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2024/07/23
有格無格、いずれも格と説き、
苔のむすまで、国歌のこの言葉は、えらい年齢のある…と、いうことをも言う。
見るとこれらを、何かとても大切と思う。
良く触ってみた身の結果では遊びの上等と言う。飛んだり跳ねたり走ったりする。
こちらは苔であるが、その楽しみが有格になった山。
では、このようにないという価値観こそ大事にすべきである。その線引きのエッジが上手く行ってないと迷惑が互いのものとなり、どん底であった、どん底を経験した。そのようにないにかかるのが形が、でもないし、輪郭は一緒といったら大きく違う。
これとこれは同じだよ、といって仲良さげに混同せず、違うと距離の説明がついて、二つが光り輝く。
それでも、
いつでも「私の意見」という一人意思が必ずあって、それを「あ」にしてるかな?
意見と思いきや、懐いて喋って楽しむと調子を整えている人や、意見だけが物凄く長い人、
人間の心とは、どうやって目を合わせることが出来るだろう?
動物とは、人間という動物のわたし、としたとき相手の古きが見抜けることをするときに、目が合うよ。
人間は、笑うも怒るも表と家も、どれも私、という心だ。
心は理想なんだよ。
神様は、人と泳ぎ、転倒しつつお笑いになる。沢山話した。人が話さなければいけないことのうちに光が見える。これは良い。大昔に死んだ人、と聞いた時に考える。人の神様を予測は出来ても現代生きている人から、想像することが物理的に出来ない。この一点と、また飛鳥や歴史の指標から神を考えるとき、この知の不思議や悲しみを感じ取ること、これらと、浄化される存在として、あとは「言葉」が残る。これは、人のことかもしれないし。
家は、壁がより壁であるぶん、近づくことが出来る。壁がより壁であるぶん、気持ちが光として通り抜ける。それを渡すのは人に宿れる神、
人を良くしているのに話しかけられない、そういうふうに笑いくださること。
とても体がいたい。天照様、どこがお戚みですか?…光ですね、やみ(夜)がナイからです。翡翠のお椀から声の話のできる、何と日の裏側につうじてる、道頓堀川のよる。
これはその日本の石。
光土産に
神様への悟りは早い遅いがあり、早かったら早く何かをいわなければいけない。後がつっかえている言葉の多い林のようなこの中で、こうして聞き受けることが出来る。また霊の中に神様がいても、その人とは、やっぱり人間。伸び伸びあるがまま考える、と追いつく。
石ついでに、
家の真ん中にもあるこれは、騒ぐモロ、人魂のうるささを嫌う色だ、静かにしときたい人。
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