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2022/12/12
表があれば裏が必ず出来る。
表さえちゃんとしてればいい。
ないものをあるというより、ないものをないとわかってる人の方が気回りが全然違う。気回りが人を助ける。
目の前にある部屋の世界。
世界の延長上に世界がある。世界なくして世界はないと思う。繋げるのなら、手や目を使わせる。
手や目を使わないと、自分の何かを無駄にするんだと思う。
一年でも考えは変わる。心や世界の併合が上達する必ず。
お化けは真逆。
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2022/12/12
自する、とか、自分がある、それを続ける、
プレイヤーじゃないのに「書き手」「画家」と言う言葉にはならない筈だ。
大澤くんがムーだとわかって、ムーなんてその頃は早期発見の暇もなく、ただ嫌な仲を上手くやってたこと。暗い過去を内心抱えていたことを気使って欲しかった。絵に興味があり、同学だった大澤くんの絵が普通に前にあったものの、よそですることと私はまったく関係がないし、整理をして見捨てられた、哀しい以外の、情とか感情を私は持っていない。自分が成長してムーが見れて彼を彼だと見た仕組みもはっきりわかって、ムーに情とか感情を持っていない。
ムーにされた事は憎いけど、必ず助けよう力になってくれようとしている霊がいるから、それを考えて憎しみを解いて行く。ほかの人もそうして欲しい。
終止符を打つのに、わりとそれでも歩み寄った人は多いから、
「見捨てられた、哀しい」を、気持ちを座らせることが、出来るかもしれないから覚えていて欲しい。そして、こう内省している、この時間は本当に個人なのだ。
守ります、という態度をしたのはムー本人だから。ムーが恥じらいを持ってて、あからさまに人間の態度を「私」にする、態度をするから目という間を抜くことが出来ない。
「見捨てられた」と感じているのはあながち間違いじゃない。
ムーの絵ってどうなるのか? あんまり良いと思わない箇所が一杯ある。
まず絵って何なの? ムーの絵がどこかに飛んで行ってしまうか、その先の安全ってどう作られるんやろう。見張ってる。
理解する詩人や、第三者は良くみたり、限りに尽くすけれど、それが作品、ムー自身ではないことは確かだし、
フランス人も、祀りの間、芸術性の項がふと現れムーの芸術性を「嘘つき過ぎて良くない」と何が起こるその手前で既にはっきり表わされていた。
こういった理由のある、
ムーの絵がムーの物ではない。この考察を得る為に今日は話したい。
これは本当の話だが、
私が大澤くんといた十九、二十の頃アルプスのおじいさんがきままに大学を覗いて、穴のあいた人間、ムーに座り、野原一面を描いていたらしい。
この絵、こちらの守護霊、アルプスのおじいさん、どのように渦巻いてこんな形や陰影を描き切ったのだろうか。頭はムーだが、野心は丸々おじいさん。私はそう聞いて、不思議な希望というか当たり前というか。おじいさんが可笑しいから笑っておちょくり過ぎているのを嗜められたり、好きな相手に面と向かわない弱さにたいして足もとを見られたり、緊張の数々を過ごしていた。
誰が何がムーでも得ていたものがあながち幻想ではないことを知る。
空気や気持ちは対他者として生まれ、この厚みが守られ、おじいさんにたいする憧れとか、反発とか、力に育てられるこの中で。
今は天狗の精として羽ばたいる。どうしても思い出せなかった風や空となって羽ばたいている。山を歩く足腰の重いおじいさんの着実性から、私は花道となっている。これは天狗になったと伝えると、再会も可能のように思えて来る。
だれかおじいさんいりますか。
つまり、大澤くんの文章は丸々おじいさんのスピーカーとなっている。
凌駕したい、と感じる。懐者の器だとそれはわかる。
ムーが、おじいさんを「自分として」自発的に顔面とするのた。それは可能性があるが条件がある。上を降ろすなら、ちゃんと尊敬しているかどうかだ。自分の顔は、大人になってからやっと見せてもらえる。子供のときは、みんなみんなといるものだ。
そのままを箇条書きにして、睨めば、そういう事実とか、こういうこんな形の事実なんだ、と浮かび上がって来る。君はその時捉えている、と思う。
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