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2025/03/15
心は彫刻像のように複雑でなければ、シンプルも合点がゆかない
脳という答は肉体にたいする未消化があり、脳よりも想像が上にあり想像には時間が予め加わる
心は、感情も理性も行動も考えも、そう言うからわからないそもそものである
想像は色々どう違うか?
想像は、相手がいて、思うと書く、妄想は、感情を失うと書く
人の間が人の間である美しさを光に見る
了解がいらない
外敵視認もあるようですぐ失う
(守護神)
あるのは体と想像
つまらないが「ここ」は私だけ
たまに悪霊がしている妄想が流れ
緩和する心配が溢れて調子に取れる光の情報だけを上手く刳り取る
悪霊のその中に時折り「私と人間」を見つけてくれたら
・生きてる以上は構えない
セカイは後、セカイは全て外にあり!
⋯守護神に理解してもらうとこです
感知してしまった悪い光跡も、物を大切に思っている感謝する気持ちが、ないことにする力であり、
あることがあり、ないことがないから、白く輝くのだ
故に、意識は太陽であり、質は無垢で水のようで
実の気持ちとして側にあるのだから気付いてあげなきゃ
有意識までせずただ見るこということ
天霊は繊細だから
自覚に負けず本懐に全うする
上手さに每日每日近付けば、
「何があっても」、人が言葉に触れてみれたことを
喜ばないわけもなく
道力をたしかめ
現実に応える勇気が、悪いことを悪いと分かる
自分を知るうちに、違和感をあらわす影の様にそのシルエットをくっきりさせ
何事もない
他愛ないものを放置すれば良くなり
これば自分だけが人じゃないからだ
パーソナルスペース
迷い込む悪霊に気付いたら、好きだよ、と仏様に唱えて受けた安心で、ちゃんと
心も想像も、早く道に帰らせる術は
手間がいる
その工夫は、自己の理想の明るさ
自己がこれへ合わせるにはその間からを考える
知る程に
自己一つ、という手間は
全てを知る
その意識の説明さえする早さは
馬鹿に出来ないビフォーアフター
やってしまったらそこで終わりどころか、始まってもいない
これが霊界の良さだと、本当に思って貰わなければ困る
我が身の知るとこだろう
その安心こそだけが供養
楽しさこそが、供養
ちょうど、漫画を読んだり演劇を観る
生きてる人は呼吸が、下手だ
やってしまったらそこで終わりどころか、始まってもいない
水や月に
慣れたらすぐわかり、明るくなる
心自体変わらないから
一生懸命、現実的にいてほしい
そこにしか天霊も守護霊もいない
そこにある苦しみは、未来の霊界にたいしても自分にたいしても、
本当に優しい
こうした光を知ってるだろう
イメージがこう
忘れられれる精神力があっても、
いざと言う時、何か伝えられなかったら?
何か、良い光はあるけど厳しい、みんな一生懸命種種分別している
土地の守備とか、理由を汲む
誰かが、人間、結局関わる仏界的知識を
遠目でみて要るから
真面目に考えられる人が多く
風により紐解く
それが“偶然”の為に
そういう知識の日が私素材を通して沢山籠に詰めるように、と
「大神」
心の里帰り
人は人を純粋に心配するから、心配した人が私だった
あなたがほっつき歩いてたらこっちに来るやんか、は、自分は面倒くさいから人間的距離感でもコロナのことだと思う、けど、その問題。人間とは違う。
自分のパーソナルスペースに違いないから感情を自我意識の限り、自分のものにしてしまおうと。そのまま気にせず自分の心にセーフをかけることが身一つで出来る。誠ならば天にも連れられ全て御縁のもの、という言葉と均等な蝶と太陽の想像そのものは失せることもなく、もともと選べないくじ運からは、更なる方位の術を焚き、運に干渉せずそのまま変わらない自分のこと、こう肩の力を抜いて始める。差は、差を取ることでプラスを取るという教えからは思い切って任せる、思い切って暮らす。こういった老心の行動、心の行動だけは心だから残るぞ。人間の人生はこの戸締まり。
人間が善意を測らないから、自分に神を存在させるのは自分しかいなく、わりとも心とは共通しても共同でもないこの理屈は何にでも良く役立つ知識である。目途は、魂とゆってみてもそれは魂で、言語が存在する以上、異るのだという注意を自信にしていた。
天霊とは、
現代人は、膨大な趣旨選択を日々行っていて細かい考えが早い、これが如何に繊細に表せられるかということで、あとノートがあり纏めれる。
さほど特別ではないとわかり安心する。自分の優しさや負けず嫌いに加えて更に知識がある、ような感じ。目で見てない間は、無意識でも“それ”は人で同じだと言っている自分に気付ける。その時に、普段やっていた繊細な理解を現実的にすることで、霊界も現実もモラル感は変わらないのだ、と知りに行き、自分の怪しい箇所をしまう。人間でも、さほど他人のことを気にしていないし被害者意識もないが、哲学をするのである。
湖でも、闇の湖では
暗黙の了解であるから、間隔的に敬意を感知しても破ったまま見過ごすと、笑ってその死を見過ごすことに深い意味がある。
心の中の間隔なんてまして言えなくて
その深度が思ったよりも存在することを
守ってもらってないからお前は悪霊だ、といちゃもんをゆわれつつ、
未来の顔を確認すれば
悪霊を気にしても、
行っても行ってもテレビ画面に目を密着さしてしまったようにして対象は実は目以上に既に動いておらず、奥行きも生じることはない、次にも進まない。気配はこちらを心配する神がいて、悪霊も然たれば同時に存在し、それは平面といおうがそういう次元的なこと自体から仏様の工程的に放り出されている最中の様子である。“やる事”の合間に見える釈迦の七日、三十三間は、光のヒントでもある。京都御所虚空蔵の三十三間堂は現実にあり、実際にわけがある意味や、ほぼ白目の虚空蔵菩薩を見ることも出来る。
行っても行っても自分なら、その人は上のひと、という善霊になる。
人間パソコンにしても、心はパソコンじゃないから記憶は瞬時に直る。
シャワーの線から、故意は、余計なものは、地底へその運気の下降する様子と
宇宙へ行くが似ている
「コロナ禍」という一大テーマのアイデアコンパクト
気力の質が違うから、増して霊性の様な高みの中で、気力の相性が悪い
これが起こったのは問題の発見として分け隔てがつき有り難い。
エモーション、感情の歪みとは、エモーショナルというシステムのボタン音声に過ぎす見過ごせることであるのは、時間に耐えるのだという意味の心とは異なり満たないことを良くわかるだろう。
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