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2024/07/15
輝きとも異なる、光は単純に心の成長として難解さが確かにあり、
黙ることのスタイルが、スタイル性に留まる。我が国を言う時じゃないから、個人的に改められる。
思い出したが光をエネルギーに変えるならわかるが、手間がその中にあるからだ。光からエネルギーを引き取り出すは、光として思う見るの抵抗、物質化を叶えられないのに物に取る。として、歪みが歪みのまま消える格好になる。光が善性である。善悪を考えたもとの考えの区切りがついた。
精神は、精神に対応する。龍には、ハラという考えがある。はらにはら、はらを出すのを、払い、支払い、以って祓いと言う。客観、主観かと思ってた身なりや姿勢から、主体が表れる。そこのそうする壁が、自我。それを考える壁になってくれる。あっとかぎゃっとか、ぼー、とか、無言とか、もっと面白いのとか、小さかったら入れれる。恥ずかしいじゃなく、身なりに戻る。気が数ええる前に人のもので、かぞえた瞬間、人間がいないのは知らないが、闇の秘密だと思う。見えないから見える、異なって忘失から起こるなんて有り得ないからである。
表で着ぐるみを着るという方法を取っている。主体の真相に感慨深く迫る。私の作り物の習作に、紙がありこれにあらわす、文で現すのだと思う形と、人と話したいはこうはっきり違うから分ける。この切り分けがある。元々、エクリチュールという言語が存在していた。私は身体性を求め動きを内外高める、本来の目的派。
妄想ということば自体が、盗難とか蟲ーから出来ている。客観的に弱い、その上段にある想像には、嶌わらず最期のような点になって滑り落ちるのがこの妄想。
いったん集めることのある方は、リズミカルな地球の惑星の自転から従って、空を確認して、戻る。
「光を知覚する」
想像や、流れているものそのものの理解。目が外を向く、客観視する、が甘い。
誰かがいる→とこに? となる。
誰かがいて、
何かしているが、何かされている。
これが混ざって光の信頼がない。→分けたときに、誰かがと述べれる。もっと下ると、誰かがいる、となり、次に、誰? となる。
自己の興味、関心を実感し、戻る。
意識あたいがちがっても話せたが、その人の意とか意識とか太陽とは、ほぼ計算上より早い。
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