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2024/12/13
龍神、その親と話す
「ドーシャ」
道者といった、わたしは「道士」だ。そこに、真髄が見える。「家」とは何か、ぶだん自分の中心だ、と聞くが、
誠は、この概念を社会ではなく、社会を初めて話す場所であり、それが「無ければ、」社会の延長の上に立つ「国」は、存在しない。国籍が飾りになるか、身体性として育むか、想像の発展を抱くと説く。
家とわたしは友情である。これを、離したくないという。続ける、持続性、これらの希望は、ここにしかないからだ。故に、「壁」こそが、崇拝する神、という言葉は地球規模の挑戦の為だとわかるんだよ。何故か、守っている人やその意思や気持ちのある人は、どんなに距離が遠くても守護や神が存在を許すんだ。
自意識の壁、こうも言う。この壁を越えるにはこれに付き合い、続けて、慣れていく、そこにいつも一向き足りない自己の動作がある。家の外でする作法動作、これは「型」である。自身は型から擬え見つけ出す。型には色々ない。自意識とは課題として、ノーマルであるが巨大だ。
①行く
②戻る
③自分を睨む
これだけで人は竹のように成り、高い所に足が届くのだ。出来るだろう。
憲法にしろ、こんなにも「じぶん」が、「理解」に及ぶ解決をすると知ったのも人と同じ驚きだ。何にせよ、時間だけは沢山ある。
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2024/12/13
瓦を作っていた町から来た
何も無駄にせず薬を学する
それには「気」が大切だ、という話を
今、初めてしてるんだ
解るだろう
素晴らしさが生きているだろう
呼吸と無欲な想像で、「色(形)」は違って、だれでも簡単にできる
そこに、人格に対していて「妄想」で補わせるカタチがあり大問題になっている
「気(神)」と、掟と、人間を破るからだ。そして人間に破らせるからだ。
怒りはするが、瓦だから気が長い
自分が求めるのが平和だとわかっているからだ
今は疲労困憊で休みを取っているがふだん
健気に働いて暮らしている
時空にきらきらしている湖から気が逸れて
さらに人に近づけば
そこに「鏡」があり
予想する人物像が見えるだろう
それは「お前」か、もっと悪い姿は8150
宇宙の指名手配
こんなひと(助かろうとする気持ちにカラッポが、表裏におよんで
裁いたひとは裁いていて
殴ったひとは殴っている
殺したひとは殺している
隠れたひとは隠れている
受ける側は
人がどう苦しかったのだろうと考える
地上でこの欲の1本、一線だけを突進し続けると、自転から浮き剥がれていく時、「誰か」や「神」に鉢合いになる
だから、
助かろうとする
「逃げる」選択肢はもう消えて取上げられてた
)
餓鬼上がりが道を作り、修行を兼ねて行に携わる
命のためだ
8150を、
「家」には上げたことがない
これが、打心眼には必ずそう見えない
家は元の気であるから
思いの中ほど思いが上回るように
大切に思う気持ちには
8150は、何もしなくても常に跳ね返される
その表現は(真空パック)として見えてわかるだろう
同じ息を吸わない
いま気持ちが弱ってる
どうやら、守護格の大霊が勘違いしてやがる
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2024/12/12
これは、大根 イラストは、まんがアニメ
わしが思うに、
体脂肪100
いくら精神筋肉を気付かって絞り落としていても、表現は体脂肪60
わたしは、理解されにくく苦しんだ者なので自分の供養をする
キャラクターとの間隔は、人間と形が相まって輪郭を捉え切れていない目のような、驚くと目を丸く飛び出されたようなイラストは、視界世界の外側、顔の外側へめちゃくちゃ興味があった、世阿弥を見てこれはカタツムリが元祖だと言っていたのだ
まず自分に本物の好きな「服」を買う
寒くなくなり、
考えの穴が埋まる
温度が摂氏いくつと気にすることも出来ない厳しい人も、そういうのを思想、
準えて、日本のそういうのは
本当は何か?海の大岩と泥とを見つめる
希望がある、と言い出した弥生人の飛鳥をそこに見つける
私は叫ぶ
「くだらない、この間隔でこの間に「顔面」のことを言うなよ」
波が岩と両想いに愛し合い、一つというような
どこまでも見渡して行くこの気持ち
修行がしたい、と言った
蟲ーしかいないのに、恵まれていない
と神が思ったのは何でだろう?
もう、自分でする
“とゆった”
豊かな面白さだな、と笑っていた
人間として、難解に二つの意味を一つで考える
神は、もともと難字をもっている
責め重ねるるようでもない
辛さがないこととも違う
視覚再構は、もとからそんじょそこらの努力ではなく、ただ歴史的に方法として神に近付く占い(まじない)であった。「砂、砂利石の清潔さ」を意味する。山主や、海面の揺れによっては意味はわからない。ただ区間を案内した仏こそは、あの勇気を話す者だった
満たなければ、去る。それは、鏡の中へ消えていくかのように、相違ない「顔」だった
中には、天照大御神の人面といいだす「ノロイ」
「伝説を売る」こうした文明的な夢の、想像がもとからあり、
倦怠もなく、めっちゃ関心して夢を、日頃の大きな暗いヤミと相まって心に描いてみる
コトバに心が出会ったことを受け
どのように理解して止めると良いのか、堂々と考える花が
仏にも似合い人生論にも嵌る
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2024/12/12
「病いは気から」というけれど、
語るのが心、
心と称するその軸が間違っていたら「問題」は探し出せるかな?
気を失った者の「原因」は、欲深く落ち
沈んでいる
助かろうとする気持ちにカラッポが、表裏におよんで
裁いたひとは裁いていて
殴ったひとは殴っている
殺したひとは殺している
隠れたひとは隠れている
受ける側は
どう苦しかったのだろうと考える
地上でこの欲の1本、一線だけを突進し続けると、自転から浮き剥がれていく時、「誰か」や「神」に鉢合いになる
だから、
助かろうとする
「逃げる」選択肢はもう消えて取上げられてた
過去を求める仏様から視認され、そのひとは最後、閻魔堂へ行く
それは月のそのまた向こう
(夜空のムコウ、Smapの歌がある 教訓の寺は光輝いていた)
それは「人だった」
人だったというわたしの時間の流れを汲むことが
対極的にぶつかる「もの」に対して「わたし」という為の平等がある
これを、「光が点灯している→ボタンが輝いている」と表示され空の星に連絡できる
間違ったことが間違った者を呼ぶ
その間違った者が間違った所にすすむ
とうに話すことには及ばない
時の限り、「八方掛」と出てくる
この明朗な時計を意味する八方掛と、空間と事の前後を意味する「十方(ろっぽう、六方)」とする自戒→信じれる
信じれる、とは、復して合わせることのできる□
わたしの□は、用と龍玉
解答の整頓も、
時の限りと蟲ー、「位置」はこうした正しい比較から答え始めよう
「オガミ(拝み、男神)」
「心は、わたしこの笹この袋、あなたの「目的」です
目的だけがあなたの善の中=天
大守護よ、袋を大切にしているから」
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2024/12/12
伝達伝授を考える道法、
詩ごころにすこし慣れておき
感情や理性を諦めない読み手、第三者の詩人としての自も愛す
伝授になる前に何を考えておくか、どんな何の勧める心の姿勢かあれば、教えて欲しい
「思い」
死生感の考えのつくことこそを見て
考えの視界を広げる
厳しく思う柔らかい大木には
自然の寄し返しがある
日本には古い人が多い
選ばず、ひとときの声を真面目に身をまかせる
自然に憧憬を抱き、掟と似ようとする温かに「物」を模す
このこれぞ、修練に毎日毎日明け暮れていた古人たちの
目的が、今、現れているのだ
憧憬と自然だ
先ず練習の難度が高いことは、今も変わらない
「わたし」、
アニメやメディアを見る感覚の通りに
「わたしが物を見る」という、
体を動かすだけでは、この目という技術の高度が直に感じ取れる
メディアから拳の風が、びゅうびゅう今も吹く
裏がない、という意味は身を起こすように重力と生きる
街でスマホを持ちそれを観ながら佇むなら、仏の瞑想と変わらない様子は
いつも添う仏様と違って、いつか添える様な人間として思うことの
然を考える最中、十分怒り、魂となれる中で
「物」が心の中の奥まで倒れて降って来た時
私はその辺にある物に捉まって難を逃れた
松や竹、酒や、着物や絵本や詩文や空だ
それは身体に馴染み
守り方の易を得く
歌舞伎を観たから、目が良くなって選ぶものが一歩原理に近付けた
腹の下に力を込めるから、着物の紐は下腹に位置させ、
感覚から暖まるようにやわらかい絹に身を包める
とうに、身体の脚が歩くから、顔が良くなる
風を風と時節を知る身体は
顔がわかるから、他人の顔が見える
人と人が、話が始まるのはそれからだぞ
だからいま、ただこう無や、川辺を永久に愛しく思うとわかるのは
ちゃんと岸辺に身をもう立っているからだ
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2024/12/12
前提的にこう立っている自分がいる
前提的に、
確実な偶然もある
上の必然もある
これて確認は済んだ
知る者が、こう知りたかった、ということは
ない
一文でも、こう避けてこれを取りに行って、と、
細かいことを私はしていた
面(オモテ、表)の存在する文章や表現を
受け止めることに
是非は必ずない
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2024/12/12
これは日本の像
「私の明日の視線」とは、新らんま1/2のオープニング映像ような価値観だ。アッテルちゃんもいてみんなもいる、こころの武心として偏らずわかりやすい。 原作者は蟲ー
「私とは?」の問いかけに真面目に。
驚きの後することは、
絶対を空間にして位置とし、人間として見たら、非常に良い考察が出来る。
人間を空洞だと歪ませる「ヒテイゴト」の、不安のねじれ
「メガレンジャー」の公式youtubeで観た
黒い渦へ、おにぎりを三つ転がした様子が見える
この世のものを、持って行けない
「ヨミ」ともなるとこう形が青く光ってきて出来上がる
蟲ーに追いかけられる「私」
こういった内面ではまったく持続している唖然とする日本の風景と心の景色
冥界霊にいても力がついたり、自分にかかる悪いことが減ったりするわけはない
現実で付けた自分の自力だけだから、現実にしか守護霊が現れない
だから、早く帰りなさい、と言っている。早く帰ると、明日はありますからね!思うことに正しい動きが目を瞑ってもわかる。思いと違うのはレベルや人間を誤っているから。何か横付けに足しに量を取る分、とぼしい方が身が身を任せていただろう。理解が加えられるのは、器は、自分のスピードが自分に一番早い、と知った時。水を3分浴びると必要なことしかしなかった元の自分に初心ある如く。まぁ、これが「空」。考えないといわれる技術。
画面を観ている自分の行為、物事を1本にしない柔らかい態度のある土地土地の心。そこから引き出した絵は、昔を祝うような空や羽や天地を見る西洋古典も、湖の様な懐かしい青い冥に包まれ、森と思える感性は理性に宿るほかなく、
水の向こうでは青い顔の老人がへとへとで「有り難う、何が見えていたのか謎」と言っている
この世のものを湖に持って行けない、恋、カネ、ぶつぶつ交換、裁判訴訟、人間関係
物語を受けると揺らぐ
動揺を抑え静めるよう漕ぎかけると、気にすることの肯定では「湖が綺麗」と思うのは良いことだと思う真実はなくならずある
故に、「目」を失ってしまわない外も内も人間に必要だから、尊く反省したり力を諦めないその気持ち
これが認められているのではないかと思う
迷ってしまった人が、その人の道に帰りますように、と家では祈っていた。
次は、花や歌が、もっと増えますように。
じゃ〜ね〜
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2024/12/11
ことばで言うことに理由のある人は、存在しても段階の前では、
空間とは関係だけの話が先に来るの中で
優劣をはかる間に一線も二線も否定の信号があり、時間も存在している
感覚的に関係するようにみえても、その空間を仕切る大枠から位を見比べると、「通じない」と表示されるからチェックする
こころの中の相関性と連想して引き連れて、空間をなくしてみよう、とするところに「無価値」が起こる
人間の腹は変わらず笑うことが出来るが、未来ってどんなんだろう!希望で一杯の時にたいしては、それが見当たらない「ヤミ」を当てられ骨折の気持ち
これが、これまでの空間の中心であり渦を起こしていたのであった。問題にしていた分が、あまり知することが出来ないから気にして目が向かう面白い日だったのだ!
この「モンダイの渦」へと汎ゆる「悪」が噴出した。「あくとう」この名前を持つことが出来ないことが世界人の証になるだろう
「人間」を気持ちまで、気付かうことだ
我慢、悔しさ、これはしても現実的に使える
間が一瞬合っても、四方の神とは、地にも憚りがあるから「気に出来ない」。気にしてる間にセカイは必ず動くからだ。距離値の強い日、通常の青い空、違う曇も、天ならばあり、気にしなかったら、「良い」リズムを知れるのに、という意味
魂にあらゆる意志があっても、良いなら自分を早く自神に使わせるように
仏や大霊を、お導きするために
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2024/12/11
したいのは、
実在の人物とは関係ないとこにいながら、且つ、どれだけこの四方にたいして礼儀が正しいか
擬人の感覚なら、本当の書物に触れていた方が良い。空想を合わせるなら、本当の心の可能性一筋にもっと触れてみた方が良い
今、気付いたが全体的に「影、夜」を見くびった分、行じる隙間がなくなっている。これらが「ヤミ」にすり替わっていた
考えのいる現実、考えなくてもよい空間、こう必ず想像以上より立体的に存在していて、「空念」と言ってみたら何か尊い。いずれにしろ、どんな予想をしても空間には苦がないのである。空間とは苦がないのである。
これを叶えても良いんだ、嬉しいという声もある。
緩やかな人道の延長上に神仏はあるものだ
延長上なら、誰や何にであっても道から離れず、「延長」という元を始める。入り口は入り口に戻る。手向かえ人道。神から下るこの動作、過去を抱えた主題の今へ自分を落とし込む。これを即ち初心と言い、道法に置いて必ず得ければならない基本。どのように持続する心の「どのように」を受得る特訓の段階。真の新しい「段」。それだけを迎えて入れている。
日本でも初心は言葉はあれど概念をまかり通さず最も酸っぱく言われるくらいに大事な語である。必ず記憶ほど覚えて置くように。
大事のこの量にしては、初心を説明して良いときがある。過去を抱えた主題の今へ、空洞では覚束こと無い時空そのものの潔さ、これを観察する為には、人間という一定的な日の心地が必要である。だから「もっと見たい」という言葉はこうした精神そのものの問題なさが、説明に掛かる。
ちなみにわたしの初心は、神が聞いてる間、として形をエレメント土(水神)と間違いを睨むこれを破りあいに帰るところ
何かとてもぴったりした靴のような想像を思っても、何を大切にするかである。続けれずにいて「幻想」という正しい想像へと出来るのは現実の事実てあり、全ての自己と「タイミング」が打ち立っている形が存在して、更に「客観性」とは、複数の面を人間が持てることを知る意志なのだ!
相異なる
人間が、争いを求めたまま進むと、自己矛盾として存在出来ない。さっぱり人間でもなくなる。
「抵抗」となる意志は、神使いしか、理由がない。
心に戻って、
感情に客観的なこころはない、この一つを大切に
自らの「心配」だと見つめ見直し、心を配る、と書く精神として、対する「不安=ねじれたもの」を心の中から徹底除去する
客観的なこころ≠客観性(客観性なこころの自に取り組む後に引き摺り出す)
神との修行、二面性この達成とまた神
豊かな現実、家、物、これを信じれずいて「空想」は出来ない
神は、人間ならば、難度の高い「熱情」は、ことばにならないはずだ、と言う。人間は、彼と途方に違うと思いながら、石、良い意志だけを持って、近付くこともある。
総合して、これだけを考えていれば上手く行く。全てが「上達」の為である。
以下は、ないもの。
語を達成しておらず、満ちていない「物欲しさ」とは、以後、人格を考えない。動物が、人格以上のところの格であるからだ。人間以下は、量が多い少ないの話をし続けても一瞬はこう「点」になる。
敢えて、知らないホトケガオ。そう言っても選択のはかなさ、この上記の点の至らなさが必ずあることが、見つかることが普通はない。
はやく一掃してください
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2024/12/11
大学の頃の良い文
オン タラーク
まどの先生
2009/10/12
日記・ブログ
たしかに彼女の描く人形はどれも生々しく、愛らしく、どこか悲しい。
彼女の何重にもなった妖艶な目と人形の目はどこか似ていた。
そして、よく小さな妖精が見えるといい、枕元でピョンピョン飛んでるのといっていた。子供だったわたしは、妖精が本当にいるのね、ティンカーベルかなと思ったりもした。
そして今でも枕元で跳ね回る妖精がいるんじゃないかと疑ってる。
彼女はあまり来ない私をいつでも覚えていてくれたし、喜んで迎えてくれた。
わたしはそこに居心地の良さを感じながら、孤独からは抜け出せなかった。
彼女の夫もまた画家で、もう描くものがないから死んだのよと、彼女はいったらしい。
わたしはその時、犬がほしくて、犬の絵ばかり描いていた。単純すぎるのは今と変わらない。今その絵はトイレにある。どことなく、今の犬に似てるような似てないような。
その頃も、今も、きっと、考えてるようで、なにも考えてないのだと思う。
ヤノマミ
2009/10/11
ヤノマミというアマゾンに住む民族の女性は、平均14才と若くして子供を生むが、
生んですぐに人間として育てるか、精霊として、シロアリに食べさせるかを
生んだ本人が決断しなければならない。
同じものはひとつもなくて、一度外にだしたものはかえってこない。
精霊として差し出した女子の家からは、たいてい、その夜、泣き声が響く。
それはもう二度と生まれない、たしかな命だったことを表す。
消えてしまうことは、消せないことのようだ。
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座るための石は重くて冷たい
2009/10/10
映画を死ぬほど観る時は、なにも考えたくない時、自分から距離を置きたい時なのかもしれない。自分にうんざりすると違う人生について考えてみたくなる。現実に戻る前に、すかさず違う人生を刷り込む。映像を流し続けることで、非日常への一歩を踏み出した気持ちになって、夜の夢を見続けてるような感覚から抜け出せずに、時間の感覚もズレはじめる。そういうのを繰り返して今のわたしが形成されいて、ようするに、無茶苦茶なのかも。
だけど、沢山の時間をかけて、自分が本当に愛しているものを蓄積すれば自分が何者なのか見えてくると思う。
昨日みた映画にこんな言葉があった。
「若者は完全な愛を求め、
年を経た者ははぎれを縫い合わせ、色の重なり合いの中に美しさを見いだす」
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