揶白 (KF)

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  • 大阪の格調の奇跡

     

    コレ〈 才六、もう日も傾きに。

    日の暮れは早いものじゃが、くれぬものは米じゃナ。

    ト、ほやく。

     

    それどころか今から五、六百年前も前の万歳が、立ち舞える千秋万歳いづくにも

     

     

     

     

    「まねし万歳、来てもらい、一日歩いて米一粒」

    京都ではこういわれる。

    大阪ではそれが「米一升」である。

    いわば女性的な品の欠けている、ということで

    完全にオリジナルであるとか、そういった格調としたもの、

    我々は失うことの雅(まさ)を、それそうとしての美学を説明するのが難しい。

    カテゴリー内に居ない星の「米一粒」なのである。だとしたら、わんさか溢(あふ)れても止まない涙の水が、一升と例えられてもいいのではないか?

    この学問的なイズムを扱ってもらう、採用して貰うために上京するのです。

     

     

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  • 雑記まとめ

    「神秘にかけて、私は描かない」詩的要求は画面上役に立つ。故にいろんなことを絞って単なる絵の具と単なる思想の塊が、絵になれば。無有の、無有的な価値観はとうに整頓されている。

    昔は何でも「描く理由」にしたが、物を言いたい事を纏めることが出来なかったので、必要のない時期は必ずある。幻聴にうなされながら、平面画、(印象派の影響で、やってる事は全く違うが共通する事はある、)美の構造をエヴァンゲリオンから捉えていた。全く詩でも扱ったことがないのだが、アホではなく、忙しかった。
    こうやってデジタル化の進んでる中、純粋に目にくる、目に訴える作品を望むが、生活の中に一度埋もれてしまった。
     色彩を操る西洋画家たち。フランス絵画に憧れたが、今一度、自律して自分が浮世絵に立ち返って。

    印象派を見る時気が狂いそうになる。物や美への恋。

    頭に思いついた理想を描くには、モダニズムやそういった思想が必要だ。数打って研いで、考えて行く、ような思考法は自分には合わなかった。アール・ヌーヴォーや漫画のような無駄さが絶対要る、静寂である、という事からダダへ視点を移す。ダダの先には許容がある。強く希望を感じる。しかし、ダダ的な作品は絵的に拙く、広がらずまるで思想の図鑑かと思えるが、後の思想を大きく見渡せるから、やっぱり偉大で、ダダ以降に立っている私を色々考える、「考えさせた」のである。
    シュールレアリズムの憧れを捨て、生(なま)になる。そして、からの、私のモダニズムである。どんな絵になるだろう?デザインとは異なる実存である。デザインには夢がある。私は現実をくり抜く、そこに残る夢を塗る。 コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.19 (Mon) 09:13


    動物の色彩感覚は乏しく、二色か三色である。動物である我々は多く、色彩(ものごと)を感知出来ないのである。色彩とは光の表現だ。亜熱帯の極彩色の夢を見たことがある。「私」はそこで感じた真っ黄色のもしくは真っ青な羽を分けるように書いている。ゆるりと歩きつつ、感覚を取り戻すようにそんな成長の仕方、行きつ戻りつ。



     漫画家の方が画家より巨匠と云えばそうである。溢れかえってわからないがそういう人が多い気がする。時間芸術である。
    私もナイフとランプを鞄に入れて旅立ちたいものだ。漫画家はもっとイキっても良いと思うし、そのとき“私たちの目のもの”となったアニメーションなどは売らない態が、客の、作家に対する新しい角度を、つまり網膜に色彩を与えてくれるのである。貪欲であるとは、それ以外のあらゆる物事省いて行くことだ。価値があろうがなかろうが、ただ立ち止まり、適当に傷ついて、そういう対人間と自分の心だけに関わるとき、「私」は動けて、たとえ酷い中にあっても相手の文脈(ライン)を感じる事が出来る。何であっても、作家の奇跡度が漫画を読み溢した感情にある。
    漫画を読むが、読んでも詩などと比べて自分には何も起きない。この芸術性である、とは、思いっきりフィクション、思いっきり虚構、本を閉じたら次、と安く読める。
    漫画家を先生というのはいつからだろうか?絵に対して注意を払うからには先生だろう。先生を持たない私は、先生と言わなければならなくなった日を待ち望む。台詞の構造でも学べたらどんなものが描けるだろう。私にとって漫画は勉強で、アートはアートだから使う頭が違う。どこで始めたら良いだろう…詩的であることには、何も意図する必要がない。ここに詩を学ぶ意義が有る
    。それ以外、詩人である時人は本当に社会人として、エロティシズムとして役に立たない。そして人のアート性と詩は“似ている”。 コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.20 (Tue) 07:32


    画面を見ただけで私に夢が溢れてくる。
    私の性的な意識は一番ありふれた赤である。
    夢の構造には、「抑圧」がある。

    現実には元々無意識(夢)のレイヤーがかかっていて、私たちはメタを理解する。言いたいのはそのトップコートの質である。
    シュールレアリズム、無意識を現実へ、この試みは強い西洋学で、「私」にはそこに記されてある無意識は無い。客観性は他人のものだし、フロイト心理学の奥は深淵する森である。それを自分なりに変貌させた、単にコピーしたバラエティグッズ、そういった浅はかなもので無意識を扱うべきではない。三界に至る、という自ら自身の行為、そういう言葉にしたい。無意識を、ただ単に裏表だけの紙のようなものにして、傷つくのは心ではなく繊細な目である。だから、反抗する。「萎縮」である。時間は取るがその為が却って健康なのである。無菌ルームが“近代的に”物事を整頓するかも知れないが、イズムとは全く、かけ離れた事である、無菌ルームが神から遠いのではなく、イズムでない、ということが遠いのである。ただ単に犬猫が無邪気に包んだ無意識であり、睡眠しているように見え、思える。「私とはここまで意志があるから」、啓蒙の素材として為り得る。一個人一家のimaginationとはコラボではなく、ボケツッコミの和なのだ。

    意識の強さとは何だ?
    高さであるか、私は顔という言葉から何を省略し、または何を残し、美人を描いたのか。自意識とは、直に自分への興味であるが、外面的に錯誤している。女の内的な“入り口”を潜る「精神」は…
    こういった2つの平面画に対して、比較した時に格差があり、平面画家の私は、筆とキャンパスの摩擦といった性交を、絆を、ルサンチマンとして破る。漫画の散らかった布団から起きて詩を労働する為である!破ったのちに見えてくるのは、流れる水や、真のモダン、今云えるのはここまでである。

    いつも特別な朝ではなく、
    みそ汁とごはんorおじや、を繰り返す。コテ
    Member
    記事日時: 2020.10.21 (Wed) 18:02


    散らかった街の底に月が浮かぶ。
     美術が必要になってくる場合、感情のひとつひとつを星にした時、それを「私」はどれくらい持っていて、それで何が出来るだろうと考えてしまった時です。此の心の窮屈な箱に砂糖が花のようではありませんか。本の中で想像している。美しい苦しみだつた。川端康成の小説は、真面目にしていることと波波にしている事が合わさって目にちかちかした。





    熟練者は此の暇にモダニズムを見つめる。私たちはその目の勉強をする。先生と「モダニズムを考える」と云う一句を作った、理想(夢)が有る。
    毎日勉強してたら精神も強くなるだろう。
    辛抱してたら心が強くなるたろう。


    白っぽい考え
    開国して欧米が入ってくると幸せの概念などについて考えを立ち止まらせたり、思想の概念が昔と比べて大きく変わってしまった。
    取り戻すはずのなかった計算の方法、左右均等の取れた考え、私たちにとっては豊かな心。
    弱い精神を知り、今度は他人の強い精神に影響を受ける。
    優しさは何と、時に魔力のように人を引きつけてしまう。心は養うものらしい。私も自分の精神を鍛えたいけど我慢している、矢先に、自分に優しくすることも精神力だと気付く。非常に毎日を豊かにドラマチックに過ごしている人など、いったん素晴らしい世界を観ると、そっちに向かうが心頭滅却して信心を試してみたい、どこに行くかわからないって楽しい。何か望めて、何が見れるだろう。
    気持ちが黒か白かどちらかに偏ってしまうと、混色のグレーになり見失うらしい。
    俺は「GLAY」だぜ、と夢を云いたい。

    最終編集者 コテ [ 2020.10.22 (Thu) 15:11 ], 編集回数 2 回コテ
    Member

    記事日時: 2020.10.21 (Wed) 21:50


    「学問」…菅原道真
    「嘘」…ついたら自分の何かを没収されて損
    。わけがあるなら△。
    「不足」…応相談
    「我慢」…数学を勉強したら実る
    「ラク」…我慢の先です

    梅田さん…おみかんとこたつ×ビジネス…故に新
       阪急で至福の一時を。
       そない遠くへは行けない…心中
       ビッグ・スターに出会える。
       ミナミの人間とは合わない。
       今は勾玉の知識について追っている。
    大阪さん 谷6…神が中国系、あらゆる川沿いであったためひんやりしてる
    隣町も知り合わない。

    ミナミさん…色々ある。
    心斎橋…品について

    四ツ橋…アメ村がある。王道の恋。

    堺(さかい)はん…町人が「俺たちで作る」と起こったまち。 コテ
    Member

    記事日時: 昨日 07:58


    星屑の学問である。

    硝子のはへんが小説のうちに、裏表紙に閉じられこれは溶けた。長々と読書して来た物語。物語というものは、虚構からくり抜かれた、掬い取られた「私の現実」である、物語も私もそれ以外に輝く方法げなかった。
    それにしても「私」はこの本を最後まで読んだ。読破した。
    同じ本をよんだり、同じメタ・フィクション世界に佇んでも人と人で自分の感想があるはずだ。


    一昨日は「漫画家の光」
    昨日の章は「神聖なルール」「恋敵貝塚」「大阪市民」おまけの章に「アンダーグラウンド」「分裂病」「県民の恐怖とこれから」「ご先祖様が猫」
    映画を観たみたいに肩をいからせていた。


    最後にタイトルが来るので、いつもなんのことだかわからないが、丁寧に捲っていく。 コテ
    Member

    記事日時: 昨日 08:50


    第67章「モラル」


    ・それを「場所」と云うのか
    「惑星」と云うのかで迷う人がおる。
    場所…アイデンティティの大事(おおごと)か、
    夢を叶えてしまった分、心が栄養失調になるのを、何にせよ避けるのがモラルである。本に敷かれたメディウム(ことば、台詞、ふきだしという媒体)の理解が理性的だ。
    心の豊かさがバロメーター、数値化され、人(一つの星)ではなく、物事を価値にして行く。そうすることで選べたら、自分に夢が再び降臨することを願える。そういった健康状態まで心は回復する。

    諦めない心がビリヤードを打ったように作用して、ヤングの小ざっぱりした纏まりを基準、ニュートラルにもう一度戻した。


    良い歌を思い出した。命の尊さである。うろ覚えだが、

    「遥か群衆を一人あとにして
    今日も聞こえる微かな声
    どこへ向えというのか 果てない空を

    何が幸せか 生きる喜びを
    すでに語れる言葉もなく 約束もないけれど
    苦しみでも悲しみでも 人は誰も生きていたい

    散らばった夜空の星ほど その時を互いに息づく
    我ら変わらぬ命なら
    もう一度目を覚ませ
    明日の朝に」


    私は既に人(一つの星)に依って、宇宙旅行に行けるのだ。誰に出会え、何を話すだろう?心にどんな事が起こるだろう?ミナミの街が宇宙改札に見えてきた。
    「まいどコテさま、気ぃ付けて歩きや。」

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  • 漫画5ページ(完)

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