揶白 (KF)

絵画

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  • 創意工夫2

    蟲ーは、何か言い懲らしめても、応えがない。

     

     

     

    みにくいもの、に対峙するは、知恵の絞りどころ。人の方の意欲があって、

     

     

     

    蟲ーと関係せず成り立ってる、この内省や観察。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    三昧聖と言って、 気高くプライドを持ちその一系の継承、その地蔵の一報と文化興味、関心、その態度、考えにたいして普通でなければ因果とは着かない事である。

     

     

    心的理解と死生の世界観、哲学、こういったことから自ずと理解をする、世間体の有る人間性を言うこと。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    イメージが行かず、蟲のひじりをしていって退かしてようやく、こういうスサノオ、本道を、みえない思いを、

     

    わかった。

     

     

     

     

     

    法とルール、限界のあるなかでそれを守っていく心の刹那とこうした人間世間の緊張感に耐える心の育成。この道で、このようにあり自覚を試みるのは、

     

     

    単に怒ることや、闇雲に否定することではない、

     

     

    こうした自覚の責任や、自身の関連するこの中で、

     

    感情を抑えることも、その責任の限り必要。

     

     

     

     

    メディア文化のなか、自意識に埋め尽くされることから、

     

     

    信じれる見捨てられた神話的わたし、

     

     

     

     

    それをちゃんと考え、自意識の底から、もう一度得る意識的自意識、次元性の間に、一番強さや精神を学んだ。

     

     

     

     

    「気持ち」が、出来ることその現実以上に持つことの可能を知った。益々、大切にしようと思う。

     

     

    人は同じ始まりを望むより、その差異や、主体と主観、客観、この観音との一致から始まる無辺の強さ。

     

     

    眼の強さから、信じる「ぶ」を思う。生活、この仏道。

     

     

    →煙草は太陽信仰で、また美しさは既知である。大和にして朱雀という、擬宝珠の一種。

     

     

     

     

     

    そとゆく者を、外道、外衆(げす)、突くに、くせ者

     

    痛める者を、邪教、

     

     

     

    と言う広大な仏のスケール。

     

     

     

    限界のある事、壁の有るなら壁が有る、この中を踏み切るのことの内に精神向上という形を生ず。だから、正気とか普段の強靭さ、そうする太い心を基盤にする。用意するための用意、として、古典の馴染みや、

     

    考えとしては、見なすことと、街に暮らす面々とした自分の身の上と、時代のきせつ。

     

    自の一致にたいし、右手の自我と左手の自意識、客観性、最も大事なこれを合わせ、考える。

     

    白く輝く曇り空を前に、ただ練習をする日々は、豊かなことの発見をするだろう。祈りでも、字でも。

     

     

     

     

     

    現実面の誤差、ドラマ、そのズレこそ重ね襟だと言わんばかりに、街は客観性で溢れている。

     

     

     

    物から存在する奥行き、芸術的世界とこれらの理性の分別。

     

     

    心のブレーキ。

     

     

    合わされないものの存在が、そこに空白としてある。

     

     

     

    慎ましく、尚且つ言葉を諦めず執着する。考える。

     

     

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  • 創意工夫と怒り方

    自分がやる気のある諸霊の供養にたいして、霊や元気が和合出来る自分の空気や胃が足りない、と言う状態。ぜったいによそ気のある他人の価値観が本当に嫌な音を立ていて、うつ病というよりはうつ病でしんどいところだが治したい。

     

     

    解ることは、自分から目一杯引き出せる、

     

     

     

    それは最大限の自身を望んで、理由もわからない面打ちを一生懸命取り組む、という理由だ。

     

     

    映画で観たヤクザが、はい、という唯一の愛想で、世話人の上司の話に返事をする薔薇の永遠と、

     

     

     

    虐げる現代人が、花摘みに持つときの花と、研磨の後に平面と他のノイズを真に超えた二次元、その実のある感動である。

     

     

     

     

    それに重ねる自分の胸の高揚が、嘘でも何でも、セカイ、内部セカイ、自分の心、イコール自分の成長とは。想像にたいして一番大きい、尚且つ自由な「顔」を求めて尽くすのだ。私はそれだけを二十かり毎日やってる人だ。

     

    私は文を書くのが本当に好きだ。

     

     

    「世界に誰がいた。」

     

    この様子を深く考えて欲しい。

     

     

     

    この心に有るのは、自意識、構造的自他の客観。

     

     

     

    せめて、それを重く捉える。悩む潔さは煩悩ではなく、我慢、忍耐と、信仰に繋がる詩学が出来る。

     

     

    詩学は、動くべきタイミングを教えてくれる。

     

     

     

    もっと整わないものを信じる生の強さや、その技術である。及び、このうちに技術という優れたものを内包させている仕組み、

     

     

    これらを学ぶ。

     

     

     

     

     

    武士道の、

     

     

     

     

    言葉の魔物に立ち向かい続ける事の出来る、決まった身体の姿勢。真っ直ぐ、物を見る。

     

     

    身体の姿勢は、真っ直ぐにたいして相違と差違の存在を見れる。

     

     

    柔軟、柔軟体操としてはこの、土着と身の地の空気に沿わす。

     

     

     

     

     

     

    気まずい世界の、ではこの輪郭を知りたいと思う。

     

     

     

     

    すなわち描き、捉える。

     

     

     

     

    絵画を制作するときは、

     

     

    ひとまずこの修練の前後段階の練習に

     

     

    私の理想なるを的確に写しとる表をより強く伸ばす為に、

     

     

     

     

     

    この模写では、写し取る行動は、

     

     

    イメージでひとりで書くよりかは、実際の物と睨めっこして、

     

     

     

     

    こうした抵抗のある態度に与えることを覚える。

     

     

     

     

    嬉しさでもなく、何ちゃないでも、

     

     

     

     

    イメージで描くよりも、

     

     

     

    仕上がりは、抵抗に携わった自分の感触と、

     

     

     

     

    そういった断突リアルがある。

     

     

     

     

     

    感動したことから描く。

     

     

     

    大まかに捉えてから、細分化する。

     

     

     

    こうしたものが、想像と言おう、そうして、妄想と隔たれ異なるのである。

     

     

     

     

     

    すぐに感じ取れる喜びではないけど、

     

    見えない喜びがある。

     

     

     

     

     

    相応するものを知るというか、自分の課題が解るというか。それを考えるきっかけは詰まってる。

     

     

     

     

    詰まってある。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    万華鏡のような光の心像、

     

     

    「これを、遊びと思えなければ。

     

     

     

    眼の開いた大人とは。」

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分の天上に自分の天上がいらっしゃるから、

     

     

     

     

    相談を熱くしてみる。

     

     

     

     

    自分の心、客観性、自意識を、

     

     

     

     

     

    なるべく持ったままで、きっと「こうできないかな?」

     

     

     

     

     

    とかすかに聞こえるのを、

     

     

     

     

     

    普段、少し考えてみる。

     

     

     

     

     

    自分の手がいつでも取れるようなテレパシーは霊的に高度で、

     

     

    こういった文明論は、

     

     

     

     

     

    心に留まること、その精神的強さ、これらがなくあっても今は降ろせないものとなってるだろう。

     

     

     

     

     

     

    すなわち、天岩に籠りっきりの私仙人は、たまに光の渦に降ろされ

     

     

     

     

    何かを言い伝える!

     

     

     

     

    激しく詮索をしなくても良いから、気配と言う長所や特技こそを、

     

     

     

    心経、般若心経、その言葉そのままに自身に厳しくして、

     

     

     

    感じ取ることの出来る元気な世界!

     

     

     

     

     

    神のお願い事に、人は畏怖のような過ちが多いと言い、

     

     

     

     

     

    希望、を言わないそうだ。

     

     

     

     

     

     

    自身の希望を捉えるは、手の中を開ける、心をカラにするとは、

     

     

     

    それを頑張るその為で、物をただ見易く澄ませているのだった。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    リアルを求める世の中で、

     

     

     

     

    自分が市役所や、区役所に赴くことと、

     

     

    買い物をする時の内観出来る想像の方が、

     

     

     

    自分に色彩感覚や、色んなものをくれた。

     

     

     

    一つ、辛すぎることとその悲しみは、そのものに対してリアルを求めたが、

     

     

     

     

    実に感触としてそうしたことを考えて、捉えられるものに対して

     

     

     

     

    は儚かった。

     

     

     

     

     

    世の中何も揃うなかの日の絶対的、この面に対して認知をふたたびすると平行に、自己成長のくだりにはじめて美学を抱いてからは、

     

     

     

     

    世代世の、知っておいて欲しいこと、

     

     

    存在する物語、

     

     

     

    としても、つらいこととは儚かった。

     

     

     

     

     

    肩幅に存在して良い、その世界観で、前方に自分の歩くを進行する一点突破を、

     

     

     

    前後、左右の確認、この意識そのものを太陽にする。自己以上の理解を省く、

     

     

     

    これを清まりと言って、

     

     

     

     

     

    長の神仏に挨拶をすることである。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    神ガカリではいけないし、神疲れは、神をみる。複雑な星空の心を衣類に型押ししたり、ポケットにしまったり、

     

     

     

     

     

    過去がなければ、今はない、と、

     

     

     

     

     

     

    膨大な量の趣旨選択をこなす生活では、

     

     

     

    街(もり)は色彩感覚を楽しんでいる。かつて師範代のサバイバルをメタに挟み、

     

     

     

    平和な海を当然、今日もすごしている。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    水に身を包んだままでも良いから、人を覚える。

     

     

    本道を言葉に戻す為に。

     

     

     

     

     

     

     

     

    口の開いたうすい壺ののように腐敗した精神は、

     

     

    村社会の、怒(いか)った「蛙神」だった。

     

     

    西洋神話のツアトゥグァに、記述がある。

     

     

    此の魔物をば天より誘い出せし術を知りたれど、極めて邪悪なる物故、未だ召喚せし事無し。魔物を捕え、幽閉せし術も知りたれど、元に帰らしめん術は知らず。

     

     

     

     

     

     

    ここまで連れてくれる、タニグクと言う蛙の警官は、水を浴びると元に戻った。

     

     

     

    悪くてテンパっていたので、私が怖くても親蛙がいたので、怒らないであげた。

     

     

     

     

     

     

    何がとも、こうした思考の為の想像する神をツクヨミと言う。

     

     

     

     

    三種の神器が口伝にあるが、今こうして神器と言い、これを「献上」するのは現代にたいして明るくなる今この時代である。

     

     

     

     

    神の献上とは、心にやや思うことで、詞(祈り)を導くその意味である。

     

     

    神語自体の難読といった性格をそのままに触らせる。

     

     

     

     

    のんびり、ゆるりと解れば良い。先を思うことだ。

     

     

     

    その秘密は、実生活のいつも残したピーマンや、孤独にある。

     

     

     

    緩和出来る記憶力の定着をさせ、

     

     

     

     

    すべて睡眠と瞑想を深めて行く。

     

     

     

     

     

    人生は、蟲ー以外の、人生のやり直しと、リベンジを精一杯引っ張って与える事が、いつも重大に想っていることだ。

     

     

    本質とうらはらなもの、それを考えて行く人生には、同一性や腰の座りが見れ、

     

     

    テーマや道を遠ざける事がなく、考えていける優しさは、本当に嬉しい。

     

     

    自身の性格で、対面するこの孤独にたいしても、凛々しく思う主体のゆとりが、悟り、即ち木々にある。

     

     

     

     

     

     

     

    良いものの為の時間を下さい!

     

     

     

     

     

     

     

     

    過去がなければ今はない、と友達が言っていた。

     

     

     

    最低を知らなければ最高はない、は、戦前の強い有名な言葉。

     

     

     

     

     

     

    苦難の中で、受難出来る自分を彫る。こうする冒険の上達、笑うことと、休むこと。

     

     

     

     

    こうすると、現代社会、その課題に心が鳴って、一旦、家路に帰るのだった。

     

     

     

     

     

    そう言って、強い寂しさや、個を、もっと感じれた小学生の自分は、今どんな傷も柔らかく受ける。その抵抗や摩擦にたいして、前向きに思って来た自分や、鞄の重さ、その日数は、この器に幸せと現在見る景色を通してくれた実感より。だから、もっと無欲に、日々思うことを全てにあっさり帰されるべき。すると、良い所から光を見る知恵や教えを徐々に授かり、得る事を知るのだ。

     

     

     

     

    関係も、会話も、

     

     

    度すべきところに従えば、

     

     

     

    こう口頭にし、言って臨めば、何も嫌なことをしないのだ。必ず身体性を抱え、苦難のなかで受難出来る自分を彫る。

     

     

     

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