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2023/11/04
枝を伐る時、
脚立に乗っていて3メートルから落ちた。灯篭の方に引き寄せられ、
灯篭がまさか落ちてきて、腕で払った。へし折れた脚立が倒れてきて灯篭が同じ方向に倒れるから、その下にいた。灯篭と脚立が同じ方向に倒れる。脚立にはチェーンがついていて開かないようになっている。脚立が倒れてへし折れ、灯篭が落ちてきた。地面に落ちたらジャンプして助かる。
灯篭を腕で払って助かった。それを家の人が見ていたから、頭も落ちたら危ないって言われたから、病院につれてもらって捻挫で済んだ。
灯篭
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2023/11/04
独白人格一致
2010/01/30
日本の作品群を一筋の歴史の流れがあるのだろうか。
つぼみ、花、種といった前後関係としての現象で大概すると、
(1)宗教、イデオロギー、人間理性への理想などの目に見えない閉目塞聡の自己特定
↓
(2)映像、音楽などの目に見える外部記憶による自己投影
↓
(3)動物化した10代による二次創作の10年後(必ず成長しているはず)の姿は?
ということになる。
同一の人格を一致した人になるのか、映像メディアでは現実が性的に不一致となるため分裂的、多重人格的になるのか、それらのどちらになるのだろう。
自分の中でしっくりくる絵。私の分身。文化的遺伝子の利己的コピー。
どのような言い方でもいいのだが、
「私の個性だけが持った感覚」という内部感覚と、
作品=外部記憶とが同じものとなるときにはじめて作家は同一性とオリジナリティを獲得するのだ。
こうした鏡像的な共感となる例は思いのほか少ない。
というかほとんどない。まれ。多くは現代の生活と絵を描いている自分との異なる二面性を持った解離的な生活のなかにある。
20世紀絵画の歴史でも分裂。西欧大陸内派と外派とで大きく分裂をし、
おおまかに言えばシュールレアリスム(物語)と抽象表現主義(痕跡の現象)とに分化していき、単に絵を描くといった行為にとどまらず、
ますます知的で複雑な多重人格者となっていった。
どちらかといえば、異なるを主義であっても両方やっちゃうような生活の反面を回避したのだろう。棲み分けれない。
ややこしい。
わかりやすく現代日本と西欧絵画との不一致な関係とはこう考えてもらいたい。
(A)シュールレアリスムは物語であるためほとんどスキャナーなどでデータ化することができた。よって現代の日本に伝えられた。
(B)抽象表現主義は人生論であるため、パソコンなどに取り込むことができなかった。日本には伝わらなかった。
日本でシュールは流布したが、西欧の抽象は日本ではやらなかった理由である。
それではここで登場した上記(A)の物語論と(B)の表現論とに切り分けて概要をほんの少し述べよう。
まずデジタルな物語論の中には時間の幅と物語表現(キャラ/キャラクター)が含まれている。
一方、アナログな表現論の方では、過去の描いた跡の残り、加筆はもちろんだが、消去も含めて加算的につみあがっていくタワー式。
言い換えると、
①物語→原稿に漫画、イラスト、連続写真=先に時間という枠があって、その隙間に表現を差し込んでいくという感じ。
②表現主義→キャンパスに厚く地塗り=先に過去の表現の痕跡があり、後に連作として時間を持った物語をあらわす。
つまり、物語とは先に時間が有り、後に表現がくる。
表現主義は先に表現が来て、後に物語となるのだ。
互いが逆だ。一致しない。
これらを聞いてどうおもわれるだろうか。
ノートにペンで漫画を書く一般的な日本の絵の一面が①、
西欧的に広いアトリエで巨大なキャンパスに筆で大量の絵具を乗せる一面が②、
交差することのない平行線のように思われた。
ざっくりと上記のような二重生活を棲み分け続けていたものの、
しかしながら現在はこれらをあますところなく統一。
①と②をひとつの行程で行えるシステムを改良した。
物語論をシステムに置き換えたのである。
その行程とは、
写真撮影や紙をもちいて原稿作り→入力した画像データを加工→独自にプリント出力したあとこれらをキャンパスに大量の樹脂で貼る。
という感じだ。
アナログ→デジタル→アナログとなっている。
一行程だし、前後関係も保っていられる。
しかも続けていくうちに、私には目に見えるはずのないデータがついに目に見えたのだ。
この一連の行程をいいかえれば、
原稿作り→超平面化→表現主義→・・・
となる。
こうしてやってきてはじめて気がついたのだが、(発見のはなしが続出して乱文)
中沢氏の言うメディア印象論を念頭に、
アナログは世界感を前後の姿を連続している現象そのものとして感じさせ、
一方デジタルでは未知の世界へと実際にはつながらず、つながっているそのラインだけを感じさせる、
コントローラーを握った人の入力の錯覚が引き起こすもの、
といったミクロコスモスの読後感そのままだ。
しかしながら論理、抽象とは異なって
実証的な実践でさらに一言つけくわえるならば、
透明樹脂であるアナログの方が未知の世界そのものである。
アナログに未だ隠された世界があったのだ。
透明な塊。屈折する光。目を疑う光景。遠近感の消失。
透明な塊に閉じ込めたれた古典技法の人物画というのは実は、
奥行きが出てリアルに見えるのではなくて、
奥行き知覚のゆがみが魅せる「完全な非日常」をリアルに感じているのだ。
他にも紙でレイヤーの重層構造、油性で透明化、水性ボンドで表層化、
効果といったら乗算、インク溶かす、破る、裏返す、裏彩色、ペンでのグリザイユなど、
なんのこっちゃわけがわからない。
イマツF氏はこの知性構造を少しはわかっているようだった。
なんて頭が良いやつだ。後日、印刷屋の私に写真データを渡してくれるみたいだ。
それを上記の行程、内容にするのが楽しみでたまらない。
デジタルの原稿からパソコンでイメージは8割がた思い通りに行えるようになった。
これはツールの思想があれば安易にできるが、
アナログの表現主義での過去としての痕跡と見せる技法は上をみてごらんのとおり、
読んでもまったく意味がわからない。ペン画以外はほとんど偶然から生まれる仕様だ。
アナログ→デジタル→アナログ
ときたら察しの良い方はお気づきかもしれないが、
次は・・・→デジタルとなるだろう。
独自に作ったマルチ撮影台をつかってアニメにするつもりだ。
多分2年後に・・・。
読んでとおり特殊な技法を使うため、
そのアニメ作画を外注することができずに困り果てて、
だから身近の人たちに画期的なニス(樹脂)の使い方を伝えていたのだ。
実は、撮影、デジタル編集、未知の樹脂の技法を使いこなせる人を選んで声をかけていたのは、未来のアニメ制作のためであった。
ウニプリントをつづけながら、漫画とアニメを作っていくつもりだ。
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ウニ
2009/10/24
なかなかHP化ができない。
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立つ瀬なし
2009/10/16
すべて「選外」とのハンコをいただいたのは、全国規模の美術の公募。
1つ落ちて2つ落ちると、不思議なことに3つ目は落ちたも同然の気分であった。
次の瞬間にはもう気分は転換されていて、よそはよそ、うちはうちと疾風のごとく籠絡を決め込んだ。さっさと旗を丸め終えたあとには、なぜか爽快な気分だ。すべて落選はどういうわけか気持ちいいのである。夕立ちの後腐れのなさよ。空が軽い。DMの表紙のレイアウトをおもいついた。
手元のほうはまだまだ混雑していて、思いついたばかりのダイレクトメールと、詳細用のHPに手をつけはじめている。
ちょっとした企画をはじめるところだ。
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宝塚造形芸術大学が変わる
2009/10/03
クリエイターズ・バンクは携帯などのモバイルからでも日記を更新できないものだろうか。自宅はオフえ環境なのでまったく更新できない。いつもauでネット検索したりやウェブメールを見たりしている。
来年から宝塚造形芸術大学の名前が変わり、「宝塚大学」ヅカ大となる。
全入制の一般大学になるのだろうか。
私の通う洋画コースを含め日本画と美術理論、アートセラピーなどこれらをすべてをひとつにまとめた美術学科へと規模を縮小。
美術学科では教授・生徒ともにけっこう削減かな。来年、当大学から芸大という冠が消えます。
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お知らせ
2009/08/03
2009年、宝塚造形大学のアートフェスにてちょっとしたイベントをします。
詳細は後ほど。
場所:宝塚造形芸術大学「本音のアートフェス」
期間:9/20〜9/21の二日間
HP:http://honne-artfes.com
団体名「大澤出力センター」
出典名「プリントクラブ」
そのため途中経過ですが、現在手がけている作品を少しアップしました。
大きい画像はこちらから。
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かんせい
2009/07/21
したたるインクの先には木目細かな海綿のようなものが行く手をふさぎ、溜め込まれた容器の内にあるすべての顔料たちはそのインクタンクの出口にむかって流れつぎつぎとスポンジに吸い込まれていく。鮮烈な噴出の霧を撒き散らし紙面上をすれすれに横切り空を渡ると、次の瞬間には散布されたわずかな色の数が加えられ、異なる色の粒の集まりが加法と混ざり合う純然たる水溜りの末路を迎えたときにして、色というモノがその実態の姿を見せる摂胞された混色の灰色が残り、細い繊維を濡らしていた。
印刷物を用いた作品のうち写実風に仕上げる技法が完成しました。絵でもあり、写真でもあります。
こちらの方では徐々に完成した画像をアップしていきます。また依頼の受付もやっています。
このイラストの大きな画像はこちらから。
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作例 Photomerge
2009/06/29
こちらの作例は少しめずらしいものである。
何の変哲もないマツバギクの写真だが、どういうことかというと、
この写真の元画像はデジタルカメラで撮影されており、ピクセル数が約10000×10000pixel程の大きさだ。
画素数でいうと約10,000万画素の画像である。
使用したカメラは610万画素のPENTAX K100D。
レンズはFA28−70mm F4。
600万画素程度のデジカメで10,000万画素をとることはできない。
しかしながら何十枚ものショットを一枚に合成することにより、巨大画像データを作れるのだ。
今回は Adobe Photoshop CS4 での「photomerge」という自動処理で合成した。
CS4の処理機能は旧バージョンよりも驚くほど向上している。それによって完全にとはいえないまでも、一見して細かな描写までもを合わせることができた。
このマツバギクをよく見ていただければ、破綻している部分をみつけることができるだろうが、私は紙にプリントして、そこからさまざまな技法を用いた本番であるから、この程度で十分の合成である。
ちなみに驚愕の10,000万画素とは、写真プリントでは2メートルに引き伸ばしても高精細で印刷できる。
Photomergeはコチラ
新たに画像アップしました。
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あれこれと
2009/06/12
日に一枚。帰宅すると印刷しよう、ときめてプリンタを回しはじめる。
ミッキーの電話器がさまざまな加工をほどこされて4枚刷り上がり、
次にガラスに閉じた金魚のアクセを透明度に変化をつけ4枚プリントをする。
印刷が私に与える影響とはどのようなものか量りしれない。
先程日に1枚をプリントすると言ったばかりなのに、おおきくこえて15枚ほど過多に刷ってしまい、そうするちに朝の4時になってしまう。大変な発見をしてしまった。無茶苦茶楽しいのである。
「技術とは、たんに外的なたすけになるだけのものではなく、意識を内的に変化させる」 W-J.オング (『声の文化と文字の文化』)
印刷も書くことも、ことばも、もともとは声の文化によって本質的には聴覚の音素だったそうだ。つまり、演説や対話が最も人々に理解され、説得するものであった。これとはうってかわって、活版の印刷がはじまった約1600年から現在まで、技術となじみはじめて生活に深く内面化した生活の我々の意識とは、音から視覚空間へとおおきな革変のなかに未だいる。こうした卓見をまとめたオングは印刷が意識に及ぼした影響のについても紹介してある。
「印刷はプロテスタントの宗教革命を実現し、カトリックの宗教的慣行を方向転換させた」「近代資本主義の発展」「全地球の探査を実現」「家庭生活と政治を変えた」「かつてなかったほどの知識を広める」 などなど。
さて後読感としては「宗教的慣行を方向転換させる」インクジェットのプリンタが
我が家にあることを実感するばかりだ。
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