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2024/04/09
勉強は出来ても、好きなことを思い出せないから言葉が続かない、という人が多いそう
地続き、という言葉がある
地がつながってるからじいちゃんにはまご
まごにお経を教えることにしよう
ここではしかし、先に砕いていかなあかん、固まった問題をこそあり
それに取り組む、いつものうちに
一緒に、それを見たそれから
向かうのはそれから
じいちゃんは放任
アッテル刑務士、刑務所を見に来る。同じように見に来ている人を捉えた、捕まってる人に紛れている。
自分にないものを聞くことだ。
古いとこは哲学が長い、ひっぱくと案の定とくいができない
水星、は灰色でも、火や鉄のある地球ってなんだろう
アクリョウの、本当にわるいヒトのほかに人の良い悪いがあって、とくいのフォルムがゆかず滑りすぎる
人が良いから良い角が砕けて
本当にわるいヒトの示しがつかない
→表示がつかない
三メートルの脚立と、奉献の石の灯籠が平行に倒れていた
じいちゃんが育てる
育てる
自分だけ「なにもない」など自己のただの特訓を今することはてきさない
迷惑をかけない、軸に戻る
宗教の条件はある程度古いこと、宗まってるから今後ない
自分が動かさなくてよい、となる。
よさは、
南の島、宝と法律、極妙なことや、微々たる妙、花、れんげ、草、鏡を見よう!
柔らかい考えを日蓮にヒントを貰った
これが木だと言える
行動しなきゃだめだ、行く、
自分は人数が持てる、でも自分にはおかしい直感
理屈を言うばかり
自然が良い、人の関係を無視するよそ様が勧めれない
食ってばっかり
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2024/04/07
内側から美しくなりたいとそう思ったことがある。
「抜け駆け」が暗号だそうだ。
70階か80階に素で登る。一回り前の世代では、わるいことをしたらタイヤを持って運動場100周回ったものだ。
「気」を持ち抱えれる重力とは、こんなもの。
いつでも好きな時にテレビを離れる。こんなにテレビが好きだったんだの感動や、
つまり、自在にテレビを離れることが出来てから、やっと好きな時にテレビを付けることが出来るかもしれない。
魂は一つでも、物や国や考え方を持つとぶつかりを避けて離れてしまう。
必ず律儀に聞くような所で、良いものを封じたり、駄目にするのが真田幸村(蟲ー)私の近くにいて戦時のその時代の昔の霊が捜査に身を光らせていた。
長野の眞田神社は、その前にあった。
要は、江戸時代を構築するために戦乱の時代があるのだが、終わりとなる頃「我こそが真田幸村じゃー!」と叫びながら、戦の陣を馬で走る侍が多数いたと伝えられている。この意味が今に通じるのである!!
四天王寺近くにある。アッテル霊の学校だそうだ。四天王寺は戦時の仏が住んでいる、奥のほうに難しい漢字でアッテル神を祀っているのを歩いて見かけた。
美しい「あかん」の像。忘れやすいことが覚えられ、じっと考えることも出来る。ボケにくい。街にいくつも発見できる。
ゴールデンカムイを読んで戦時を考える。四天王寺の仏像を見に行く。字をひらがなで光るまま自由に読む。拝む為に。自分は自分には何を受けても良い。若し、大陸や大地、そういった天地の合瀬がある。もっと情を交わしたかったが、一回では無理だ。命は一回だ。
日中、朝が来る、靄のあるときもある、こんな朝は何回でわかるように変わらないことだ、靄は変わる。こんな朝は日時によって時間は短いが、何だか叶う。全ての経験を愛していると、だれでも松のような醜美のある緑の葉がふさふさ生えるのがわかる。
綺麗に言えないけど「そこにいる君も、方法で自意識から逃れて身を保って欲しい」太閤から仰せ司っている。
思いきって書くと、「醜さ」という吹き出しのようにして体回りを囁かれている。飛び込もうとするが家族に引き留められる。気付かなければいけない神がいる。アメノウズメだ。松も梅も、もうメタなのだ。かなしいが悲しい過ぎておかしい。お釈迦様という存在は、何らかの理由で道から逸れない。愛し続ける、という年数が高い。美しさという言葉と私は同じようにする、「醜さ」とは何度も解ろうとした自分の美しさにたいするスピリチュアルメッセージだったのだ。
持ってる神が違うとは、やはり自分が地上の存在で、土地なりに育つ命があると、形も持つ。自分より上手く光としてもっと長いなら星のように掴めない筈。
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2024/04/02
如何にも私だ。
私は啓蒙する。
菩薩が道の扉を開いた時現れる。
「私は、あなたを認める!」
仏を誰だか知っている。
「人間じゃない」仏性はこの
人の驚きか、
人には珍しい悪事か、
どちらであるのだ
仏さん、
苦しみの中で、悪いことに時間をかけた。
苦しみの中で、十分に間に合った。
仏に、あの時、そばにいて下さいと言うには、構造的と言い自他のない一条を取り「自分としては」あなたを願っただろうか。動かない身は重いのに、動いたら、方針を換えた。念の美しい古い神が、「クズヤ」とある人を押さえた。神はあれよあれよと妖怪になりこう言った、あなたは喜界島に流刑された人、俊寛は俊寛を気取らない。角の豊かな大鹿が、神に「噂に注意。」と言った。
神は霊も持ってる、光も持ってる。「福岡から鬼界島に行った。ヌボクじゃない。昔の発音を教えて貰い、確かに声は大変。」と話した。美しい発音にたいして美しい言葉があり、大変だと思うほどの発音が、固まってなかったら自然と発声をやめる。声の形を知ってるから、直感で喋ることばは伝達に合わないとわかった。
「誰でもなくなった私」は、昨日のことも忘れる。歩いてもどこに行くかは心配だった。私はこうだと楯突く暇もない。絶望して、どんなとこでも流れていく気合いは満点だった。それを木にして目印におすすみ、と、やさしくする人もいたが、依怙贔屓の有名なその影を抱えていた。その民話をもっと聞くには、もっと高い年齢の人と話す。物静かな世代の反復横飛びをルーティンする。「誰でもなくなった私」は、願えないから。自分だけで何かして行く孤独の、輪郭を黒い線で引けるが、暫くはコロスやウメルの二次創作の白っぽいグレーしかなかった。「いつでも客観性を持ちたい」といっていた。黒は、私がそう思うことに近づけた頃書けるようになった。私の技は磨きにとうとう神がかり、人の一人の生活には幾つも神を持つと解る。
人を超えるなら人である、前提条件を忘れず法則、つまり法を学ぶ。前提条件、このくるしみから間逃れない。だから、必ず人である。仏に、あなたは人だと対決しかかって嫌われることは、そこあるのは前にある年齢関係と、
直したい、だから直す。それは食べたいから食べる一区切りとちがって、間を持つから人間という。仏に物質が反映をしない。反映させる力が自分にあっただろうか。感情はともかく、理性的に人が人との塊と、何か自分の方法を知りたい、どちらかの「気持ち」があって、心から介入して制限されるとは思ってないから変なところがありそう思うことがあった。その都度、知ってしまったら理解する。この間に自分一人の一人修行に打ち込む人は多い。人は祈りに気付ける。たとえ少数がイコール弱さと結び付かない。初めに理通しが行き渡るからだ。それに代わって力の量を試し、人を口にするからには法に区切られる。捕まえられたと思ったら抜けて次の瞬間は楽にしている私は区切られていないと何もないところで読む。本来、本来の私の知っていることから傍に寄り添い尋ねていてくれていた仏へこうして返事が遅れた。他人はそれを見抜けずその為に知らない、それくらいは許せる人でないといけない。リアルに見れば霊界であると、心の中はその他者にたいしては、親しくても親しくなくてもたずさわる筈のない感情なのに、おかしいな。解って整えて目も澄んでる。蟲ーに、理解を止められていた。ここから理解すべきことが明るくなるだろうか。
被害から、偶然、水を分けることとなった。難解なことであるが、蟲ーがこうした、ああした等と、わぁ~と、神に聞いてもらえば、いかが。スサノオ、かるたのようにス、サ、ノ、オと唱えてくれることを忘れてるから自分が古くなってる、と例えばそう言いここでわかる実体のキーワードは「面倒くさい」だ。を、仰った。それと、悪いことを笑いに変えて物事を展開し、進みに役立てる。
その様子は歌という字にそっくり、
なのだ。
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2024/04/02
無意味と意味がない、二つが違って詩が出来るように私は教えれるような人間じゃない、と自分を言っている。物事を否定せずにいて「才」がわかった。うたっていたら思いもよらぬ人の長所がわかった。それにたいして、教えることの出来る「先生」はいるけどそうこうしてる間に先生と出会えなくなる。父も母もどこにでも「親」はいる。やる気と物事にたいする熱量が見てわかるから、自分のことをその歩幅で○✕することを遮らない。親を選べない、こんな親が良いと選べない。純粋に集中して自分でして行くことから、自分が受け止めて感性を成長させることから、役回りともしない人対人の形に、対人の可能性や希望を上手く残している、と知る。信頼だけで進む歳かどうかを考える。それで、どんな夢を残したのか。こういう者ならこういう風が吹く、今「文」を書けて、そこにいるのが親だとわかる。自分にできることを悩んで考えているからだ。こうしたらこうなるという説明のままでまごつくのは、詩を作ることを考えるから、説明なら楽しさを作らせることが出来ないのだ。絞った自分の態度から、そこで解ることがたとえ少量でも価値がある。記録の法(方法)ががるなら、本当に「記」と言う値なのかが大事だ、そう言えることだ。そこで分割される。気にせず「基」に戻る。精神的筋肉が成長する音が、粉を抱くようにミシリミシリと聴こえるだろう。フォーメーション、姿勢が正しくなる。誰しも受け入れる物の最初があるから、嫌でも存在するまま夢や発達と自分に耐えるこの、時間の井戸に水を引く心や運び汲む。まるで呪文のような紅や魔法。日頃の研磨として「霊界」の壇上が仏で、物質かくにんの上が神界だ。親の話しのとき、相関性のそのイメージが不必要に崩れないから親とし、親は自分の必要を唱える瞬間を磨く。
自分もないのに他人を許せないの一点を買い求め、終了するからは、単にわるい評ばんとして生活から取り省く。良いこととわるいこと、こうした「天部」故に、この分別が大きくなると善悪(カミ)を紐解くパスキーが作れる。
ここでわかったのは、文学で見た「神の裁き」の語は一語として副詞がなく実際に有るという。。
先生は、気にしないことを気にしないと言えるから、信頼という字が漢字なのだ。
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