揶白 (KF)

絵画

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  • 私の霊修行

    祓い

     

     

    冥人(めいじん)と、形なき達者、

     

     

     

    至っていて安全な者である。

     

     

     

    陽と陰の異なって同じ道を冥王星と海王星にたとえている。何かの関係を感じて心に夢を合わせて、それが添っていくように練習を何年もする。夢見る心地とは、自己の他にあるやたら大きなものとも違って、理想とは理や天地を実際手だけて見はからう。心する、心に受けたことをちゃんと纏めて感謝してるから自分の上や天井が仏で、自身の自戒の証明になる。

     

     

     

     

     

    このように、ペットボトルのキャップを浮かべる。

     



     

    これを「力」と言う。この小さく軽いが、プラスチックと言う物の間隔と理解。純粋にしたら力は、力の強さではなく、力のことだ。久しぶりに物に取り組み感じることをしたら日焼けして美しく見えるのかしらんけど、この中のネジじるしが、人間の心を描いているようにも思う。製作する時間があり、こういった時の流れと水星、あの何も特にない惑星の周回その綺麗な感覚だ。蓋、自分を閉じる、寂しさを閉じる。ラベルには様々な字や絵があって、世間との取り組みを表せ、向上する人間の痕跡らがこういった全てを霊の養いで、喉を潤している。霊グッズを神棚以外は100円で揃えるのだ。そして最近水晶を持ちたいと、思っている。

     

     

     

    これも、霊は得意。日本の十円である。

     

     

     

     

     

     

     

     

    見えない光。見つめ観察可能の本であるから人の養いを諦めない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    モラル。見えないものが、この方が見えなくて、そう合っているからやってみよう。

     

    自分はこれを一人で感じるということに乙があり、自分が動くほど、好きな霊は動いて、

     

     

    そこで何も考えなくて良い、無心のあしどりたちが、今日こそ山へ上る。

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  • 総じて基本とする事

    形はあるが掴めない霊、こうして形のない霊世界、光、いつの間にか人が人の為に原点にした蟲(ム)ー。それと蟲(ム)ーといった苦しみ(ヒカリものやお化けやもの憑きは蟲(ム)ー。こっち。足の態度がひとつもないから)、当然そばにいる菩薩や仏。それぞれが見つめている、目に逢える壮挙。逢える本当の主題。

     

     

    対面している悟り世界と、心、修行向上、見える物、

     

     

    総じてわかるのは、

     

     

     

    実際でも形にしなくても良いんだよ、詩心はあるけどね。と、いった言葉だ。

     

     

     

    現実世界の修行がゆるいと光の霊世界を見るなんてのは無謀となる。

     

    向かえば、正しい道に向かえば、全てを勝手に教えてくれる。

     

     

    焦りを取り払い、立ち方を学ぶ。

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  • 心のテーブルクロス

     

    テーブルクロスの技術。神社の中は特にそうだがつまらない格式が世の中にあって、

     

    何にも触れずに素晴らしいことを達成させる。布が引かれるのを見た感動が、自身がちゃんと陥りもう帰る事の出来ないような落ち着きを知らせ、たまたま側にいる人の作法の形成せる。対象という客体的な私として風を良くクロスに似せる。また風が自分は糸だとこの風の内容を語る。

    技量は帰らなくて済むような繊細さがある。地球といる熟練の技と土地の感覚が合わさって、(それが机だという理論が美しく四角を模す立体のその図形に夢がある。いはば生きることの熟練に魔法が付くのだと思うが、酔わない精神が何なのかわからない。)更に剣が添えられ固まりその技のかたちをはっきりと浮かばせる。剣を捉えようとしているのだろう。

     

     

    交差する限りどんどん重くなる心は、うずめいた大地がこう思っているよと且つ大地の好意や感情とそれを教えてくれている。

     

    何がある、あれがある、奥行きを自分自身で捉える息が良い。背景を描ける到達する初の奥行きの感覚は、平面移動ばかりに熱中するに手を出すようすは夢に対する泥酔と見える。この向こうをいくら進んでも全てのことが一切ない理屈は知ってるだろう。

     

     

    向上心、愛、この反れ合う二つがそろそろ同時に達成させる事の出来る頃である。この恵みを。かつては、精神をもっと研ぎに行くので、イザナミはイザナギから離れ大した別れを蒙るのだった。「道」という久しい概念によって、自身が生まれたときから確かに逢った心とやがて知る和の気持ちが道上に有り、手解けば手解くほどそうであってそういう古来と繋がりを初めて持つ今は、この採るべき自分にして。道の向こうを開いたのだ。そこに子供の頃と大して変わらない気持ちの懐かしい一番風がある。再び感じれた安心感は程よく緊張している。そのまた道上にはある猫の目の風景が見える。抱えた私という一人が「私」を捕らえようとするが何の取っ掛かりもない。捕らえられる!と思ったことがあるが掴めない空気の中で何の取っ掛かりもない。この猫といった精神的な小さな祖はもともと向上心がある。「しつこい」と人に言われたことのある私か目的の補正をして爪を持ちその下になって、長いことかけて改善した短所は人に与えることの可能なやっとの魚を取り出している。自分が人ではなく動物である人として、やさしさが背丈を高くしかさばって捕られていない動物という存在が目立っているのを見る。歴史、の名前だろう。道上から向かう鹿が見るにそれは上見では確認することが出来ない。ヤサシサという魔やかしの気持ちだろう。そんな滑る焦りにまち針を留めるのはそういった心の総体だ。

     

     

     

    出来ないことの少ない中で出来ることをする

     

     

     

     

     

     

     

    気になる背後霊と本物の霊を日頃のゴミ処理分別整理、生活ルールで鍛えられた能力を活かすのは反省をかなり通す時間が不可欠だが、能力に高めた力で分別しながら、気になる背後霊にスポットを当てる意識からは、色々やるべき事リストをなんとか印刷できそうだが、それに長けたのが私であるので印刷くらいならすべてを自分でしなくても頼まれても良い、と言う思い。未熟な自分と、目標を見比べ遥かに向かうのはどんな服装でも姿でも同じだろう。

     

     

    ま、これをする為にも流浪の姿か世間的認証を伴えば簡易に動く体を自らの手で育てる。

     

     

    それが私より上に来なかったらいいけど、それを見てる私から見ると神様が修行道でそう置いている、という違った現実があるのを何だかゲームの理解みたいで楽しいね、と友達とは話す。噛み合っていて且つ異なった現実、その相互の理解は、隙間は歩み寄り、神仏その門へ向かう潔さ、様々な努力で自力で補っている。そう思う気持ち、もしくは羽から。こうして何がどれかを分かる光の目を打ち出している。

     

     

     

    伸ばせるコミュニケーションとかこういったテレパシーは、無理やり誘っては絶対ならない。

     

     

    悪事をしてしまったら、相手の了解や自分の波潮で本人を苦しめるより余計神社や仏像仏閣地に向かわなければいけないから神も恐怖で緊迫してる。一人で知ること、人と知ること、出来ることを増やすのではなくそれが出来る。

     

     

     

    どこにいても同じだ、、と言う現実が寧ろ寂しくない。視界を新たにしたのだ。新しい視点に出会ったのだ。この為、心から自分を大事にする方法で、心中の自身損じる気遣いなどは捨てて欲しい、欲を言うならもっと身を任せて、そういう良い軽さのまま自分にとって広いところに行って欲しい。体のままに。それ程静かに存在してるのはある筈のない感情の相関ではない。

     

     

     

     

    まだ自分に自信のないところが存在する。欲であればその理解は勝手に取り除かれるし、目的に自分を沿わせた動きも追及するは喜びの二文字にある。欲も意欲もマイナスとプラスは自分が一番良く知っている。

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  • 道案内、シルクハットを添えて

     

    おぬしは受け方がしっかりしている。と、躱し方が整っている。

     

    そう見えたとそうは違う。それについて話す。

     

    ここにその人がいるから関係者で、その人は悪意で何か私にしたんだと思う。と、こう心があるとして、

     

    見える理由や推測を取り除いて、見る。

     

    こう見えるから、(こう思う)。「思う」じゃなくて、そういった推測を、取って現れるものを本を読むように見ていて、捉えることの出来る現実。

     

    曖昧さがある、その人には歳がある、そして許容がある、もう一つ判らないが枠がある、

     

    こればかりを、

     

     

    見えるという事まで水切りして、単に推測をどけて行く。ただ自分の普段見ている景色に馴染む絵画のような、何ともない静かな、つまらない、

    こういった視覚的この悟りを回転させる、という悟りの現実がある。テーマが同じでもその過程を生きる方法が異なる、と目を改めて二つ持てる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    現実、現実、現実、現実、

     

    思考では連想を一旦外し、想像をする。宇宙から任せている。こんな面々、

     

    そんなパネルを捉えることが出来ると思う。間を、重んじれぱ重んじるほど実際では言葉になる、勇気や実践的祈りも兼ね、出来るだけリアルな、生きていても死んでいても有る物だけの言葉で生活をする、こう言った細心が馴染む程元の自分はお高い。

     

     

    じっくりしていれば、人を思う現実と、心ある時の誤差に丸さが足され、人を思う気持ちと心ある時の、これらの段差ある自分が一致してくる。

     

    悟り、という言葉と同じように、

    人にわかりやすく伝えても、得れた方法は隠れてしまい、振り返った後の言葉じゃ遅かった。そう感じててよく覚えてて、方法、この線や過程を捉える教え方の試みに入った。

    輝くまでにしてきたことを自身で抑える、それじゃその名句になるほどの結果を出した自分の努力を、覚えているんだろうけど、自信を自分が捕まえきれず忘れてしまう、とこうなってる。

     

     

    心の底、だれもが目指した世界の深部から排気量を大きく改りょうした私となっている。

     

     

     

    無と空っぽは違って、どんな形でも一定であれば、関わりではなく、忠義の一本が存在する。失わないでいれる技術という事でだから、「無」この字にアツイ感じがある。

     

     

    心の奥では、世界はもっとこうだ、と思う一縷から、その祈りに取り組む絵画、映画、アート、様々な製作行為でも、世界をもっとこうする為の行動に、アボリジニーなど古来感のする、元の書籍の感触を思い出している。

     

    誰か、雰囲気を飛び越えて到達して下さい。

     

     

     

     

     

    日本人にとってはは異文化が思想に混えて嫌じゃありませんか、と瞑想をした時、「私」は、今まで見ている風景にエッジが増えた、楽しい、こう面白いと思っているよ。と。

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