揶白 (KF)

絵画

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揶白 (KF)

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    Works 43
  • 心霊

    心霊なのだから

     

    いくら細くその場でいても、自分と人の為。

     

    心霊がそう出来ているから、そういる易さ

     

     

    心霊がそうあるのだから、そういる方が易い

     

     

    元にある縁の方が高く起用され、親しめば、その形になる。

     

     

     

    感情も霊とすれば、上手く纏めることが叶って出来る。経験による。

     

     

     

    高い意志や、意識の世界と次元。

     

    次元の現れには、想像界や、

    がある。だから、合理的でない物がある。途端に修復されたり、その中では理解精神がなくそれを利用する悪意も潜む。

     

     

    悪意、それは何かを考え、対処する希望が天より開けている。心霊をまた道場と成すのは自分の神仏への話し合いが不可欠となる。

    汚れたとき、神の方へ本来なら治療しに向う。

     

     

     

    霊は精神的に高い。こう何らか気付けない方であっても霊以上また成仏を持ち、何らか天が在る。浮遊霊、背後霊と呼ばれるもの憑きを蟲(ム)ーと言い、初めから修されていると見する。言葉はまた心霊であり、理解が曖昧だった。

     

     

     

     

    心のもやもやした「溜まり」より、こうしたほうが良いああしたら良い、という、街でもどこでもあるうえの方を聞いたり話せる事。一回聞きの相槌では、関係をたもてない。一年の練習が必要。

     

     

    見えない世界。見えないことを見えないと言うから見えないものが見えた。これが、見えないものを見るという事。

     

     

    この世界では、見える人ではなくこの世界の長である仏に謝ろう。人にヒントを貰い受け、神に方法を訪ねよう。

     

     

     

     

     

    見えない世界だ。理解が必要であり、よって言葉がある。先に天が有るからだ。天は個にあらず、ひとつではないと言う意味だ。故に広いと知られる。見えない世界、その世界にはその知識が有る。見えない「光」とは、紐解く携帯もそうである矢羽。美しい闇もまた「光」と同義。

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  •  良い波長

     

     

     

    「動いてる、止まってる」から始まる

     

    今が違う

     

    今、概念が違う

     

    概念が違えば字が違う

     

    字が違ったら

     

    現実が違う

     

    可能性、そこから顔を読む

     

    見、これが仏道の「面」

     

    南無こんがら

     

     

    「大霊」

     

     

    南無導師菩薩

     

    特別という、

     

    人に有って人に無い言葉 美しい海と空

     

     

    実ハ違っても平等

     

    取り返しのつく間違いと

    取り返しのつかない間違い

     

    南無薬王菩薩

     

     

     

    南無弥勒菩薩

     

     

    龍など、暴れんぼうの霊をおさめる

     

     

     

     

    精霊、白虎   

     

     

     

    わかったこと、霊を見ようとする

     

     

    ・観察していると形がない

    この感覚が好き

     

    ・流さなければいけない毒と、心を揉む力、この二つがある

     

     

    並列しざるをえない人の透明な感情、教え、何か動いてる心(封じ)、それでも同じくらい壁のある命、簡素、実践、やっていくしかない、地球などを考える、惑星と宇宙、霊的な土着と郷土を捉え、綺麗になる。その間にある愚直なら漢字と思われる。解りは前後を覚えているから今からでも大丈夫

     

     

    霊チェック

     

     

    4点

    想像

    努力

    しないで良いこと(他人のチェック等)

     

     

     

    神道さん…知識がいる

    神に持ってかれるひと…出くわすまで細心な理由がある。

    …閻魔

     

     

     

     

    ひのためしが鳳凰

     

     

    細いから視認しにくい 龍

     

     

    プライドが高い 白虎

     

     

    亀歩み あったりなかったり

     

     

     

     

    菩薩

     

    客観を捉える

     

     

     

     

     

     

    元 離れナアカンかった

     

    金されど金、これがわかる

     

     

     

    霊的 実際と言ったその私が現実ならそれは実際だ

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 仏陀の名前

    蟲の通るあの波が、人の視線から海をともない、お向かえがようやく存在している吉として見、一人一人が相手になり対処していくことであるのかね、といった拒否である。

    人々は良いものを着て、ちゃんと生きようしている。誰でも繊細な人肌に合わなかった。

     

    合わないものを出してしまった。→でも工程で調整してくれた。→だから、良かった。→でも自分の出したものは残る、だからそれは何だったのか?、それが、「合わないもの」。内容は、正道の真上をぶつかる。「こう思っていたけど、こうだった」これは、梯子という段差を緩和するアイテム。作製は自分で。

     

    良いものがなかったが、良いものをきれるようになった。感謝して頑張ろう、としている方からの反感はある。現実に心なのだから、「心」をわかってくれる。その方から聞こえる言葉「伴に死なんとって」は、その中に反感した人と反発を分けて正すことが出来るかがこの先の心としてある。

     

     

    「工程」など設ける専門家はすこやか。ただでさえ繊細な人肌にたいして、器用さを帯びひげも生やす。世界の先に専門店があるのだ。自分と対角するような対象的相手があり、優劣じゃないことを知ることに優しさがありそれを続けると言っている。そこに甲斐しさがある。こういった「専門店」や鋭い言葉、こうした丸みに揉まれることが今なんだ

    というタイミングもある。

     

     

     

    詩を書くこと→三者的に詩人を発生させる

     

    優しさにたいしては不理解と無理解が乱立し交差する中で、言葉負けという顕著な短所を気にする上で許された時間を追う。

     

    霊的にちかいひとがいて、縁を小まめに大切にし本当に「近い、身に合う」ともその過程に、勇気を伴い人の経験する良さを待っている。「近さ」の一体を見抜いてあげる。give.

     

     

     

    南無と唱えることの出来る希望がある。溢れている。

     

    心と現実との間に潜める次元性も理解出来つつある。

     

     

    自分の中にある相互感のある理性が不釣り合いな二つとしてある。主観とかと思う。非合理性という言葉が思想の中にはある。これが存在すると言われていたそうだ。

     

     

    我という自身は普遍を考える態度についていっている。そこから言葉の切り方を学び、今は「おしげもなく」を学んでいる。同じ目標なら、並列する姿勢を捉え、

     

     

    自分にあったのはなんだったけ?

     

    自分は何を持っていたっけ?

     

     

    知識のある人ではなく、走りの一位の人を中心に置くこともあった。

     

     

    問題があるから良い。と言われた。

     

     

    「それをやったらその人と数年でも引かれるのではないかい?」

     

     

    いくら映像でも、何でも、それは個として考える。

     

     

     

    南無、仏陀。と、唱えたそこに如来が。

     

     

     

    自分以上の問題がある。と知るまでにわかる、わかっちゃう。瞬間が人間間である。それが、寛(ゆた)のたゆたに、という言葉なんだと知るように人生を大切にしたい。

     

     

     

     

    やり方を教えたり、笑いあったり、製作の新しい部品するを見る。

     

     

    心の中は楽しい。心と形にし、次元を通過する、次元化したとき、心の中⇔内面、内面が別の対に成り多面化をはかれ、構造を感じられる。立体化した分別、整頓という自身の寺による工夫がなされる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    字の限界

     

     

    与えようとしない性格、自分で学んで行く物理性がある。植物を起源とする自分。硬い言葉の噛み砕きがあれば伸びる。

     

     

     

    水星語

     

     

    失敗という過程として起こる精神。

     

    創作意欲のそばにあり、製作からなる私の一方は専門店。

     

     

    創作はいつも結果的なのか。

     

     

     

     

    猫の爪、や!、歯のように言葉で闘うフィギュア店。部品倉庫を漁る。芸術屋にこんなんはどうか?と話になっていたことを思い出す。芸術の爆発か、職人的に生真面目さを芸術とするのか、それに彫刻家は別に存在するのか、真面目に考えると、名を持つことにたいしての理解がいろいろあった、結局。

     

     

     

     

     

    他店「魔法ショップ」うちより老舗。これくらいの分厚い本を私は購入している。通ったお陰で魔法か単なる毒性か分別性を学ぶ。自分は、霊感にハマっていて、その前に無理に修行を強いられていてなかなか通えない。

    薬草的に二冊ほど置くとしたら、「白魔術全書」「図解、悪魔」

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 対話、対他者。(編集中)

    縄文時代に作られた、高層の社を知っている。現物はしないが、災害に遭い、模型を難波宮博物館に置かれていて、見に行くことが出来る。太い柱の大きなそれは遥か遠い、木の階段がある。それは104メートルあって、高さは天まで届いている。上では大神が社に祀られる。一旦、という神と民の願いがその時噛み合ってそこに在る。

     

    自分にとって大神とは何か、もしくはいずれなのか、成るか。天使、韋駄天、無限体、目指せる系譜として、それに向かって一生懸命行く。古代は、神とはもっとぴたっとした暮らしだったのだ。霊的にもそれは大変なことだと思う。自分がこうした菩薩と同じことをしようとしても、出来るわけなどなく、では自分が神との歩み寄りは、濁美な川も現存する、もう少しまばらな用意や細かなと

    無限世界何だの跨ぐ前に、有限が出来るかって言ったら出来ていない。

     

     

    顔…顔というのはもっと奥深く、能でも芸術でもずっと昔の人はわかって言っている。

     

    厳かなと聞いて、永遠に閉じられるのではないかというひとを見ると、私は滴々と零れる水の音さえ感じる。岩洞窟のそこに祖のけわしい顔が見える。そこに細い草々が透明に青くひかって広がっている。まだらに広がり続ける矢先には、空なるエレメントがある。

     

    国籍を聞かれた時、国というのはずっと国だった。と答えるしかない。こんな風に物事は説明の具体にさしかかっている。有限という自分にとって大変なことを頑張った数=美人

    カオ、カタカナと言う決まり良さ。

     

    金銭であれば、物としての像であり、その木片凹みとマイナス自身を捉える。

     

    何か素材の名称にたいして木を木製と言ってみたり几帳面で、このような角のある言葉は、自分が邪魔な場合はよける。動かす。(「自分の話」が長い人もいる)

     

    真実を伴い、嘘があって、豊かさがある。それをそう思うより感じられる恵みや意識にたいして、大回りしたら良いと思う。

     

    祖と話す。対話、対他者の希望。草原にこの芽が生えて、それが明るんで行く。ずっと見ていきたい、と言った。間にいる彼の向こうにも誰かがいる。目に映らないが、理解、この字には空間があってリカイとは書き物をしているときでもない。嗚咽、良いと思ってた字がこれがこんなふうに感じるのを思っても見なかった。神は一直線で、合わせなかった人の方が折れた、折れたところから何かする。同じ方向を伝え必死で避けていかなあかんかったとこかある。

    沼、や野、山、池、流れ川、これっきりだったどちらかというと神的な要は仏と、今人間の自分が神との歩み寄り方、十分、客観的な対話を、これからこそ求められる。仏と自分のこの違い、「互う」といい、自分を求め相手が相手となり、話す姿勢を仏と養う。この字を子、アニメからもそれは伺える。古代と自の探求の滑路として、土着された時代の定義や暮らしに調和している。

     

     

     

     

     

     

    心の空いていることが悪いわけではない、川ある自分としての寄り添い方とは、天にあらず、

    天方とは天にあらず。

     

     

     

     

     

     

     

    この世界で、靡きかける。キリストや絶対を感じることに含める学び。
     

    空想のまま、間を壊さないややの気遣いなどはとうになく、破壊してきて空想をそのまま話すことを、人をノートにする、人をイスにする、と言って天地でも生活でも蔑まれる。

     

    そんなに考えることがあるなら、人は空想するスペースや間を作ることをする。それが人体の構造で、それを破っているねん。私は私の幅を守っているから、同じことをしてない。同じことをしていないってムコウはわかってる。知ってる。だから確信犯だ。その肩を持つ小さな感覚は小さな感覚なのだと思う。大きな愛とか罪とかがあって、蟲もいて、それから離れた人を呼び戻している。

     

    普段、無視出来ていないといけない事がある。人間区切りがある。この上で付き合う泳ぎと、抵抗力、意識がある。御手が御手として、握る。その循環に取るものを内側から無視する。線を引く工夫。この工夫する感性、正しく見ることそのものを養う。

     

     

     

     

    壮大な話をしても現実が突き刺さる、いくらでも落ちて行ける、六道輪廻の知が人生の中にあって、民でも王でも人として恥ずかしくなさ。こう考えるこの自分にかけられた平等な態度が、少しの知が人生にあって、朝焼けを見る。そこに、険しい地球の表情がある。迎えようとする。自己が何かを知るのはここからでも遅くない、と許された惑星とは完全な霊の形を学び取って、

     

    閃きは、

     

    取り入れと、融合と、いう言葉による美しい化合の方法、修復、分裂、委ね、抵抗、どれも精神。より大きくなる為に、これら砕き手である肉体、物の肉体には、整頓、と言う精神がある。私は見えないことを見えたからって見えたことにはならない、と言うている。

     

     

     

     

     

    実際の自分の大きさに合わせた道具を作るのに、軽い力で人と同じくらいの重量にする物の為にもうちょっとここ極めると多めに養っていた。ひとりだけ研師は構わない、という客観性から人間関係を諦めていないという意味を伝える。こういった継続が続く陸を想像し、含めて捏ねてたら間に形作られる言葉が利いてきた。自然を大事にする。

     

    断絶(No)と違いを伝える(Noのない言葉)、は、異なる。

     

    案外、一人でいたほうが誰かに出会って、誰とも出会わず休む人も大いにいるんだと、愛に視点を変えては思う。

     

    ちゃんと生きていて、澄ませていったら、湖では精神界で見たかったこと何でも映してくれると思う。

     

     

    自分の国を大きくする為に、ちゃんと人のこと利いてたら「理由」からになって来る。みんな、何かをちゃんと言おうとしていた。押しても引いても開かない扉はもしかしたら自動トビラなのかも。

     

     

    そうしていなければこうも出来ない。陰陽の噛み合いを、噛み合う瞬間として、勾玉の石の一個を、一つと数える。まるで頭上にあるようなその石のかたち。物が溢れる時にあり、決して考えられなかったことの、物や物や中にいて、収束を感じている。

     

     

     

     

     

     

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  • 天満を歩く

     

    裁判

     

     

     

    こんか良い人を!と怒ってくれる方もいた。

     

    私はまず、忸怩、たいたうう言葉を思いだし、次に文化を楽しむことが楽しいとこんな気持ちを持っていることを感じた。

    いろんな知識が擬宝珠の心の中をぐるぐるする。具体的に、無料が無料だから、したいことをするのも空いていて軽く、取りたいとき動けて、安い。

     

    事件、私は「心」この勇気を思いだした時、何につけても疑うことなく、こう思うこのようになってる時代の、こう枝の山をくぐり抜けてやろうか、と思えた。責任だった。

     

    一方、一方を確かめず、ただ、もし笑う人が、よりも、縁とせず悪いまま利用をされるかもしれない。注意をして考えたところ、  ここから騙される人もいるからだ。考えた。

     

    疑いもなく、こう思った自分がいた。

     

    私はまず、忸怩、たいたうう言葉を思いだし、文化を楽しむことが楽しいと、こんな気持ちを持っていることを感じた。

     

    いろんな知識が擬宝珠の心の中をぐるぐるする。具体的に、無料が無料だから、したいことをするのも空いていて軽く、取りたいとき動けて、安い。

     

     

     

    それか、そうなら、あれやこれやをほそーく歩いて行く、出来ない。空に相談した。こうここで訴えは終わった。やさしい淀みが心を締めつけた。たぷたぷ、たぷたぷ続かせた。いま、この時訴えが締まり、終わった。

     

     

     

     

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  • 私の昔書いたポエムを熱量で見分けるやつ

    昔書いてたサイトポエムの数々が出てきて、いるひとは、メッセージかコメント必ず下さいねーかお😀無言で掻き出すひとを、更に利用するやつがおるらしいけど、黙って、要るなら公的な機関を通らずに他人や他人の時間を跨いで重ねて盗る原因が一向にわからないんです。そういうのは盗みっつーんだ!

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  • 大切なやじるし

    ■タイトル:若し私に苦しい方 -------------------------------------本文------------------------------------- 物事を一瞬わかった事、つかみ取ったと思った事が、

     

     

     

     

    もやもやして別のことを考える。

     

     

     

     

    そんなあなたは人を支えていく。 何でもない何気もない、「私」の会話が続くから。

     

     

     

     

     

    光をすっと掴み、光に包まれている事の幸せと優しさ 光にもし触れられる取っ手とは、あなたの苦(ニガ)いおもいなんです。

     

     

     

     

     

    意外とそうなんです。それが、心の奥なのだから。

     

     

     

     

    どうせ死ぬのだから、一回くらいは噛みしめてみません?

     

     

     

     

     

    つらいとばかり思わないで、何が足りないとばかり言わないで、この良薬口に苦しを飲む事に心のつらい微熱が引く。

     

     

     

     

     

     

    わかりますか、ステップアップですよ。 あんまり苦いと思う場合は、漢方を取る。

     

     

     

     

     

    土の苦みが、苦しさを包んでくれますかならず! 魂が、じ ぶ んが、「どう思っているか」に、一生くらいは、耳を貸す。

     

     

     

     

     

    んですよ。

     

     

     

     

     

     

    えー私ぃ?、怖かったし、火傷もするよー? 本当に自分のクロレキシのようなものですからね。。

     

     

     

     

     

     

     

    ほんで、自分が苦い気持ちをすることに一体、

     

     

     

     

    何故か? ってそれは、人はくしくも「性」があり、男女それぞれの特徴で動く動物だからです。

    興味が正しければ、互いが「無性」という「和」は一瞬たりとも叶います。 遅かれ早かれ、生きてるそのうちに光って来るから、焦らないで、美術、映画、楽しいテレビ、温泉、この「良い物」を見て養う。 養っている間に、焦らない事を知る程に、冷静な胆力を覚えます。 何でも体がさき。 なぜ、私の言うことをあなた方が理解できるかというと、 芸術では無意識を学ぶからです。 色々考えて無意識界という高い場所を考えた所で、その景色(スウォードではK式)を、 自分は、伝える事が出来る。 私が心配するのは、高所が好きという性格と、高さがそのまま上下に関連しない、 関連しているわけではない、という点です。 アナログな芸術を持ち、写真は暗室で作る様に、ほとほと精神が暗いのが私です。 まず、上が上とは限りません。 そして私の上には、天の仏や人や人間が必ずいます。だから誰も不安ではないんだ。 ただ天地は有ります。   天地は、天も地もあなたの体に含まれている。 なぜなら、足の裏をしっかり下にくっつけた時、そこに腰を入れると「地」を体現する、 そのまま顔を空に向け、「地」から動かず腕を伸ばし手のひらを上、空にかざす。 その空を見たら、 「天」の高さを感じ取る事が出来る。 頑張ってくださいね!! なんなんこの人と思って苦心を抱いている方、 いつの間にか撒いた私の針が刺さって痛いひと、 解毒剤的なものを作成しました。ぐっどらっく・ごー。 https://youtu.be/G1asmvXh5K0 ------------------------------------------------------------------------------

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  • 願いごと

    祈りと擬宝珠カテゴリ

     

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  • 理性と精神

    「メヒシバ」

     

     


        意味を求める、どこかへ渡す為に弧を張るのだ。私は、ただ歩いて行くよ、と言う。楽しいか?と聞かれる。 楽しい、と答える。空想のフォルムが、想像であるように鳥などは空を作る。鳥などは亦、空がどれだけ好きだろう。私は、自分が足からどこまでが鳥でひかりが過ぎ去るのかを心細く知っている。

         私だけが死んだ、と思ったら、心が死ぬ人なんてざらにいるだろうと思った。自己の認知より早く先に、黒すぐりを得、雲は初めて「不在」と言い自由と戯れている。

    翡翠の様な川に心が伸び切ったのだ。偉い人が、跳躍と言っている。

     

    草が好きだ。

     

     

     


        形が、崩れるも何も冬の雪だから始めから凍っていて、サクサクと音が鳴り、無表情で赤も口紅も残さない。思いとその軸が、家屋として影になる。モダニズム、はこうでなくちゃ。ページを捲る度々、様々な事が過去になる。またたくまに静観され、明日にはいない者。それを知るのは、いつでも手動。

     

     

     

       跳び跳ねる波を、新品の皿をざっと分ける、私を知らない人に一番告げたいのは、私の町は自然が多いから、心が空気になって生きれている。この高度だけで色んな風を掴んで、読む。こう言う古楽が繰り返され、名を持つ。肉片を捉えても、心が動かないから迎えども驕りとして有る。私はなナメて捨てる。思いやろうとしても出来ないからだ。霊とは、磨いたものだ。深呼吸して、指を立てて天を見上げる。私だけが、地球の上にいる。自転から振り落とされて来た人は完結している。胸の中に、ここに在る重力のない目たちをじっと見るんだ。形を超え、それは梵天の現れる私の表現として場面が変わる。無として、私の勇敢な死たちは力として幸福の種を積む嵌。水も角も鮮やかだ、自然的なら私は石になりたい。今頭の中で一杯なのは、対象して建物と暮らしている人の事。ただそう思う、自分はこうでこういう風に思い考えている。彼は誰だろう、私は「優しいね。」と言った。私は自分の手を見て、ぼんやりした夢の向こう、テレビの知識の中の物産や、名々や金星のことを見たことないじゃがいもの凹凸を触る。この詩の中、この細く白い糸にたいして愛しさや恋しさは強過ぎて重い、飴みたいに溶けてしまう。私は自分の手を見て、手の中からアッテルが叶えたかったことと、振り向かない背とその中に積まれた責任が菜の花畑に浮かべる。細密でほろほろした花、茎とか緑の意味は未だ辛く、釈迦としか思えない菜の花や石の無心の菜の花と、固まった絵。思いの内から確実に存在する固まりの有る石と、君と僕を、初めからだと思う。私は腰を上げ、心の出生をアームに代えて二度と戻らないと言う。

    靴を履く、体がまた全ての事を吸い込もうと、鈴の様に鳴っては光るのだ。担う、と言う字の遥かで恐らく会える、人。

        蓮の研磨は、私が、と言うよりは、自分としての、言葉の事だ。ただ自分としてのと言う、何かもっと抱けるスケールにこそ見えないものを題にした仏壇の洗練である。それは、易い。

        生の言葉が、自分の何にも連結しない記号として、白黒としている。色彩豊かな主体、間隔、モノクロの研磨、秋の実、秋に取られるブローチを作っている。

     

     

     

     

     


    「どぶ」

     

     

        眉間には目があって、人それぞれでスケールが違うらしい。この眼と言うものを広く持つには日頃の行い、人間観、が及ぶ。趣味なんかは当然である。

    見えない者なのに、見える!、とぶつけてくる人も多い。人に会わないと目が腐るのだろう。音符王子、心の馬鹿なとき、音符王子、軽い言葉の筋力を養いとして彩飾のない空の世界、を地道だけで行く我なのである。道にとっては私には楯が必要で、一日中かかったが「よよい」と言う楯を考えた。連獅子の親のイメージで、相手と同じくらい息を吐く、と言う方法。孤独としての私、あなた。前髪の先にあるあなたの二つの目。目標から、どこにも行かない。愛してる、ららるらりらら。雷音さえ澄みきった僧の目に押さえ付けられる。雷とは、また世に有る限りの緊張感で身体的な成立ちがある、応えられるものだからである。懐かしみが互いの中から生まれ、草原というものは、奥行きはこの大地を広げて行くかは彼ら自身にあり、それが当然の事だとした目は激しく見過ごす事物である。私は、もっと物々しい水晶のそれに憧れる。漆の様に黒く、銀絵がちかちかする、月かと思えば川辺に消える、道かと思う煙は白く、中に閉ざしてオーロラ。すざく、すざく、星を紙に描いてそのまま死んで行く。闇は、闇からずっと木星を、糸を降ろして孤独ばかりを巻いて自分を失う。

     

         一曲で私は、双葉の緑割れた木の割れた硝子の木の、こう爆発している私の彼氏と、とても綺麗な手を繋いで明日を夢みる。朝はひらいて、めくるめく地獄や人の親しみがある。

     

     

     

     

     

    清潔な闇=あなたの赤留さ

     

     

    私は眠れなくて=あなたに会えない

     

     

    すき     すき     すき    すき?   すき、

     

     

    という詩を読んだ   どう思うかって

     

     

    いうことを、子(おまえ)がそう言いなさい

     

     

    ですから

     

    あなたが、あなたを怖いか   って

     

     

    それを、            どこまで、どれくらい

     

    知っていますか

     

     

    私はこれを知った時に

     

     

    ようやく初めて

     

    自惚れた                 の

     

     

     

    君はあなた     と、言えるかな

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    理性と精神

     

    雪を欺く 雪と見間違うほどもきわめてまっしろなさま。  結晶の中で、それを形成する私の道具の一筋を並べる。 良い意味で仲の良い無の相互がまずあり、この点からして、少し世界を変える。私の実際話してみた人から、意識が線を捉えて、 最初の点から、線を書いたりよもや図形を描くにはまず紙がいる。なんせ奥行きを捉えるのだから、 無空間の平行移動する「あく」にはびくともせず、躊躇する心という善は、違い、厚みを持たない軽さを咥えて、その皮膚の、反射も吸収も量の無成長である一定したA4の白いコピー紙の塊を佳しと思う。 アッテル 「こういうじゃがいもみたいな詩も、魔力を緩和しますからね。自分は黒鉄の螺やねんけど、ま、使いやすいように切ったらよろしいし、それがやりにくい言う原因はやっぱどこも全体的にとつ国と言って、結局何をしはんねやろ、専門的になるんかもっと漠然としてるんか。魔力と浄化って対抗対比していて良いですね、何かそういう趣味的漫画が描きたい。どちらも清めでは同じやけどね。光ったロングヘヤーがいきなり揺れながら下にたれて来たらと思うとめっちゃわくわくするし、過去の恐怖もあるし。清めは、右手と左手に自我と自意識を合わせる様な、自我と今の自分を合わせるような、濁ったものと美しい柄で心を肥らすような、足し算やからね。」 大川のように厚く 詩や動物のない世界は、叶えられない自分の手に持つ色彩たちや、ニヒルの青色の川に埋もれ、それでも生きているうちノイバラが同じ背高になった時、天萬はある日「家」に帰る。 「金魚の鰭はすずしかった」 明度が、足をはやした金魚に合わせられ、cm(センチメートル)を全く否定しないが、重さに傾倒するのが易い、単一的な素朴な、垢のない単位と、 高さを表現する祈りとしての、一尺、半間という寸法は違うが、間違って大切にずっと持っている。 何も言ってられない世界とは、客観性が、その中の、一体どこに佇んでいるのか分からず、一枚の紙の様に表と裏がいっぺんに一緒になっていることだ。 こういったからだの主体となるマリアの「客観性」について。生の精神のはなし。神に該当するスケールの考え。だから、土地霊的な良さ。 内部に込み入ると誰だって繊細なガラスの心を持っていて、 精神が、それら飛び散る破片や破片からみごと躱す。 葦を生やし、踏みしだける更の道もあり、 その身体能力の自意識を高く見ようと宇宙の中心を捉える。 霊の銀河の、手にりょうてに掬うような死。ただの水。色鉛筆の様にぽたぽた零れる。この中に次元が存在していて、目印にしながらそう思いながら、自身の前にあるカラの箱を潰したり畳んだりしていると、ちゃんと積み重ねられ、三年もこういった約束をしていれば、 修行の行き来を見渡す違った道が見えるようになる。 テントウムシ(リーダーさん) 「何か自分にたいして意味のあることを相手に説明して貰える、ラクやってん。 わかってくれる、ラクやってん。 動くのは、しんどいねん。 働いているところは、楽しいねん。」 さっきの金魚。肉欲とも肉体とも言えない、これを仏語で「欲」と言うこともきっぱりとは新しかった。本当に、凍りついた雪がさくさくと分けられ溶けるように釈迦尊は青く美しい。「欲」とは、このために要る欲、要らない欲、と人は必死に言っていたが、人が完全に言葉にするなら、「蟲(ム)ー」と言う。物質のようなのびたラーメンのようにはにはなれない。その奥で集中していると気付かないが、透明ではあるが厚みを無視すれば直感が鈍ってしまうように、空がどこにあるのか?問いかけを願った胸が、 私は黒い、体から感情というものを水切りして、体からあふれる感情を受け止める柔らかい鉄に為(な)り、心で心をバウンドしながら、方角を求める。 地図からぱらんときえて、真ん中のぐにゃぐにゃした鏡の中は、そんな方位でなく周りが臭いかずで、これは、そいつの元がシで、元に向かう「源(みなもと)」と言う助線に合ってる。対して生じることからの始まりが天神に向かう。オワ、と言う名前の幽霊のこと。近くから、 何とも思わず、自分の中にあるものも確かめず、外側だと思っていたのなら尚更に、自分の外側にあるものを、連れてこられて他人に渡したらしい。 ずいずい、自我に区切られた限界のある肉体を愛し、限界性から求められる肉体であるから体の緊張に向上し、飛躍し、 森で、屋根を建てるように、ごつごつと岩を靴で登るように確実に詩の中で、白鳥座に届くくらい、黒も白も心を追い上げ、目を開けると蔦の壁が、 暗い下から、いつか目指したこの道が、私の目は何本も黒い電線を鳴らし、私の目は何層も黒い水を反芻した。萎縮した。石を割って体を磨いた。 綺麗な川岸で、 夜明けを祈りぐるぐる灰と紫を巻いて行く。 広間にいくつも積んである木板が、端のもう丸みがかった長方形の木板が、私はそれを一枚、持っていて、 この黒いが、筋のある、感性を細く垂らすことで、ガコガコと勝手に並べている。物事への抵抗と、水を泳ぐ為の小さな工夫と、空、これらを素材に岩を捏ねる感じだ。前を見て。 果(このみ)を採り、水を汲み 薪(たきぎ)を拾い、食(じき)を設け 乃至(ないし)、身をもって 牀座(じょうざ)となせしに 心身は倦(ものうき)ことなかりしなり 時に奉事(つか)うること 千歳を経て 法のための故に、 精勤(しょうごん)して、給侍せり。

     

     

     

     

     


    我過去の劫を念うに 大法を求むるを為っての故に

    世の国王と作れりと雖も 五欲の楽を貪(むさぼ)らざりき 

    鐘を椎(つ)いて四方に告ぐ 誰か大法を有てる者なる 

    若し我が為に解説せば 身当に奴僕と為るべし

    時に阿私仙有り 来りて大王に白さく 

    我微妙の法を有てり 世間に希有なる所なり 

    若し能く修行せば 吾当に汝が為に説くべし

    時に王仙の言を聞いて 心に大喜悦を生じ 

    即便(すなわ)ち仙人に随って 所須を供給し 

    薪及び果苽(このみ・くさのみ)を採って 時に随って恭敬して与えき 

    情(こころ)に妙法を存せるが故に 身心懈倦(けげん)無かりき  

    普く諸の衆生の為に 大法を勤求(ごんく)して亦己が身 

    及以五欲の楽の為にせず 故に大国の王と為って 

    勤求して此の法を獲(え)て 遂に成仏を得ることを致せり

     

    今故(いまかるがゆえ)に汝が為に説く

    仏、諸の比丘に告げたまわく、

    爾の時の王とは、則ち我が身是れなり。時の仙人とは、今の提婆達多是れなり。提婆達多が、善知識に由るが故に、我をして六波羅蜜、慈悲喜捨、三十二相、八十種好、紫磨金色(しまこんじき)、十力、四無所畏、四摂法、十八不共、神通道力を具足せしめたり。等正覚を成じて、広く衆生を度すること、皆提婆達多が善知識に因るが故なり。

    諸の四衆に告げたまわく、

    提婆達多、却(さ)って後、無量劫を過ぎて、当に成仏することを得べし。号を天王如来、応供、正徧知、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏、世尊と曰わん。世界を天道と名づけん。時に天王仏、世に住すること二十中劫、広く衆生の為に、妙法を説かん。恒河沙(ごうがしゃ)の衆生、阿羅漢果を得、無量の衆生、縁覚の心を発し、恒河沙の衆生、無上道の心を発し、無生忍を得て、不退転に住せん。

     

     

     

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  • 修行の態度(編集中)

     

    「理性と精神」という名のもと、シッダールタ(杉のドクロとその詩)や、ブラフマン(覚醒、悟り)を目指していたのがこの夢中である基本だった。夢も死も物の光も人も、何でも混じえて、

     

     

     

    南無(नम namo)の「無」が何もない、じゃなく、

     

     

    その名が理性と精神で、寧ろ、何でも有らなければいけない、という意味のことを深い記憶から思い出している。

     

     

     

     

     

    仏の形を語にもし言葉に語るには、止まりを、自身の止まりを、その得ないものを語れなければ復説出来ない。

     

     

     

     

     

    遠くをいくら見ても、


    黒い電線が森のように生えて、見わたしがしにくいが、

     

     

     

    あらゆる間には、

     

    (美しいとか醜いとか私は興味があるが、

    気にならないのに気にしていた、そうとも別に本当に気もそっけもないのにいきなり跳ねる「何の上達もないのに」薄い気配がある。それは、近くにいた7日のひと、7日ごとに釈迦に名前を読まれる。要はドクロと仏にゆわれる。)そこからは、不気味なほど自然に全然違った話や形が漏れている。

     

     

    人が見抜く為にたまに干している「もの」たち

    ワカメに縛られいる。

     

    大体考えが、網タイツを完全に前に出すなど少し前に流行ったラグジュアリーに徹底している。歳の功、国籍の着物(服)。心の中を木のように有るのではなく、存在感がペラペラに薄く、目をまた心だと思う人の立場からしてはこいつの見た目がはなやかで乗しがつよいので気分のなかを一緒に泳いでしまう。

     

    こんなふうにも表現される。人が手を込んで、可笑しくなり浄化されている。

     

     

     

    この要は蟲(ム)ーの為に、人の箇所箇所が閉じていて、勘違いをして進行しない。「見えないこと」を念願できる頭の柔らかい人なら良いが、いつも言っていた「見えると損」ということを考えれた。人は目指すものを見ているが、そこが自分にとってやり直すカショだと知りにくかった。

     

     

     

     

     

    もっと奥まった何か、「自分を照らす相手」には、向かえないこの限界を大切にする。

     

     

     

     

     

     

    街には、文学者、天神で働く者、仙人、僧、若者、汎ゆる人がごちゃごちゃにあって、良いと思う。

     

     

     

    洋服を着ていて、私は断然素朴であって

     

    仏教の教えってやつの、今は今をと言い、こうガタガタしていて、仏教の考えや、言いたいこと、を達成していると感じる。

     

     

     

    人には愛想と空想がある。別れだ蔑みだといって固執せず、私はある間隔にまさか人がいるとも考えていない無心の想像は続く。

     

     

    「正しい街」、

     

    清く正しく、こういった街の風景のまにまにアッテルがいて、話すと哲学など聞けたりする。聞けたりしたら、いいんじゃないかと愛をもって空想する。美学と哲学はカテゴライズがあっても特には分けない。

     

     

     

     

    神わかりを「仕事のように」理解して来ている。その為、死ぬとわかってても、逸らすことが発達している。そりゃそうだな。

     

     

     

    未来を考えるとき、自分の得ているもの、もっと今まであるものが、未来想像であっても今であっても、組込まれてないと一番ひつような、現代の自分が一番出来る「想像」が出来ない。思いやりこそが重く、受け止めて担ぐ。ぜぇぜぇ担ぐ。

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