川瀬大樹

画家

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京都府城陽市

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川瀬大樹

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川瀬大樹

画家

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    Works 305
  • 全体を司る不可欠なエレメント

    全体のイメージにおける一連の流れにおける構造を
    きっちりと把握しながら理解するという事であると思う。
    全体における部分の部位は、理解するというよりかは、
    その一部を知るという見解に辺ると考えていて。
    つまり自動車において、
    ハンドルやタイヤ、アクセルやブレーキなど、
    一つ一つのパーツを部分で認識していれば知るという概念に回収されゆき、
    それらの全体像を全て把握する事が
    全体としての構成を理解しうる事である様に思う。度々イベント事で忘れ物をしてしまい、思うのは
    全ての物を手の内にて把握していなければ、
    上手く機能してゆかないというのを、沸々と実感したのだ。
    全体象における構成要素は、それらに付随されし歯車の部位一つ一つが
    全て上手く好循環してゆかない事には、上手く立ち回る事が出来なくなるのだ。
    要するに、全体における構造の何処かに
    欠陥や整備における不備などが、一つでもあれば、
    その一か所が仇となり、全体における歯車が上手く回らなくなってしまう。

    展示イベントでの忘れ物で例えるなら、
    全体の流れに必要な構成要素の内、
    一つでも欠けていれば、それを補い補填させる必要がある。
    それが、押しピンであったり、ガムテープやキャプション、つり銭など、
    どれか一つでも欠けていれば、
    自身の展示ブースが上手く成立しなくなってくる。

    それらの全体構造を、把握.理解する事で、未然に忘れ物を防げるんだよなぁ.。
    いつも、この辺りが自分はどうも抜けていて...笑
    全体構造における把握.と理解を随時心掛けながら
    事欠いた箇所をイベント前に見つけ出しゆき、
    来月開催のアートフェスタへと備えてゆきたく思う。

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  • 情報に宿りし価値

    価値の宿る情報というのは、自身が作家活動する上で
    大いなる恩恵となり、活動する中において強く活きてくるのだ。

    活動を始めた当初はギャラリーが、どの場所に在るのか
    よく分からなくて困惑したものであるが、
    ある時、大学の講義で、雑誌の関西ぴあ、を知る事となって。
    それには、関西のギャラリーマップが事細かく詳細で書かれていた。
    神戸.大阪..京都と、それぞれ主要のギャラリーが掲載されていたのだ。
    それを参考にしながらギャラリー巡りを繰り返しゆく内に
    どの区域に、どんなテイストのギャラリーが
    それぞれ密集しているのかを把握する事出来たのだ。

    情報というのは、知っているか、知っていないかの、差であるが、
    その差が大きな違いへと繋がりゆくのだ。
    知らないと損をする事や、
    情報を知る事で回り道していた事に気付けたり、
    より効率的なノウハウを、そこから見つけゆく事だって出来るのだ。
    一つの情報が大きな価値を生み出し、
    今後の作家活動の指針に大きな影響を及ぼしゆく事はよく在る。

    大きな価値の見出せる情報を、逃さず拾い集めるためには、
    アンテナを常に高く張った状態で、いつ何時でも、拾い上げてゆく事を
    念頭に構えながらマインドセットしてゆく必要が在るのだ。
    そうでなければ、せっかく流れてきた自身にとって有意義な情報も、
    気付かず見逃してしまいかねない。
    それが流れてきた時に自身がスルーせずに気付けるかどうかが
    重要な分かれ道となりゆき、その後の明暗を雲泥なる差で分かつのだ。
    情報という概念に大いなる価値が宿り眠っている事を意識しながら、
    気付きによる目覚めを随時、見落とさず、掬い上げてゆきたく思う。

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  • 織りなす京の都からレぺゼン

    日曜は恒例のアートダイブを今年も観にゆく。
    このイベントは1回目2回目と出場して以来は、
    鑑賞する側として見に行ってるのだ。

    出展しない大きな理由の一つは
    出展料に見合った集客が成されていない..であって。
    やはり集客がどのイベントでも成功させる上で
    最も重要なポイントで在る事は言うまでもないだろう。
    この金額だとデザフェスの方に遠征してでも迷いなく出すかな笑

    しかし、去年から京都の画材祭りとアートダイブを
    同じ会期にみやこメッセにてジョイントさせたのが功を奏してか、
    集客数が1回目2回目と比べれば圧倒的に伸びている事を
    会場入り実感させられたのだ。
    出展ブース数も300を越えるまでに膨れ上がり、
    イベントを重ねる事に進化の様を
    垣間見せてくれているのが、印象として強く焼き付いた。
    やはり改善.改良を上手く積み重ねながら更新してゆけば、
    イベントとしての旨味と深みがより良くなってくるんだよなぁ。
    見所もバランスがすごく絶品なる感じで、
    アートブースが半分くらいで、
    もう半分は雑貨ブースにて配置がなされていて、
    見たいジャンルが万遍なく観覧出来る形態となっている。
    アート作品鑑賞の人はアートブースをざっくり見れるし、
    雑貨メインで見に来た鑑賞者はそれ目的に配置されたブースが
    バランス取れた形で見れる様、揃えられている。

    ポストカードや冊子などを専門的に取り扱った物販コーナーや
    フードコーナーで飲食が出来るエリア、
    ワークショップにて作品作りを身近に体験できるスペースなど、
    お祭り感覚で存分に会場を一回り出来る面白さが全て出揃っていて、
    存分に満喫する事が出来てよかった。

    時間を忘れながら夢中で見ていたので、
    もう一つの目的であった竹内栖鳳展へは
    時間の都合上行く事が出来なかったので、
    来週改めて行く事にしようと思う次第である〜。

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  • 家なき子レミー

    家なき子がデジタルリマスターとして生まれ変われゆき、
    アニマックスへと登場^^
    空気の透き通ったカントリーで母と二人で慎ましやかに、
    しかしその中から沸々と感じられる確かなる幸せを感じながら、
    幸せに暮らしゆくレミー。
    この物語は、彼がある日、出稼ぎから帰ってきた養父に
    金貨40フランで売られ、村から連れてゆかれる所から
    物語の波が皮切られてゆくのだ。

    セニョールビタリス一座、この小さなサーカス一座の
    座長を務めるのが団長ビタリス、
    それを筆頭に、犬が2匹、猿が1匹、そしてレミーで構成されている。

    旅芸人というのは自身が得意とされる芸を街中で披露させながら、
    その日暮らしを続けゆく人々なのだ。
    稼いだお金で宿を借りて食事を済ませ
    寝床へと入り、また次の日も芸へと勤しみ、
    その町に一定期間滞在すれば,また別の街へと旅立ってゆくのである。

    彼等に決められた帰る家などないのだ。
    旅芸人とは社会における身分がとても低く、旅を続けゆく中で
    いわれなき差別や偏見にあったりしながら、それでもめげず、
    前へ前へと進みゆく姿が見ていて微笑ましくなってくる。

    レミーは村人レミーであった。
    それがビタリス一座に連れてゆかれる事で、
    今まで経験した事の無い世界が目の前へと開かれていったのだ。
    それはある種、ナニカが大きく変わる瞬間であり、
    環境が一変する事で、思いもしなかった事へと巡り合える事がある。
    家なき子レミーを見て思ったのは、
    1人の人物との出会いが人生のベクトルを大きく変えゆく事が
    生きてゆく上で多々あって、それはある種、必要な事であり、
    課せられし縁と巡り会うために、
    それまでの刻を生きてきたのではないだろうか。

    人生は知らないナニカと巡り会ったり、
    まだ見ぬ誰かと巡り合いゆく事で劇的に大きく
    環境や思想が激変しながら、指し示す指針が変わりゆく。
    人との出会いが今居る環境を違う場所へと誘いながら、
    そこで新たな出会いへと遭遇しゆき、
    またそこから、未開の扉が開かれてゆくのだ。

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  • 大いなる差別化を絵図へと図る

    美大受験の時に問われし事は
    作品におけるオリジナリティーなどでは無くて、
    基礎造形力が、いかに優れているか否かなのだ。
    そこの数値化し得る判断基準にて、合否が決定されゆく。
    要するに何が言いたいかと言うと、
    測れる技術においては、力が均衡している場合、
    体力勝負となってくるわけだね。

    採点における評価と言うのは、微々たる差にて合否が決まる。
    力が均衡している中での点数における採点とは、つまりそう言う事なのだ。
    しかし作家の世界では体力勝負とは別のライン上にて、
    明暗によるコントラストがくっきりと識別されゆくのだ。
    作家の世界では、枚数こなして当たり前が基準なので、
    活動している作家達は、描きし時間差に差異はあるものの、
    どの表現者も、それなりにまとまりの在る時間を
    画業へと捧げながら向き合っているのだ。
    つまり受験のように数値化されゆくそれとは別個であり、
    時間を多く費やした者が叶えたい願いや
    手に入れたい場所へと行けるかと言われれば、そうではないと思う。

    それなりの質量をこなすのは成果上げる上での
    最低限成されなければならないセオリーであるが、
    それなりに志の強き作家であれば
    誰もが極々当たり前にこなしている。
    だから時間を捧げし微々たる差異などは、さほど関係などない。

    それよりかは、相手といかに差別化を図れるか否かなのだ。

    需要と供給の例えで言うなら、作家における供給分母が
    飽和してる中で、需要による受け皿として存在する
    アートマーケットの分子が、あまりに少ないのだ。
    つまり誰もが座りたい椅子に座れなくなり、
    誰かが椅子へと座れると同時に座れない作家達が数多くあぶれてしまうのだ。

    つまり、椅子取りゲームを難易度Aラインクに上げて、プレーする事を課せられる。
    この場合体力勝負であれば、見る側に選びによる迷いが生じ、
    結果として、どちらでも良かったという結論なってしまう。
    その時の気分やテンションで明暗が左右されゆくのだ。

    体力勝負は、仁義なき戦い笑 
    ストレートに言ってしまえば馬鹿げているんだよ「笑」
    そんな仁義なき悪循環における
    一見違いの分からない体力勝負からは一刻も早く抜け出しながら
    逸脱してゆけるかどうかなんだよね。
    そのためには他者と大きな差別化を図る必要があるのだ。

    迷いが生じる様な没個性における同一化などするな!って事なんだ。
    明確な差別化をすれば、そこに迷いを生じさせる事など無く、
    迷わず選んで貰える事が出来てくる。
    要するに、その時の運否天賦や、気持ちにおける変化で
    明暗が決まる事など決してなくなるのだ。
    個性とは他者との差別化の出来る絵図であり、鑑賞者に迷わず
    選んでもらえる作品の事だと考えている。
    これが成果が単発における打ち上げ花火で終わってしまう体力勝負の作家と、
    差別化による個性を打ち出しながら
    成果を上げ続けてゆける作家との大きな差異なのだ。

    この領域を確保すれば、数多く居る作家連の中に埋もれてしまったり、
    誰の心にも大きく突き刺さらず展示会が終了してしまったなどの..、
    悲しき幕切れをせずにイベントを終える事が出来るのだ。

    体力勝負は作家を志した時点でもう気にしなくて良い。
    それよりかは他者との明確な差別化によるクッキリとした鮮明な違いを
    絵図へと打ち出しゆく事の方が、
    作家活動の明暗分ける大いなる鍵となってくるのだ。

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  • 底沼から連なりし勇者なる称号

    「死ぬ事以外はリスクなどではない」
    トップランカーを走り続けるネット起業家が言い放った名台詞である。
    この思考マインドは、自身持ち合わせていなくて、
    考えた事も無かったので、
    旨味の宿る言葉だよなぁ..といささか関心いたしたのだ。

    自分と住まう立ち位置や、フェイズによる差異であったり
    置かれし劇的環境の違いなどから見えてくる世界は
    全く異なって見えてくるんだろうな。
    上記の発想へと至るには
    僕が経験した事が無かった壮絶なる体験であったり、
    幾重にも連なる過酷なる試練を乗り越えた末に
    説得力持って解き放つ事が可能なフレーズであると思うのだ。

    トップを走り続けゆく起業家は、人が体験した事無い様な
    壮絶なる地獄を何度もくぐり抜けてきたんだろうし、
    与えられし試練を生き抜いてこれる力があったからこそ、
    今のトップに位置する王座へと昇り上がってゆく事が罷り通ったのだ。
    成功者の多くは地の底の底に在る底無し沼を
    人生の中で幾重にも踏みしめた者がほとんどで..、
    だからこそ,逆のベクトルへと成りあがってゆけるんだろう。

    平坦はどこまで行っても平坦であって
    真っ直ぐで緩やかな道が
    それ以上でもそれ以下でも無いニュートラルにて連なっている。
    だから、この緩やかな道を通れば、サザエさんなる
    安定志向をひたすら追い求めた人生プランへと回収されゆくのだ。

    高みへ昇りたければ、底に宿りしリスクしょいこみながら
    反対に位置する高みへと
    反動による弾力の着いたバネで昇り上がってゆかないと。

    追い込まれた時に人がようやく解放出来るとされる火事場の底力は
    窮地に存在する圧力からの力点によって
    そこから天高く宙へと舞い上がる事が叶うのだ。

    平坦で緩やかなカーブでは無く、流れに飲まれそうな濁流にこそ
    大いなるパワーを生み出してゆく事が出来うるのだ。
    強度な底力の源流は、激流による流れから作り上げる事なので、
    逆境やピンチなどに押し潰される事など無く、
    それを跳ね除けた反動におけるパワーで上昇気流を捉えゆかねば。
    それを成し遂げた勇者達が、高見へと登山する事、成し得るのである。

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  • お金と時間おける哲学

    逆境無頼カイジ.賭博編、にて敵方として登場する利根川。
    彼のお金に対する哲学はこうだ。
    「お金は命よりも重い」
    この発言は一見過激な発言に聞こえるかもしれないが..、
    理の本質を射抜いていて、とても共感できる言葉であると思った。

    エリートと部類されるサラリーマンは、安定したお金を手にするため、
    子供の頃から時間を切り売りしながら学問へとひたすら投資するのだ。
    時間とは命であり、時間は使えば使った分だけ
    生命のロクソクが擦り減ってゆくのだ。
    この世界で最も歪で恐ろしき怪物はナニカと問われれば
    死による魔物であると、即答できる。
    死は万物の全てにおいて平等に訪れ、
    この世界から消滅しゆく刻が早いか遅いかだけなのだ。

    エリートサラリーマン達は大人になるまで
    一流企業へ入る事を人生の最も輝ける目標と捉えながら、
    ひたすら時間を勉学へと捧げ
    その対価と引き換えに生命を捧げているのだ。
    そして待望の企業へと入るも
    毎日時間に追われ、残業を日々任されながら撲殺されゆく。
    そして三十代半ば〜40代に掛けて、上手く事が運べば
    ようやく待ち望んだ給料額を手にする事が叶う。
    年収1000万円..の対価を得るために、
    彼らが失った時間による生命は計り知れないのだ。

    時間は悠限であるからして、どうせ使うなら
    時間イコール生命を
    自身の望むべき事により多く使ってゆきたいではないか。
    時間は待ってなどくれないし、時間を犠牲にして得た大金があったとしても
    その代償として奪われし莫大なる自由が存在するのであれば、
    果たしてそれが自身にとって望むべき事だったのか否かを
    今一度問い直しながら、じっくりと考えぬかねばならない。

    お金が悠限であれば、時間もまた悠限であり、
    生きている中で使える限度数は限られている。
    この2つの両輪とじっくり向き合いながら
    自身にとってより良きライフスタイルを模索し続ける必要が在る様に思う。

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  • 布石とハードル水準

    風邪を引いたから、おとなしく寝込み休むタイプと、
    点滴を打ってでも、己が使命を
    全うさせるために挑みゆく者がいたとしよう。

    この場合、自身が掲げし覇気による基準が違ってくるわけだな。

    これが積み重なる事で大きな差異が生まれゆく。
    基準値におけるハードル。
    それを何処に合わせるかで
    辿り着く事が出来るステージは大きく変わってくるのだ。
    毎日絵筆握りながら走らせれる絵師と
    気が向いた時にだけ、ふらりと絵筆を握りしめるタイプでは
    半年後、1年後届きゆくスペースが違ってくる。

    ハングリーに飢えているのが、表現者にとってこの上なく望ましい。
    決して満たされぬ渇きにより、
    それを少しでも補おうと、図像に想いの丈を
    全身全霊でぶちまける事が叶う。
    事足りぬ空虚感が在れば、それを埋め合わせるため、
    絵図とひたすら向き合い、
    泥まみれなりながらも格闘する事ができゆく。
    周りから見れば特異であろう状況を
    自身の中では、極々当たり前の事として思えし者達が
    遥か先に在る世界でも居座り続けてゆけるのさ。
    遠い未来に絵筆を動かしている自分を明確に想像出来るか否か。
    それによって、1手2手先の
    状況を作り上げてゆく布石が変わってくるのだ。
    自身の目の前に置かれし布石は
    遥か先の道へと繋げゆくための大事な1手なのだ。
    全ては一生涯を画業へと捧げゆくため、
    ハングリーなる基準地を自身の中に
    構築しながら挑みゆく、飽く無き戦いは続きゆく。

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  • 人らしく活き行くためのフリーダムなる旅路

    人は自身の認識できる囲いの外へと位置する事象に不安を抱く。
    それは自身にとって、まだ知らない世界だからなのだ。

    自身が築き上げし狭き囲いにおける檻籠。
    それこそが現在の許容範囲であり
    現時点において理解..認知出来るフェールドなのだ。

    外の枠にハグレルのがある種、怖い事でありスリリングな体験でもあって。

    壁の向こうへ赴くというのは、過酷なる冒険へと繰り出す事でもある。
    しかし、それこそが人らしく活きるという事ではないだろうか?
    定められた囲いの範疇のみで
    何年.何十年と生を生きるというのは辛い事である。
    けれど、それに気付かず、ごまかし生きる事も出来るのだ。
    要はそれに慣れてしまえば、それが当たり前になってきてしまう。

    檻籠の中の鳥。

    養豚所の中の豚。

    小さな囲いの中で暮らす動物園の見世物と化した獣達。

    囲いの中にずっと居座るというのは、結局は
    飼い慣らされし獣と、さほど変わりないのだ。

    人らしく活きねば。

    決められた型を常に打ち破り、まだ見ぬ丘の向こうへと繰り出してゆく。
    そして丘の向こうへ辿り着いたのなら、
    さらにその先に宿る場所へと再び繰り出してゆくのだ。
    定められた狭くて窮屈な囲いの中へ戻る事など必要ないんだ。

    我々は人であって、飼いならされた獣であってはならない。

    行った事の無い場所へと赴き、
    そこで初めて出会う人と言葉を交わし、
    知らなかった道を通りゆきながら、
    入った事の無い店へと足を踏み入れる。

    地図の外へあるであろう新大陸へと赴いてゆく。
    人らしく生きてゆくためのフリーダムな旅路は続きゆくのだ。
    キーワードは地図には記されていない、新たなる場所を探し求めて。

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  • レールから逸脱しゆく道へ

    知らないというのはある種、罪な事であると思っていて。
    知っていれば開かれていたであろう可能性を
    知らない、むしくは、知ろうとしない事によって閉ざしてしまうのだ。
    アートの世界も、環境の劇的変化や
    そこから出会いし人との出会いによって、
    自身はこの世界へと飛び込んでゆく事が叶った。

    ナニカきっかけとなる引金を引く事が無ければ、
    おそらくは別の道を歩んでいただろう。
    自身の親族は教育系の家系で囲まれていて、
    それらの影響化から逸脱するため、
    別のフェイズに在る環境へと移りゆかない事には
    教育系の系統へと回収されゆくのだ。
    自身がそうならなかったのは、
    その事にギコチナイ違和感や懐疑的な感情を強く抱いていて、
    そこに留まる事をせず、そのレールから脱線したのが大きな転機となったのだ。

    先人が敷いたレールを言われるがまま推奨し、
    それにただただ突き従っていれば、敷かれたレールから
    大きく外れ行くという選択肢は芽生えてこなかったのだ。

    そこがある種、人生におけるターニングポイントであった。

    レールから外れれば、レールの敷かれてない道を
    自身が自ら開拓しながら進みゆけば良いのだ。
    何も世間が用意した幾つかの限られたレールによる選択肢に
    乗るだけが人生ではないし、
    自ら道を切り開いてゆくフリーランスな価値感が僕とは相性良かったのだ。

    自身の主導権を重んじながら主軸に構え、生きてゆきたく考えている。
    世界は自身が思っているよりもずっと広くて広大で
    人生は自身が思っているよりも短くて刹那なのだ。
    生きねば、活きねばイキネバ!悔いなく生を謳歌しゆき、
    悔い無き一生涯を終えゆくために、
    今日も活きねばの精神で突き進みゆきたく思う。

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