夜に対する慎みがない

    闇の神様がいる。勇施の方だ。

     

    水の神様もいる。偉く研がれた方だ。名前はない。

     

     

     

    性は人間だけが持つその特徴を、表そうとする。誤差もなく、苦でもない。欲は人間にとって良いものと悪いもねが有る。身体の正体を悩む、こういった学びには精神がを捉えることの出来る力を養う。そこで、動物は無性なのかも知れない、と思う。苦しみという感情は、生きる道についての口上であり、死セル死スベキ世界を語るものでない。相手と、違いが有れば話すことが出来るように、性が在れば同じようにそこに立つ事を感じられる。差の無い意識は天知るものだ。異なっても、そのまま歩ける地球の様に。

     

     

    日の神様がいる。私には方角ではない方位とまたこれは陰の司りを表せる。全て上手く行っている。

    夜でも朝でも日には、恥ずかしいことはない、足りていずにいてる所があるのがもどかしい。恥ずかしいことは、夜に対する慎みがない。時間を無にすることと、無は全く異なる。だれかが時間を無にするからだ。

    時間には神様がいる。

     

     

     

    どの方角にも方位にも蟲はいない。含まれないものが有る。人がそれを知り、明るくなった弥勒の方に海王と冥王が有る。静かと運動の二つだ。それは陰から起こり、陰には努力の潜む所であり、形を成さないものの流れる先に月が有り、その下、形のないものの先にやっと形を知らされる。有った道を再度、にわかに照らしている。水音、この無の方法の中で。

     

     

     

    知る、とはいつでも身体がある故にその直下の方向がたなびく海へと流れる事を知っている。

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  • 木祈り、私はけがいた木や

     

     

     

    けがく…荒い木面をすべすべにけがいて精製、せいせいしている

     

    神は楽しいの?

     

    楽しくならざるをえない

     

     

    神の歴史が。神は神の歴史が。

     

    神はいつ生まれたの?「わたしの解答」

     

     

    私がそれを好きになった理由「わたしの質問」

     

     

     

     

     

    もらる

     

     

    るという語…私には絨毯という厚みがない。巻かない。

     

    完成形がある。

     

    優しくなりたいのに優しくなりたいを紛れない時の中で目指さず(悟るという言葉は、アウトを進行中にしていないによる成立。普通に善に悩む方に誘導)溜め息。

     

    力ではない、精神の鋭さと鈍さ。この差異が多い

     

    裕フクと思って悪循環

     

     

    記でない期があり書(キ)があるから

     

     

     

     

    おろかと優しが似てるように、優しいの対義語はおろかではない。なんと呼ぶのか分からないが鈍器さえはこちらでは発生しない

     

     

    そちらが立ち持ちをしているのが、それは日本人じゃない!、、

     

     

     

    差異の値で勝手に心が人物像を映すが、悪くする程勝手に出て行くような形はわかるだろ。こうゆう本当だからこう仏界を見ている理の為。自分は生真面目な方だから舌を出すも何もない拍子抜けのするつまらない技芸であったな等等。さらば~

     

     

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  • 夢の工務

    変更    甲→孝

     

     

    甲時点での収穫

     

    文を書く時は羅文よりも理想文。言いたい方を使い、文章から一回離れて近づく。羅文とは、順序的、位置的。

     

     

    ヒント      背水の陣、不動の動き

     

     

    届け先     新聞屋、古墳や土着の闘志によったタワモノの数

     

    日刊飛躍「九月 粘りの鬼by尊不動」

     

     

     

     

     

    ~省略~

     

    一徳道捐(えん)、題目「ねずみこう考察」

     

     

    強くない人間からあって、自分は色んな想念の中をいれるけど、(何でかゆうたろか)

     

     

    班長全体がほど良く一人でいれる、そっから違ってる

     

     

     

     

    ①「よいしょするひと」言葉を経て 我もっと解る感覚でいれている!

     

     

     

    ②言葉が自分の中に力を持つ、とわかった時!

     

     

     

     

    (班長会議の中から抜粋した文。)

     

     

     

    「我」

     

     

     

     

     

     

     

    「得点」

     

     

    悪質なものを無視していれることに感謝、でも、じゃあこういうもみこみの最初って何なんだろう?と思う、私一人には説けない

     

     

    理由1…悪質斉と面することが無い、面していない、心からはもう排除している!

     

     

     

     

     

     

     

    家紋「菱に代わって仕置をせよ」

     

     

     

    ーーーーーーーーーーーーーーーー

     

    上餅「甲高い声で指示」

     

    完成した解「面することが無い、面していない(なんでやろう?何なんやろう?、この間の思考の発生。)」…咬み餅

     

    下餅「影っている、そこで大きな素材を細かく砕いている。次はその小さくした鉄を部品化する→摂津に輸出」

     

    やねんけど٩   (▼`Д´彡)   ۶  

     

     

       影で肥っている…

     

     

    経験値私は肥って顔が怖くなって色々気にかかって心中は痩せていた

     

     

    従業員は怖がり、こう全貌が明けることによって怖がらず解。(*^o^)/\(^-^*)(O.O;)(oo;)(゜ロ゜)(;==)」L(==;)(V)o¥o(V)(^-^)v(-.-)(-_-;)(;_;)(;o;)(-.-)Zzz・・・・(^∧^)(((・・;)( ・∋・)

    (--;)(-_-)

     

    「仕事」だから無欲に進める我ら

     

     

     

    →◆面することが無い、面していない、

    上餅にこの咬み餅を挟んでいる。これはマチミチを叶えるのだ。と、連絡解答を済ませた

     

     

    マチミチ…待つ、道、未知、満つ、待ち針、町

     

     

     

     

     

     

     

     

    要マップ…重なる矢羽の物化決定。

     

     

     

     

     

     

    想像界、こういった次元は、輪郭的には仕事という題材概念を超過しない。行という。「務」とは違い異なる。黙祷。

     

     

    それから神前に、礼(想像に及びここでは、神と会話を少しする)。こういった括りがある。

     

     

     

    良いかい?

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  • カモチの心の台帳、例文にすると良し

     

    何か心自体が腐っているもの憑き、追及心でもない…くさりない、クサリナイ

     

     

     

     

    わざと苦しいのは、業業しいと読む○

     

     

     

     

    ー金五円、あがめと親しみを思うからである

     

     

     

     

     

    仕事に対して地元の営業は社会ではなく芯一本を学ぶ、自分は製作かできたときてはなく、それは営業という言葉を考えたときに精神から営業の語か始まるものでここに知るための空白や沈黙がある。仕事に対して社会や仲間としてある学もある。菩薩が違う。

     

    -金五円、市ぶん伝達の為に必要な通り。

     

     

     

     

     

     

     

     

    ○か始まる。

     

     

     

     

    自分のペースを掴み、暫く続けて、付いた集中力で大きくなる。

     

    神社で神と話しながら。

     

     

     

    青銅(端におく物)

     

     

    対人、活気に生きていてそれを聞かすのは時間がかかる。

     

    モス(少し)

     

     

     

     

     

    ー金五円、家の為、あるじ

     

     

     

    ー金五円、自分の為、クロスワード、

     

     

    ー金五円、実現する夢の約束。薄型テレビ型の人、信頼のもとでこうなら出来るが、そんな悪い人はいないんだよ。パナソニック。

     

    +金五円、納得、心から可笑しさの瞬間をなぞる

     

    ー金五円、本当の趣味、白仙

     

    ー金五円、畏怖

     

     

     

     

    ★★★★★★★★★★★★★★

     

     

    もの憑きに憑かれるような人にの癒し

     

    どんな何れに蟲(ム)ー、が有り。一つのハコの中をでもふらふら自分見てはるだけ。しかしハコは奥行きの道なを持ち、名を下餅(カモチ)と言います、素行ちゃんとしてる。他人に家屋を見せず。その躊躇いによってハコと表れる。「お化けが、もの憑きが、」みえたと言われるそういう風には友達や物と関係したこともない。都度も言わない。完全な壁に安心して。壁を壁とする心にこそ「壁に目あり、障子に耳あり」やって。心開いたカモチからするとハコは、

     

     

    ハコにはタタもお化けも入らない。入れてるんじゃなく開いてるんだ。ト

     

    心や精神は開眼自体か万人そのあるべき歳である、その歳で、通行人や通りすがりの様な他人のカモチと心から理解し合えると思うのはモラル外れだ。そういうことを人に言う、

     

    →→→

     

    鏡や物としての袋道案内。何らかは感じ得ないよそであるカモチより、出会う友達には可能性がある。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 総じて基本とする事

    形はあるが掴めない霊、こうして形のない霊世界、光、いつの間にか人が人の為に原点にした蟲(ム)ー。それと蟲(ム)ーといった苦しみ(ヒカリものやお化けやもの憑きは蟲(ム)ー。こっち。足の態度がひとつもないから)、当然そばにいる菩薩や仏。それぞれが見つめている、目に逢える壮挙。逢える本当の主題。

     

     

    対面している悟り世界と、心、修行向上、見える物、

     

     

    総じてわかるのは、

     

     

     

    実際でも形にしなくても良いんだよ、詩心はあるけどね。と、いった言葉だ。

     

     

     

    現実世界の修行がゆるいと光の霊世界を見るなんてのは無謀となる。

     

    向かえば、正しい道に向かえば、全てを勝手に教えてくれる。

     

     

    焦りを取り払い、立ち方を学ぶ。

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  • 心のテーブルクロス

     

    テーブルクロスの技術。神社の中は特にそうだがつまらない格式が世の中にあって、

     

    何にも触れずに素晴らしいことを達成させる。布が引かれるのを見た感動が、自身がちゃんと陥りもう帰る事の出来ないような落ち着きを知らせ、たまたま側にいる人の作法の形成せる。対象という客体的な私として風を良くクロスに似せる。また風が自分は糸だとこの風の内容を語る。

    技量は帰らなくて済むような繊細さがある。地球といる熟練の技と土地の感覚が合わさって、(それが机だという理論が美しく四角を模す立体のその図形に夢がある。いはば生きることの熟練に魔法が付くのだと思うが、酔わない精神が何なのかわからない。)更に剣が添えられ固まりその技のかたちをはっきりと浮かばせる。剣を捉えようとしているのだろう。

     

     

    交差する限りどんどん重くなる心は、うずめいた大地がこう思っているよと且つ大地の好意や感情とそれを教えてくれている。

     

    何がある、あれがある、奥行きを自分自身で捉える息が良い。背景を描ける到達する初の奥行きの感覚は、平面移動ばかりに熱中するに手を出すようすは夢に対する泥酔と見える。この向こうをいくら進んでも全てのことが一切ない理屈は知ってるだろう。

     

     

    向上心、愛、この反れ合う二つがそろそろ同時に達成させる事の出来る頃である。この恵みを。かつては、精神をもっと研ぎに行くので、イザナミはイザナギから離れ大した別れを蒙るのだった。「道」という久しい概念によって、自身が生まれたときから確かに逢った心とやがて知る和の気持ちが道上に有り、手解けば手解くほどそうであってそういう古来と繋がりを初めて持つ今は、この採るべき自分にして。道の向こうを開いたのだ。そこに子供の頃と大して変わらない気持ちの懐かしい一番風がある。再び感じれた安心感は程よく緊張している。そのまた道上にはある猫の目の風景が見える。抱えた私という一人が「私」を捕らえようとするが何の取っ掛かりもない。捕らえられる!と思ったことがあるが掴めない空気の中で何の取っ掛かりもない。この猫といった精神的な小さな祖はもともと向上心がある。「しつこい」と人に言われたことのある私か目的の補正をして爪を持ちその下になって、長いことかけて改善した短所は人に与えることの可能なやっとの魚を取り出している。自分が人ではなく動物である人として、やさしさが背丈を高くしかさばって捕られていない動物という存在が目立っているのを見る。歴史、の名前だろう。道上から向かう鹿が見るにそれは上見では確認することが出来ない。ヤサシサという魔やかしの気持ちだろう。そんな滑る焦りにまち針を留めるのはそういった心の総体だ。

     

     

     

    出来ないことの少ない中で出来ることをする

     

     

     

     

     

     

     

    気になる背後霊と本物の霊を日頃のゴミ処理分別整理、生活ルールで鍛えられた能力を活かすのは反省をかなり通す時間が不可欠だが、能力に高めた力で分別しながら、気になる背後霊にスポットを当てる意識からは、色々やるべき事リストをなんとか印刷できそうだが、それに長けたのが私であるので印刷くらいならすべてを自分でしなくても頼まれても良い、と言う思い。未熟な自分と、目標を見比べ遥かに向かうのはどんな服装でも姿でも同じだろう。

     

     

    ま、これをする為にも流浪の姿か世間的認証を伴えば簡易に動く体を自らの手で育てる。

     

     

    それが私より上に来なかったらいいけど、それを見てる私から見ると神様が修行道でそう置いている、という違った現実があるのを何だかゲームの理解みたいで楽しいね、と友達とは話す。噛み合っていて且つ異なった現実、その相互の理解は、隙間は歩み寄り、神仏その門へ向かう潔さ、様々な努力で自力で補っている。そう思う気持ち、もしくは羽から。こうして何がどれかを分かる光の目を打ち出している。

     

     

     

    伸ばせるコミュニケーションとかこういったテレパシーは、無理やり誘っては絶対ならない。

     

     

    悪事をしてしまったら、相手の了解や自分の波潮で本人を苦しめるより余計神社や仏像仏閣地に向かわなければいけないから神も恐怖で緊迫してる。一人で知ること、人と知ること、出来ることを増やすのではなくそれが出来る。

     

     

     

    どこにいても同じだ、、と言う現実が寧ろ寂しくない。視界を新たにしたのだ。新しい視点に出会ったのだ。この為、心から自分を大事にする方法で、心中の自身損じる気遣いなどは捨てて欲しい、欲を言うならもっと身を任せて、そういう良い軽さのまま自分にとって広いところに行って欲しい。体のままに。それ程静かに存在してるのはある筈のない感情の相関ではない。

     

     

     

     

    まだ自分に自信のないところが存在する。欲であればその理解は勝手に取り除かれるし、目的に自分を沿わせた動きも追及するは喜びの二文字にある。欲も意欲もマイナスとプラスは自分が一番良く知っている。

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  • 道案内、シルクハットを添えて

     

    おぬしは受け方がしっかりしている。と、躱し方が整っている。

     

    そう見えたとそうは違う。それについて話す。

     

    ここにその人がいるから関係者で、その人は悪意で何か私にしたんだと思う。と、こう心があるとして、

     

    見える理由や推測を取り除いて、見る。

     

    こう見えるから、(こう思う)。「思う」じゃなくて、そういった推測を、取って現れるものを本を読むように見ていて、捉えることの出来る現実。

     

    曖昧さがある、その人には歳がある、そして許容がある、もう一つ判らないが枠がある、

     

    こればかりを、

     

     

    見えるという事まで水切りして、単に推測をどけて行く。ただ自分の普段見ている景色に馴染む絵画のような、何ともない静かな、つまらない、

    こういった視覚的この悟りを回転させる、という悟りの現実がある。テーマが同じでもその過程を生きる方法が異なる、と目を改めて二つ持てる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    現実、現実、現実、現実、

     

    思考では連想を一旦外し、想像をする。宇宙から任せている。こんな面々、

     

    そんなパネルを捉えることが出来ると思う。間を、重んじれぱ重んじるほど実際では言葉になる、勇気や実践的祈りも兼ね、出来るだけリアルな、生きていても死んでいても有る物だけの言葉で生活をする、こう言った細心が馴染む程元の自分はお高い。

     

     

    じっくりしていれば、人を思う現実と、心ある時の誤差に丸さが足され、人を思う気持ちと心ある時の、これらの段差ある自分が一致してくる。

     

    悟り、という言葉と同じように、

    人にわかりやすく伝えても、得れた方法は隠れてしまい、振り返った後の言葉じゃ遅かった。そう感じててよく覚えてて、方法、この線や過程を捉える教え方の試みに入った。

    輝くまでにしてきたことを自身で抑える、それじゃその名句になるほどの結果を出した自分の努力を、覚えているんだろうけど、自信を自分が捕まえきれず忘れてしまう、とこうなってる。

     

     

    心の底、だれもが目指した世界の深部から排気量を大きく改りょうした私となっている。

     

     

     

    無と空っぽは違って、どんな形でも一定であれば、関わりではなく、忠義の一本が存在する。失わないでいれる技術という事でだから、「無」この字にアツイ感じがある。

     

     

    心の奥では、世界はもっとこうだ、と思う一縷から、その祈りに取り組む絵画、映画、アート、様々な製作行為でも、世界をもっとこうする為の行動に、アボリジニーなど古来感のする、元の書籍の感触を思い出している。

     

    誰か、雰囲気を飛び越えて到達して下さい。

     

     

     

     

     

    日本人にとってはは異文化が思想に混えて嫌じゃありませんか、と瞑想をした時、「私」は、今まで見ている風景にエッジが増えた、楽しい、こう面白いと思っているよ。と。

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  • 有り難う。

    天満を歩く

    2023/09/03 ニューワールド

     

     

    裁判

     

     

     

    私は気霊が気霊となるまで努力し、昇華させた気功を叶えていた。

     

    悪い人に気霊が破れる、そんな思いをもしして、

     

     

     

    こんか良い人を!と怒ってくれる方もいた。

     

     

     

    私はまず、忸怩、たいたうう言葉を思いだし、精神の勢い良く通る光の中で、次に文化を楽しむことが楽しいとこんな気持ちを持っていることを感じた。

     

    いろんな知識が擬宝珠の心の中をぐるぐるする。それをノートに纏める中で、具体的に、光が光で、無量無辺の文脈より無料が無料だから、生きることもしたいことをするのも空いていて軽く、取りたいとき動けて、本筋を捉えるのも優しい。

     

     

     

    事件、と思う。心に起きた事。私は「心」この勇気を思いだした時、何につけても疑うことなく、こう思うと言える人の、このようになってる時代のその中で、こう枝の山をくぐり抜けてやろうか、一緒にいると言ってくれた。定めの中の遭遇した責任だった。

    心配を見渡しそうしてその先には、いるであろう嘲かりなんてどうでも良いと本当に思えた。

     

     

     

    一方を確かめられず、縁を縁とせず、事件を悪く利用されるかもしれない。その注意をして考えてみる。ここから騙される人もいるからだ。そこまでを捉え、本題を確認する、

     

     

     

    疑いもなく、こう思った自分がいた。

     

     

     

    私はまず、忸怩、たいたうう言葉を思いだし、それが自分にあることこの感情を持つことが出来ることと、文化を楽しむことが楽しいと、こんな気持ちを持っていることを感じた。悪い事があり、その後プラスに行動したのは私であり、徳はその相手自身に関与しない。自分を持つ主体が他や横入りするものをを気にしても、そうでなくとも、こうあるから。

     

     

     

    いろんな知識が擬宝珠の心の中をぐるぐるする。具体的に、それをノートに纏める中で、光が光で、無量無辺の文脈より無料が無料だから、生きることもしたいことをするのも空いていて軽く、取りたいとき動けて、本筋を捉えるのも優しい。

     

     

     

     

     

     

     

    それか、そうなら、裁判から人と一緒にあれやこれやをほそーく歩いて行く、出来ない、空に相談することでそれが単に出来ないことが判った。こうここで私たちの訴えは終わった。そこは、やさしい淀みが心を締めつけている。たぷたぷ、たぷたぷ続かせた。いま、この時訴えが締まり、終わっていました。

     

    心霊に移ります。神に及ぶ尊い道に遭うこの修行にけりをつけてやる、と、私は前を向く。進む最中、整頓されない思いが引かれ、浮くそれが、「わたし」を言う人、物、霊に及ぶはずはなく、それらが破ったものはていと自ら支払わなければいけない何か高いその存在を示す。

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  • 神札の袋

     

    ルシファーはどちらが良いですか、

     

    または、玄武。

     

    言語の左右より現れる言葉とは、

     

     

     

     

    あくとも異なる悪魔という手前卓越、匠という光は、ルシファーは、ほんずじ、もとすじ、どちらの味方でもある。

     

    本を読まなければ、元が回らない。

     

     

    家があり、父親、精、母木のことを考えられる。そこにやっと国の想像がある。

     

     

    身近な身体もまた王であり、個ではない国といった想像をする。これは、法華本にも書かれてある。

     

     

     

    起こっている物事の主題を「不思議」とする。そうした一定の辺が有る場合、器量と理解にある元の前後関係に変わりがない。と思われる。その道かその道から取り出した理解に正しめられ、その時に人が存在し、遭われる。大きな球と小さな球を同じ手から同時に落とした時は落下の速度、スピードも同じであると言う。「物自体は矛盾しない」とあるように器の語は、大小以上の個があり色と柄を持つ。

     

     

     

     

     

    欲は、人間にとっては蔑むが、また煩悩と言い、正体が蟲(厶)ーである。仏語であるなら、含められる知れない昇華された前述の光による試しが叶えられた天像が存在し、人は哲学をして悩むという行を達成させんと足を固く地に着け御手を閉じる。

     

     

     

     

     

     

     

     

    イザナギを見た人はイザナギを押し倒し、オオクニヌシも倒そうとしたが、人はこうした失敗と成功を話され神といて、それを自由と知る値が、上だそう、と噂される。人間にとって向上とは、自分の心部を拳を作り押えて、「上」と説くのだ。

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