揶白 (KF)

絵画

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  • 光の新聞

     

    藝術や思想などのルールや言語コンテクストの意味伝達は近代市民のさまざまな生活様式にはステレオタイプ的にも不相応であり、それにもまして棚に上げて壇上だけが現場だとは言えなった近代では、時代の個人に表現を帰し事態を生き抜く力の痕跡が作品となりえたのだ。「リアルな触感」はダミアンやミシェクのように現代の高い科学技術でビジュアルイメージとコンセプトの足並みを揃えた名作のみならず、ポロックのドリッピングや郵便配達夫シュヴァルの宮殿、ぺったりとスタンプのようにはりついたようなリキテンシュタイン、なにもかもがごちゃ混ぜに結合してラウシェンバーグの混乱、といったものはわけのわからない行為は人生や哲学が混乱した形式として現実味を帯びる。何の感動や共感もなくともそれぞれの生き方においてはどの技法も密着したリアルな行為に読み解くことができるのである。どのようにして人が芸術というものに規定されたがるのかはわからないが、商用のデザインや、一度の印刷のみで役割を終えるプリントものなどを除いては作品は積極的な交渉のカードになり、人類の科学技術の財産と比べられることのできない個人の完全にオリジナルな財産となるのであれば、「芸術作品であるという通知」はより円滑にするための付加価値のステータスなのだろう。

     

     

     

     


    冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。

     

     

    (上を、思った通りに書く)

    冒頭で先述したように何のポーズも構えず、たとえ真っ白な状態をニュートラルとしていたとしても、

    意味を伝達することが役割である言語の模倣を自らに課すことより、

     

     

     

    言いたいことは自分の作品が代弁してくれることを選んだということである。

    (これが大澤君。)

     

    記録自体は忘却することを許してあげるように機能するとして、

     

    (全部、自分が全身で受け取っていた。ただで吸い込まれていない。)

     

     

    私は喉の奥底の方で鳴き、喉の奥の方で怒り、のどの奥の方で悲しむものがぽろりとこぼれおちるように定着してほしいと願ってばかりだ。絵具の感覚を持ち得たときに現実から徐々に目を逸がそれていき、「おもいついてしまった」という執念や体系的妄想などは意識的に抑制している。こうしたことを言説しなければならい弁護の筋肉がついてしまったことには痒い所である。

     

    (逸がそれる、その言葉で晴れる程度をわざと暗くする浮遊霊、その浮遊霊にくっ付く浮遊霊&ムーたち。何もわからなくて良い、ということは分かっている。浮遊霊を除けば良いと良く考えていたが、何が浮遊霊かの見分けは難しい。見えない攻撃をして逃げているやつだ。まみれていて形のなる、たとえ「ツクられたわたし」だとしても、そんなわたしを、上回る私は常に乗り越えている。ムーの合間にたまに映る修行霊「私」の除霊とは、浮遊霊ほどそのまま浮かせているタイプ。死んだからって許せない事は許せないと思い奮闘していたら思いと心が調和して浄化を深く学べている。

     

    ガイドの姿だ。)

     

    悪霊を捉える技術はあっても、見ることは難しい。ただ、祓いを知ることで世界を明るくするのは間違いないだろう。自分の世代が壁に慣れず間に合わなくても、鍾乳洞を思い浮かべるように、何十年、百年も道を踏みしだいていると慣れてくると思う。

     

    祓い、は単純に願いを叶える努力を自分に課せ続けることで、裏がない。ストレスを感じても排気量があるからフリーだ。

     

     

     

     

     

     

    そして私とはこれに似た。かなしそうであっても感覚的に大丈夫そうな気がするのは正しいとはっきり言う。

     

     

     

    大澤君は、何を言っているのかわからない所が腹立だしかった。一つ、悲しい思いをさせてしまったことに負い目があるが、そんなこんなで謝らなくても距離感が成り立っていた。)

     

     

     

     

     


    粘度が高いということでセメダインを想起させる手製の油絵の具だが、特筆すべき点は画質革命である。

    顔料とオイルを混ぜ合わせただけの絵の具であるから、したがって体質顔料を一切含まず、また単一顔料のみで作られているため発色が良く、彩度が高く、鮮明な色彩となる。そのため混色しても濁りにくい、ホワイト混色しても白っぽくなって狼色になりにくいのだ。

    幼生の気心に未昧(ふまい)さを思い返したのが好機となり、以後は手づくりの油絵具ばかりもちだす。しかし実のところ絵の具に対する不満を改良する昂奮などというのは書くことが発明である子供に、もの言ってもさっぱりわからないだろう。




    印刷の文化が人々の考え方や表現を変えてからは、絵の具を作ることが発明だとは誰も思わない。

    しかし昨年にこのような体質顔料を一切含まない絵具の新たな製品が世に出た。それが昨年に限定販売され理想的な油絵具の研究にして注目を浴びた、東京藝術大学&ホルベインの二社ブランド製品「油一」である。

    稀少で高価な折り紙付の「油一」(ゆいつ)と、お手頃だが目分量の調合で不安定な手製の絵の具とは比べ物にならないであろうが、
    いまのところヒビや割れ、シワなどひとつも起こっていない。乾燥が速く、定着がしっかりしているので(保障なし)、ブラック系以外はテレピンのみで大きく薄めても難なく使用できた。手製であってもそなりに、ソレに近いものが比較的簡単に作れてしまう噂のやり方を実施しているのが功をそうしているのだろう。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    フキダシを入れて漫画を作る予定

     

     

    山の者供

    2009/06/08

     

    日記・ブログ

    裏山街道の入り口は実は四箇所ある。石切り場のほうから二箇所、まったく反対側に一箇所これはすぐに行き止まり、そして三角棟の裏から一箇所である。

     

    (聞くだけで迷う)


    どの道も例外なく踏み込んだ途端に回れ右で引き返したくなる。日のあたらない鬱蒼とした藪を両脇にしてその姿は獣道となる一歩寸前。頭を枝葉の輪に突っ込み、ごそごその藪を挟む細い道は肩幅しかない。駆け上がろうにも腕に飛び出した枝が引っかかり、ではゆっくりと登ろうにも一挙一足にやはり突飛した枝葉が行く手を阻んでいる。もう一歩も足が動かない程の疲労感のなかでは、もはや登山の爽快感など微塵もなく、日陰に閉ざされた行く先にみえるのは恐怖と絶望とドラえもんのオブジェである。

    これがこの大学の裏山である。さらに「イノシシ取りの罠」とは暗喩やコピーなどではなく実際に街道に設置してあるのを見ることも触ることもできる。これは間違ってもふんずけてしまわないように迂回しなければならない。餌はどうやら米ヌカのようだ。市によっては猿に懸賞金を(1万弱)かけているところもあるが、シシなどは役所に許可をもらえば

    鬱蒼とした雰囲気で、湿気が多く、日陰でアンダーになって足元が暗い。まるで気分も暗くする魔法のようだ。しかし、この闇の魔法が功を相してか、ここでは採集できる数々の光り輝くものがあるのだ。

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  • 映画を観よう

     

     

     

    千と千尋の神隠しや、もののけ姫、ハウルの動く城などを観ている。

     

     

    どれも街と自然が共存している。ある学者が人間から出たから建物は自然だと言っていた。建物と自然が共存するイメージは、今、自分が自分の霊と闘っている姿と同じだ。

     

     

    徳の平等を感じない事には、こういった思考は無理だ。

     

     

     

    私は剣を抱いて豚を飼育するイメージをしている。イメージの為に関係ある町を自分に聞いて向かう。

     

     

     

    自分に何でも聞く私が着目したのは、生まれる前のことである。何と驚くのだが、自分が生まれる前に既に土地があることである。私は早速郷土と言うワードを持って自分の町の感覚を取り戻した。それから、感じた本題は、予想通りだったのであるが、、

     

     

     

     

     

     

     

    オタクだと言っている私の豚を飼っている、と言う世界観を考えている私はオタク。と言う身を誰にも言ったことがない。

     

     

     

    それを描くには、剣の雰囲気を形取る力がいる。もう出来ているが、差し金のような辛いものが背を引く。天に聞いたところ、私の磨き切った伝達技術による美しい背の姿が憎い、と話しかけているだけだった。伝達君と言って潔く、と告げたら、見れば、すっからかん。私の充実した感覚とは程遠い年寄りの精神は、水はねとすっからかんの言葉の意味と取り替えて、若さを取り戻してほしい。そう告げると笑った。私は空を眺めて、これが、山椒を噛む渋さだと発見する気持ちはどんな感動だろうか、そんな事で私の日々は完全に埋まっている。

     

    あるものだけを使ったほうが、想像が固まり吸い付く様に広がって行く。もっと考えれる人間になって欲しい。

     

     

     

     

     

     

    宮崎駿監督は、私は漫画の方も読んでいたが、自ら蓄積された詩感によって感じ取っているものを見せて貰っているような、

     

     

     

    「作品」というのはたまたまで、もっと続きがあることの様子にたいして伸びてくる夢みたいな葉が、定義を起こさず自分にはない印象が「家の人」を感じさせる。作品という緊張感を持って建てられた自分自身にはまだはっきり見えない、遠くに佇む家、

     

     

    アニメーションはどれもそうな気がする、近づいてみなければ近づけない。

     

     

     

     

     

    その輪郭がどこからやって来たのか、考えれば考える程わからなくなる。

     

     

     

     

     

    動物になるには自分以上を踏み込めないように、線は切り込まれ、似るということを諦めない。自意識にたいしてまるでパンクかと思う人もいるが、こう軽く飾っても良いが、しっかり設置した上でも飛ぶことが出来た。何でもない顔の感動が、形として正体をつきとめられ、とある瞬間が自分自身のモダニズムを壊すように黙って降り積もった雪。アニメの圧迫とはこういった見たままの感覚と、大きな目が合っているからだ。生まれた時から光を見ていた、と考えられる。光には目がない、と言っていた大澤君。その輪郭がどこからやって来たのか、長いこと考えるのは良い。

     

     

     

     

    私は、要るか要らないかを研いでいる。結果的に彫刻になっている最中、この最中が映るわけが知りたい。

     

     

    それが出来るまで、こうしろと言われた前に、こう思う自分を許せるか否かを考えている。「鉄の“ような”もの(なまり)」が、人工的な想像もするが、自然とするのは、作ること自体霊だからだ。故に避けるという動きが想像に加えられている。向かいたいのにこれでは、自分でプレスしなければいけない。自分の怠惰を笑い飛ばすようなイメージで言葉の練習から始めた「詩・メッセージ・詩」も、どこかに同人はいるようで、大事と思われる前は、取って付けた枠を守るというテーマについて行けず妄想の方が自分には面白く相まってそのまま乗せるとえらいどやされた。形をそのままに独自に所得したワーズに癒やされて何とかしていたら、成長している。

     

     

     

    私の町は「台所」と言い、鉛を、頭に置く様に修行した人もいるし、そういったディテールを持たず、自分に何もないと感じるが、感じれば感じるほど、幸福を感じている。こういった想像の後に自分を透かすように開眼出来る。

     

     

     

     

     

     

    今のこういう、新しい時に新今宮の新世界を見ると映えている。その土地はもとはどういった性格なのか、今やってることや、しなければいけないことに必ず応援してくれる。古地図だ郷土史だ、と物を学べるも良いが、何か、良いな、という感性が、物事のバランスと噛み合っているのを手放していない。何かしたといくら言われても、していないからしていない、やってるやってないのこういったが争いが続いたって答えるくらいならマシ。こういった絶望が不必要なので、無視をしているうち、無視の強さに関心をもった心霊なので、有名な心霊現象となったのだろう。逃避したり流すのが礼儀だと思う。

     

    何も持っていない、こういった感覚の親しい人は多く、大陸に出世している。

     

     

     

    立ちはだかる林のように、いくつかの暗い心を、思い通りにすべく、

    その時見た仏像に恥ずかしさを感じていた。

    巨大なキャンパスを固形の美しい鉛の代わりに取り出した。

     

     

    芸術とか大きなものなら、人としての緊張感の中で詰めた方が良いし、絵とか小さなもので良いと言う人は一人でも良いものを描くだろう。

     

    無茶に愛用を勧めている。無理には言えない。

     

    今、思うと持っている着物の接続器となるその広さではないか。

     

    そういった意味で、輝きを自慢出来なかった。私は、絵の苦手な人は何か悪いことのあったせいがあると、原因結果だけの板みたいにいうが、当たったらすまぬ。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    そら

    2009/05/30

     

    日記・ブログ

    制作のための撮影と趣味の撮影がごちゃごちゃにアップ。
    こっちは趣味。

     

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