揶白 (KF)

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    Works 43
  • 現に対峙することか、対面を免れたことかどちらか

     

     

     

    いまの自分にとっては大きな事が、客観的に小さいから主体的に解決出来る。

     

     

     

    命に関わらないのなら、真ぐに生活するのが望みである。時代と共に、その生き方を果敢に習ってやっと未来に教えれるから未来が見えるから、今しか信じなくて良いんだよ、と。

     

     

    それが、見える神託で、

     

    直ぐに生活をする、この神、これを神、神に関わらない人間が、勝手に何かをして良いわけはない。

     

     

     

     

    私は言われた「政治にたいして野球観戦が悪いと言いましたね、これがあなたの本当の敵です。」

     

     

    示唆説明なのかギャグなのか、わからないが本当の敵は自分が自分の味方になって明ける段階のことである。それは、不明を不明と一言にし捉え目標に向けて準備をすることを学ぶのだ。だから、私は仕事を続けるが、最も光に近く自分にたいして得策なのである。日々がそんな日々が単調ではなく、平坦でのっぺりしてると、刻みを付けることと異なってしまうのは、意志というものがもし、自己以内の想像なら、時代なんて一般とする船のようなものはないわけで歩調がほぼ有るような悟りを前提にするから空や光が存在出来るというわけじゃ。だから、地獄があっても、どこか客観視する自我があったり、それとなく緑葉を含んだり、大きな歴史に遭遇したり、また何も見えないそれそのものに着いたヒトの噂もあるのじゃ。

     

     

     

     

    ただ、つまり修練の大きさは、大小を超える為、

     

     

    古くはくちくち言うのじゃ。

     

     

     

    そんな守護が、一日ぽっかり空けた私を「知らん」と言わなければいけなくなるのじゃ。こうした存在は、生きてる自分と同じに考えるほど、生きてる人と愛し合うことを重んじ、大切にせよ、というからには神と同じなのじゃ。

     

     

    聞いても良いが、現時点力のないことがある、養えることがまだまだある、という声をこちらに渡してしまっているぞ。

     

     

    低血圧という自覚を愉しみたいから四時に起きて家を出る7時まで日記や詩作にぼーっと没頭する、健康が平均に直すことでもないなんて見えないのじゃ。

     

    起きてする太極拳。

     

    体操が、緩く、客観性主軸に安定した太極拳ご良いとまでの探す楽しさよりも、太極拳はどうですか?と言うには、侍が多いと言われる臨済宗の寺で習った事その事や、確かに名詞の傾きを考えるに越した事はない等々。要不必要が、問題の量より本人のやる気であると混同して認められず、今も混同されている。「濁し」の言葉を正されたその最中なのじゃ。

     

    伝えたい自主性、その自主を掴みかかりに行ったこと、語りかけるそのことが覚めてもないから照れていること。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日がな引っかかってはなれないもののことは、

     

    考えられるのは、理想が理想じゃない、つまり理想がしがみついたところからはズレていて発せなくなっている、これを理想が高過ぎると言って、可能事を持たない世界観なのかな、これが「現に」という教える人の現実をストレスでずらして“現に“理想に生きる人にぶつからせている。俯瞰すると、不一致から妄想をうみにして、夢と妄想を混同して「自己」この言葉を喪失しざるを得なくなり、理想つまり目標に向かわずそれから理想がごちゃごちゃになって、邪「よこしま」になっている。斯くして理想がある、ということのポイントじゃ。

    見て抱いたのは、理想に高い低いもないのかなと想像する。わたしの貯金

     

    ことば=ことばより、ことばに言葉があることが生として大切な基盤としたら、問題の、人と取り除くことを意味する邪、つまり祓い。理想を考え戻すこと、と可能とした人とも前方責任を考えるに付加添加価値かもしれない気持ちを超すのである。やってみたら何かなくなって広くなり落ち着いた空気が見えるだろう。どんな事も挑むことには、すっきりした気分である。急に手に戻った自分に緊張する、という高ぶった心地と。二歩下がると、総体として一つの目線の真ん中に有る岩が見える。

     

     

     

    丁寧に絞って取るから、無意識に届くほど広さそのものを感じれるので、自己矛盾の窮屈なまま、必要な身もろとも取るのは修行をやり直さなければいけない!

     

     

    紅葉を狩るのも、捨てることが整え判ってるから、せっせと働くことをやり、制限的時間のうち苔の上に残した赤い葉はとたんに花になるのである。こうして光は、未来に届くという轟の原理は遠方を望むときに必要なのじゃ。力には力みがいらんと言う。

     

     

     

     

     

     

    出来ることをやってみて、

     

    出来るということを私に表現して、

     

     

     

    この異なりに均等が無い如く 

     

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