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2024/04/02
無意味と意味がない、二つが違って詩が出来るように私は教えれるような人間じゃない、と自分を言っている。物事を否定せずにいて「才」がわかった。うたっていたら思いもよらぬ人の長所がわかった。それにたいして、教えることの出来る「先生」はいるけどそうこうしてる間に先生と出会えなくなる。父も母もどこにでも「親」はいる。やる気と物事にたいする熱量が見てわかるから、自分のことをその歩幅で○✕することを遮らない。親を選べない、こんな親が良いと選べない。純粋に集中して自分でして行くことから、自分が受け止めて感性を成長させることから、役回りともしない人対人の形に、対人の可能性や希望を上手く残している、と知る。信頼だけで進む歳かどうかを考える。それで、どんな夢を残したのか。こういう者ならこういう風が吹く、今「文」を書けて、そこにいるのが親だとわかる。自分にできることを悩んで考えているからだ。こうしたらこうなるという説明のままでまごつくのは、詩を作ることを考えるから、説明なら楽しさを作らせることが出来ないのだ。絞った自分の態度から、そこで解ることがたとえ少量でも価値がある。記録の法(方法)ががるなら、本当に「記」と言う値なのかが大事だ、そう言えることだ。そこで分割される。気にせず「基」に戻る。精神的筋肉が成長する音が、粉を抱くようにミシリミシリと聴こえるだろう。フォーメーション、姿勢が正しくなる。誰しも受け入れる物の最初があるから、嫌でも存在するまま夢や発達と自分に耐えるこの、時間の井戸に水を引く心や運び汲む。まるで呪文のような紅や魔法。日頃の研磨として「霊界」の壇上が仏で、物質かくにんの上が神界だ。親の話しのとき、相関性のそのイメージが不必要に崩れないから親とし、親は自分の必要を唱える瞬間を磨く。
自分もないのに他人を許せないの一点を買い求め、終了するからは、単にわるい評ばんとして生活から取り省く。良いこととわるいこと、こうした「天部」故に、この分別が大きくなると善悪(カミ)を紐解くパスキーが作れる。
ここでわかったのは、文学で見た「神の裁き」の語は一語として副詞がなく実際に有るという。。
先生は、気にしないことを気にしないと言えるから、信頼という字が漢字なのだ。
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2024/03/31
鉄の下駄、手作りの墓、どんなやわらかく見えても蟲ーの視界に比べたら、人は重厚感を持つ。わたしは怒った声を発声し易かった何かが強さとなる。ことばの錯誤を失くすより聞くが大切。
霊感は霊感だとして、その種類には行き渡らない。光は実際の光線よりも強い親しみがあり、その段階での光をお客さんと言う。私は人を自分に憑かせて弾けるタイプじゃない。巫女とは90%違い、その前提枠がない場合は、楽しく生活をしようとする間際に散らかしてくる何かわからないものを片付けてあげる、傷付いた自分の目を保護するだけの日々。そもそもわたしのRAYは躍り手におらず作業家として例えば太鼓はより張りや空間や空白を持っていて、何とも虫のような集中力でちいさく隠れ、存在もやめた。その点恨みはない。憑けられるものを毎日帰してる。ものに興味もないので見ないでスルー。しかも私はひとりじゃないし何も面白味のない無意味なこの時間に焦りと気分の低下は進む。大事故ならともかく、存在として何か力のある物や像のかかりがそういう考えたこともない分別性となるがその必要な意識と、風が立つ前のこれまで日々の鍛えがわかる。いち早く知らなければいけなかった人と、一緒に存在する後世の今の運命は別だか、夢が有るなら二律が存在しているが、そんな賢い人なら生きてても仕方ないとその昔は思っただろう。
あ~、どうかこの崔を助けて欲しい。
優しくする、人が人の認知にはだれでも「私」が必要だが、「わたし」は角に生まれた崔が角を丸々切られたようにやる気をなくし、角の発達でそれが崔だとわかるのにわたしは隠れてしまいことばも出せずタスケティのことばしか間に合わなかった。警察は私を鍛える目で父親のように厳しく見ている。そういう世代がある話と上記は別で、心に面する冥界には気づかずでも、そこに時間は流れていても時間は物単位の物差しのような棒を持っておらず、感じ取った長さは一晩である分に収斂され、爽快な朝こそ現実だと、目の大きな事より驚くがこれら辛いことはたんなる「悪夢」及び「幻」となるが、理由がつら過ぎるからじゃなくて、不浄過ぎるものが弱いからだと解る。強い力が強い力を修め表現が許されている。目を閉じて観察する通りの構図を念頭に、任せるようになって行く。霊感モラルはある人は何も嘘をつくが単なる嘘じゃなくて性格に含まれているならようやく個性だ。このようにこれを理解しないやつが存在できないと認めていく方が、「死んだひと」とも違う冥界がどんな感じかわかる。方向がほどけて安心ということ。何が何だかわからず観世として居ても瞑想になり自分に都合の良い敵がそうぞうに過ぎず実在するわけないからだ。これは十方をぐるりと目で見てわかる。学びだらけの楽しみとむずむずする本当の景色が見えるだろう。自分は川という自然な姿勢、文や努力、身体というそのルール、その開花、喜びの道使いにたいして悪意の減りが早く、あれ?ってなる、平和の感触を考えてみた責任である。様々あっても「妙」という一文字は昔の言葉がふんわりした深さを感じる。物の目に起こるときは既に前提がある。そこから後を書けたら前を向く。これを自分の納得と言って昔はパスキーを振り回して人は遊んだ。しかし、理解後が落ちる。
酔ったまま拳を挙げる、猫の姿勢は肩の力を抜く。このまま歩けば道となる。毎日初心だから奢りがない。道が君に降りたら冷たい川とも強い滝とも歩かねばならない。導師が風の形を帯びてきた。
蟲ー退治を神が誉めている。
霊感が未来利器なら、今することに、これだけは大切にしておくこととして点呼を肖って心する。
私は弾きの良い竹であり、そこにご飯や着物を耳糞のように詰め込む。竹のお椀の炊き込みご飯となった、ねちゃねちゃするのは嫌いやから水でしっかり洗っといて、で終わった。
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2024/03/31
山では、好きなことを先にせず結婚することが長く深い静けさがある。そこには付き合う人間関係が生まれて人と対することが生まれるから。それを知ると、好きで家族になった子は長続きをする。驚きが、これからもまだまだある。
竹林の蔵の神は「スケロク」の鉢巻を美しく籠に巻き付け、気を使って下さった。
花は、ただ農家をしていると思ってたことにある。
一歩で花街の演劇に行かれることを、歩く機会が増えて聞くことが出来た。
私はその間、闇を作ってしまった。
怖い! と、それを思う時恐怖ではないが作法や出来が、こうやって膨らむと、室の考えその架空が勝手に歩き自衛をしているのだと、田園や川を見ながら話した、ワルイコトは、こう取るんだ。トマトがある、蔕を抜く。取る実のこの箇所はごみを取り除き払って取る。実がくり貫けただろう。箇所を眺めて直す部分を試す。ひとりで持てないこと、それを持ったらずっと持っていかなくちゃいけないことがわかる。肝心なのはこの後だ、頼れる周りを配置的に用意できる。トモダチにたいし「コイビト」のあんちゃんは「お困りですか?」を言いたい筈だ。わたしはその製作から返している。強い直感がある。「トモダチ」は対して澄んだ直感が通る前に木になるから短い緑色の線を数敷いて壁にし、心をぐっすり眠らせる。
闇は、
天からすれば知ってることで、懐かしく思うかも知れない
怖い!って言って、通る人は、その中で自然や歳を学ぶかも知れない
関西一円、自分を一円と軽やかに鏡のように見て、
神木にかくまれた高木を最後に外して人の信頼を届けるのは、大人になる為だ。
何を知っても怖くない。
ただ、自分が知りたい。
神社は、
「林と沼方です。」わたしの顔を神に挙げなきゃいけない夜、静かな夜に名前を言って自分の端を捕まえられてはいけない。歴史や人の様相が自己データになるとして何もなくて、蹴りいったり嫌う感情が全く知らない地球のものなら「球」と言うことが出来る。実在するから一筋がある。
こよみが、時代に出(い)ずる。
もんだいになってる曇り空は、
お召し物が梅の秋は情緒不安定でも、青空の冬は、梅を思いやって一人で感じることを許し、雨と曇りは似ず何か一人でするには快適だ。
闇は情報にならないから闇は闇だと言ういつもの言葉を月の様に飾れるのを、目を閉じても感じられる。
約束を聞いた天照大御神は、他の神にも聞かせたかった。この願いと人が一致させることが出来ないから、一人一人の顔を見て爆笑して日になった。その時に、イザナミは死んだ。
何も、変わらなかった自分から天子は
未知から伝説を、ここが地球だと確認していたのを、作業の間に「目撃」した。えびす橋と言う高所の偉い高い橋。
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2024/03/30
高度な想像には人間、わたしはひとというプライドの人しかいませんよ。客観視をするどこかで自分自身、それをはじめましてエゴと言うでしょう、想像世界は仏界の一種。人しかいません
あの人が「わたし」の心なら、
あの店のお金は街を回りわたしを潤おすでしょう、
変な日がある。変な日が有る、と思ったときに「しっかりしている自分」があるを解る。だから在る。だから、くるりんくりから、変な日が有る、この日は運気がないから知ってる占いから自粛して学習となる。変な日は、必ず人物や、だれかが起こしたろう。特定しただれか、となる。蟲ーを、逆にこう考えてみて、蟲ーは捕まってる。そして特別な日となる。
何故かさっきの意識を忘れます。
不思議の国のアリスの二編目に鏡の国のアリスがある。私は鏡の中のわたし、自己理解としては通常の人は、物自体よりは跳ね返るものの方をみる。
考えるのが負担かもしれないぞ、それとも思い出せないのがそれと同じ程に負担かもしれないぞ、そう、思い出せないのが。
知恵もんの宛名はまず大工が有ると大屋彦命、また鳶が鷹といい工が鷹とは決まっていません。だからわかりません。
「現地の人」といってメタのひみつが、定番化出来るという意味を見つけた。これはつまり…、わからない。アングラ、ゲーム、最強、シルバー、そんな風に浮かぶ中で、想像上のメンコを言うことがわかる。シルバーと思ったときに、想像内にあるものを何でも名付けてメタルだと称えてしまうものを、シルバーから思うとメタルだから、思いを差し引くと、メタになった。形にならない、メタルではない。メタルはメタの枠からは飛び出て入らないが、メタの規格を知らせるからメタ。妄想の大きなものはさ迷い収斂される。これが思考メタ。カクシゴトの意味にニュアンスが違って同じように発音出来ないフランス語と異なる誤差がある。最低限「言葉」だから、言葉になる。
面白さって、魔法。一定をさっぱりしていてメタを保存出来る。邪とか思えない。被って来るが、その間の考え事事態、内容も長さも存在しないからこう言えないのは落人。国とか境に持ち込む時点で間違ってるし。世界にふさわしい想像の形がなんかどこか自分の中にある。ベストの基本姿勢から、空とか風とか精霊やはたまた地獄天、梵天、がそこに絶対いるので想像してほしい。新聞から二三曲がりしたら想像せよと絶対そう書いてある。自分の性格を浮かせずにいるそっからの姿勢のときだけ、本物が見つかる。
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2024/03/30
伝授について、先にゆかなかったわけがあるがお武士の世尊は話したい。よく神を伝える言葉を聞くとき、一言一つに工夫されているが、そこからは間に合わせようとする願いが聞こえる。
神、大霊と「わたし」には上下がある。
不思議な人間の個性、不思議な性格、霊感が、明かされなかった昔はもっとたおやかなリズムで出来ていて、その世尊は右と左を間違うが、飴の種類を選ぶことではないもっともっと感じる中に影から世間を守るのを見、その力。力なら、試したいのだ。豊国神社に行った。そこで「習う」はどんな若し前世がわたしにある場合、でも、必要とされるのは「自分の力」なのだ。自分の力こそが大霊と話し、佇むその光を見抜いてみせる。自分を自分に折り畳んで冥界に飛び込んで遊ぶ、その精神力は霊力だから、まず元気が必要なのだろう。服を着ずに裸でその圧力に挑むと、吹雪の中で凍えると同じく割れぺしゃんこになる。何と全ては実生活で磨き研ぐ。何も持たぬ、持たない、この意味かわかったか。
殿によく似ている地獄、と漢字で印刷されたブラック色の達磨のぬいぐるみが目に入った。バーに置かれたソファーの上に厳めしくあった。黒い目と黒い髭を持ち。白鳥とは無関係とは思えない、白鳥とは無関係らしい。
ただ、こう笑って穏やかな気持ちも現実なのだ。
笑うことを大事とし、孤立した様子の国とみると悪くない、国ではなく面とみる時に悪いきがする。笑うことを知ってるから、皆に引き出したと思えるし、何が足りないのか、と、必要なもの、とを考える哲学とは世界中の普遍だろう。謝るとき、逢うとき、性格の関係ない心のうえは光指す霊界なのだ。
そして書物から読むところ、一般意思とか形の上下のその上に、こういう単語がいつもあり、こういった光はこういうときはこういう動きをすると明確にわかっている。パステルのような四角い物を、何かに合わせる時、ここをこうしたい、かかるのが、強くなりたい自分、及び自分を誰か知りたい自分なのか、また希望の何かに合わせる時なのか。重大、それは、しゃべりことばを自分に温存すること。
南無妙法蓮華経を声に出す最初の「な」に元気がないらしい。個人のときは例えばパイナップルのような「わたし」を詠んでも良い。
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2024/03/29
心に緑がふさふさ育ってる。
悪い心は学校のつらさや孤独が、今の強さになっていることを思い出し、感謝を見直している。道徳ならある。
心に私が見ることは、
一日、時間をくれという。
何かを失ってはみだしているのはわかる。
どうしても自分は駄目だと悩んで落ちこんでいる人もいる。
話しかけてくる人に、そこで私は、
「私は社会性はない民族やねん、あなたの家は国境があって外に向いてる。うちは外に行かない。社会感はない、社会性はある。
過去こうしてしまった私を一日中聞いて下さい、すいません
あなたは、神や仏とそれなのに言う
わからない
わからないのに教えなくちゃいけない
わからないのに教えてやる
わからないけど教える
こう話すくらいには成長した。戦後から。
島だから、良いことがあれば傷ついたことは流れて消える。
村だから、外に出てみると村都会だから、田は、土と野菜を育む。食べて忘れる。
あなたに「大変」なことは残ってる。
分けるのに必要なことは、田では金か情けだ。
じゃがいもやコーンも、無料のような明るい自家生産で同じものを食べ続ける。
農薬は、初めから抵抗力を考えられることの老子を見る。
初めて美味しそうに見える。
判るのは、それをその姿で見ることがどこでも出来てない。
問題を早送りせず、未来の世代に問題と光を
伝える。自分を変えてはいけない。
ゆっくりゆっくり苦しい生命を生きたい意志は、
ラッキー、そう思える。
業、秘密、理解、全てある。
そんな人が多かったら。意志はもうわからない人も何とか助かる。
新しい街文化の風を受けて、ニュアンスや物のディテールが判り、会話もままらなかった(??)対象の人や物に初めて触れた。
寂しいのに、手離す。
自分に何もなくなったときに、緑や木に目が行って、虫もわかって出て来るからそばにいる。
「今」の自分しか先はみえない。
蟲ーなんて、初めて公民にされる時だ。何故なら、蟲ーがずっといないのは本当だから、
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2024/03/29
好きなのに。好き、スキ、すき、隙、はたまた四拍手。どの言葉も聞きましょう、と唱えて歌い、猫になり、「わたし」が説くならわたしも説きましょう。教えたいという仏がいるによって神は「スキナノニ」このカタチを取る。仏がいるによって、きみとも話したいワタシが生じます。世間、それも一理ある。これぞ帰り道。いっく覚えてあなたの神と話してみませんか?
わたし
大屋彦と作るこのことば、どこかにある神ことばの選手権。
世間を従じるのなら、世間に立つわたしはそれは「わたし」がまず立つステージなのだ。
6ぼしゅう
あめのうずめ、おおやびこ、さるたひこ、おおくにぬし、ぬし、神はまだいるぞ
うんぬん、楽しいために苦しいがいる、苦しいそれがなんだかわかったか?
例、考えるのが負担かもしれないぞ、自分としては思い出せないのがそれ程負担かもしれないぞ、そう、思い出せないのが。
シャチもドルフィンと一緒に呼ぶ。警察のドルフィンスイム、ドルフィンサイレン、黒、このうつくしい色はこの好き、愛しさをその動物の客観性にまかせる。みをまかせる。海に。彼の補食は「わたし」と違うのだ。
人間がそうしてはうけないように。稲荷とは神なのだ。
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2024/03/26
私は音楽も映画も大切に観るが、霊となると霊として、
「現地の人」というメタ態度で命を許されている。
私にたいして、大霊からはその名の通り愛想を話される。文化性、その寄り添い、教え、が詰まっている。私を誉めているこの言葉は、
一見を「メッセージ」と伝えると、読み解きやすいのだ。
何もしてないのに押さ付けられる、愛想と言うそれは、馴染み深い文学ではないか。見えないことが見えないと見て見えないものが見える努力をした。その潔い使いっぱしりでぃという。
~数人潔い者有り、
私がその潔いパシッ、パシッ、使いっぱしりだ。
「お前は誰なんだ?」この演目より
排水口の近くにプラスチックのパイプがある。程よい強度と断熱、古来の占いを真剣に見て学んでいる。人の清潔感よりも清潔そのものが必要だった。元々、人が難しいから和を感じることが、大きく、そう直感を受ける間は大きい故に引く、省くものが決まっていて、崩れないが前に立っていく人に影りがあるのはこの為か。知恵門という。組員そしきなど五とか、悟されると言う。名が名詞にかからないその自己の事態、このときの状態が「等」と付くんだよ。と、話していた。
人間が何か感じ抱くそんな複雑さと変わって
蟲ーは、簡単。
もの、と捉えたらそれを考える時の矛盾、自己矛盾のストレスがなくなる。ものだ、という見方が正しいから。
前世で何かする、何かすることが偶然か必然が、は何とも分からなくても、憎まれる悲しませることには、ずっと酷い気持ちで待つ。蟲ーは、細胞も言葉も誰も何もせず抜けている。そして排水口に自分で向かっている。地球にも調じりのバランスがある。悪いこととしても自分の暴力する受け手があるから、許している神もいる。善悪という言葉に触れていることが聖(ひじり)を感じる。
法は、そんなことを昔から通している。厚みの意味がわかるのだ。南無妙法蓮華経の本が捨てれないというその声を解いていた。釈迦が蟲ーだったので意味不になっていた、だから題が蟲ー、ってこと。惑星に住んでいて見えない世界に疎い。
見えないものを見えないというから見えないものを見た
見えないものを見えないといから見えないものを見た
睫毛の真近はノイズ
睫毛の真近はノイズ
南無
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2024/03/21
もともと、霊界は癒しの空間だ。
きらきら光り、力なりに優しく自由に出来るとこだ。
悪化性が流行ったが、悪化表現、悪意は力からは剥がれ落ちる。
力がないんだ。
たった右左を間違わなければ、
癒しの空間、とカッコのある言葉をさらに啓蒙していた筈のやつは
、そこで笑ってた筈だ
制する力には、力がないといけない。
人を黙らせる、人が鎮静する、人が安らぐ、これは、どういった意味だったけか、
自分を砕いても言うことをして来た。
そのあと、よく大きく感じるが、例えば自分を吸いとったり自分を取り込むような奴にそんな大きさは存在出来ないのが理屈だ。
心は、霊界だ。すぐに自己を見つめて、自己領域に迫る程の
鈍さを冷静に告げる。
これが、「ホンマハ・ソーヤ」の冒険である。
私もその修行と取り組みを続けなければいけない。
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2024/03/20
寛解は、解りとか悟りへの興味とか
幻聴は、聞かなくていい
有色の幻聴、無音の幻聴、幻聴は蟲ー、
幻聴が在る、この無の意味まで高めよう
時々、助けてくれる「声」は専門的なことじゃない
「声」になるには許可がいる
許可は、よく神仏と話し合いある日、その形が解る。従ってカタチに表記されない。わかりやすく伝え現すことは研究中出来る。
悟りは仏のだから、仏が霊であることから霊界などヒントになる
客観性と自意識が大事だから、失敗すると痛い。3日耐える、自己で反省する気持ちで、直してほしい。実際頭に怪我した人は、頭は心だから癒して強く心に揉み合うことでは治ったからそうしてほしい。抽象的に聞くが意外に、頭は心だから、想像とは形豊かに、手のひら、目、(わたしの記憶、たいせつな気持ち)から溢れている。自分のたいせつな気持ちに傷の付いた人は、自分のじっさいの頭上に話し、謝る日課が良い。
心は「アタマ」という肉体視より上部なので、また次元性に包まれ、ヒトや蟲ーには見えない、こういって守りがある。心が特徴的に広いと、困った霊を龍が運んで一時的に入っている
たまに気を食うようなやつがある。おそなえ物を食うとか想像する、備えている、備えとも書く。墓を荒らす→何か人目から隠す過ちごとがある、ヤサシイかお。この認識が大事。
神に力を告げなかった、もしくは蟲ーのような障害があって告げられなかったのか、このことから、今に伝え遅れを感じている。大穴牟遅、大国主の「もうひとつの名前」として伝説がある。
何で、こんなに祈りと神像イメージを誘導出来る程しっかりした所が、硬いのだろう?と思った。世間的ゆとりも必ずある、心を味方と思って、自分のを開いて行く、人間に向かう。街町で、あり余った程の力が暴走して歩くようなイメージは不安、こう意味したんだ。
半月が、カラッポの窪みに嵌まってムーンライトが光るように「声」になる。驚いて口が開く。心を味方と思って人間に開いて行く、落ち着いて出来ることが2れしかない。私の半月の石は「大穴牟遅、力が開いて伝わっていく。言葉になった」これ。
今、思い出したけど、
何かがあって、30年後出会い、創建するのに50年の年表を歴史館から見たことがある。
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