揶白 (KF)

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  • モラルの夜

     

    犯罪者の、良さに転じない人を想像したこともないし、考えればどんな奴だろう?と思うだろう。

     

     

     

    哲学の話をした時に何も答えない時、

     

     

    解決しそうにない俺、って言う存在の理解に間に合った。

     

     

     

    卵、を動物園で模型でも実際見た時、

     

     

     

    もう卵を見ても心が気恥ずかしい、と言う人ほど、卵をしっかり育て上げて欲しい。

     

     

     

     

     

    今日、世界の大温泉スパーワールドで見た魚類が、

     

     

     

     

    落ち込む、という気持ちがわたしからしたらそんなに悪くない、本や音楽、映画観賞を促進する気持ちだから、元から上手くいってることは率先してほっとく、ようなところに、

     

     

    時間とは、カネやそういった知識に非にならないほど大事であるし、

     

     

    そいつの存在さえ覚束ない、覚束ないことは確かだから、それで良いの!

     

     

    そんな怒ってないのにかっかさせる程に、私に悪いことをしたんだと思う、魚の骨みたいな、見たことない奴なんや。否応なく受け入れないといけない福を想像してその話が良いと助けて欲しい。

     

     

     

    そんなやつにあんなイキらせたんや!の声が多かった。

     

    本来光のあたるはずだった人の

     

     

    私とは、

     

     

     

     

    自分でも悪くない後光(生活上の特訓による)として。 

     

     

     

     

    こう乗し上がって生きる私を活かしたみんなで、私が作ったこの体重計には乗してみると、私はささやかな夢に潤んでいるだろう。私が男勝りの女ではないことが助かっているだろう。何か、ちゃんと良いことを考えるこういう男神道という生易しいのも知識に入れていて欲しい。私の神は、美術家という気持ちだけで天空まで自惚れ、次の瞬間は荷物ごと立つくらいの大きな羽ばたきを見せていた。仏が一部なんだという予感にはあった大空を私は見ている!私は、知りすぎたと言って倦怠していないぞ! 功徳、教えと称して優しさを諦めない。今、大事な人の医学的進歩を助けてる、自信よりも弱さで進む、とか陸からする大地の鼓動、その広がりの海を見て頂いている。

     

     

    クジラが亡くなると、こういう風な遠吠えをするんだ、と遥か懐かしい。

     

     

     

    文献を見たけど、あまり手摺になるようなものではなかったら忘れて暮らしている。花瓶を綺麗に割ったように生きている私って誰?ってなる。近親は戻らないが、お年寄りが出ると一つになる。腹減った、食う感性のないやつがおる。

     

     

     

     

    私は私自身の生き方のバランスの悪さに気付いた。

     

     

     

    神は、今まで気にしなかったことを気にせんでもいいんちゃう? と言ってたわ。

     

     

     

    年寄りの、

     

    こんな考え方をするのはまだ早い、と。

     

     

     

    私のしているのは比較ではなく次の確認や!発生する感情、自惚れることと段階を踏もうとしていることと、元の感情が違うよ!

     

     

    偶然的に光った心の活動を、私が必然的に現実で塗り替えた痕跡の貯金で許しているのだぞ、ちゃんと貯蓄管理の強さに良い加減に甘えることを解って!大きな現実とは何だろう?それを考えて何とも自分サイズに纏まってるよ!

     

     

    歪んいるものは歪んいると表現する人の頭上にいるのを、良いように歪めて見せるを

     

    釈のように表現する、

     

     

    通用しない時があるってことだね!

     

     

     

     

    私として、人気欲を何のあれもなしに享受するとして、それは後で何かを伝えるでもなしに法未満を言うとして、

     

     

    私を「牢獄のような己の心」に閉じ込めたイタリアの浪人の神に、

     

    自分だけを信じて生きてる、と言われた。

     

    自分だけを信じて生きるのは私で

     

    あれが本間に悪いやつ、と分かった。背の高い考えになる。

     

     

     

    愛が正しいという考えに翻弄しやすいところを私はここで治している。この、このフレーズだけ見たら爆笑じゃないか。安くあげるよー、

     

     

    映画で観たいくらいの光を考えるにつれ、神話を生きる気持ちならなるが、人になることが神道の最低条件なのに、人とは何に頼れるかの主旨選択が出来ることで、頑張ったわたしというのが、今まで頑張ったあなたを含めて映し出したのであるから、そんな普通の人にこれからは会えない照れくささの方を大切にして、神の名残を感じることにした、私が見送る顔には何の愛想もないが、応援いっぱいの魚ダンスが心に溢れて示せているので、いっかと思った。

    モラルは細かく選んだら良いよ。生まれたモラルは持っておかな、それをあなた一人にゆうわけないわよ、

     

    私を視眼から、睨んでいた。

     

     

    客観的な心意気が、頑張り過ぎると成ることがあるそう。客観が、無鉄砲、向こうみずで好きに行く、それを

    インストラクターが嫌やと言う声を初めて聞き取れた。

     

     

     

    主体に客観性が張り付くわけないのになぁ! 

     

    そや、心意気が主体になるなんて遠いなぁ!

     

     

    自分が誰も見てない心内に浮かばせ描くことが初めて額縁になって、「旅から帰った家人」、男性のような気優しい感じだと恋人と言うだろう。但し、自分が、である。オリジナルという友達。死姦って何?

     

    この切なさを容易に青空に思う真実は素晴らしい、

     

     

     

     

     

     

     

     

    身で暇に耐える。まだ続いてるのは挑戦だ。

     

     

     

    私を魚と書いてる字と、私、は無関係くらいには「間」があった。誰か他の人を連れ込んで甘やかして遊ぶんは、浮気やなく「邪教」っつうんだ。

     

     

    いつか貯めないといけない知識は、えらい重いが、「動物としての自分」の供養になる。

     

     

     

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  • エラソ

    エラソ

     

     

    意味わかれへん、下に見られたって悪く思うが、こうも魂をぞんざいにする奴を許せない。

    初まりは、心で物事の高さを察知する人に、自分の自信の低下を伝えれなかったことと、持ち直すこと、頼っても仕方のないその人、それを考えることから始まってて、

    奴は意中には出来なかった。伝えないんじゃなくて伝えれない。

    私はしっかり見てた。虫便り、ヒト

     

     

     

    見ろよ!こいつぁ気にしてないぞ!

     

     

    フゴー…!!怒

     

     

    あ、今わたしと話していない?

     

     

    ギロリ、

     

    (横に座る)

     

     

    何で座るんでぃ!?

     

     

     

    そうしてそれから

     

    内心、負い目で一杯だった

     

     

     

     

     

     

    あったことで骨格を図る。

     

    そこに、歩いて採集した文献で肉付けをする。

     

     

     

     

    豊国神社を見て、ここは、

     

    有格の地なのだと知った。

     

     

    自分は無格だと解るのは、

     

    格のことを考えていたら、有格の山を見て、格という言葉を知った。

     

     

    無格の山を超えたい、技術に傾く条件だ

     

     

    名はサルタヒコ、猿瑠女を申す為に日々頑張っています

     

     

     

    神札は、普段から自分からねほりはほり聞いておく。誰だかつくとわかりやすい、

     

     

     

     

    大國より、猿田が身正しを引き出した。

     

     

     

    よりともつかぬ、大國は、猿田が見出しを引き出した。

     

     

    大それたことが、出来たら猿瑠女と言ってホームにする、カラス歩きでぴょん、唱え。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    技術は増えることで、覇気を頂く、と腹に合わせた手をぐっと引く事、

     

     

    これが広まれば「心のブレーキ」は叶う。

     

     

    覇気は、面白さ、世の長さ、技…、。

     

     

     

     

    国籍を問わず拾うと良いことがあるかも。こう美味しそうなものがあると、動きによっては

     

     

    動きによっては騒動が起こるを予感する前に、動きによっては手順が違う、と書くには、

     

     

    動きが違う、と、言いたいこと(希望)、

     

    素材を揃える。

     

     

    動き方が違って動きとなる、となる。

     

     

     

    言葉を、気持ちだけ持ち上げる。言葉が自分を連れていくホウキだったら、

     

     

    より身に合わせる様な理解、聞き手の精神力、身に合わせる間につけれる精神力。

     

     

     

     

    更に感情を混ぜる。

     

    料理の味が変わる瞬間、嘘か本当か分からないこのメタファーをしている

     

     

    基本姿勢、初心から離れない体力。体系的技術。

     

     

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  • 道々

     

     

     

     

    目を閉じて話しかければ仕事において力をくれる。

    神話が心的に立つ予感は無意識的にあっただろうが、一極を応呼するスキルに影響する理解が昔に消えていて、それにたいして答えないことに客観的には自然体のイメージがされにくくなっていた。

     

     

    語るにはこういう下りや凹みから、覚えると希望を述べやすくなる。

     

     

     

     

    この暫くの間、日本の神はこうある。

     

    2023/07/14

     

    祈りの方法(擬宝珠など)

    先駆的に神社の多い日本だが、神解りにある程度の平等さがある。今、私が生きていることが、伝えも伝統も、どの国の人も同じ時代という観点から、神を知る。新しいと思うのは、いろんな別の国の人がそれを何と驚いて知り、新しいことにたいする構え方と道だ。

     

    道は、この時、いつでも傍にあるものだと

     

    ここに続してるから、自分という個でしかない私からする意識体が、どんなに小さなこれを聞く。

     

    初心も心のブレーキも、訓練なのならば、憧れる蛙の様な対象を目掛けて実に訓練なのならば伝え遅れるところをその場で拾っているのである。この間に合わせのようにやっていくのは劇化で知っている通りの特別な教えで、この忙しなく間に合うことが恒常的なのだ。何故なら全盛期の夏は野原にて勘があった。次は名を馳すという。その次は休み。勘がそのままブレーキになった頃より、

    自分が選ばれなかったことよりも聞きに行くことは、常に伝えている。私は、そうがどうすればそう伝わるのか考えて書くのは模写している。今言ったことを次に言っても遅い。ニュアンスの違いを見分ける程人は敏感だ。

     

     

    この時だと、躾なければ思い出せなかったのではないだろうか。でも、この時にこの時だといい点呼する限りは自分は偶然、副次的存在である。自分の計脈を辿り自分が自分であるとこの時言えるのは必然であるが。これらを客観的にあやふやにする嘘が、リカイの為の仮縫いとして読むとどこからともなく始まったであろう布が健気にヒラヒラ浮かんでいるのを見る。それが真だとして書き進めて行く態度である。

     

     

    間違わされた~をOLが嫌みなく言う、これを嫌みなく言うことは難しいから目はっとした。天はシンプルに理解していて、無意識体で動くことをする心行を、般若心経を知らない方がやっている。

     

    無意識界は、その価値あるその所で奢り高ぶらない事が本陣であると言える。

     

     

     

     

     

     

    次に自分の話、触れ合っていてもこちらは自分のことだと取り掛かれることは運動会で覚えた身体性による。懐かしいと思う人もいる、どこかがいい加減動けない間は動いても仕方がない。こうしてても出来ることを確実に増やしている身のことを新たに書く字の為に忘れず自信にしておきたい。ちなみにこれはあやふやな間に何も触れずに建てれるしずかな電話ボックスだが、教え方と言うと捕った魚を、端のアラもだしにしたり、そのまま塊ほど大きくスープに入れたり大切に食す。それが本当の贅沢なのだ、と言って来たが、食べ物屋は蟲ーが来たら完全に閉めるものだったことから久しい。ま、何をしたかと言うと、昔は男子も裁縫や花生けをしていたと言うこと。自意識強く、こういった才能を諦める態度こそは大きな自尊であるが、最後の問いかけから方向性を考える。私はここで、自分という意識を持ち、精神性の自負から帰る。

    勘違いを続ける人、という外側に向かう為のキャラカードを引き出す。私は詳しくは解らないが、物語という土着にそっくりと馴染む、人の生き方について着眼があるのだと思う。感じれる完全な社会性をよそに、何か覚えていないといけない自己自身。空気の毎日変わるなかでついて行ける。実体がどんな風に存在しなくても、間合いに真剣な気合いだけはそこに残し記憶に残しているだろう。こうわかって初めて、多分きっと自分とは違うことをしてみようとしたのであろう繊細なシルエットを思うと、全てを間合いに託すことで社会も迷わない決心がついた。

     

    言いたいのは、思いがけずも多く著名そのものよりも人が凄いということ、感覚とは道が平坦になっている敷地に生まれていても、遠いならより心掛けをし生きる、向かって感じればば伸ばすことが出来るからだ。伸ばせた結果こそ、自知の小ささたとえそれであっても嬉しいものだ。

     

    こうした再び捉えることの出来た観点から、前に立つ希望の人に希望を与える、自分の中の神が増える、そう伝えると落ち着くものだ。自分の中の神が増える、理解の良さを日本人の私たちは一つになり言葉を掬い出している。

     

     

     

     

    言葉が小さくなってすまぬ。🐜

     

     

     

     

    さっきのここから自分の話。

     

     

    蟲(ム)ーが、点々といて、敷居を大事にする観念とともに、端まで大事に思う「教え」から、自分とした「私」は蟲(ム)ーじゃないが、想像も意識の方向も地球の公転が関連しているのか合間って、創価の池田会長は蟲(ム)ーだが、(わるいものを地球は早く集めようとするから同じ箇所に2体いる。)当然それらは、強い肉欲で神を嫌うから私たちの意識は神社に行く道の行く行かないを間違えてしまうことが多すぎた。こうして神社は、最近まで敬遠していた。江戸時代でもそんな日々が続いていて、何故なら、当時は国柄の鎖国からよそを知らなかった。当時の釈迦からは、国に外がある、と聞いてかなり驚いた頃だ。「でも、何かがあるから私が知っても意味がない」とする方が多かったと聞く。それはそれで広々としていたと想像で思う。

     

    日本の拠点となる山あいでは、考えたこともない急に浮んだ客観性だが向かって、神にめちゃくちゃ詳しい人々、という考えたこともない~、

    が、山のこだまにあちらこちらから響く。ゆうなれば、誰が誰といってもそこまで話さなかった。恋や愛だと呼称して人にたいして暴れるものを国を無関係に掃いている。

     

    あれがあかん、これがあかん、その声は枯れていて目立った。春、新芽を生やしてほしい。自分も落ち込みから直り、すこしだけ容姿的なって考えたら何か増えるのかな、減るのだったら嫌だな。自らがする、思うというのの客観的な態度の示しが、自分もわかる何か凄い大事な礼儀で先だったら、幸せとして修行の肥やしや、上向き、人生の上達に易くなったら気が向くな。性交渉がもしあって、伝え方がこうなる程には仲そのものを展開して来たのかな。

     

    実直でなくなるような、性格と反する本質的なことをがらんどうに空けたら

     

    何か得るには、何かを捨てなければいけないことが、劇的に昇華され、必要な誰かその影、その神の生き方として思うことに、未知なる世界の世界観のエッジが磨かれて研がれて来ている。研磨という、あらいと、とぎの

     

     

     

    仏教の勤行をは、決まっていつ読んだら良いかわからない。上からそう伝えるのだろう。そして、題にたいして何の決まりを知らない実存主義的態度から、独自に話しかけていく素振りには仏の存在がしっかり表現されるだろう。いきなり行っても理解できるわけない著名寺院を感じていると、確か金閣寺は何もなかったが、京風でそのそれだけを完璧に表せるという。

     

    そう、私もたしか一人になったのはそのへんだ。どうか私の考えをお守り下さい~

     

     

     

     

    何かを、あれに素早く伝えるには日頃の慣れた自分が必要。

    「一人」にどうしても、頑張ろうとかやっていこうとか、はいらないのだ。やっていくには、力みは必ずいらないのだ、やっていく気あんのか、自分でそう思ったことを悔しく思ったらあかんのだ。そう、あれは拭えない自分史上の汚点。甘えたりしたのは、同じ国の人だからとゆうそんな頼りや、国の人だからじゃない。もっと違う単調な感情の吐露のような。感情とも違う。そんな人はここ現地にはいない。聞いて想像を膨らませるが見たことはない、話し手も見たことないとひたすら騒いでいたのだった。寡黙な人も怖しいとちゃんと思うのだった。

     

     

     

    彼らの身体性を見る限り、世界観には到達してたと思うで。動物がいた。良い霊だった。自分が直せる自分のことを言っていた。自分が動物を上回る人間をちゃんと目指してること、蟲ー退治の可能な人だと言ってた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    気持ちが波打ったり、高鳴ったりドクンとするのは、その土地感にある、海神だ。実際にプールでも浮いてみて、重いものは下に行き軽く浮かぶひかりの体を覚えてみよう。

     

     

     

     

     

    神様に、あれはなんですか?と聞いたら、直で詳しく教えてくれると思う。

     

     

    もっと知りたい!こういう悩みでこういう解決を望むよりも、希望を聞いてくれる。

     

     

     

     

    そういう風に、純粋に興味に向かえたり、

     

     

    持っているこころの運命感などの

     

    不思議な解消が起こる。

     

     

     

     

     

     

     

    様々な伝承のあるなか、想像の真実が曖昧に広がっていくようなものではなく、人間の厚みのもっとしっかりかりある考えに想像の源流の神がいる。目に目映いことだった。何とかしっかり自身が人生に定着して、自分の現実色に取り入れようとする。目にこそ目映ゆかったこと。

     

     

     

     

     

     

     

    日本にいても、同じように理解する人そのものを眼前にする、我らには我らの受難があって良いと考える人の方が多い、考える楽しみで一杯だ。

     

     

    こんな私を、哲学家はどう思うのかひとしきり鏡を思っても、

     

     

    学問的なことは実際気にならないおとうとの方を見ている。

     

     

     

     

     

     

    アジアと言う明るさに向かえない人を見ている。仏を感じていたら神を交え、このようになり知識を取り戻している。

     

    自分は大穴牟遅神、神のポケットの中で色々被ってるが、

     

    今運と天運が二つある、このうち祖が心を守る故に自分は予想だにせず決められていたこの季の希望(キノキボウ)である。

     

    神社に行くと、「この日は有名」と言う。故に待ち構えていた精霊が多い。

     

     

     

     

    儀式が本当に儀式になる時と、神仏の違い

    2022/09/24

     

    蟲ー

     

    生活をする事も大切な儀式。

     

    「紙垂」と言って、これは人の角が大切だといっている。

     

    人の角が大切だというので、人の即ち良いところをムー本人が知らず知らず削ぎ取ったことがわかる。こんなにムーの仕出かす悪いことを覚えている。神は、心に叫ばなくてもわかるから楽しい話をしたい存在のことを、説明するには、脱力して自分のチューニングをとり、「良い加減」での理解をする事が、何かを叶える。何かを聞く為の澄んだ耳をし、佇みをすることで自が叶えたい事を叶えると仰る。お救い下さい、と、願うなら自分の知識を備える事を教える。自分がまた、毎日、人の努力をしてから神と遊ぶことが出来る。

     

     

    仏が在る、私やあなたの心に有るなら、

     

    この限界の中に天上界と言って、

     

    愛されるよう、の言葉一つでもめっきり角が痩せたと思う。角が取れるは良い時の言葉にして全然違う。

    都としては東京より先輩の方である。何が都会かわからないが心ってやつが進歩的だと言う意味で、稲の高さが有る田舎のほうが島の都会だと言うだろう。私は東京訛りがあるが、生まれは大阪だが間もない時に区内にいたことがある。新宿、渋谷、町の響きを親から愛する時間や、そういう美しさを孤立して願えたとき、関西は、感情の幅として埋蔵金のように詰まって、大ぶりに喉を詰まらせていたんだと思い至った。知らなかった感情が有るらしい。お構いなくどぞ良いから知ってほしい。大阪人が期待に弾む胸とは裏腹に、現実を歩く自分には社会が有って、先に守るルールの有る中で必ず会えると思う。願い、それが、誰かであっても仲が先立つ本土の中では惜しかない筈だ、と、別れないようにを願い凌いでおく。この中で、自分が、どこかで役に立とうとする自分よりも、どこかに行って学ぶ自分の方がしっくり来た。「自分、自分」と言わなくて済むから、世話を焼いて貰いやすくなるからだ。

     

    神の悪いとき

    こんな言葉をどう思うだろうか?色んな解釈をして良いことだ。視線を瞼を閉じ45度下にして避けるのは、自分の知る佳(よし)のないことに対してだ。

     

     

    想像力は、良いほうに届くのだ。神が気を流せるから地震と言って、人には命が有り、気を付ける事はお守りになるから、いつも逃げることを考えたい、逃げることまでを考えれて、徒労しなくては進歩出来ない。

    怖さこそが、人にたいして良い意味で有るが、程よく「嫌う」この正しさ。

    一方が、

    恐さ(したごころ)。自分がこれに負けたまま自意識がないと「いらない」と思われる。

     

     

     

     

     

    アッテルは、祈りの時と人間の時の両方があると思う。これをIと云えるなら、いちにんで有るなら愛に慕う。不思議な言葉だがそう思う潔さが有る。

     

     

    自分の強さの邁進を、寺に行ってお願いする。「どうしたらいいか?」思考を、神社へ散歩して伺う。「自分」にとって、寺って何を対照とするだろう?神社は何を、どんな考えを対照とするだろう?

     

     

    「心の中」を、優しく思い描いて頑張る。

     

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