揶白 (KF)

絵画

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  • 文学

    民主が彩りを帯びたときの成果

     

     

    その影に隠れた厳しさ

     

     

    厳しいほうが、かえってすいすい泳げる

     

     


    上から重される人しか怖いような力を持たないように

     

    持つべき罪悪感を持つ(頂けている心のこと)

     

    日本、全然この意味で新しいく、精神的な社会的でない態度でも、それなりに歩いて来た人も多く、うとみ難い。直し難い。

     

     

    自がしっかりしていると、変な方に行かないから、十字を切るとはまた「冒険」の為ある宗教かもしれない。いつかフォレスト・ガンプのような旅路に連れて行って欲しい。

     

     

    やさしさが確かと

    一時的な損をまのがれるが、腰が据えるとか幸せが定まるとか、養いにはならない。

     

     

    客観的に物珍しい、厳しくして「みたい」とかだけで、命や養いがなく自分に甘い。(歳をとった結果、大人、大人と不思議な概念をいわれてきた夢みる大人)そういう人から育てたい。こう言えるまでの夢想が長かったのでこのような「私の手順」やふざけた命綱の要不必要を大人に相談したい。

    「神の子はみな踊る」と、著書があり、子はまた親の養いになる。読む本を教えて欲しい。ビレバンや色んな古いレコード屋で探し求めていた口だが、これまでちゃんと歩いて来たのだ。大人にはつつしさがあり、また蛹となって固まってこちらの様子を感じているが、そろそろ羽が出てきても良い。まだ背の低い「私」としては興味津々だ。「外」があるとも知らないし、存在すべき言葉の前に嫌がって死ぬ。羽化した際は、ことごとく紛った「ほとけ」を食おうと思う。文章を育てて居るうちに逃げる虫にたいして、詩のほうが鋭さと整いがある。私は、50年代連合赤軍のファンだ。そこから二歩あるいて思うのは、この地で勝手に死ぬのなら間抜けであっても非常に怪しく思う。

     

     

    それ以前に、畑をはぐくむタニシなのか地球外生物なのか見分ける目を持っていなければならない。人は地球で文学をしたい。

     

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  • シャチの上を目指す

    悪行が悪行としても、確かに後清まっていて、たとえばいくら宗教問題の怖ろしさがあれども、慈悲との行くところへ向かう仕組み(えにし)などは納得する。

     

    「自分が神だ!」というやつが、怖いらしい。

     

     

     

     

     

    「日記」

    書けるといっても、さて字と地が似ている。

     

    山育ちが多いのか、しかし住んでいるのは平地とストリート。

     

     

    漫画にハマったよ。こんなに素晴らしかった!

    何を読んだかより次項の焦燥に耐える力が血肉になって残ってるから不思議。顔が、物のない日本では成り立たないから乱雑な週刊誌が魅力的、捨てもする。

     

    着物は、風や空気をさっちする機能性の高さ。

     

    やさしさでイケてるから、見抜く力が退化し眩しい顔をす

     

    もうちょっといない? 仏道でも入ったら? と、近代的非詩発言。

     

    労働階級、すすめはしない

     

    創価学会脱退するときの難しいお別れを、簡単に為(す)るというのがその仏道。

     

    死(い)きるのは、親の死や友達の、いつでも哀しめることの上。

     

    哀しいし、何でもいいや。お前の人生には触れぬ。一人で海を見つめ休んでくれ。

     

    祖国詩人と漂う科学記号

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 映画の教養としてもある

    自惚れるような心とは、「愛されていた」という事の、自分を好きだと云う気持ちにたいしては、しっかりした心があれば、

    目撃された時にも穏便に思える。

     

     

     

    邦画について考える時、わりかし答えもないようなインド的なものが多いと知る。その中で、最近は「告白」や岩井俊二など、ポンと飛び出た作品がある。何だかこの景も、明白なとした言語やカットを感じるが、これを観る知力がない。知力は理性や感情といって、理解とは拙雑な心の身でついしちゃう分析ではない。アメリカなどから下に見られる事が多いのも確かであり、自己はぼーっと想像を行為(し)ているし。それだからであり、いくらキリスト教が自分たちにいらないとしても、村上春樹が各々のある時期に読まれる、と聞く様に、何となくシンキング(成熟)する、という事のようである。

     

    こうなりませんように、を伝え続けるなかで、自分はこういう者なのですが、とはじめて“自分のこと”をお願いしてみれば、キリストとは、そんな筋道を立てた〈長者〉人間の神なのかなぁ、例え、動画でも、縁(イメージ)できれば、ああそうなんだ、と聞いてくれる、自分たちもそれは知らなかった。もし色々、神に聞かれても、普段と答えていけばいいこと。「誓い」は、恋人やボスに。人と人として伝えることも、自分らしく思う。

     

     

     

     

     

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  • 本を読むとは、硬いものを噛む、ということ。

    北朝鮮は人で有る、美しい警察。

     

    貝は、「名が有っても名乗れぬと云うのは、、」と話した。

    今は聞き取れないけど、貝が哲学を持って居ると俺はわかる。尾田栄一郎が貝(ダイヤル)と書いて居たので気になって朗読してみたら詩に散りばめられて居る。

     

     

    泡をふかせる位、懲らしめる。すると、私のこと を、やっとわかってくれる。その人は生まれ変わって善道を。こうして居ても、たえかねない野蛮な人はおる。この人に向き転生等、人手と手間のかかるつらみ、こんな実は何と価値の有るものを単に間違ってしまった者と同じ様にはやれない。例え与えないと云うこの意思や感情に、私は我慢して触れさせてしまったのだ。不思議な感激があるのか、自身、俺と云い出し映画にも見れるが青い炎は、お前に気付くことはない、無事ばかりの小説として詩人に成(な)らない、と思った。王朝は、底からむごい自由が始まっていて、血筋よりその辺の民から全てのリーダーを急に募集する、この制度と云えば「制度」。

    この辺から、人民や共和とかなどの言葉が実る。強くなければ夢に巻かれる。

    面食らい割れて、動けない繊細さが。お前が新しく知ったのは「言葉」ではなく、新しい言葉 だ。


    若し、美しさ通りスターを、考えているそれのみの下らなさと云えば、詩と云う心学のを、と早く決定されて居る。さえずる鳥などを知らないよ、と云う身の低さにたいして。俺、焦燥と有りし、溶け込む様に、一向に悪い口利きを自慢する。自分としてだ。

     

     

     

     

    曹々で有る韓民族は民族で有る。だから、彼(か)の整形は為(な)りであり、影にて我らの教師と為り、先ず生徒の特徴が生徒を自負するものではないから、十分な自己が有る。下位しさに気付き「です。」などといきなり話し出すおなごは漢民でもなく愛嬌がないからどこでも省かれる。

     

    心のわりかし既に形として出来ている人が多い中、考える事も一段多い。俺のように手を止めのんびりも出来ず、その中で自分たちに話しかける事のきっかけに気付く、この心根が、「労働(Iとしての歴史)」だと、情動の無きを一番何ともそれだけは素早く見(し)るが、大変無心にして加えられる。何だか、巨大なハアトを見ているが、俺も、詩や愛想を増やそうと、思う。兄は、上に立つ能力等は無い、上も下もなく、愛さえ、上「それ」が有るならIもそう思える、頭(ず)とはこうして在り。為に惹き付けて病まない。二人、三人瞳(め)が揺れたまま、得体も知れない仏像に隠れる。

    この時兄は、私が正しければ仏像が頭の痛みや逢えることの溺愛など、これを解消してくれる。温泉の札みたいにこう真似て記してみたところの兄自身、菩薩像で有るが、また微笑で有り、是非もないけど自意識にたいしては隠れた星として存続する。俺のほうが理解されていない。即ち、求めそびれた。

     

     

     

     だから、私の神は「我」とおっしゃた。芸術、人の想像力、不安、俺たちの御手を伸ばさせる兄の「人間らしさ」とは、最も時間がかかるのだ。人が人でないから、先人が人間らしく居れないの如く、「精進」と云う文化がお前の前にあれば、こうしなければ意味が無い。

     

     

     

     

     

    頭上のほうに、個性的で酷い、そして強い皮肉(にひる)が有るが、うぬぼれてもなく陥る事を良しとしないし、理論なんて用意して有る。強いるのなら、金は渡すけれ…、そう思ったのは日本人だが、ウクライナのウの字を、俺も今は心に出来ない。邪念とは、よこしまと書く。俺にとっては最初のほうにいた神だ。為、このまま自意識のない方が張りをもつ。逆に、自意識が無ければ死んでしまう。空が有るから、無意味と思える実存とはこんなにも無知だ。もはや、こう云った物をカネと呼んだり、普遍についての知識が有る。では豹変とは何だろう?怖れず、これを慕って考える芸術は、あたらしさ(むぼう)を常に捨てる。

     

    どこに役立つのか知れぬ国性と云うのもいい加減ですが、それ自体に清めることの意識と知能が有る、それ自体が鼻を折るほどプライドが高いのだ。人が、自らの国籍を云うとも違う、生きてたらなにか付いてきたのである、人としているとなにか理解して来た、それを母国やと呼び、「君」と云う。

     

    可哀想だ、重苦しいほど辛い、と思う中で、フランスは哀れみの哀まれることを、とうに直す。道や、騎士で有れども、拳銃で有れども、真面目に際を白くする。何かあれば、ギロチンや地獄道具を使って来たが、これは人にたいして早々とラクに考えられる。誰が旅行に行っても、恐怖して、ひたすらに角を云って教えられて来たが、このことで及び我々も「待ってください、ちょっと待っててね、」を云う。何も考えて居ない簡素な道具で有るが、物が歳を取るたび、近付きにくいほどの厳しさと言葉を持ち始める、有ってるだけで研磨された。ただし、太古は、「天がない」とお知りになって、石垣のつくった地獄的な村も、思えば歳を取る事である程度磨かれ本当に美しいのである。休みに「海外」に行かれ、俺は髪の毛にたなびかれるが、こういった道理や倫理観にしては、もう目を合わせることが出来ない故、俺は、「俺」に向けて一度省略しましょうと云う。マリーアントワネットも、民衆でも、悪人などいないような気がするので有る。悪人は、実際いるところにはおり、嫌が、それこそシャガールの様な、綺麗では有るがわけのわからない、夢想が俺の心にもぽつんと有る。絶対に紛れて居られないぞ、と、俺の知れぬどこに有ったかも知れない古着のナイキを、武装を飾って致し、金色(こんじき)の銅製の「ガネーシャ」や、「少年ジャンプ」を今後も無茶に知ったかぶる。ジャンプは、入れ替わりが有るが、何の質も落として居ない。

     

     

     

     

     

    修行をしたい人が世界中にも沢山居るが、

     

     

    「本当にここで修行したいのか!!」

     

    「はい!!」

     

    雪の降る門前で、三四時間待ち続ける。中から年上の僧侶が出てくる。どこの寺で有ったか、テレビで観た、強と得れぬこの憧憬、涙勝手に出る。お坊さんは、死体こう云ったこ難しいことの、この悩みを誰にも知られず立場を追行される。そういうものだから、仲間もその間柄でとくになく、一人だ。その中に僧境が有るのかも知れないが、俺等人と伴に有るのなら、その有るほどの、思う釈迦や如来が何なのか理解しない筈だ。教典が山程有って、山程噛んでみても、知るより知ると云う菩薩の修行は続く。神経質に彫刻を作って居るのだから、あまり話しが出来ない。

     

     

    有って許されない美しさにも、何かむごいほどの理由が有る。親様は必要なものだけを、取っていく。中国人、と云っても本当の名を知れず、実にライトに装う汎ゆる冗談ときっぱり、一切を祈られる。爆笑だ。

    俺を、「倭」と云い、馴れ馴れしく出来ないから、為に、許せない腹立だしさが間に間に生まれる。

    誉れで有ったり、夜が来たりして居て、安らかで宜しいのは本当に詩人だけで有る。李白さえ、この様に叫ぶのだと思う。「がんばろう」と、云うひとことの意味この。答えが有るとする、何故なら、美しさなどは見慣れて居て、人間は醜さにたいして知り得る事がない。それが、こう思ったとき、真面目に勉強が出来るのか不明、と問う。

     

     

     

    詩人に比べ、わりかし無で有り無色の美しい近代。近代人として私は、海と諸大地や陸の相違を、死ぬ程心配したのだ。「こっちに陸だ」と呼び掛けられる所の、進化について興味を強く思い思考するが、俺、魚(な)としては、トカゲだか何だか知れない変な足などを付ける予定はこれっぽっちも、ない。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    有名な曲で有る。「飛び魚のアーチをくぐる。宝島が見える。でも、お姫様は誰かと腰を振って居る」俺は微笑して聴く。空が歌(し)で有ることに、悲しみをこんなにも信じる世の、どうしようもない蹲った、みみ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 極道でござる!

     

    ハ、二度と見てはいけない女のはだかを、見てしまうというイザナキ、

     

    こら、

     

    神が、おる ということで、お前が神の力を持ってる とは違うんじゃ

     

     

    だったら、こんなにいろんな装備がお前にあるんならわしが横で書いたって説明させてたら、お前の本来遂行すべき人を守ったんじゃ

     

    底に愛がある

     

     

    わしは、お前が、他人であるし誰かさえしらん

     

    わしらは、他人であるし誰かしらん、この底辺 から、脱出しようとしてたのじゃ

     

     

    「あんたの名前はなんですか?」

     

    お前の任務は、お前の添加物なんじゃ、

     

     

     

    人は哀しむハ、お前自信はなくなるハ。

     

     

     

    人が、哀しむことと、05と、正しさゆうた「お前」の自信は関係がないんじゃ

     

     

     

    添加物?  添加物の何が悪いんじゃ

     

    耐性が付くのじゃ

     

     

     

     

    何がごくどうゆうんじゃ かす

     

     

    お前は、ヤクザ「だった」

     

     

     

    わしの文句は、怒ることじゃ。なんで友達に渡すエネルギーを気安い他人にあげるんじゃ

     

     

     

    わしはとうとう鬱、と云う字を書けるようになってよろこんでいる

     

     

     

    危険な女なのじゃよ、願いはいわんが

     

     

    ちゃんと、守ってね(。>﹏<。)

     

     

     

     

     

    気を良くしたわしの付録としては、苦しむことが、来世でも使える預金なのじゃ

     

     

    やさしくしたいのはお前の欲で、釈迦の云う欲は後ろ向きやこう意味からあほな未浄化霊が見えるほど波長が下がってて「眼」が弱すぎる。

     

     

    心がないわけじゃないで、心が「見える」この段階ではない。

     

     

    ゆいいつ代筆すること、

     

    光よりも死ぬ前に、お前は思うことが山ほど在る。

     

     

     

    くだらね

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

       

     

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  • 禅には礼がない、神前に礼。

    道が人通りなのだから、自分の気や身に合わないことはしない。

     

     

    精神力が足りないと「笑うこと」が出来ず、無意味に変に映るのだ。

     

     

    よって禅は、ありがとうや、「声」を喋るくらいなら、これは公式と聞いている。

     

     

     

     

    ムー(無)という釈迦の話は、怒りや人にたいして憤りの感情が、人間関係ならあるけれど、こう思えば唯一のマイナスという意味。

     

    問題はムーがなかったら、立ち止まらずにいれたことが多くあり、失敗しても良いことが、人間や人にはある。

     

    ムーと、悪い人は違う。

     

     

    霊感って精神力がいる。

     

    背後霊が見える、は、霊感じゃなく波長が低いだけ。

     

     

    霊界は何かを養うかも知れないけど、

    精神力は霊界よりも生活で養う。

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  • 倭国

    倭国は、古来の中国人が呼称した「日本」の名前だったんですね。
    弥生時代、紀元前150年倭人が漢の王朝に朝貢してる。
    七世紀まで、日本でも「倭国」と称され続けた。
    二世紀に日本で紛争が起きる「倭国大乱」
    それを卑弥呼が王になり鎮める、
    これは不思議ですが、そんなこともあるっちゃあるでしょうね。
    ちなみに邪馬台国は九州にあったとコテは考えます。コテ父方の祖が九州で、私も強力なスペックが有る。
    大阪人からすると九州は豪酒、豪快など花があって、それに王朝、いいな、どんなんやったんかなと思う反面つまらないなと思う。
    それから古墳時代(大和時代)とほぼ同時代が七世紀まであって、
    飛鳥時代およそ700年頃、難波京が
    大阪もまた大和朝廷のくだりがあり、邪馬台国の噂があるが、このことだったと思う。九州の花をつまらないと思うのはまたこの時とても一生懸命だったからだと考える。それは今でも強く称えられる。対して王朝は苦労と云うよりは、


    男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。入墨は国ごとに左右、大小などが異なり、階級によって差が有る。
    その風俗は淫らではない。
    男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
    着物は幅広い布を横で結び合わせているだけである。
    稲、紵麻(からむし)を植えている。桑と蚕を育てており、糸を紡いで上質の絹織物を作っている。
    牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。
    兵器は矛、盾、木弓を用いる。その木弓は下が短く上が長い。(和弓#弓の種類参照)矢は竹であり、矢先には鉄や骨の鏃(やじり)が付いている。
    土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。みな、裸足である。
    家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は籩豆(たかつき)を用い、手づかみで食べる。
    人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
    倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
    特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。(太占)
    集会での振る舞いには、父子・男女の区別がない。人々は酒が好きである。
    敬意を示す作法は、拍手を打って、うずくまり、拝む。
    長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
    身分の高い者は4、5人の妻を持ち、身分の低い者でも2、3人の妻を持つものがいる。
    女は慎み深く嫉妬しない。
    盗みは無く、訴訟も少ない。
    法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
    宗族には尊卑の序列があり、上の者の言い付けはよく守られる。

    このように洗練されていた。
    「ハイカルチャー」は自然と一体で、書かれている「殺し」の考えは、概念は、清めとも違うだろうし、広大な自然に包まれた運動神経や直感は、私たちは理解出来ない、が、自分がもし、本当にもしそこにうまれることが成っていたら安穏だっただろう、という普通の考え。
    大阪の古い文献に「酷摘み」という難波ならでは難解(南海)な言葉があって、
    この場合、難波京で一生懸命だった、古い、その場合の誉れに対して、
    「私はそこへ並べる程の体力が残っていない、あるいはミーハーかもしらん」これが、わたしの分の「酷」の取り(摘み)方として、仲間認証をもらう。
    このまるっきり忌むべき忌み(意味)がなく、もろともしない姿勢こそ、大阪の密かな初笑いである。
    文献と仲間が先でいやらしさが後である。
    すなわち、自分は出来ないのだから一生懸命な人を応援しよう!という考えになる。
    「上方」は気が優しく、温厚だ。
    その抵抗として気を強く持たなければ潰れやすい。
    心根の良さを守るためには「誰かに何か言ってもらわなあかん。」その時には体よくある程度マイナスがあるのかも。
    それを「勉強」と言ったり、工夫している。


    私は字に惹かれて古書をよく読むのだが、
    江戸時代とかだいぶ、筆で書かれた古いものだが俊越なのは、自己日記と計算を足して合わせ、お洒落に書いているところが、慣れているのである。
    秀吉の大阪城の蔵には書物が何万冊も貯蔵されてあったらしい。

    上方文学は、難波京後の平安時代のなりから、(時代が変わるってどんなんなんやろう、平安は貴族時代であるからそれを喜んだりもしたんかなぁ)興味はあるやろから、それを自分なりのアレンジで出来ている。

    良い匂いの文具にこの心恋に落ちたことがある。【悲しみ】とは「私だけのことと違う事」である。いつから決まってたんだろう。
    難波京のその頃、私はどうしていたかと前世なるものの思いを巡らす。
    その頃いないよ、と霊媒師のおばちゃんが云うてたが、なんか動物とかでおりませんでした?とごねて、「かもしれないね、原子はここにあったやろうね。」
    虫や、蟻か蝶々だったのかもしれない。悪い虫で蜘蛛に食われていたのかも。

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