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2024/03/26
私は音楽も映画も大切に観るが、霊となると霊として、
「現地の人」というメタ態度で命を許されている。
私にたいして、大霊からはその名の通り愛想を話される。文化性、その寄り添い、教え、が詰まっている。私を誉めているこの言葉は、
一見を「メッセージ」と伝えると、読み解きやすいのだ。
何もしてないのに押さ付けられる、愛想と言うそれは、馴染み深い文学ではないか。見えないことが見えないと見て見えないものが見える努力をした。その潔い使いっぱしりでぃという。
~数人潔い者有り、
私がその潔いパシッ、パシッ、使いっぱしりだ。
「お前は誰なんだ?」この演目より
排水口の近くにプラスチックのパイプがある。程よい強度と断熱、古来の占いを真剣に見て学んでいる。人の清潔感よりも清潔そのものが必要だった。元々、人が難しいから和を感じることが、大きく、そう直感を受ける間は大きい故に引く、省くものが決まっていて、崩れないが前に立っていく人に影りがあるのはこの為か。知恵門という。組員そしきなど五とか、悟されると言う。名が名詞にかからないその自己の事態、このときの状態が「等」と付くんだよ。と、話していた。
人間が何か感じ抱くそんな複雑さと変わって
蟲ーは、簡単。
もの、と捉えたらそれを考える時の矛盾、自己矛盾のストレスがなくなる。ものだ、という見方が正しいから。
前世で何かする、何かすることが偶然か必然が、は何とも分からなくても、憎まれる悲しませることには、ずっと酷い気持ちで待つ。蟲ーは、細胞も言葉も誰も何もせず抜けている。そして排水口に自分で向かっている。地球にも調じりのバランスがある。悪いこととしても自分の暴力する受け手があるから、許している神もいる。善悪という言葉に触れていることが聖(ひじり)を感じる。
法は、そんなことを昔から通している。厚みの意味がわかるのだ。南無妙法蓮華経の本が捨てれないというその声を解いていた。釈迦が蟲ーだったので意味不になっていた、だから題が蟲ー、ってこと。惑星に住んでいて見えない世界に疎い。
見えないものを見えないというから見えないものを見た
見えないものを見えないといから見えないものを見た
睫毛の真近はノイズ
睫毛の真近はノイズ
南無
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2024/03/26
手も足も心も凍るような思い。わたしの心では悲しみだけが青く光っていた
掃除をしていたら、木屑になった自分の気の姿をみた
日で治るので心配はなかったがただ悲しかった
その日が経って、いつも通っていた駅を降車して一日バイトに行った。京橋は大阪ビジネスパークのふもとにあって、大阪城から京橋と名が来るなら身に合ってて、足りない物を付けたなら面白い。
沢山の光があったがわたしの心に映ったその1つの光の源光を、その辺の道で頭の中から取り出すことができた。もっといいたいことがあるが出て来ない。が、これはその光の編集した総てだろう。本があるとすると辺となる思想が違う。光に向かうために、それぞれが繋がり纏めて見る、とは、一ページ一ページが何の関連もなくこれを連続性といってわからないが理解する詩性。よって自然な物の繋がりや防音、数と体を分けて分離している。ゲンジツを密封して壁が少ない文章で置くこれは、無印ケースに分けて入れる小さな螺や木片の事。昔の文章はこんなふうな段取りが、その文章になる前の一瞬の捉えられる想像が存在していたのを古本屋で見た。これらこの夢を達成させるのはアルバイト。
誰も何もつらいことを抱えさせないことがよくわかった。この意識が火星にいるようなカッカした細い心持ちは、感謝というそのものだけど、一人でどこかに行っても時間に帰らなければ、金銭は十円も手に入らない。時間は過ぎている、縮めたり仮に加えたりして直すことは出来る。感じていた元の形が、自分のものかどうかが、成長という記録が生まれ育ちよりも壇上なら十分だ。
ことばが迂闊に、何かに引っ掛かったまま冷えて、重苦しい何かのこの目の川に浮く過ちのものから、その死体から、私は十円が私の家に見えてきた。
派遣の登録に外に行くが、仕事はない、と言われた。星を願う五分一杯の気持ちで、二分三分を取るいつもの階段だった。これを私はすてきな石段だと思っている。重力に力を込めて降りる。霊感とは全て自分で知っていく高いものだが、トンネルにライトを当てる様に、まず聞いてくれたので言った持病の統合失調の寛解は、まず、神木というのがあって、髙い木もあるし、低い木もある、自分がわかって、自分に出来ることはありますかを親に聞ける。それを、まず受け入れる。解決を狙った素晴らしい身ごとのダンジョンは、今巷に溢れている。
「わたし」という一円、わたしという十円の留め金で、恐らく膨大な書物から、頼もしく学んでいる。
わたしとして対照化出来た考えが留め金の発想や作りが自身にあるから仏は話してくれない。
色んな恋愛があるのだろう、と
「「もう離さない!」はムリだった、つづく」
町人が買う架空の本、
一旦自分にたいしてクッションを敷いてあげる、これをメタといって、空や間取りの大きさをその大きさに切り取る声なのだ。こんなに自意識と闘ってる。
私は、街歩きしやすいTシャツの販売など色々を待ち遠しくしている。
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2024/03/26
人はみなりじゃない、この言葉を見出だし
楽しいと思うもの自体に間違いがないことと問題、二つを両方並べて、やって来たことの正しさがわかる。
仏に目が許される。見比べることの、
自分の行為の全貌である。
この間には、「わたしの悩み」が抽出したようにそう言える一人の心、治まった、納まった、修まった言葉、こういった静寂なものに辿り着いた。
文になった。
抽象化、という一つの方法論そのものなのだ。これが誰でも出来るという事は、やや精通していない。
この調子で、
儲ける、儲かる、が代わる。
言葉の掛かりの主語に定義が在る。先に生まれた神から、それを知りに行く生魂(いくたま)の道がある。
東京と大阪を見ても、精神自体をとするか、精神上のものをとするか、
また対象とする言葉が、画にあるのか数にあれのかをいってもそこに蝶がいることには変わりがない
文性の違いから儲け方が違う
ちょっと貧しい時、
金額を、気ままに為りに合わせる
縁起に角をつけたまま、
夜には、
「バッドbad」という人の良い、誇りがあるとどちらかと意味する美しい英語を主観にしてこれを思う。性欲を求める行動が、売春に値の高さがある人と、体を売る、この言い方がバッドな人や、どう言い方自身がバッドな人や、悪しさがバッドな人これらは、ワルイヒトとは異なり有る。この時分かった時、薔薇のようにb
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の字だけを残す価値観がある。
「価値」がそもそも仏道にしか発生しないのは、言葉だからだ。だから、「両」のしたに容量があり、そのねだんの上に値段と書くことが、出来るのだ。
ワルイヒトは、対面にして下だから下だ、みさげて怒らなくてもいいんだよ、と、説かれる両の壇上は、何と資本論。
これを理解している態度を、「了見」があるとかないとかを冒頭にして始めにコミュニケーションしていたのが、江戸時代。会話の成立は、体的や歌やお経で長く流し向かう平城~室町よりも初めてに差し掛かっていた。街の出現から月光のような自意識にたいしての闘いが今にひたすら続いている。自分が対決する相手がアニメの美少女、といったら、大和がわかるだろうか。
価値からは、愛については冷静さを習う。今日の総体的にこういう元の考えを人間性に携わって考える、性が立つ、そして出来た。
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