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2025/03/14
とても楽しいことを見つけると、西欧でも芸術家は一度隠すそうだ。
私のことばは鋭いが、
椎名林檎ばりの短調的な羅列は、“自分”に置き換えると本当は、愛しているよ、や、私は出来ないけど君は凄いよ、こういった天照系譜かも知れない。自分の“希望”にたいして真面目に合わせて行くことだ。心を漏らさず全て認めて言い切るには10年以上かかる。
「ほっといてよ」と言いたい時に、如何に自分にたいして適っているか
私は、実際絵画に触れた頃に自分の執念から言葉を身体性だと突き止め思った。日本は美術はあっても芸術は民的だから普遍としての実感数値と同じ様になかった。線を安全に破壊して行くこと、尚且つ行く先の幸を祈る、心の拡大まで。これをキャンパスに吐くなら、それらを網羅し美術表現出来ていても、ほどよいその心の表現にまでは満ちていないから足が向かなかったのだ。
絵の具を触ってもにさえ「言葉」がある。挙げ句、そこにミチが憚っている。素材は何が良いか? 聞くことは、アートを前提にした民間のそのことでしょう。
線の安全な破壊はもう完了していて、形ならば、どうなるのだろう?これは、私はどうなるのだろう?という作品である、これをちゃんとした落書きと言って、作品と言わないことは、出来るのだろうか?
一人の人間と、民、という間に成長がある。
そして、表現の場が、画面という紙なのか、対社会なのか、対人なのか
ことばと自分に間隔があり、適した距離感があり、自分にリズムがあり、ことばを知る前の自分にこそリズムがあり、それが言葉だということ。
自意識にたいして、ちゃんと気にして自分を見つめることが出来ているだろうか?
自分が、「良い」と思うこと
全てマインドだから激しく美しい、追求甲斐もある、良いと思い前向きになったから言ったことそう理由がある。それを知る自分に「自我」という哲学なる言葉、これを思える自意識に、自分を見つけるならば、ぴったりとして世間と亀裂を生まない。理性を重んじることから、私が“3番”だと判る。
自分以上の文化に触れてみて、案外にも歌が蔓延っているのだと天は光り、どうするかわからない自分を許していくという広大な霊を見て「信仰」を知るが宗教に関連していない事等である。また、宗は、ある程一定的に古いことを条件とし、名も「しまり」と読むから藩と同じく日本では縄文語の方である。もっと昔から始まる教えたいこと、伝えたい土地のことの勉強法、それらはもはや「私」でないという天声の驚きまでをいつまでも鳴り響かせようという運動だったよ、等の澄み切った声である。
そもそも言葉は長く、ギリシャか西洋哲学では、話し言葉と書き言葉は違う、という意味を一言で話す言語があり「エクリチュール」と言う。
若い時は、ことばに出会うと感動や興奮で怖くなるが、これはそれ程客観的にも心配ではない
いう言葉と自分の嵩が、等しく同じ背丈だから良いのであり、その「言ってみたいこと」は、これからももっと自分が詰まった時に言えるかもしれないので理想として置いておく。オーバーしたら、十分怖がっても良いだろう。
人間は、言葉を知らなければいけないよう。
CHARAさんの曲を突き詰めて悩んだ時に聴くが、いきなりCHARAを覚えず、もっとポップスを歌えるような自分の言葉へ気付けることから知りなさい。勿論、着物衣も複雑でこういう風に光るんだという塩梅と、集中して現に明るさのみを聞き取れること、何らかの知性でこういった空間性がある。「決まらない境界線、、なんか踏んで行け!」という要は対人関係の励みの如く、現実の日々で奮い立つ自分が大切なんだ。
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