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2013/03/13
作家志望者は毎年星の数ほど、入学してくるけど
それと同時に退学してゆく数も星の数ほどの量なんだ。
作家の総分母数が多いのは事実であると同時に
その数値の変動も、激しき濁流の如くなのだ。
つまり作家分母数は変動を常に繰り返しながら
出入りをループしているので、クラブ活動の延長としての
構えをとっってる絵描きについては、僕にとって
スルーな部類として位置づけていて。
二.三年で辞めてゆくコスプレ生き商人な作家連は、放ってゆくよ。
いくらセンスや才能、見込が感じられようが、
入社したての社員が即戦力として
使い物にならないのと同様、部活動の延長で
入隊してくる賞味期限付きアーティストt達は、
放っておいても、時期が来れば自ずと登山を辞め
道半ば下山してゆくのだ。
作家分母が多いといっても、数年で引退表明する作家は
アートマーケットにおいて何の影響力も無い存在なので、
作家としての籍を一時的に置いているにすぎない。
真に作家として気迫が感じられる表現者は
継続と共に着実に力を付けてくる。
正しき練習方法.勉強.努力を的確に熟しながら
良いベクトルへと羅針盤を動かしているので、
年数を積み重ねれば、それに相応する絵力を宿してゆくのだ。
やはり即戦力なる戦士として
育つには、それ相応の時間がかかる。
けれど、4年.5年と
創作活動を続けてゆく作家にとっては、
分母の一時的な揺らめきや変動に
関係する事なく成果を着実に上げてゆく事が出来るのだ。
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2013/03/11
細川氏が30を目前に就職活動する事となり
今後は日曜画家として再出発を図ると言う感じだ。
それぞれの状況下から、見極めをつけて、
どう言った立ち位置で画業を志すか決定を下す必要がある様に思う。
アートの世界って前回も述べたけど
大抵は場所代をレンタルして、スペースを確保しながら
活動してる作家さんが大半なわけで。
このシステムってデパートのシステムとすごく近いんだよね。
大手デパートの大きな箱の中から小さな1ブースを借りて、
そこで月々の家賃を
支払いながらお店を経営するのに近しいと思う。
お店の場合、ある一定の収益を維持しないと
経営は成り立たないから、その辺は白黒はっきりしてるんだよね。
運営維持出来なければ、店閉いする事で
一つの歴史にキッパリと幕が降りるのだ。
しかしこれがアートの世界では
前述のブログで書き記した内容と同様で
曖昧になってしまうケースが多い様に思う。
それは何故かと言えば、作家活動とは別に職があって
そちらの資金で絵に投資しているので、維持しようと
頑張れば続けてゆく事は可能。
ここが良い面でもあると同時に怖い側面も兼ね備えている。
自身の能力に見切りをつけ、それに見合った
立ち位置で、身の丈に合った作家活動をしないと行けないのだが、
その見極めが出来ずに地団駄踏んでしまうケースも多々あって。
デパートの話を例としてアートの世界に変換すると、
大きなデパートの1ブースをレンタルして
それぞれがお店を運営している様なモノで。
けれど作家業とデパートに軒を連ねる
フード店や洋服のお店とは決定的な違いがあるのだ。
それは作家業の場合、生活資金の延長で捻出した資金を
活動費に回しており、そこをキープさえすれば
いくらでも続けてゆける所に
最大の盲点であり問題も含まれている様に思う。
普通のお店だと経営が赤字続きだと
生活出来なくなるので、運営成り立たなくなるが、
アートの世界だと
そこは実生活の延長資金を投資に使っているので
継続維持は可能。
けれど人も来ない、集客が見込めない、販売が成立しないお店を
投資し続ける価値は果たしてあるだろうか?
毎回イベントで赤字を積み重ね、
黒に持ってゆける資質も見込みも無い場合、
時には経営を退くのも勇気だと思う。
始めは赤字の5万10万だった金額も、
赤字経営を続けてゆく事で雪だるま式に膨らんでゆく。
リターンする見込みが全く無いのは
アートなお店としての経営が破綻していると思うのだ。
それよりかは無駄な赤字で投資するお金を
立ち位置を変える事により、別な使い方に
有効活用した方が有機的で良い様に思う。
日曜画家として歩みをシフトさせるのか、
趣味で続けてゆくのか、
どの立ち位置が自分にとって最も適して
健全なのかを、じっくり考えるのも大事な事だよなぁ。
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2013/03/10
日本は奇々怪々なレンタルシステムが主導権を握っている
アート業界において、外国から見れば
ある種、奇々怪々で異質なるものであって。
簡単に言っちゃえばお金さえ払ったら
誰でも彼でもプロなる構えが出来ちゃうわけで。
レンタルスペースで展示して、絵には価格まで
自身の自由な形で付けられちゃうわけ^^
資金ぐりも芸術活動を兼業で構えている絵描きさんが、
生活するための資金をメインとした仕事から切り詰めて
捻出さえすれば、いくらでも発表が続けられるわけ。
つまりプロとアマの境界線がピンボケしちゃってて、
曖昧なる土台ベースで発表スペースが設営されている。
なので、入るのも出るのも、いつでも自由なフリーとなっているのだ。
このシステムは海外から見れば一見ネガに捉えられるだろうが、
ポジな面も同時に秘めていて。
僕みたいな企画画廊に所属してない描きにとっては
レンタルスペースで場を借りて発表を繰り返す事で
腕に磨きをかけてこられた様に思う。
絵を第三者に見てもらう場所が無ければ、ここまで
這い上がってはこれなかっただろうし、お金を払ってでも
発表出来る場所が提供されてるこの国の
奇怪なるシステムに助けられたとも言えるのだ。
前に読んだアートの本でお興味深い内容が
書かれてあったので記憶を紐解きながら紹介いたそう。
あるアートのカルチャーセンターでのエピソードを
書き綴ったものだって。講師の先生が主婦の奥さんに絵を教えていて。
主婦の方は趣味としての習い事として
始めたつもりが、メキメキと頭角を現して、
ある時からプロになる事を決意した。
あれよあれよと段階を踏んでゆく内に
画廊でお声がかかる迄になって、そこから
画家としての道を真剣に歩み出したと言う。
教えている講師の方は逆に、
始めは作家活動を維持するために
必要な資金ぐりを捻出させるため、美術講師を始められたらしい。
いわば当初のメインは作家活動を本業として
構える心構えであった。しかし、あれよあれよと、美術講師の
仕事が慌ただしく軌道に乗ってしまい、気が付けば
そちらの方に重点を置くようになって、
作家活動は日曜画家程度な細々とした内容へと落ち着いていったのだ。
美術講師のプロとして主婦からお金を
払って貰い教える立場だった者と、
授業料を納品して美術のノウハウや
プロセスを美術講師から学び取りながら
切磋琢磨を経由して、
最終的にはプロのアーティストとして
画廊デビューするに至った主婦。
始めはプロとして構えていた者が
日曜画家に変化するパターンもあれば
カルチャー的な趣味として始めた者が
プロの世界に身を乗り出すケースもまた存在する。
日本の美術システムにおいて、
こう言ったプロアマの立場が反転するのは
日本土壌ならではではないかと思うのだ。
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2013/03/09
関西のアートフェス、特に一般ライトなお客との相性が
いまいち良くない。その事について今日は書き記そうと思う。
関東と関西の差って、単にマーケットの規模、
つまり分母数による集客率の大小だけが
問題では無いよなぁと思っていて。
最も重点を置かなくてはいけないのは集客数よりも、むしろ
マーケットに対する認識、つまり成熟度合の高低では
ないだろうかと考えていて。関東の場合、絵を鑑賞して嗜む文化が
浸透しているのに対し、関西は実用的な雑貨アイテムと並べると
明らかにアート作品が競り負けてしまうのだ。
このアウェイ感を払拭しようと試みているのが、
関西では唯一アートストリームだけだと僕は思っていて。
赤い成熟した果実か青い酸味を帯びた果実かの
大きな違いって、やはりあるよねぇ。
他のフェスでは軒並み雑貨市が猛威をふるっていて
建前でのアートブースはあるものの、
反応はイマイチ気薄である様に思う。
もう一つ僕の関西でのジラフに対しての反応について
個人的に思う事を書き記す事とする。
僕の描くジラフが関西のライトな
絵に所縁の浅い来訪者に受けが良くないのには
該当検索無し、という理由があるように思う。
どうゆう事かと言うと、現実モチーフのキリンとは独立した形で
絵のイメージを色濃く抽出していて、
見慣れた事のないイメージへと図像が仕上がっている。
見慣れたモノに安心感を抱く心理と関係している様に思う。
関東では見慣れた事が感じられないフレッシュな目新しさに刺激を強く
追い求めているので、自身の絵との相性はわりかし良い。
これが関西のアートマーケットだと同じ作品でも
評価が反転してくる。実用的でいて、写実性に優れていて、
現実世界で見た事のある安心感抱ける現実味帯びたジラフ。
つまり動物園に居る題材のジラフを元に
色味や形を忠実味帯びたイメージソースとして
再構築された、該当作ありなジラフが一般的な方々には
強く支持されるのだと考えている。僕の作品は、それらの人から
見たら怖い絵に相応すると思う。怖い絵とは未知との遭遇であり、
ジラフなエイリアンに地元地域でばったり出会っちゃうわけで。
尖りや個性が強いのが、発表するエリアによっては
必ずしもプラスベクトルへと動いてくれるとは限らない。
それなりの持ち味を出してるジラフ作家さんで
他に類似作品が在りそうだけど、
何処かで見たことのある安堵感が逆に心地よい場合だってあると思う。
自分色がさほど濃ゆくないジラフ作家さんの方が
関西の該当作ありを、馴染み深く捉えている土壌においては
地の利を存分に活かせるのではないだろうか。
僕の絵は、掘り出し物や目新しさを好む人に受けが良くて、
アートに所縁の浅い人には反応が薄い感じなんだ。
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2013/03/07
作家と同様、ギャラリー関係者にも
巨大規模のアートフェスタは驚異であると同時に
大きな箱スペースとして大いに利用しなくてはゆけないと考えている。
ギャラリーの新たなる形を近年垣間見る事が
デザフェス行った時にあって。
大阪心斎橋に在るアート雑貨兼ギャラリーのお店、アートハウスが
デザフェスにブース出展しているのには
少し驚きつつも、新しい時代の流れを
上手く読み取れてるよなぁととても関心したんだ。
東海地方だとギャラリー龍屋がクリマ.デザフェス、
共に2回ずつ出店しているよね。
単に自身が経営してる箱スペースに留まるだけではなくて、
より開かれた大きな大河へと自身が運営してるお店を
出張遠征させる事で、お店のネームバリューが
より大きくより広く拡張されゆく様に思う。
ギャラリー規約を書いたDMなどを、そこで配布すれば
同じ遠征に関西から来てた作家には地元で
「こんなスペースがあるんだ、一度行こうかな..」という具合に
興味持ってもらえるし、
そこで個展を開こうかと考えてくれる作家にも
巡り会えるかもしれない。
アートフリークな関東のお客や作家には
関西へ赴いた際には一度訪れてみようか..とか、
遠方から売り込みに来られる
作家さんなんかの確保にも繋がる様に思う。
つまり自身の箱に新しい風を迎え入れる事で鮮度を維持しながら
ギャラリーの知名度を上げる事にも
大きな実を結べる様に思うんだ。
作家もそこは同じで
関東の大きな平原、つまり自身が活動してる小さなスペースから
脱出した所に在る土地へと赴く事で新たなる出会いが
数多く引き寄せられ、そこから、より多くの縁を伝播させ、
広がりの振り幅を大きく振動させながら
横に繋がりを帯びさせてゆける様に思う。
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2013/03/06
ソーシャルネットワークの使い分けについては
前回、アメブロ、フェイスブックを
中心に対比させて書いてみた。
外部ブログ.マイノリティーに対して
フェイスブックマジョリティーとしての位置づけで。
最近は作家仲間からフェイスブックページを薦めていただき、
これが大変有意義でフェイスブックとはまた一味違った
外側への繋がりが大きく据え広がってくれて。
それと同時にフェイスブックとフェイスブックページの
それぞれのツールが滲み出せる味の違いを
見出さなくてはゆけないなぁと考えてて。
どちらも同じ様に情報を全て横流しにコピペしてては
面白味が無いと思い、フェイスブックページ限定の
持ち味をキーワードに据えながら日々模索している最中である。
模索してる中で最近フェイスブックページ限定で始めたのは
過去に軌跡として辿ってきた作品展のDMを
年代順に載せれると、よいかもなぁと思い出して、
フェイスブックページ限定で載せ始めた。
自身の過去に描いた、10代くらいの作品を
これから少しずつ掲載してゆこうかとも検討している。
過去にどういった絵図を描いていて、現在の作風を眺めた後に
これからどんな風な世界観へと展開してゆくのかを
ふと想い浮かべてもらえる様な機能装置とし役割を担いながら
誘導出来ればと思っている。
ツイーターに関しては、一日の生活の中でチョイスした言葉を選別し、
形にする事で、後々自身の制作へと
整頓されながら還元されゆくだろうなぁと考えてる。
いわば一日のハイライトみたいな、選別による切り取り。
後は展示会の告知とか、本当にどうでも良い呟きを
ストレス発散させる気晴らし感覚で呟いてる感じかな。
アートの情報保管発信サイトCJキューブは
運営サイドのCJキューブが毎月コラボ企画を開催していて。
月々のテーマに沿った作品を
募集していて、それの公募に作品画像をエントリーして
ブラボーシールによる選出にて
選ばれると、主に東京のギャラリーでのグループ展に
無料招待してくれるわけ。
東京の場合、立地関係で場所代が
関西に比べ、関東の方が大分に高いので、
企スペースを無料提供していただくと、経費面ですごく助かる。
そんなこんなで、ネットでの地道な情報発信も
現実世界での足を使った生身の本体で動き回る活動と
等価なくらい重要なる位置づけを占めているんだなぁ。
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2013/03/05
美術雑誌だとか本だとかテレビなどで
特集されてる作家さんよりの
同時代でいて同じ地域でタイムリーに活躍されてる
作家さんが発した言葉や行動などの方が
近しいシンクロ率でリアリティー帯びながら伝達してくるんだ。
やはり身近で近しい立ち位置から刺激を受けて
自身の内面へとフィードバックさせてゆく方が
より良いサイクルを生み出せるんだよね。
先日、大阪の画廊にギャラリー巡りの一環として赴いた。
そこで企画個展をされていた女性作家さんは
週の五日、アトリエにて絵を朝の日の出から
太陽が沈みけるまで
毎日描いていると聞いた。アトリエを6人くらいで
シェアしているから、
そこで払う賃金は6分の1に軽減される利点もある。
残りの2日間は契約社員として働いておられ、
実質休み無しのフル稼働にてバイタリティー溢れる勢いで
活躍されてるのは大いに刺激となり感化された。
まだ年齢も若く24歳で画家宣言されていて、
絵を生業に画業貫徹させる険しさを十分に認知しながら
制作活動をあくまで主軸として構えながら展開してゆく。
その直向きなる姿勢には、同じ立ち位置で画業へと挑もうとしている
自身とリンクしてくるモノが大いにあり、鳴り響いてきたのだ。
もう一つ、自身の刺激を感化させてくれた
同時代の作家さんの事を少し書き記す事にする。
大阪でカエルの絵図が看板となってるお店が扇町に在って。
そこの専属作家さんと直接お話はした事ないんだけど
フェイスブックの方で友達承認していただいた。
たまにしか更新されないんだけど、
そのたまに更新される情報が僕の中でかなり貴重なウェイトを占めていて。
郵便受けに手紙が入った写真がアップされてた事があって。
そちらに短い文章で添えられてた言葉は
「久々に外界からのコンタクトあり」..と言葉が書き綴られていて。
いろいろその人が発する文章を読んでゆくと、
今年になって新体制となり、外出出来るのが月に数日しかないんだって。
残りは自室のマンションに
籠ってひたすら缶詰めによる制作。
ストイックの境地を垣間見て、
この人に比べれば僕などまだまだ
踏み込みが浅く温い事をやっているなぁ..と
深く考えさせられた。
ちらりと人づてに聞いたんだけど
この人の夢は絵筆一本でマンションを建てるんだと笑
一見大げさで見栄を切ってる野望に見えるけど、
この人の頑なでストイック過ぎるまでハングリーな
飢えた姿勢を遠目で眺めていて、それに行動が伴っていると
自然とそこから説得力が生まれてくるよなぁ..と実感いたした。
さてと..、僕も自身の境地をさらに深い色へと染めいるべく
創作活動主体によるストイックな日々を更新してゆこうか。
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2013/03/03
自身の中でソーシャルネットワークやブログは
それぞれ使い分けていて。
展覧会の告知や作品画像のアップは
均等に保つ様、それぞれに貼りつける様、心掛けている。
最近フェイスブック及びフェイスブックページなどをやり始めて
思った事があるので、メモがてら書き記そうと思う。
支持率って、やはり不安定なるものであり、ファンの定義ずけも
僕は曖昧にしている。音楽とかの世界見てても
ファンって言うのは
その時期に、その人に熱中してたり、一定の時期が過ぎると
去りゆくパターンも多いので。
自身の作風が変わったり、相手の好みが変わったり。
フェイスブックの方は、画家としての素の顔よりも、
どちらかと言えばギャラリストの様なポジションで情報発信していいる。
絵描きとしての本心はあえて後ろに追いやり、
丁寧な礼儀作法で黒いスーツ着ながら接する様な、
マジョリティーたる構えで挑んでいて。
つまり絵を引き立たせるために、
作者である自身のドロドロとした部分や核心迫るコアな内容は
極力抑えていて、広いふり幅での繋がりを強く求めているんだ。
では外部ブログはどう言った立ち位置にあるかと言えば
マイノリティーなる少数へと凝縮される。
アンダーグランドでハードコアなる立ち位置を意識しており、
言わば本音100パーセントに近い、画家川瀬大樹の内面的
風景を切り取りながら、鍛錬の一環として書き綴っている。
絵が好きだと言ってくれる人も、画家の人間性や
制作過程などは、どうでも良い..という人も中にはいると思い、
それは人それぞれだからなぁ。
なのでこちらの外部ブログのアクセス数を
勢いよく引き上げる事は全く考えてなくて。
地底でひっそりと
日々浮き上がってくる心象風景を切り取りながら
書き出してる感じで、積極的に宣伝をかけていないのだ。
マジョリティーたる大多数か、マイノリティーな少数派か、
どちらもそれぞれ一長一短はあると思う。
けれどマイノリティーなコアとなる本質的部分まで
理解してくれてる人の方が最終的には自分の手元へと
残ってくれるんじゃないかな。
ポップで愛おしいだけでは無い、
その奥に潜んでいる深み帯びた暗がりである、
作品世界を僕の絵から発見出来た人が、何年か先まで
自身の絵と長く対話をしてくれる様に思った。
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2013/03/02
制作において、ポジなバイブとネガなバイブっていうのがあって、
ポジなる振動によるエネルギ転換ってのがあって。
誰かより大きな賞を獲りたいとか、
ライバルとして認識している作家よりも
抜きんでたいなんてのはネガなバイブ数であって。
けれど、これを設定して伸びてゆく作家にとっては
ネガなる振動数と認識されてても、
本人にとっては、上昇しながら進化を促すために
必要なエネルギー源であるから
ポジなバイブ数として捉えられるわけ。
逆に述べると、家族のためであるとか恋人や親友など
誰かのためにやってのけたいと思える、守るべきものがあって
発動するポジなバイブ数ってのもあって。
ただ、ポジとされるエネルギー資源が、逆に変換されてしまい
ネガなマイナス方向へと
陥ってしまうお話を今日は書き記そうと思う。
ある天才的な楽器弾きの例え話があって。
その楽器弾きが奏でる音は、周りに居るどの楽器弾きよりも
研ぎ澄まされた至福なる音を奏でる事が出来て、
類まれなる卓越した才能に、周りは称賛の声で
称えながら、憧れと尊敬の念を抱いていたんだ。
けれど、数年のち、あれほど美しく他に類を見ない
旋律なる音色を奏でていた彼の音が、一切聞けなくなってしまった。
男の音色は平坦な代物になり下がり、
それが原因で音楽家の世界でお払い箱となってしまい、
今では暖かい家庭、つまり家族の温もりに満ちた
幸せなる生活を日々営んでいるんだそうだ。
まぁ、例えとしてすごく分かりやすく明快な話なので
昔の記憶を元に書き記してみた。
逆にフリーダカーロみたく、実らない傷だらけの恋を
絵に綴り、その手合いの作品では歴史に名を残すまで
有名になった画家もいる。女性画家で歴史に名を刻むまで
大きくなってる人ってのは、男性画家に比べたら圧倒的少ないよね。
つまり失恋であるとか一見ネガな要素のある感情でも
作り手によっては、膨大なエネルギー資源を生み出す事が可能で
貴重な制作モチベーションへと転化する事が出来るんだ。
いわゆるネガをポジに変換するってやつだと思う。
逆もしかりで。血塗られた人物であるとか、骸骨などの題材を
執拗に描いていた絵描きが、恋人出来た途端、今まで描いてた
モチーフに説得力が感じられなくなってしまうパターンもあって。
けれど、真にその追及し続けしモチーフが
作家にとって本当に描きたいモノであれば、
色恋沙汰くらいでは説得力が消えて無くなりはしないと思うのだが..。
つまり周りの環境がどんなに変化しようが、浮き沈みが発生して
大きな波が巻き起ころうが、根幹に宿る芸術家魂の灯が
消えない限り、ネガなバイブであろうがポジなバイブが
自身の影響化として雪崩れ込んできたとしても、
全て無くなりはしないと思うのだ。
要はネガな要素とポジな要素を自身の性質と照らし合わせながら、
時にはそれを利用しながら、時にそれに潰されない様、
上手に対峙してゆく事が大事なのではないだろうか?
p.s.フェイスブックページ始めました^^よければご観覧くださいませ^^
http://www.facebook.com/home.php#!/pages/%E5%B7%9D%E7%80%AC%E5%A4%A7%E6%A8%B9%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BD%9C%E5%93%81/134117053431630
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2013/03/01
昨年の2.29日〜3.5日
阪急駅構内で開催された
コケラヲトシ3、ここでお手軽にアート作品が購入できる
数千円サイズの小原画を主軸にして売り出す事が始まったのだ。
いわば始発点であり、
壮大なる目的地への航海の幕開けであった。
そして今年の2月下旬、いよいよ98点という地点へと
差し掛かり、一昨日、ついに目標地点へと立て続けに3点
絵が売れる事で到達する事が出来たのだ。
コラボでお世話になってる企業の後藤さんが
手掛けたコースターの原画を2点ほしいと行ってくださり、
ちょうど、その日にジャケットサイズで手掛けた
時計原画のクジラもフェイスブックで申し入れあった方の
手元へと無事届いたと連絡が入った。
とりあえずの五年で売り上げ500点を
一つの最終到達地点と構えた
五分の一地点まで無事、差し掛かったというわけだ。
目標を設定する時、自身の許容範囲のキャパより
2.3手上にあるライン上へと目標セットすると
やりがいがある様に思える。
予想範囲内に収まる感じの目標だと挑みがいが無いと思うし、
自身のキャパ容量を
拡張.拡大させてゆけないとも思う。
公の場で、まずは目標ありきで公言してしてみるのも良いと思う。
明確なるビジョンを見据え目標をセットする事で
それへと到達するには、どの様なアプローチをかけて
策を練り上げれば目的まで行けるのか、
ありとあらゆる策を立てながら
練り上げて挑めると考えている。
幾重にも連なる試練や難所を乗り越えて
コロンブスが新大陸を発見した様に、長きに渡る航海へと
身を乗り出そうではないか。
確固たる先を見据えた目標を自身に誓約としてかせるのは
大事であり必要であるんだ。そうしないと同じ海域での波間を
行ったり来たりを繰り返しているだけで先へと船は
進められず、変化や進歩の無い一年を同じループで
過ごしてしまう惨劇になりかねないと危惧しているのだ。
一年という一区切りでのサイクルで自身が乗り込んだ船は
先へ先へと航海を進めながら、具体的に目に見える形で
どれほどの成果を上げられたのか、それを日々
自問自答しながら、長き航海は続けられてゆくんだ。
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