揶白 (KF)

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    Works 43

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    Works 43
  • 紛った悪人

    「トライ」は、事暇なく自身にあるが、

     

     

     


    ここに修練として、精神がもし、繋がりやテレパシーを持ち、そういった高次元の実在を確かめるのに、人のいない、と想像するよりも、主体を形成するのはある程度のストレスが掛かるがこの割れない人のいる緊張感である。「人」である。家があり心がある。赴くものを蓄積し抱えている。

     

     

    人のいる緊張感が、その大きさに依った客観を描いた。それが「子」とまで言うほどの精神的な客観性であった。

     

     

    それは豊かな肉体性、つまり有ることにたいしての有限の思いが繋げている。

     

     

    「次元」が単体として、器や松、言わば継続と努力自身を指す値だ。二次元、という言葉がわかるだろうか。はみ出る人とはみ出ない人がいる。素直さなど、自分が対抗出来るストレスや、興味、こういった面の理解には理性がある。無機質感への憧れは、可能性の話をするが、強度して固めることの出来る理性とは、人間性という竜宮は、簡素なものから始まっていて、そこにいびつさが存在しているを説く。

     

     

     

    このようによって、「不可能」という(ム)蟲ーの事象を、成分を、はっきり表して置く。

     

     

    実存的思考に紛れて、人の物を自分自体の枠を破って「自分のこと」とする人がいる。それは完全に蟲、じゃなく人が人とまで称して締め上げる締まりを持つ。本来の肉体や筋肉の骨格は、その努力を節として受け入れるからだ。

     

     

    思索をする。問題が心の淵にあり、現実とする幅の広がりと表すにしては、薄っぺらく白くならずに、端所の図を心に持つ人や、感性のみで理解する人もいる。

    盗ビトが出現する「セカイ」の前後関係を落ち着いて確認した後では、

     

    それが女でもおっさん(おじいや年輩などではなく単一してやくだたないを言う)という実像を思い浮かべる事が出来る、その目を叶える。

     

    身体能力を指す理解が平たいが、心して身体性という理性があれば、何らか苦しめるものを先に退けることがわかる。身体性が理(ことわり)としてないと、犬のように当たるとこ当たるとこぶつかって事の軸が解らなくなる。

     

    別に蟲では、その手先がいくら小さくても大きくても、その人の当たってくるぶつかり面がひろく、ぶつかる心の面が広いことにたいして傷付いている、生きる規定を上回っている。鈴が鳴り、エラー音が反応してる。

     

    「セカイ」でお金をせびられる、この事情は存在するか?事物が主語にこうしていても、誰かという外側の対象を考えるにあたっての主体(わたし)とは、悪を考えるには善悪の二者に分けられることに引き戻され、客観的悪について咀嚼したときに善いことがあり、対象が誰でもない、という理解を辿る。主体とは自他が構造的に必ず含まれ、主観とは偏りであると思うさなか、正しさは自分の中の偏りを、知りうる現実で木っ端微塵に噛み砕いてから、もう一回見てみろ、と言う。祀りによって、主観をひたすらブレさせていた客観性が捉えられ主体を言う内容の言葉のフォルムが現れ、主体を肥らせる為になって来つつある。情がある負い目から、以降を考えずにいてもその自身は主体と離れていない。そこからでも価値のないものを振り落として行くことが出来るのが、主体という考えである。

     

    お前が地球にいる限り、お前のこの死世界では、聞かなくて良いという法律がある。

     

     

     

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  • 言葉の下地

    嘘でも信じて良い事がある。「自他を守るわたし」たちの為に、うなずく声が時々聞こえる。

     

    モダン思想的にいくらか税を発生させる。大澤君は、前世豊臣秀頼だと言っていたが、秀頼は(ム)蟲ーだった。

    大澤君が存在していた時から、この最初の考えを続けれている。

    「幅の低い人を考える、上を使う、」などの心的技術は彼自身には見つからなかった。

     

     

     

     

     

     

     

    力を養う方法がここにある。

     

    ①自分のことを言って、その後何か心が残ったら書けば良い。

     

    ②自分の目的が変わったのに、心にしたイメージ、それが一番速い。速度があり、絵にしろ字にしろ文にしろ、それを

    いま「使う」のに、方向が変わっても、まだそれをしている。

     

    机、板、冷蔵庫、それらを見て持つ感覚は、違いとは、

    扉は軽みのある板とは違って、厚みがある、ノブのあるなし。そんなイメージが浮かぶ。自分で考えてみよう。

     

    人の理由を、自分がするかしないかは自分次第だから、喋らない黙るというよりは、静かに待っている。

     

     

    ③これは必要だ、と思ってもいったん離れる。そこに二極化、二つのどちらかを選べる。

     

    ④だから、惑星は一回離してん。

     

    ⑤私は心が弾けて何かを言いたくなり、しかし裏腹な中、何かを言いたいこと、こちらを聞かれていた。何かそれ、というピントになるものをしているだけでも育む。「いるだけでいいよ。」観賞的な悲観に泥酔して倒れていた。

     

    何かを聞く力は、当時の私にはない。

     

    茶道に、外的な執着が芽生えたら茶道家の話を伺っているうちに身についた。

     

    ⑥あらゆるノイズをダウンする戸は、もとからある。

     

    ⑦間違える前に、じゃなく、間を取り、この間「小さな自分」を見つめていると注意力をうながせる。それは、刹那のなかで。

     

    ⑧硬質と圧さがあり、押してしまうとカタカタするから、出す、出さない、を単語を考えている。

     

    ⑨告げれぬ、本当にあった愛は宝塚役者トップスターの、その主役をしたのだと言わんばかりに大階段をかけ降りる姿。

     

    視界の隅で、そんな光が今もある。

     

     

    ⑩主体を逸らさない、主観性がある。こうした良い勉強。天は続く。終わらせることの出来る何かはそう決定した自分より大きく、手の平には全部あるから。もし外から戸の中にいても、助けれることはない。この全員は、憤りを何らか自己と自己で解ける対等のトモダチなのだ。

     

     

    ⑪心の中で間違っても何の問題もなかったはずだが、私は蟲を菩薩と祓えるが、あなたの中にある「性格」までは祓えない。

     

    ⑫性格未満のストレスなど、気にしないよう、工夫する。こういった初めての手間の学びが「ポスト」という言葉だ。

     

     

    極的にも、人の裏をかいてないから大霊は乗せてくれて、不思議。

     

     

     

    生きるという言葉にエネルギーがある時、「尊」があり、緊張感にあらゆる記号的遮光を、逸れる張りがある。

     

     

     

     

     

     

    それを自分の中から打ち出す方法の長いのを、日本は持つ。剣道の動作作法は、自分の身体が触ってみて、初めて抽象出来る。柔道に関するもあらゆる道が心と名にする「可能性」という言葉は、出来る出来ないではなく、可不可に対する波の取り組みである。

     

    筋肉が付けば、孤独は優しい。自が自になることで、脂肪が落ちる。こうしま理解をしてみよう。体的に胸、腕、柔らかさを名付くのは、筋肉。良いも思う感性。これにはこれからも取り組んでいてたい。

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  • わたしと蟲を分ける

     

     

    能する、能じる。自分より古い文化は自分より馴染みを知っている。

    私の煙草という道具。花になる勉強。四十から追及は始まる。目の前の歳上が、あれだと思っていたらあれだと答える、愛情による霊力。

     

    歳の良さ。心に空いた穴が埋まると格好良くなる。

     

    また芸能の声、顔に表される「良さ」。

    重力からぐっと起きた自分の目力を観察する。目は身体能力を見ていたのだった。

     

    変なものに憧れていたわけではない。「面」という理性、考えを持つと、対象から輝きを持った自分を裏切らないまま、それを考える。そこには何と「面」という物の時空があった。

     

    物を見る咀嚼として、面があれば、ただそこに面がある、と認識をする。この練習は良くあった。

     

     

    心に世界人がいても、その奥で私は「個」の実在を考えている。良い歌を弛みなく聴いていた。「どのようなあなたでも、、友達が大切だ。」ただの希望と絶望の上辺で、面と言う思考があって、

     

     

     

     

    「個」の存在を、身近に確かめる。例えば、理性の空上に間延びがあって文性に偏る事が多い。世界に憧れる観点から、この科学。光だと思っていたのはこの変哲のない感覚こそ、これが源だった。

     

     

    蟲を睨む、それを飼うには、

    山には「どのように」で張り合う、そのものの穢れ以上の清さが必ずある。

     

     

    命を理解している才能に、らしい、らしくないが分別出来て、土着性や空気によってある。

     

    山、誉れ、本当に大物があり、

     

    へりくだってみたら、視点が正され「個」として共通的に戻る時、「尊」すると言う言葉がままならないのは、もともと全体的に歩みのある語だからだ。同じ「釈迦」があり、同一の観点を持って確かさが存在するのがわかる。

     

     

     

    気付ける感謝。

     

    「ふっふふ、ゆに行ったら~」メディアによる心の緩和。そこに弛みが生じ、しかしそれを直すという人の可能性。

     

     

    「逆境」は、昔から土星で現されるが、

     

    タレント師の、逆境はチャレンジだ!という言葉を聞いたことがある。

     

    生き抜いて来たその事の有難さ。

     

     

     

     

    人は、成長中。

     

     

    そういう空気のある現実、伝える為に使う事としてのメディアのリアル。そんな人間の厚みを考えている。

     

     

     

     

    役割、税、誰も同じように持つ。その実を思い出してゾッとした人は方法を大げさに変える。自分自身(大)、けさ(心ゆたかな戸やレース)。

     

    自分が蓄積した木板の荷台に人を乗せて見せてあげる。

     

     

    気が高まった時やってしまう失敗が、いくら冷静にこなしていてもある。ロシアとウクライナの戦争があるが、こういったその時に勘があったのかな、と思っている。

     

     

     

     

    蟲とわたしの写真

     

    みかんが、自他を含むわたし。

     

     

    普通の人の横で、やたら肥った力をもつのは蟲。

     

    対照的に「自他のあるわたし、と、蟲」を見分けた時、

     

    自他のあるわたしは、「切ない」という感情がある。

     

    何も、感じない。この見えないものに対応した工夫。

     

    「あいつは切ない。」そうした時に、対象人がいれば、歌い出す心の現実がある。

     

     

    スーパーフラットも、レイヤー化も、認識というもともとの目の厚みが、重層する、という構造をする。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 欲は欲に返す

     

    今、話の主題であり聞いている神仏の囁き。

     

    悪い人や悪い人が撒く自身の輪郭そのもの。

     

    それは、何か感化もなく、感情もない。自分にたいする影響を見てみてもよわい。著しくは、自分だけで自己の見直しを問題あった際、完了していた。

     

     

    そとがわで書かれる悪い人の輪郭、それも悪い人がゆえ欲張りにも広範囲で姿勢、観賞、視点の邪魔をする。

     

     

    一銭にもならない。選んだ「物」に実存的に所有者がいて、それが、その悪い人の広範囲を、遥かに凌ぐ広範囲を持っているとしたら、

    選んだ袋が小さいならまだ良く、それどころじゃない

     

    価値ゼロの何がやばい、良くないと言えば、幸せとか稼ぐとか夢とか精神のプラス面にたいして負は現実性を持たない。故に無心でもない、無など芸術の始まり、こういった高度なものからはひたすら遠く位置する。

     

     

    一銭もならへん価格が平壌された状態があるとする。なにか神や方法によって感じ取れる感覚がどっこいになって、

    蟲の道を挽回できると経済のゆたかとか選ぶとする、自分の方に人を破った人、テキトーなひと、を束に集める。

     

    仕組み、こういったスゴいこと、や、努力の集積。

     

    しかし、

     

    傾く人よりそれをただ見ている人や警察呼ぶ人の方が良い人なのだ。この意味が判るだろうか。

     

    助けてほしいわけでもない、優しくしてほしい、冷たくしないで、色々あるだろう。ご縁を養う、は、五円という口元の増化を基本とする。負が、自分の身からひとりで存在を薄く平たくしている。ご縁によれば、消化されてそれっきりだ。

    何色もしないだろう。

     

     

     

    「悪」という字を五円硬貨に思う。これが金色である意味を法するなら、「私のご縁にお前が触ると固めるぞ。」と、唱える。こちらが何もしなくても「金」には真っ先に逃げ込むのが蟲だか、憎しみを憎しみ(菩薩仏と同じくして。)、憎しみを起こさないことを目的としている。

     

    蟲の目的が金ばかりだ。

     

    対照的に観賞者が黄金を見るには、苦いを苦いとし、辛いことがまた来ることを防ぐ。明日を生きるポテンシャルがなければ超越的境界そのものの光は、辛く当たるだろう。

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  • 立つことと、歩くこと

    あなたは神に遊ばれている。と言われると

     

     

     

    プライドが摩擦される。

     

     

    摩擦、という喜びに認める心がある。

     

     

    軽やかさがある。

     

     

     

    安易に傷付いたと言う。安易に生きた人の体に何かを置きかける。

     

    自分を神代だ、とは、神代も思わない。人は感じ取れる心が少ない、

     

     

    自分は闇だ、と名乗る人も同じ。

     

     

    そう呼称するのは光を意味するもので、そう認知出来なかったのだ。含め考え照らす方から言うと「闇でもない、非人」となる。

     

     

    私は神と遊んでいる人だ。

     

     

     

    憧れているなら自覚の力があり、憧れているだけのうちに、間違って犯罪などをしたら闇に見つかる。それは、決まって決定的だった。菩薩や神、果かりしれず境涯を現す心がある。

    心の菩薩を実際見た時、こういったとき受ける感触を闇と言う、したがってそこに神がいる。そこに(ム)蟲ーが同時にいることが多い。とても未知だが自分に可能性(純粋な可不可にたいしての言葉)はある。想像している人間の自分がいて、想像が成り立つのだから、想像出来る宇宙人が対象としても形を伴って存在しても、自分をその突拍子もなく特別な宇宙人と思い何かを破る事は「ない、非人」なのだと思う。

    のめり込んでは、気が弱い。そういった者の現実像が、こうわかったら、どんな大きな肉を付けて見えても、揺れもしない実像が「視える」。視力が、

    自分のたった一つの展開によりある。心も善意もかなり小さい実像を感じる自分とは、自尊の自覚があり、厚みがあり、さい

    分別式が解った。

     

     

    「動かなくなった心」が町を歩いていても見つかる。山と道、工場、これらがあり柵で道が塞がれる。柵横幅三メートル。一つだけ外すことで、

     

    悪いことを考える感覚、道自体が動いている自然と側にいる気持ち、

     

    このような心に光を当てて、柔らかい心身を、子供も大人も育ってほしい。建物自体自然とするなら、スクナビコというまた神が、地球のことを教えてくれる。

     

     

     

     

     

     

     

    剣道は自分自身を当たらせるのを一度に何度も練習する。当たって痛い、痛くない、これくらいだ、と言う安心を体得する。

     

     

     

    単純な動き、自分の体を動かすこと、を繰り返し、

     

     

     

     

    記憶に高められることが出来る。

     

     

    剣道が心だと言われたのは二次派生的大切な言葉として、単純な動きを繰り返すことに、そこに重さがあり、見る目がある、と言われる。

     

     

     

    天も、「座する」を心して勉強されている。

    目がおかしくなって退散、今現在は、光が「視力」にたいしてスポットが当てている。

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  • 良い歌を歌う

    武人絵巻行事絵巻から抜粋。

     

     

    花の都は桜かざし袖ひるがえす妖艶な姿で賑わった。夏は四条河原の夕涼み、山に大文字火(おおごと)、空に盆の月、夏躍り、秋風吹けば、萩、桔梗。月を偲ばせて。

     

    夜毎にすだく虫の音。雪はしとしと丸窓に。思いは積もる大国。

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  • 自己満以上の

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  • 三と言う神

    「こんな時に」こそは、恵まれていないわけがないと知る。思えば思うほど。

     

    良いもの、について日本は良く知る。地球が

    、こうあることや、自然の美しさにたいしては、既に表現意識を始めてより長い。近くにいるからだ。

     

    こういう性格だと若さを言っても、いつか歳を言うため

    損保にとしても柱がこうあって良かったと思う。個人的ではなく、普遍の了見がある。

     

    負を退けて法(うちゅう)を立てる、水ではない灯りのある面時もある。負にするは、目的にたいして共通意識だから精神的起点とするのを逸れない。

    上空には千年見てきた菩薩だけがいる。菩薩でもしていない確認をする、その時点で「ヒト」というカタカナの素っ気ない過去世に帰されるのだろう。心力あって、手が延びても先祖霊などは普通に避けられ助かる。

     

     

     

    祈りとしての面からサッカーというスポーツを知ると、オフサイドと言うアウト規定がある。

     

    心的にオッケーラインとデッドラインの極みは簡単にされていて、際は至ってルール説明を聞いても不理解解釈で進む。

     

    観察力と、身体的研磨が増やさず減らず、その実践でしかない。

     

    罰でも何でも持って持ち場で待ってる方に渡しに行きたい。

     

     

    仏教経文にも三回復唱するの欄があるが、民と離れない党理念のように今という時の基本を念じるのは、

     

    真実は、自身が絡まる何かが絡まり続けている。そこから投げられたことばではなく、自分に掛かった問題だ。自分が咀嚼しに行く。自分が理解しに行く。相手はここにいない。この間、出来る想像を知らないから黙ってる。相手などではなく「問題」が有難い。世界を変えるのは自分の他ない、この哲学的理屈が起点なのだから。成長する自分が生まれた理由なら、小さい時から育てられた自分よりも、こういった難読的セカイの想像には合点する。だから、芽生えた情は、この先で遇えると信じていちいち洗っても、自ずと良い色になった。

     

    周りをよくする。わたしは周りから言われて来てる。

     

     

     

     

     

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  • 自信

     

    神仏と話せるといい

     

    言葉の誤解が埋まると動きが早くなるから

     

    見えず心もとない、ここで世間間でも上被りせず続けられる。

     

     

     

     

     

    人間関係を終えることが、自分に多かった。そう気付く前に「詩」は現れ、しかし気をそらさず勉強を続けた。大阪では勉強を「仕事」と言う。賢い文化である。

     

     

    若い時、何かを知って知識し、自分が優れているという勇気のあった時、

     

    とりあえず成長ばかりを考えていた。

     

     

    が、興奮したのである。

     

     

     

     

    暗い顔は、自分を理解しようとしていた。

     

    どこかがまだなら同じことが出来ず下を向いていた軍もある。

     

     

    激しい痺れをきたす海の「お笑い文化」は、もう少し前から始まっていたと伝えられるが、段差や空いた穴を笑うというその性格から早く挽回している感覚がする。

     

     

    内心は、成長していこうと思う自分の自覚と、それを受け入れている自分の大きさと、この透明だった「自信」という言葉の新しさ、又は大穴牟遅(神のポケット)、

     

     

    これらを固めるが、ゆえに、

     

     

     

     

    一歩深くなる自分の話と、

     

     

    自分自身に伝わることの出来る「良い」という気持ちとして、これらが存在する。

     

    これらを①纏めて②置く、が、着地点を逸らさない透明な「自信」は安心出来る。

     

     

    着地が最も重要だ。(くちばしにチェリー)

    内心や心を話す場合。

     

     

     

     

     

    人間関係だ、と意識をシフトしても恋したら自分で終えてしまう。もともと恋が、一人のものなら

    私は成功している。

     

     

    主体を掴んだら客観的に変じゃなくなるのでどのような内心でも生きていける

     

     

     

    そりゃ心の解る人を好きになるだろう、主体を掴む。見ていると悪いことをするヒトの主体とは雑やし曖昧である。しかし、こういった雑念を滅却することに、主体とは心なのだと解った。

     

     

     

    どのような場所でも、私が自然に見えることは私は知っている。

     

    草木に、元々エロティックがある。この意識自覚によりおじんとおばんを、元の自然に返す。

     

    未仏、という菩薩が勇施に存在する。高く人が上がった時、ばらばらになる波長を調整してくれる。「勇気」がない。

     

     

    文化と文明の違いは、移動の可不可として分けられる。

     

     

    気にも気上があるから気にしなくて良い。「上」だという心の葛闘は神を持つからだ。祖はこれらを千年して来て、その理由から偉い。

     

     

    私の記述とは、名言や名前になってこない、こういった部品、素材だけを並べる。「物作り」を想起させるこの方法は、人側の想像を接着剤とする広義の意味での「国家」その概念を当てている。精神的に昔の脈絡を本人が感じ取れていて軌跡を辿り、この間、自己ルーツを探るという本来のする事から離れない。森で鉄を打っていた尊先に自分の手を重ねようとする様に神という「仲人」を自身が持ってスマホ、パソコン、メディア、文明など、進歩の灯りがあって、この祖を養う。そこに未来というあやふや極まりない想像が地平線を初めて見せる。

    海は広いな、大きいな、という民歌がある。

     

     

    「利器」を強力なものとするのは自分自身なのだ。まず「それを」利器そのもの、と視る為に苦労している。利器とは到底見れず、便利だ、新しいな、その向こうの考え、これを霊視と言う昔から大切にされていたもの。故に、外国人でも出会う前や存在を知る前に話したことがあるのかな、と思う。頭が、ぽーっとする。気の集まるなかでは、この心が高なる時、わっとする心の時、本化して後から読める(ム)蟲ーの非在な文脈など横なりを信じず、今生きてるという詩を、自分とは関係なくいつでも急な閃きを、心には感情が通り、我慢や愛という可能事つまり現時点で出来ている自分のこと、愛せないものを認めるや、愛したい幸せなどは愛でないや、優しくするは自分の供養で愛とは受け手は感じがたく、認めると見つめるが似ていて、愛するという動作が思いのほか小さいを、前に感じ取った。霊的にこれを語るとは思ってもみなかったが、美しさを感じるのは、個人が村でなく店化して思い詰める中に孤立したが、その側面では客観的気品を捉えている進化の繋がりがあり、とりあえず愛するという単純な事は想像から増すが、そんな詩に合わせて大事にして欲しい。こう魂をかためる。手が工夫をするもので、自分に手を入れるが、どんな時もである。考えつかなかったからには、仏の存在を感じてやまない。だから、思うより自分を気高く持ち、また相手とする光も光として、比較の出来る心を認めたら、その時にはじめて同一と言え、だからこの道知る場合がそっぽし、向かわない所に行くのを止めて欲しい。過去がない考えは、故に他人の妄想だ。文脈やフィクションを、既存のものを二重に辿る横ノリにたいして、縦のりが格好が良いと人々は知っていた。自意識を乗り越えて。小さな夢を淵に「縦ノリ」と言った客観的苦しみはこう皆で癒されるなんて、素晴らしすぎる。

     

     

     

    自己未整理のくせに終わった話をねちねちアウトプットしないで。は、心的位置も、構えも、世間的空に対しても、正当だ。真実は、自身が絡まる何かが絡まり続けている。そこから投げられたことばではなく、自分に掛かった問題だ。自分が咀嚼しに行く。自分が理解しに行く。相手はここにいない。相手などではなく「問題」が有難い。世界を変えるのは自分の他ない、この哲学的理屈が起点なのだから。成長する自分が生まれた理由なら、小さい時から育てられた自分よりも、こういった難読的セカイの想像には合点する。だから、芽生えた情は、この先で遇えると信じていちいち洗っても、自ずと良い色になった。

     

    大切は、いったん「ひもじい」と自らが知ってくれたら、良い。豊かさの秘訣に向けて!だ。

     

     

     

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    お堀を見る。川ではないが、川だった。

     

    汚いが、澄んでいる。

     

    深い色の葉を一枚持つ

     

    あまり好きではない色だという、

     

    この感覚、を

     

    忘れてはいけない

     

    好きな青色と嫌いな赤色

     

    少ないか多いか

     

    傷や美しさを確かめる心に

     

    強さがいる

     

    強さがいるんだと、始めて生まれた

     

     

     

     

    家、が 無ければ

     

    国が、その人の心に無い

     

    と調べがつく

     

     

    神仏に聞くと、出来る想像より

     

    人を大事に考えれば

     

    魂になる

     

    了解がある

     

     

     

    今、何食べたいか、それがあなたの必要なもの

     

    身体の声に傾ける、心は偉い

     

    「喋りたかった」と言う前にそう知る

     

    知っていなければ

     

    自分に背くを、思い違え

     

    「自惚れたかった」

     

    これらいしころのような、を

     

    乗り越えて来た

     

    失敗を真っ先に覚えるのが愛

     

    その人からわたしの徳が語られる

     

    だから、感覚を磨く=心

     

    と言われても

     

    「税」は余った

     

    カネは始めは石で

     

    磨いて行ったことに変わりはない

     

    今、金は鏡

     

    汚いか、物自体であるか、

     

    物とは何か、

     

    汚いか、綺麗か

     

     

     

     

     

     

    Mizuho 難波1074306    弁償代

     

     

     

     

     

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