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2020/10/18
「こうして仏陀は釈迦を許し、世間(よのな)から追い出したのである」
エメラルドさんと云う詩人の方がいるが、
一行一行が人々のものであり、一行一行は離れている。感じる行の言葉を軸に、自分の連想する事や思いを、応答するように綴る。とそれがロープになり、連絡網になり、詩が筏(いかだ)のようになり、川なのか海なのか、旅立てるように設計されてる。
息をするように漕いで行く。
文章が下手なのは最初だけ。笑われる時間は長いだろう。
稼ぎ手(武力)と作り手(粘土等)は普段別だが、この場合は役割負担をしているのである。詩を理解してる時、その人は詩人なのである。
「アート」
アートはそれが思想であり顔がない。ブランド性がない。そう云ったものがない。
梅ラボさんの作品とは、御本人の言葉である、これは死体らしい。
死体とは何か?
では、生物とは何か?
モダン的な、即ち理想を一回作って、それをみんなで壊して分割し、作って行こうと云う、既存のものを突破するデザイン、詩についての「死」である。
一コンピューターの能力が今まで見たこともないようなものをつくる。
「パソコン」が制作の現場になった。
パソコン上の空間が制作の現場になった。
こういった無形のものから、プリント、即ち現在をする、そうして事物になる前の段階でパソコンで作っちゃおう、というわけである。絵に起こす為に、(「絵画」とは、単純に絵になる、とか、詩的だとか、神ががるとかそういう意味だと思ってる。)レイヤーを敷く、メディウムの事にレイヤーと言っているが、半紙を重ねて、平面的に働く。光を表現するのだ。
アニメーションのキャラなどの顔は、あれは人間の顔から色々省略した線が見られる。髪はともかく、造形するとかいったものではなく、わたしたちの自然体が美しいと云えよう。)自分の内で塗り重ねたその圧力が光る西洋の油絵とは異なりつつ、「私が私になる」といった意味で他者から同意されるだろう。
私の地元は大阪であるが、思想的に力まない事が善しとされ、観る人を見返す、「こうこうこういうことをする」「それをする」んじゃなくてあれも出来てこれも出来ると云うのが柱(はしら)である。
それを裏切っているようで、非常に負い目がある。
描いた少女を切って分裂させて、組み立てる。「パソコン」の怖ろしさを臨む。それがキメラである。キメラにせよ、学問は、あらゆる脅威から前向きに道徳へと昇華させる。人のアート性より信じたい所だ。
身の回りで触るものが数年で変わってしまった。ペン、本、テスト、新聞紙、から携帯、プリンターなどのメディア自体を手にする機会が増えた。
感受性とは、
持ち運びの出来る画像、
技術的な面の変化、
それに対しての変化はおそれるにしろ、一般性を失うべからず。
絵に印刷プリントをそのまま使用する、
持ち運びの出来る画像、技術的な面の変化、新しい技法。
私は自分の制作に印刷物を扱う事、使う事で、そういった意味のクオリティーを上げることで内面的に進みたかった。
精神的になるという意味で肉体的な事柄の逃御がなされる。
ギリシャの彫刻など、見ていたら所によっては受け入られたのかも知れない。例えばもし、神の声が聞こえて、みんなで一旦神の力を使って、穴の空いた頭蓋骨や、オーパーツ、近代にも伝わる軍人の埴輪、万能の力としてある、としたら二度と使えないはずで、その中にいる身として、楽しくしてるから、許されているのだ。
服が、馴染む。「動きやすいけど、禅は究極、ホンモノの方が格好良かった。」この締めくくりで私たちは納得を力ずくで買うのである。真の肯定にはまだ遠いが、幕府の整頓された考えより、古来を含めているし、何より美術は誰でも理解しているのである。
「パソコン上で」たとえあっても、実生活の態度に立ち向かいたい。
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2020/10/18
本をそんなに読めて居ないから、にわかさんだ。学問のタマシイならある。
普段に詩人と名乗るのは、知識の完成に於いて詩を含み、詩の最上級を手にした勲章であるから、詩人とば人を黙らせ、また億劫にさせる。詩人とは人を黙らせ、理想をうたう存在者だ。学問には余計な客観性がないからだ。光がまた詩人を黙らせる。
私は自分に言い聞かすが、応援してくださる方は多い。
こんなもったいないやつを正しいとする、自己弁護して、人を和めるのなら、と諦めない日々を送っている。思いつくが諦めない事が日本的な霊性である。そうだから、めちゃくちゃで、まず道理が通らない。
過ぎたところから始める。
だれてしまったところから始める。
ここからが勝負というとこで、余裕をつくるためである。
繰り返し覚えることで、フランス人のテンションに近づくかも知れない。
中国人の博識に触れるかも知れない。
これで一片を守って行く、どうせならそういうポジティブな事に取り組みたい。
自分を、変えるわけではなく、
自分のまま、宙を見極める事。太極拳でよくあるが、力を抜く(事が出来るのだ)。
格好の良さというのはそういった内面の研磨なのだ。左右対称が本当の美人だと云われるが、こうね、光に真っ向から向かわなくても光に対して体の、心の均等をはかる。蛾などの害虫は、蛍光灯などを群がっているのをよく私たちは目にするが、蝶などの昆虫の様に、自分を認識したいものだ。
左右対称とまではいかなくても、地球を光で守りたい。惑星だって実は球ではなく、歪んでいるらしい、それを模さないか。
そうすることで、身近な光に気付くのだ。
こうして、ギリギリに光を躱せ、精神的にはしかとした不屈不撓のかっこいいパンチを打つことが可能となる。
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