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2021/02/13
心には、好きと痛みが同時に両方有るもので複雑きわまり無い部分があり、
拙い人間関係であろうが捨てられない。そういった意味が磨かれていない者のことを、心が汚いと云って、ではその原因と当人が必ず結びつくわけではなく、つまりは正しく物事を整理し、噛み砕く事によって「悉く分別される」から、内面が透明になり、物事の理解を成功させるのです。
それを「クリア」と云う。
その心が綺麗であると、いわゆる成長を望む事にたいして、社会に染まっても染まり過ぎない自分を描く事が出来、安心出来るだろう。必ずしも濁っていることが美しくないわけではありませんよ。心、外界、街など、濁っている、と解釈したらそれだけです、ただ在るべきものとして、今後守ってゆくべきものとして刀をおさめなさい。
悪いことになった時、
「何故そうしてしまったか」自分にもいいわけがあり、普段から、こうではいけないと云うしつけにも慮りがあるけれども「悪い」「良い」に傾いてしまうことが、想像を遮るが、生きている間には時間がないからそれを考える事が多く出来ないのてす。芸大に行って考える時間のあった私は、考える、学問するくせがつきましたが、安易にそれが良いとは言わない、と果てにて思うのです。何が見てくれているのかわからないのは恒常であって、働いた分、苦しんでいる分、また楽しんでいる分は、これらは君を裏切りません。よって、どれだけ事物に知識があると云うのは、あまり大差がないのです。知恵がある方は、その場で人を「応援」する為に在るべきで、体の動くものは動かせるべきであり、一番になりたいと、云う間は無いのです。心の奥底にそういった気持ちがあるのなら、何らか叶いますが、正当な努力をするべきや。
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