揶白 (KF)

絵画

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    成長は、小さい時の自分からではなく全体性を思った自分から始めているのではないか、と思う時がある。哲学をしなければ答えにならない。こう思うと哲学は、誰かと考える、と言う意味かもしれないと思う。

     

     

    日本には哲学がない、と母に言うと祖が出てきて、ずっとやってたで!と怒っていた。

     

     

     

     

    私は今、神秘的な勉強中。

     

     

     

    良さ悪さを視るを修行している。それだけを叩き込む毎日を影でしていたのは本当。

     

     

    因果因縁を絡めた神を感じても、目は半目に閉じる。

     

     

    憧れの真っ只中、そんな仙人界岩からは、

     

     

     

     

    自分の脳を移動させる、ならともかく、

     

    そいつは、いくら脳をよそに出して、肉欲で遠くからでも遥々見つかっているのを人をよそにまず眺める。

     

     

    脳を粗末にしている。

     

     

     

    そもそもそれを見る修行が、技術を名乗る為に最もふさわしい形。とは、私は知らない。その様子を見た人が、合わなければ、知識として小さく置いておく。これは、私はわかる。

     

     

    粗末にしている、日本語。

    crude、英語。

     

     

    粗末、だけでは対象に

    届かないが、英語ではこんなに小さく

    している、という動詞が一つになっている。

     

     

     

     

    脳を粗末にしているやつ、

     

     

    こういったやつを上から映す宿りの私で、何かの霊感で映ることがあり、私をそいつと思っても、感じが合わず、時空が先に違ってすぐに剥離するから私は平然と上手くいっている、と感じる。修正力が地球にあり、映らないと思うが、私は精神上すこぶる健やかで、すぐに悪いことや老廃ものなどは失せている。感情の消化力が猛烈に高く、暗所でオタク活動をする事が趣味、そこから出た覚えは寧ろ一度もなく、趣味は人には言えないでいる。

     

    昨日、オオクニが映した私は、良い私。願う。

     

     

    付着するもの、肉体の重さに浮き上がるもの、波長が合わないのだ。わかっているのに混同させ、私をそいつと同一視する目は決まって力がないから何を以っても言うことがない。次元上すぐに剥離するからだ。悪いことを肯定する人は弱いからだ。まして精神上という。

     

     

     

     

    同じ人で、同じ重さの時は噛み合うだろうけど、精神などに肉体から襲いかかってるようなやつがいくら何を持っててものを投げても次の瞬間無効化されるのが普通で、聞きの良い人が絡まっても形状は直るから心配ない。老廃は、身体の代謝を高めたり、悪いと思うことを何とか諦めたりしないと自分自身に溜まるから、沈んで行くから放っておくのだ。そう生きる真っ当な努力の中、何か力が集まって、事故や騒動の原因に辿りつくまでが遅かった。「過信」と神は言っていた。

     

     

    悪いと察知するそいつたちの行く道、いつも良いと感じる私の道、は違う。浮くことを雲の様に自意識的に感じれるような余裕のある人はいて、余裕という間を挟んだ感覚は「心境」だろう。浮かべずしつこい悪霊がいても時間なんて合わさってない事がわかる。地球にすらいないかもしれないやつの言うことを、観察という取り組みもせず感覚的にわけもわからず聞くから、おじけていると私は捕らえる。

     

     

     

     

    良いことをしても神に出会わなければいけない。それを起こすような愛情が地柄的になく、それを愛していて、騒動もあった。どんな向上心を与えてもやる気のなかった人を遥かから感じ取り、しかも想像が出来たのだ。それはわりと自分が一緒に考えたかった人々と同時に思えるのである。

     

    気になるのは、理解してて精神上であれこれ心配するなら、意識を戻し、他人の強さに文句を言っているより帰って自分の精神を特訓するのが、いつもしていたじゃないか。離れても信じれる他人が安心する変わらない自分。この切り替えしと繰り返しはいつもしていたのだ。光は、人が祈る限り神の都合でくるくる回る。任せよう。

     

     

    いつもそうではなくその時だけで、あとは綺麗に忘れて生活をしている。

     

     

     

    それが早いように自然に触れていることが良く、高ぶると自分でないから執着が沸く、しかし、

    高ぶるがしっかりと目的に帰結するから空が見える。高ぶるが、その人の物でしかも自覚している私は、善が上にちゃんとある。

     

     

    逃げ合うかもしれない所を執着という言葉に纏めた高僧に感謝。

     

     

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