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2024/10/31
私にわかるのは、物の中の方角だ。利点の内容が、しっかりして来ている。こういった文内容総体をそれと言う。
闇には灯りがいる。
詞(Mono)もそうだが、物も霊であるから、
そこに冥ごあるを目印に、もともと「ここ」は、
霊界で、気が強い世界となる。
気が強い=やさしい
だから、悟りと直結してる。
が、
悟りを開く世界じゃない。理由は、
仏界がそもそも高い恥じらいや、静けさがあるから。
本間の静けさへと、削り取って行くところ「けんま」。
手間をちゃんと持つ諸は、手間のかける光、とこういうふうに「見て」、癒やされることしか無い意味が判るだろう。
静けさは、感情(こころ)以外の気を遣わないことだ。
相手もそのほうが良い、という丸切りその世界をふんだんに使う事だ。
(わたしは、光を忠実に描写して、後で自分も楽しめるものを描いている。忠実は、身に合わせたものから詩を捏ねることも出来ると勝手に飛ぶ竹とんぼを知った。その棒と蜻蛉もどちらも時間をかけた手作りだし、それを組み合わせるのを感覚的に知っていた。これをアドバイスしたいのは、出来るかわからないけど自信がつくまで。
出来るか出来ないかよりもやりたいかだ、は、東京弁だが、どちらもわかりやすいだろう。この「だろう」は、他人にする森の木の説明とは、だろう、が良いのだ。話したいに決まってる。)
やらなくて良いことを確かめる。目視である。
闘うのなら、闘える精神なら、思いやる気持ちを叶えるがちゃんと自分の長い月日を思うかどうかだ。
悪いヒトは、一塊にするのがカンタンで恨まれて生まれ、本当に悪いから弱い。
「された」自分はいるけと、「された相手」はしていない。「イナイ」ってわかるだろうか?自我がないを、突き止めるには何年もかかる。
「する」「スル」
「しない」「イナイ」
虚構をはさんで解決を試みるとわかるが、構にあんなやつの格が上がるのを、文句が耐えないだろう。
この考えるやり方を、前に何かした人に教えてもらった。
する、スル
しない、イナイ
された、
しないをシナイあげれないから、サレタも田を去れないから言えない、「たたかなくてもよい」という珍しい字が浮かんで来る。
さっきの、本当に自分自身が天霊である気持ちとは真逆の閑静な住宅街。「物」を用意したら、拘らなくても良い。この元の気持ち。
しかし、却って世界の慎ましさに味や色彩を見る。ないわけではないのだ。
気持ちを自分程に丁寧に持ち、蟲ーを星に投げる。取れなくても無駄ではなく、言ったことが叶わなくても焦らず、等しいときには「仏と同じ」になっている。
背面から神と同じように守るなんて人間はしてはいけない。
それを知ってなあかん。
これを、知りたかったのなら知っていたことになる。「言葉」以上の気持ち。
これを、「気持ち」が増える、加わる、と点呼光が前に存在していた。地球の絵のときだった。
水面から生まれたというこうした世界観、幼いころ抱いたうつくしい呪文や哲学して初めて打ち出せた宝石の様な「地球の内側」という夢、霊を見つめることの出来た湖、の人。
私たちは海に帰る気持ち、実際の波や潮に抱かれてに遊ぶその身体の楽しさがある。老国として老人は、何かの時に相談を受ける為だろう。
狭い中で考え中である。合わないことを下からやると合わないことだらけになって思考が落ち、大変だろうな。
蟲ーや、何かゆってもわからんひとを先頭にする…“お客さん”だった。その題を考えることによって花が咲いた。
霊になって道頓堀の水面に顔をつけて「アホ」と話すと、ゴミの人形袋が届いてから、気持ちで何か取り出して見守る気持ちで渡してあげれた。
無慈悲な闇と同じように、等しく、輝きも、ある。
怒る、とは、実は何もしないこと。怒った事がないから、気持ちがわからないから、わからないが怖いといっている。いわかんが過ぎることはゆう。だから、過ちでなく、誤(まちが)った人ならそれを放つと、予感に留めていると、直る。みんなで何かするとゆう、冥界で? 騙されるな。自分の心に手を合わせたら、一人であるうちに孤独や和を達成している。馬鹿ではない。
・自分を覚える
信じれる冥王の律を信じて、一見ですべてわかること、「嘘も本当も目を閉じれば同じ」みなかったら同じだから、被害者であるこの「人間としてのプライド」を持って、許せないでいる。
それはそうと、これと
これが続けて読める、繋がりはマイペースでできる。
山の者供
2009/06/08
裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。
どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。
これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば鍋に、刺身に、焼肉にして食うのが通例だろう。ちなみにその日にとれたシシは臭みもなく美味であるが、二日以後はもう生臭い。
鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。
秋に、梅雨に、なってくると裏山ではキノコがむくむくと大きくなる。落ち葉のカーペットはふわふわしていて、そこには動物でもなく植物でもない、菌糸類の世界が奇妙な傘を集合さして群生している。
アカハツ(食)、
ヤマドリタケ(食)、
ミヤマアワイグチ?(食)、
クリイロイグチモドキ、
ドクベニタケ、
アカモミタケ(食)、
アカヤマドリ{/リンク(食)}、
ウスヒラタケ(食べようと相談するも教師に止められる)、
オニイグチモドキ(超不気味でも食)、
ホコリタケ、
キノコの数は枚挙にいとまがない。山ではじめてキノコを採集してもすぐには食べないで、詳しい人に必ず聞かなければならない。しかし過去に痛い目にあった人ほど懐疑的な意見で断念せざる終えないことが多い。そのときはキノコを見分けるのと同時に、現在志向の考え方を持つ人も見分ましょう。
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