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2024/09/27
物体とはこれを触る手の以上「もの」にならず、物には奥行きがある。それは重く、目、手、肉体、心、である。大切にしなければいけない。だからものは「見ない」。
ものをするとは、魂を売ることであり、ものから物化するなら何ともま逃れるだろう。
もの→物へ昇華、これを物化と言う。これを繰り返し目の前のことが能わってる自覚を高める。こうしたくて下手な言葉を沢山練習してる。妄そうから想像への移行、昔、蟲ーで落としたものをもう一度温めている。
聞き流したり対象がいるとして何かしようとせず、自覚した人が当たらないとわかる。自分で拓いていく物なのである。自分だから誰も知れないし、すぐに必要な時間を感じている。何とか客観化したり、考えたりする。
お侍の大霊はそのプロ。
いつも色んな感情で生きていることと、自分の心は存在すること。この仕組みもも新しい道開きである。
一瞬を捉える心の中の心は仏である。その言葉はその「もの」の最大の形を現す。実際はちょっと説明が長い。
やくざ、と聞いたら名前があってそれを看板と言ったりする。
何かを守るには知恵が要り、知恵の意識として前線に立つから翳る。
極道と、日本にはあったが、古いそれは「あれがヤクザだ」と言う人だったと言う。
人自体に慣れると、痛みや痛さがわかるから多少とか程を知り、結果的な痛みがないことを解り、
開かなかった心の口とは、痛そうで痛くないや一日三日ですぐ治せるキズなど、
迷妄の中で、
これを何年にも引き伸ばすことの酔い覚ましをしたい。
こう、はっきりと元気にいて、これがダイレクトメールであるという古い言語を知る。
らしさとは、いつも通り。
いつも通り、その中に何がある?
引っ掛かることしか出来ない、それをしたことがない、いつも通りの中(こころ)だったらいいけどね。
面白いポーズ、は太鼓であって、あくまで波長を整える。
愛する美と、体質的美、体的美、精神的美、求めることの美。
清貧な修行が続く。
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2024/09/27
美が後天的で、思い出を覗いてそう見ても、子供の時はそう思って見ていなかった。
フランス人の蟲ーは、よそから来た海賊でその間、体的な美といっても違うものがないと比較がないが体的に伸ばすことが、ごっつい体、長所を動かすことが人は出来た。
日本人は体的な美は考えなかった。精神的な美を追求していた。
アメリカは工業や店としてどちらも入り組んでいてらしい。
アッテルは何なんだ、と聞かれ、それが高揚し上から仕切る気持ちで、定常を使って「仕切るな」を言うとわかるが、手の甲をこちらに向ける韻(いん)を思い浮かべた。
目に穴があいたわけではなく、精神にあいた穴だから精神的に養う、鍛える。目の穴を発見して、精神には穴がない。言い方がある。
人の怒り、線引きをするところは決まって同じ箇所であった。
あっちのものこっちのもの、精神はそう言う位ではない。ものや
肉体なら、俺はこう磨いて行くんやと精神に認識を持つと良いが、ものを置きっぱなしにいていると、
心の中とは心から派生したもの、二次的にうまれたものなので、
心の中とは下にあり、心とは考えのことで、心はもっと上部にある。
心は開かず、心の中とは仏界である。
心の中は、清潔にはできない。
じゃあ、どこで生きるんだ、どこに逃げるんだ、というと心で生きるということである。
文学家は「みにくい」といおうとしたが未だおおきなことばの為断念した。
心は霊で、水自体のように抵抗ある現実に体や精神や心がないと、縮小される。磨けない。
大人の言葉と、霊らしさ、心の中とは、
仏界だったのだ。
躾は、友達や親や学校。壇上に上る前に完璧にしておく事。だから躾は絶対にない。
らしさが美で、拓いていくこと。
らしさが霊で、即ち心から生きる。
感情はなんぼでもある、ということである。
心の中にものをおかないよう、「爾時」心の中の物体に触れないよう、限界の中に気付いて、落ち着いたら注意をしよう。
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