揶白 (KF)

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    Works 43
  • こういった延長にしか流れない時間

    90年から平成の悪い出来事は、惑星地球じたいが端のほうに旅し、

     

     

    地球儀の複雑な回転方法を見てたらイメージがつくが、

     

     

     

    自分的には、それなりに険しさを感じ取り、成長していると実感している。

     

     

    高差は地によってあるが、もっとわからない時間が高度な流れ方をしていて、険しさを心に締まえている。

     

     

     

     

    険しさをリアルだとして、リアルに感じていたらコアに行って終わりだと思う。

     

     

     

     

    若い時は、リアルを求めたけど、

    飲み屋で上司と話したり、友達と無言の会話をしたりする方が、恋愛に遭遇したりする方がずっとリアルだった。何故なら自分が死ぬと言う端を取れず、てんで年寄ってこう鈍くなった矢先に、背中をかいてくれとやって来る。

     

    人と泣けるより、自分の為だけに流す汚い涙や、死ぬことや、生死をかけた何かが、リアルなんじゃなくて、自分が死ぬという端を取ったことにエッジがある。

     

    大阪人の、「あなた、滑っている。」というサムイという語源だ。目が黒い。

     

     

     

     

    悲しいことがあって、

     

    またか、とテレビを口開けて見て思うのか、

     

     

     

    生まれた時から、平成からの今のこの時を、時間を生き抜いた自分から考えるのか、

     

     

    「学ばせて貰っている」と、いう真の意味はどこだろうか?

     

     

     

     

    ほっときゃいいのに私を押しどかして、私の先祖に話しかけるひとがいる。

     

     

    それを許さないのが守護神の先祖であるところだ。

     

     

    むしろ、「教え」てやろうなど言う人はおらず、全否定だと察し解るだろうか?

     

    魂が、仏の教えなど出来ないからだ。高差があっても魂が人霊にたいして、浮遊霊がそのナニカとする私が説明書になる為には、相手も仏でないと通らない!「私のことを説明してくれる」物は、手頃に求めに街に歩くことが規定となるだろう。私はそいつの後も先も知らない。

    湧かない、と言う説明の必要な守護もある。

     

     

    物を食えば確実にへり、確実にそっぽを向かれていた知れぬ時間がゆるりと流れる。

     

     

     

     

     

    そんな悪いことを毎日しているから、自分の肉体から追い出されて浮いて、案の定、まぁまぁ高所にやってくる。自分の先祖から追い出されたひと、つまり蟲だ。

     

     

    上は皆同じだ。

     

     

     

    (守護霊、色んな言葉があるが、自分でしっくり来る言葉を使う。)

     

     

     

     

     

    チャップリンみたいな、格好のひとが、

    何故か陽気なふりを無理にして、近づいてぶつかってくる。そして消える。

     

    「風船持って早く帰って。」と友達に言われていた。

     

     

     

     

     

     

    昔から蟲にまみれていて、見えるようになったがそのまま大きくなり顔のしっかり出て来た私は、自分自身の理解度も上がって蟲と混同される昔の頃とは別人だろう。

     

    人霊は他者への理解を求めていて、強い気持ちで肉体から浮いて来ている。こういった「もの」は、一生ほっといても良いから、因果や物事の定まりが理解出来る。自分が在れば「もの」は有っても問題ないからだ。

     

     

     

     

    周りが無理だったら、よそなんてもっと理解しないと思う。惑星の自転から遠のかれて振り落とされている様子だと私は「見て」、

     

     

    恥じらう気持ちなどがわかったら、忍耐強く目を覚ましてあげている。

     

     

     

    自分とこに理解されろよ、と思った。

     

     

     

     

     

     

    除霊も色んな方法がある。嬉しい気持ちとして「除霊されてんけど」と、言う煙のお便りがある。

     

     

     

     

     

    強度がめっきり吊り合いが取れていないのに、

     

     

     

    置いた石など、

     

     

     

    何でこんなとこにあるのだろう、私は怪我した。と、言ったら、

     

     

     

     

    何もかもをみようとしている、わるいやつを気配した。

     

     

     

    古代人にがっちり睨まれたと思う。

     

     

     

     

     

    自尊心はあるのですか?

     

     

     

    と、質問し出したそこに男がいて、

     

     

     

     

     

     

    私が、あなたがそれがわかったら見てくれる人です、と答えた。

     

     

     

     

    近くに一歩をさすように石ころが積まれていた。

     

     

     

     

     

    思い出したが、私は誰なんだろう、という哲学系で、

     

     

    友達が、いくら考えて言葉で理解しても仕方がない、

     

    悩みは解決しない、と言った。私は、

     

    悩んでいること前提で、それを初めて哲学や思想と言い言葉自体がそれから纏まりを避けていて凄い、

     

    浮遊霊に、辞書のようにいても、肉体から浮いた以上人間以外の全てを見ているのだ、お前はキメラだ立ち去れ、なる言葉を言えた。

     

     

    叫んだあとは、浮いたわけも知らないが、怒ってますよをどうにか説明し、帰りを説得する。

     

    よって、自分が何者かの美顔器具であっても悩みさえあれば平気だった。

     

     

     

    木、とはまず観察したら形としては、二千年以上生えた縄文杉などでない限り中途半端だ。何を完成させようともせず静かだ。私は自然が好きだからこうで良い、バツグンだと、これを理解してほしいのは、理由がきっと知ってて解るだろう。

     

     

     

    木と話すのに、自分で、好ましく、ふさわしく、文脈を取ってみるのは、効果がある。心が視覚化して正常になる。

     

     

    心が綺麗、心が汚いと、言うが、心はもっと生で、自分があらわす透明なこの概念や、想像が、形として取ってみせれるかどうかだ。

    出来るか否かが問われるなら、やってみる。

     

     

     

    ニコリ。

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  • 神のようなトモダチ

    世界に自分のような人や、私を見てくれている人が、もしいて、

     

     

     

    立体生活上では、自分たちと

    「重なったり、離れたりする」らしい

     

     

    そんな人を想像したところ、

    色んな違いを感じ取ってみて察するに、「それ」が、人間なんだとわかった時の気持ち、が不思議だ。

     

     

    運命と思い走っていく経験も大切で、

     

    意識が死んでるのか、誤魔化されているのか、心理的なものか、こういった気力がない。

     

     

     

    食い違ってても、偶然を含んだ運命を受け入れて歩んでいるだろう。

     

     

     

     

    こうなるときは、強い無関心的な関係を感じ取って、すかさず、それでも大切に「今」を選ぶ。

     

     

     

    向こうから私から感じ取れる気持ちにたいして何を言っても、ちゃんとハズれているらしい。

     

     

     

     

    近づけば大事に持つ厚みが、それぞれにあって、近づけない。

     

    私は私に集中する。

     

     

     

     

     

     

     

    こういった積み重ねが、基本と前にしているテーマからも逸れず、希望を大切にしたままある。

     

     

     

     

    あなたは、自分を教えた人に心置きなく関心せよ。

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  • 必要と不必要

    昔のひと、を想像しても、影も声も想像出来ない。

     

     

     

     

     

    仲の良い霊はある。

     

     

     

    ご先祖でも、別の守護霊でも関係ないと思う。

     

     

    そういう格調にたいしては名詞がないから。

     

     

    上にいるかたはみんなそう。

     

    その中にすっぽりはまっていくら形を考えても、考えても、それは単なる自分なりで現実にないのだからないのだと思う。

     

     

     

     

     

    血は形の感謝のかの字ではない。ワタシがいたからあなたがいることが出来る、こう話される口説き文句で、

     

    先祖、守護神、私、これらは関係とは関係がない。

     

     

     

     

     

     

     

    ただ「あなた様」が「あなた様」を見たいならどうかご覧になれますように。と私は和解する。

     

     

     

     

    こうする。

     

     

    私には理由がないからケンカしてもわざと自分から分けたりしない(出来ない)

     

     

    思うほど、当然あなたを思って早くアレコレを前に出さなと焦っていた。

     

     

     

    私がいるそこには「ダレ?」かがいて、

    自分を認識してもらえない、ことがショックなんじゃない。視界上、わかってもらえそうにない絶望のような

    わかってもらえる術がない(この時間)、たいして霊でもなく、肉体やお供えもの、これら他人を盗むを、「もの」という。それと自分とを別に思わないことであまり考えにくい。

     

    見ている者として言うに、おそなえものを、売った、売らないは、それがわりかし偶然じゃない。

     

    おそなえものなどは、私は売ってないから、こういった精神の限りで、普通に売る売らないの考えも「もの」でなくなる。しなかった、売っていない、ということの結果が、大切な場でしかこれまた現れない。

     

     

     

    こんな後に物事出てきても、ガクッとするだけで気を張り上げ、天の良いことを少し知っててそれと、話の訓練で前後の確実、その意識や。怒りたいけど怒れないのとも違い、怒るはしだてがなく理由が事前にあって怒れない。のは、怒りたいけど怒れないかな。

     

     

     

    私は狭い思いは気にならない、お家があるから。細さは気を使うので、今は下を向く(お頭を下げる、神覚えが今はアツイ)。

     

     

     

    確かにある時離されたことが、導きの証拠であったけど、

     

     

     

    教えることは静かに纏めてから。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分を見上げるために、平行に移り、暴行を繰り返したは、犯罪だ。

     

     

    自分を見上げるために、ダレにたいしても躾をすることは、同じように平行に移ろうとしていて、似ているから近い。

     

     

    正義感ではなく、前がない。私は追わない。

     

     

     

    こんなものの下にたまに私はいる。用意がないから通過しない、霊に話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから

    (明け放せない)ただの心。

    確信するために私は理由を色々握ってたてるけど

    見渡さないものの中で、私は私だけを見渡して、こんくらいあれば、心を描いてる、心で生きてる、事となるだろう。

     

     

     

    とがとになってとと言ってる。

     

     

     

    こう感動し合うとか、疎遠でも時空が合う。

     

     

     

     

     

     

     

    どうしても重要にならない「もの」

     

     

    私の前で私より小さい形になってる。

     

    私に浮かんでいるそれは、

    こんな空心を一切もっていないやつたち

    ただ者ではない、

    判るほど毎日怒っている。

     

     

     

     

     

    しかし、昔から気になっていたもの憑きの、ものの正体がわかって、

     

    非常に興奮している。

     

     

     

     

    そいつの足跡に構えなくなるくらい理論は成立しているが、悲しみは忘れられないくらい情がある、昔はこんな執念じみるより読み手ともなり愛想を嗜み、今は本をたっぷり読めていて、「せつない」「かなしい」とか感性を肥やすうちに何に向かわなくとも自然に覚えていられることをよく知ってる。

    辛いことを噛み砕けなかったから、毎回忘れて雲にいる過渡期、思ってくれてありがとうございます。それでいてもいつも巡っていた。

     

     

     

     

    街歌舞伎、暗転の思考がある。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    用意がないから通過しない、話しかけるのが想像や記憶を頼りにするから、

     

     

    怒りたくても黙ってるときは、自分が希望した人間性を破るからだ。

    我慢だけなら我慢でいいし、

     

    恵まれが自分にあるなら一心かけなあかん、

    この責任しか考えなくていい。

     

    細かい事であるなら、責任は自分に向かうからこの言葉があるし、つよさに任せるなら当然、責任感とは別れを生じさせる。

    私は、上でもなく下でもない一心に置いて

     

     

     

    身ごと老廃物を追い出し自らの栄養とは分離を叶える。

     

    後はもう、自転する善に任せるだろう。

     

     

     

     

    私が、後ろに下がっているのは

    「誰か」にどかされたんじゃなく、今の修行テーマ「蟲」(ははがた)(ははがたは木のほう、ちちがたは道のほう)

    によっては、必ずこうだ。

     

    (必要ないとも思われた少名彦)

     

    それと、その蟲の存在がわかって間もないから。

     

     

    気になってる人が実は多いと思う、流れを扱う神仏がある、

     

     

    従い、これに使われる人を「巫覡(ふげき)」という。日頃の勉強によって、犯すものが自分を利用出来ないのが、文脈としてわかる。責める相手を、優しそうな私にする身では次元を生まず。「あの子」に言った方が勇気が湧く。

     

     

     

    私は世に暮らすを言う、

    私は、普通じゃないに決まってる。視線をまず気にしてはいけない。気配のみ、それを感じてこれだけで生きる。それが太くなった。気持ちをいづれからも隠し、恥じりもなく、花風思う変わらない姿勢を達成する。ではまず、目を考えるとき、地がどこに位置しているかを、一度見たら離さない。

     

     

     

     

    先が曇りだが、天であるし、

    この、前が曇りの私の状態でも歴史には重苦しい時代もあったと思う。今がそれでも、喜ばしいことには変わらない。

     

     

     

     

    時代に遭遇出来たことが嬉しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    気になるのは、

     

    こんなんがありますよ、こんなカガクと、注意や心配があります。と、おう見てやるよ、と気軽に答えているひとが、いるとして、

     

     

    私はその時そのひとに必ず発生している心の影りと、相手は、本当に気軽なのか?ということの心配だ。お金で済んだらいいけど、人にかかってきたら、

     

    そういう歌劇があって、それをみたから黒い化粧をしたくあって、計算もある、

     

     

     

    もしそうなら、低俗として、私からは土着や命といった責任からは、果てしなく追い出すことが出来る。

     

     

     

     

    カガクの自慢。この間に、こういった暗いややこしいことから声をかけられた人にもまた沈黙という言葉と言語があって、土着していることには私と変わらない和とテイシキがある。心は、感情を確かに含めて揺れてるしかないから。私はこうしっかりと俯瞰した先で人としての自他の変わり、ポスト構造主義を唱えられる。

     

     

    いずれにしろ、その人にある「他者」の存在が、妄念か空想かさらに想像か、人なんて、自分のように存在したものじゃないだろう。全てを包み込む人がいたら、神をとらえることが出来ないのだと知った現実をもっと旅して歩いてやるのだ。そういう人が本当にいた事の伝説を崇拝し、継承するには、自分の力を専念する事だ。影になり影としてより覚えたら、

     

     

    自分にある懐疑も晴れる。

     

     

     

    最後に、上から見聞した理由がただ喋りたかった、じゃ人としてでは気安く遅いのだ。成長出来るだろうか?

     

     

     

     

    自分が何をしてるかもわからない。

    自分がどこにいるかも知らない。

    知らないから何をしてもいい。

     

     

     

    立ち入るのなら、いわんや面があり、

     

     

    自分に解らないところにはそれくらい難解な強い世界がある。

     

     

     

     

    よって、明らかに「表」である。

     

     

     

     

     

     

     

     

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