揶白 (KF)

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  • お経

    私は解らないことを知った

     

    道からはずれていないか気にしているだけでいい

     

    毒を口にして生きたいならトイレで吐きなさい

     

     

     

     

    難しいことをこの人のように簡単に思ってみよ

     

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  • それは関係のない人ではないだろう

    私は解らないことを知った

     

    道からはずれていないか気にしているだけでいい

     

    毒を口にして生きたいならトイレで吐きなさい

     

    難しいことをこの人のように簡単に思ってみよ

     

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  • カラオケ

    声を張り上げなきゃやってられないのでカラオケ行〜こおっと。

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  • 成長の違い

     

     

     

     

     

     

     

    成長の違い、成長には違いがあると思われる。ムーにもムーでないムーと横繋がりのムーに似たムがいる。最近解っている。

     

    読みからして非常に危ないからムーといっている、要はムーと同じなのにあと少しで「無の創造」という、無を試みている人の近くを「子宮」としべっとり。これは、確かに大澤君なので、

    私を何でも問いただして下さい。

     

    難しいでしょう。

     

    まず、わかるのは、

    ・大澤君の前にまず先祖霊や守護がいてて、霊に入り込まれる磁石があるのを、昔彼のオーラに見たのを今解って覚えている。

     

    ・優しいのが皆別の人で、弱小な人の良さを唱える人も、春うららと歌う人も、絵を楽しむ人も、不思議な話だが他にいて出てきた。楽しいアイデアをしていたのは私。

     

    ・難しいことを言っているが、連打しているだけちゃうか、と思える。意味が繋がらないのを理解したことがある、大澤君自身が解ってないふりがあった。「ばらばらに描くね」と先生に言われていた。デッサンを連ねていたのそれからだと知っている。

     

     

    思い出、とも言えず、「私の一生の中の不思議な出来事」として今霊性を高め続けることで、過去さえ幽玄に変えれる事に驚く。お侍の霊だ。お侍は自由気ままに几帳面にやりたいことを貫く。「君を褒め称える、

    未来のお前を愛している(当時聴いていたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTの歌詞)」など花言葉とオルゴール。

     

     

     

     

    天を悪く思わない所から、人の良い所があらわれる。

     

     

     

    陰とは、五行で女、苦さ、夜、下部

    辛いが陽にあるが、自分が辛いからといって五行など精神にはない。自分に縁の深い方を考えること。わくわくする、自分のエネルギーを高める。

    人生を見ても陰の気が深い、とまで修行してる。

     

     

    修行とは、お坊さんのお修行とは全く異なる。

     


    私には夜が有ります。静けさや名乗らない瓦、土の気を性と読み、秋と冬、冬は「逆に温かい」とし、自分の養いと成すべきことをこう切り換えます。

     

     

     

     

     

     

     

    守護霊、私はもっともっとこの縁を楽しみたい!天から頂けるもの全てを然と感じ取りたい。女、夜、苦さ、下部、など、陽にあたっては、火、偏らぬことに偏らず、これを喜ぶ!

     

    陽に応(あた)っては、天のモノを分かち合う。

     

    まず、自分のトラウマを癒やす術を知らなければ、五行の信用も与えられない。

     

     

     

    ムーが「誰か」判ったら、睨む焦点を作るから、頑張れる人が増えると思う。

     

     

     

     

    思うに、自分が興味を持てば(あるいは持っていたはずの)

     

    誰でも伸ばそうとする。きっと仙人だ。

     

     

     

    ここで溺れるのなら、良くない、

     

     

     

    無我に務める中で悟りを得る人もいる。その人も悟りを得た人は、他人を羨ましがらない。他人の良いとこに微笑むことが出来る人。

     

     

     

    難が有り受け入れた私とは何なのか。

    性格の喜びについて、今度語る。

     

     

    縁とは、縁を繋いでいこうとするのは、自分に紡ごうという意志をもったものだから。その中に運が有るのだ。

     

     

     

    霊との会話記録

     

    こういう繊細な思考の中に、いきなり太い波長の魂がやって来る。

     

    そんなことは放っておいて、

     

    霊がいらっしゃるのには意味があって、何故「あなた、私と心を重ねましょう」その名前が、ここにあるか、意味を自分が長いこと考え理解するのも修行の一つです。

     

     

     

     

    他人に勧めてはならない

     

     

    ムーがいて、有ることないことごちゃごちゃにするからある程度気が強くないと

    「見えない。」

     

    自分に客観性が有るから

     

     

     

     

     

     

     

    少し気にして欲しい理由

     

    私は霊感を、日頃の人間関係を心から丁寧に過ごす気持ちで養った。母を亡くした悔いをこう挽回していた。自分なり、という意味で。仕事をして自分を殺して、プラス自分の放課後をこしらえる(趣向を見つめ直す時間のこと)筋力というイメージといったらわかるだろうか? これで霊感は出来ている。もともとは、霊とは精神の強さでありそれを捉える毎日は心を癒やし、最高の喜びに満ちている。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 人の立ち直り

    私自身が立ち直ってきたことに、ムーは何も関連しないじゃないか。ムーを拝んだり、祀ったり何もかもした後、こう言える時代になって来た。

     

    祀られたムーもいたんや、と内容的になって

    笑ってるのは人。私は今日も年上のムーとか見ていた。

     

     

     

    精神界。

     

     

    仮に心の中を、もっともっと目を瞑って考えて良い、とは良識を大前提としていう。

     

    心のわるい人を想定する。

     

    自分が、親や周りに今まで躾けられて来たこととか解れないので、軽薄だし、そういった周りを無視した人とは喋れないと思う。省く。あなたが他人だと選んだこのめちゃめちゃ他人の世界があなたにたいして優しい存在ではないから、優しくして欲しいと感じるなら私なら必死で周りにしがむなど言って帰ってもらう。自分のことを認識してくれ、決して解ることはないこの水を告げることだ。他人のもとあるご縁を祈る水。そんな時間を、執着とか自意識がどんどん食ってヨボヨボにする。塩を撒く。だから「気が選んだらお帰り下さい」とお願いしている。本当に好きだ、ハマったは、また知性活動なのだと思う。世話はない。

    お願いをする態度ではないぞ! と言われるその時、ありのままの自分の体とか供養そういったものが優先だ、何故なら道だからです。そうじゃない、と思えば自分がそうすればいい。「誰」がどこにいるんだ。私はその辺をより強く睨んで噛んでいる。しかと話せる人と話したとき、自分が修行者だと分かる。こういう世界の敬語と社会語は全く別なのだ。その中で、社会だったらいいのにな、人を苦しめる時間さえは許されている。頭がおかしいから普通に頭がおかしくなる。

     

    人には噂が有るのだと思う。最悪の人とかよく聞いたけど、例えば全く相手にしてないのに指示を無視して「私が!」と押しのけて行き、良い顔をして、その裏で人の希望を横取りしている。哀しみを忘れたい人の空気に乗っていつまでもいるが実際自の悪さで喋ることが出来ない。こういうどこに残りもしない噂のご本人が何とムー。ムーに苦しめられて食われて来た人はムーにしか見えないので、こういう辛いことを、正しく人に伝えるのもめちゃめちゃ高度がいる。ちゃんとムーに向かって怒ってくれたらと不意に思うがムーは地球と逆走するので必ず公正しない。全く相手にしない人の考えは正しい。だから、ムーに「(食べた者を)吐きなさい」と唱えるのが望ましい、本当だと思う。ムーは、必ず自分自身がわからない良い所にいる。例えば祟りなどは、その字通り必ず知性が起すものなのでムーは必ず起こさない。起こさないというよりは、起こせない。祟っているひとの前に自分事として虎の威を借りたムー。ムーのいないその昔、性格ぶすが駄目だとして、排除したそう。その後「ぶすはどこだろう?」として笑いを失い虚しくなった町がある。性格ぶすはまだ何もしない、しても受難であるが、ムーは何かしかしないし、天国に行こうともしないまして地獄にも行かない。

     

    だから、ムーがもしいなくなるとすれば、私や人に変わる勇気があるかどうかだか、ある、と答えておく。後悔しても良いような気がする。

     

     

     

    家を、部屋が散らかる時はそのままにしている。色んなことがあって寝ぼけているのもある。常識的に何も持たず、ちゃんと自分の息を詰める綺麗さも有る。私自身がこうじゃないと、他人の花ばかりを言ってられないことと、そのままにしているのは占い(まじない)である、こういった自分の勉強の大きさがある。

    と、言っていたら何もない部屋を作っても良いのではないかと言う事に気付く。だだ、あの時に悪い人に見られたくないのは今もそう思うからそんな心の動きがある。自然だと思う。もとからそう有ることが精神だから。

     

    人に、自分の心に相談することだと思う。ムーを省いて考えなきゃいけない。

     

    箱に入るような覚悟は一般的に完全にあり、お告げによってその中ではないこの中というのが有る、を知る。

     

    不意な視界を許さぬこと。

     

     

     

    精神界を喜び楽しんでいま す。 目上の人などの存在も

     

    精神などで気ばかり強くは

     

    なりません。

     

    伯父などをみて人生にたいする味の方がより高いと思 うからです

     

    霊の勇気に感謝するとともに祈りの取り組みをしてい ます。

     

    (何に何を祈ればいいのか、こういう自分はボケているのか、その意味がわかって来ました。)

     

    もっと身を任せられるようになりたいです。

     

    トラウマを直す為に生きているというところがある

     

    課題としたのは人間の力

     

     

     

     

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  • ムーで遅れた世代の世の中

    メディア、客観性の登場。

     

    意味ある煩悩

     

     

     

     

    「風姿花伝」を読んだことがあるだろうか?なぜ、能に傾倒するかというと、自分より国のことをよく知ってるからだ。国が、自分より自分のことを知ってるからだ。

     

    自分の「顔」を、見せてもらえるのは三十から。

     

     

     

     

    メディアは、戦後生まれた有る社会のこと。そうして何が自分にたいして生まれ生きているのかメディアとはつまり、客観性の登場である。

     

     

    意味ある煩悩。

     

    テレビによってヒーローになれない自分(自分の理解者)が現れる、

     

    主観的でなくなった。客観性が高くなった。まず、論理が良い悪いではない。そこまで行き着くのに必要な忍耐を敬う。

    足して必要なもの→口頭で自分の物語を語れるような優しさ

     

    メディアと共生して行こうとしている。

     

     

     

    ヒーロー

     

    自分の歩く中で、いちゃもんを聞き通す。これだけでも格について学ぶからだ。

     

     

     

    意識の高さは良いことだと思う。得た客観性は気高いと思う。両方をやって行くのなら、それなりの勉強や、年寄り、年配との会話が必要だ。十才下は、生真面目に生きていて確か競争がなかった筈だ。

     

     

    姿勢とは、熟考して譲っていってはいけないんだと思う。受け入れるなら、その渦の中に投入されてあることだ。何かで噛み合うことを習ったり、横の関わりでももっと熱的で、鮮やかな富が有って欲しい。では、色んなことを譲ってきた中で、優しく出来る上の世代って面白いんだろう。そこに自分とは違う所がある。

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  • 点と線

    問題は、私がこれらを勉強して知ったのではなく静かな日にネット詩などで拾い集めた言葉ということだ。自分が興味を持ってわかったのだから、人も意味がわかるのを解るのであり、わかるとこが、神妙だと思う。私の偶然が、人の色んな順序を守っている。

    名の話(神)と無名の話(仏)の間と言う、ここで自分にも主観があるが、外に向かう客観性では煩悩がある。

     

     

     

     

     

     

     

    釈迦如来など、

     

    聞いて喜びを光を、目指していくが、

     

    一直線では自分自身のことが減りはしないだろうか?

     

    同じところに行きたいのであれば、同じくらい厳かでなければいけないのではないか。

     

    今にも、聖く記述する人有られる、

    私とは方向を示す。

     

     

     

     

    昔から優秀な人がいるとして、

    人を比べることすらやめ、お喜びになられる。

     

    人と比べ、そう生きて来たのなら、あなたはかく在りし仏だろう。

     

    その為にちゃんと生きているのなら、あなたはかく在る仏だろう。

     

    それについて喜んでいるはずだ。

     

     

     

     

    仏道をこう解ける、進化だと思う。

     

     

    無心の熟知について、無にたいする「点」の違いが三界に有る。三界は国のこと。

     

     

     

    「顔」についての美しさに縁深く点を思い

     

     

     

    「線」は、「私」を切り分け走る者である。ムー

     

     

     

     

     

    「次元」は、その奥。そう認知する「私の内側」に有る。

     

     

     

    それらは、時間に「面」している。何か流れの在るものに面している。

     

    ここに怒りが有る。

     

     

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  • 次世代を考える

    音の高度とは、

     

    信じる力とは、

     

    何か憤りのある中で光の言葉を導くこと。

     

    「素晴らしい」「愛します」とかでは、

     

    現存する物事を、くつがえしてしまう。

     

     

     

     

     

     

     

    闇の中で心の奥底から生き、

     

    これが、光を引き出す。ということになっている。

     

    目に見える光にならなくても良い。

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  • 強く考える

    どうして罪もないような人が人の為に手を汚したとして、挙げ句罪を被らなければならければならないか、嫌だと思う。

     

     

    悪すぎる人なら、その人たちがいつもより早く自を食う、言葉も悪いが、私は同時にこう考えることに気付いた。

     

    想像すれば、私は一人でお願いごとをしよう。

    私の想像力は、使えないだろうか?

     

    あと、とても大事な相槌を思い出せた。清潔とは、自分が理解していたら心の中でさえ整えられる。心をよく考えて来た、感情があることも、面があることも。この「心の中」も、私の想像力を使えないだろうか。日々願う。

     

    やっと思い出せた。

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  • キリスト教に出会った私

    自分の体験をするために自分以上に客観的になれな いが、そこで大きく苦くもうと思い十字信仰でも行 われている。 罪の意識。 痛みを緩和するのは知恵 出来ることをとにかくやらないと神が 「見えな 」 出来ることをしない回避として自己肯定があ るのかも知れない。 神、 何に足もとを取られるか。

     

    気迫、こうなる苦しみについての慣習がないことに ついて、どんな精神的文化がありますか? 気迫の苦し みなど、 またこうほぼ一緒に聞いた時、どんな学習を されるのですが?

     

    自分は精神的とは、単に穏やかに話すこともそういいます。 ざっくばらんに言ってしまうと、刀の技が、目立って挙がりますが、 こうあることの祈りで、 もともとこういう目的を持った修練なのだ。 修練や努力家の大切さが大きくなって、 だからそこであなたが努力家なのだと察してますが、 見えないこととして感じ取ります。

     

    精神の概念がこのように何とも分かる。 キリスト教の精神神秘について、何となく感じるようになったのですが、 信じられて来たことが長い為か、 私の方は怖れを感じないでいれています。 少数の恐い人間はいます。 老いが似てるのかも知れません。 アメリカは若さについて丈のある国と思いま すが、向かわれたりしないのですか? 自分に品がない 自己解釈の仕様、 野で働くような気丈夫、そこに立って、自分に近付いてあげる程、 他との接し方や話す事にどんどん気付ける。 マイペースという類いまれなるスピード、 光によってそれは行われる。

     

     

    自分に対する取り組み、こういったものが)

     

    知り合えないけど、 お通りになる、お休みされる心の喜びと、新しく自を知る興味で一杯です。

     

    自分が怖れない、知ることの出来なかった存在にたいして報いる為にも、自分を変えず出来る事を増やしていく俯瞰出来る心を自他かまわず育てていく。そういう風な考えです。

     

    負に面した場合、選択する自信は歩数を覚えています。

     

     

    今日わかったのは、私の国というものの位置からして、極東の端にあるもので、また長寿の気質があり、自己経験(他に向けた、何かアドバイスの出来る)としてあるのだと思い、前向きに捉える事が出来る。それを、他に向けたアドバイス出来る自分自身という希望。教えとは違うもの。 

     

    豊かな野菜としての説明、自己表現をするだけで十分なんだ。人生、に近付いたらまたドラマが繰り広げられる。

     

    忙しい。

     

    昔から日本にて隠れキリシタンがいる。キリスト教は、当時としては特に他であるがそこで要る、必要だと思われた心の関係性が人によるこの考え。深い意識で実際触れ合ったと思う。和はまた何でも混ぜるのではなく、空気を読む、身を引く、理知して和するという。大変な罪の話を聞いた。大きなものに目を大きくして、自分から離れた生き方をする。本当に悪い人はいるけど、その中のその奥の人。小さな声や、小さな言葉。自分以外を生きるのだから、記憶がわるくなる。物事を覚えられない。

    他を消しきって生きるのだから、しかし、許されているのであり、また「私」も同じくして痛みを享けることに尽くす。もっと海に身を許し「悲しい気持ちはいらないよ、僕は君の笑顔が欲しいよ。」と、御前に歌い知恵を絞れる喜び。自己が歌いたかった感情を振り絞る。利器がある。人に力があることを感謝する。

     

     

     

     

     

     

     

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