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2024/02/21
「弱小」が何か? 蟲と自分を比べたとき、
自分はこうしない、
そうじゃない、
実存的であるが一つ分別出来たらば、変わるだろう。
その客観的視点が入るまで、少し悩み考えなければいけない。
おまけ、更に、下界とした外観を見出だせるには、そのこれまでの自身の成功、何かに達する終始を人の一貫に持てるとは、その自分の精神の一部始終に蟲が関係しないことをしっかり見ること。
蟲が、曖昧な良くなる明日と助けの中で、その距離を見れば実際には繋がっていないこと、よく見れば切れていること。
蟲というには、
仏教経典のように、○を何か付けて終わらせなければいけない。
そして、それを覚えることで判らなければ。
進むためには。
辛い思い、悲しい気持ち、○はこれをよく考え、書き残し、起こった事の総合した地図を作る。
どうか見えないこの気持ちを括り、はじめて荷が軽くなることを知って欲しい。
祈りの方法。内容追加。
https://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=116365
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2024/02/21
私の元ルーツが神職のほうで、巫子ではない。
祓いを心に込める責任が霊(ミガキ)にあり、易になりやすい。
祈りの文化も、
既存の文性を少し崩して、元に戻ろうとする。
洋服がかえって古代日本に近い。
北は栄えたくない、と言う。柄のないスタイルがある。アテルイの向こうにある。
島は南から始まる。都は心の奥、中心から始まる。
輿は、北から近くの東京の首飛びの墓、「これを覚えろ。」と言った侍の話しに繋がって、ヤマトタケルへの大國主の国譲りをふたたび思える。
土が凍りついた後の、極東や、自ら冥界からの、不思議さや神のリカイや空の相槌、地の粗筋、蔓延る苦にたいしての理性、継いでそれに告ぐ客観的態度、この実践、生きる正しさや悟りの争奪、この円滑。
これらはいつでも心もとない、透明感があるが、祈りは日に込められ、仰ぐといつでもわかる。
手を“実際に”日に翳す、この感謝や感じ取り方は、今までは判らなかった。
実際よくわからないものへの干渉や、
責任って
あり得ない。
良いことなら良いが、悪いことはそれ程に覚えて持ち帰ってはいけない。
本来、休むところ。
増して、そのうえ等に社会など作ってはいけない。
心の仏界は、気楽を示している。
神はたのしさを描く。
自分は人と同じ人間で、はっきり生きてなくてはいけないが、「綱」を携え持っているのだ。
間の光にたいして、普段穏やかな人や諸々の気に集まりがある、苦しみを原因とする苦集滅道と言う。その苦、蟲(ム)ーであるが、人があたらない、という意味のオオクニの言葉。
人の首と、八、このこういう図の似た大きさの、見分けを出来ない。何の因果もなく、平等に勝手にこう落ちるものがある。マイナスがあるという初めて踏み切る存在。
神と鬼を人の良い隙に良い角に入れ換えた、獣と言い伝えられるもの。
蟲ーの捉え方と完全な外観について (笑;)
蟲ー(カテゴリ)より
→https://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=131493
文を書いて祈る、生活をして供養する、これらには厚みが、人間には厚みが必ずあり、
そこかしこにおる蟲ーは、肉眼があって覗いていると電波でいうが、そんなことはないので、騙されないで欲しい。
全貌を明らかにするのも風と時間と自分の生命。
間違えた人は、どうか感覚をあらえますよう、自らよりも長にわけを話し気を戻しますよう。
私の果敢さを勇気に変えて向かわれますよう。スマホやコンピューターは、生活文化には曇りが有るが、文明にたいしてはとても吉。
こうした種だねの分別が、道を切り開くこと!
私の責任は、諸(モロ)が、人が、導き通りに進みますようにと願い込んでやまない事。
たいせつは、
心像、仏像が見えても、影には影があり、もっと大きな光や仏像はあるのだ。
風が風で運び、
人が気を高めて、その徒歩で降ろせた大霊と言い、実際のいまの現実界の実在を気にすることはない。
長の神仏に任せて、一度聞きではないことが、理解の進歩にあるから、
昨日とは違うのだぞ、と言うこと。
自分たちに世代や後輩も、にわかにいるんだと自分は解っていて、
前方や前が、こっちだぞ。
こどもたちを言うとき焚べる時にどうか?、
子どもの時は親には自分のことを我慢して欲しくなかったことの多くあり、こどもがもっと人なんて考えなかった、それを見分け、大人が光を浴びる時を、諦めさせなくても良い、
と、智や手の影を考えるのだ。
総じて、
ゆっくり理解すれば良い、という事に、
重点の注意、起こしやすい失敗や過ちに、自分ひとりが人を強行しなくて良い、
勝手を破れないことに膝を折る事。
と言う事だ。
それらのことや人自身を解る、この曖昧なあたかも雲間から射し込む光の筋、こういう天光を、
リカイ、といって、解脱とした仏教典から言われるのだ。
速やかに、潔くその仏心を成就させよ。抱いた仏心を叶えよ、
こう言う名文をそう思い、
その間、他は他として、心配を起こさなくても良いんだからね。
必要な声かけも祈りである。
天上のなにか存在(仏及び天子)が、滞りのない所から、回れる法輪により、手間と深い平等があり、
自知を深める、自分(人間)ってこう思うんだ、等、
修行一人、仏一日に成らず。今日もよろしくお願いします。
心配事を可笑しく生んでも、間にしてるのは、悪いことに線引くくらいの強さで叩かれるように覚えさそうと、無意味なんやん。人は美しいでその時間を済ますし、
心の奥深く入って自己を探求することもある。
一瞬に出て佇んでおかなあかん。誰か上にゆわれて、俺私守ってくれるか選んでくれるか、じゃない。
そこはずっと見てる。仲間も友達も平等で
、そこに贔屓はないねん。私たちには贔屓ない、厳しい方を選ぶと良い。
人間の話し。
だから味方を言うなら、何かをわっと探す前に落ち着いて死んだようにぼーっとしていて欲しかってん。寧ろ、自分に執着する中で、心に起こった事に観察と執着をする中で、
どんどん、本来の自身の運を取り返して、
だからその際全然自分(わたし)とか忘れてくれていて良いねん。
そういう、人が人との意思の一致が何とも光になって誰かやあなたの目に、何かを言ってるねん。それが言葉やねん。空っぽのとき受け取れる事の出来るこの大きなものに対して、こういう風に戻る、とかならあると思う。
精神界で見つける私が、知らぬ存ぜぬの竹薮に埋もれて、この奥に静かに見つめて修行している、と思ってくれへん?
生活上、靡いてはいけない。気掛かりや、
以上の注意もいらない。良いことだけがなければならない。
人の休む場所やねん。
実に、「仏さん」はゆうれいで近しくないのにく押さえたり追ったりしたらあかん、
時の運や、運や。
そういう生き方をしなあかん。
歴史の天皇の言葉が能、狂言のどこかにあった。
短冊を祈りにしてそう重んじるべきこと、物の言い付けだ。また見つけて欲しい。
Kyogen: The Humor of Frailty & Tolerance [EN/ES/FR/HU/ID/PT/RU/簡中/繁中/JP】
能はひたすら身体に従るから、心身にわかりやすい。文化か街にシフトし、風の立つ日である。ややこしくなる事にも道理があり、笑う、という動作を適える。
めでたいし、有難い。
その短冊一部(夏、笹に飾ってお願い事をする紙)
YouTubeで拝見出来る。
大國主大神 ookuninushi no Okami
ずっと真夜中で良いのに
何やってもうまくいかない
不動明王~大丈夫 No.2 hudo myo o
刀ピークリスマス
ヤリ捨てポイ
爆笑
G4L ヒロアカ ホークス
ア/ン/チ/ジ/ョ/ー/カ/ー
死神
闇auハンバーグ
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おにさんこちら welcome onisan Pelu
Temporaryあびばのんのん
善さはどことも変わらねど、土地感、土着性から、堕天(真逆の天)や、じとっとした雨や湿気、暗いままの夜、複雑な並木通り、この良さがわかって嬉しい。内向きの社会、をあらわれる照る華(外に向きたい)にたいして村といった客観性、ないし思想のこども。いずれもRough(ラフ)と言う非常に良い姿勢。
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