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2024/06/14
たばこを見よう。
ロゴの美しさを。絵巻きとして、煙と天辺に火がある。擬宝珠(ギボシ)と言い、感覚の良いとき、悪い物だとは思わない。
煙がまず力で、煙草には気持ちの問題があり、肺が悪くなり、数値としてこうある、実際に知ったこっちゃないがそうありそう言われる。
よって気が強くないと手が出せず、
「完全に悪い物」と私に押し付ける。そう知る本人が数値を感じ取れるかは明瞭ではないし、フライングがある。
ここ数年、自分の見知らない地球上におるなにものか誰か、が影から付きまとい「物」で私の感覚を止める。そのショックにより気分が自身の高いとこに迎えず、低迷している。
戻って、煙草の客観は実際というのが、まだ偏ってるからだ。いつも、受け継ぐ物として摩訶不思議の摩訶の痕跡を残す。
こうして、「見える」ことから、紫煙といった言葉は、これとして研磨されたものとなる。
インド人もアクセサリーとして煙草を吸う。
自分から始める私は、街に生まれた佇む時代人として人工という事柄と付き合う姿勢を、邪魔され続けしにそう。
しにそうになったら、そこに無意味に蓋をして
派手をして、教えを誘うに決まってる。
人間関係に戻って、付き合いたくない人とするこの気持ちは変わらない。心では光るのにリアルで駄目。こういったことが起こる。何か自分の中で、文学的なものが始まるだろう。
怨霊とは何か、つまり恨む気持ちなどを客観的に捉えれた偉い被害者であり、
また神前にして、感情を、恨むならあなたと言い安らぎ、事柄のみには注意力から関心を抱くがワルイモノを恨んでも仕方がないとわかるのだ。何もしない、と言える。
また希望の怒りや、発し動ける自然霊のこと。
解る、一瞬だ。この鮮明な理解を覚えれる人、明白なことに出来る人。
そういったことを「理解者」というのだろう。
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