揶白 (KF)

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  • 本間の言葉

    トキオ、と語りかける

     

     

     

     

    「キモオタデブなの?」

     

     

     

     

    こう小石のように見て、「そんなことで怒ることがわからない」

     

     

     

     

    同じ言葉を言ったとき、

     

     

     

    そう言われた友達は何か言ったら忘れている

     

     

     

     

    ここから来た

     

     

     

    「私」の背後は、鍛錬にかけて本当に凛々しい人がいたのだった

     

     

     

     

    剣を手に持つ虚空蔵を、模写してみました。

     

     

     

     

     

     

     

     

    「トキオ」

     

     

     

     

    「キモオタデブなの?」

     

     

     

     

     

     

     

    自分の少し当たったことで凄く嫌な顔をされるのを、

     

     

    「こんなことで怒るなんてわからない」と言う

     

    「自分が自分に」

     

    行為にたいする大きさが認められて、

     

     

    行為にたいする自分へのやさしさがあって、

     

     

    それを責任といって、

     

     

    自分に立ち向かう唯一の中に、許されていることがある

     

     

    それがすご〜く大きなことなの

     

     

     

    菩薩、告ぐ

     

     

     


    1000本の蟲ー、混濁した時の最中であった。その練習量は仏のものであった。ありがとうとも言えない沈黙にたいして「言葉」が続くその可能し出会いはむほんでなければ。

     

     

     

    これと仕事量のどちらが厳しいか、仏の修行をこの子にあんなに間髪なくさせる時空をあなたが作ってしまったの

     

    それを許せるのか?

     

     

     

     

    除霊という対人の手を解くことが、物凄いテコと想像が要るのだと知る

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 手にする運命

    藪に紛れるという道の最中、

     

     

     

    どうにか自我を知り、

     

     

     

     

    間にある漫画本を手にして夢だと言い張る

     

     

     

     

    吐き出しそうにはみ出る自意識には「欲しいもの」をくっつける

     

     

     

     

     

     

    道士とする、

     

     

     

     

    この姿勢とは日本人にぴったりである。

     

     

     

     

     

    1000本の蟲ー、混濁した時の最中であった。その練習量は仏様のものであった。ありがとうとも言えない沈黙にたいして「言葉」が続くその可能し出会いはむほんでなければ。

     

     

     

     

    めちゃくちゃ厳しい顔をする剣士より、憲法は

     

     

     

     

    ん、と言って、言葉は

     

     

     

    軽さや優しさのことを、字のように語ることは出来ない。

     

     

    理解することの出来る、

     

     

    古文の紐解きである。 

     

     

     

     

     


     

     

     

    心は豊かで、心からは心の中が内側に行くことも外側に行くことも承認されないといけない、つまり、差異(Sun,Sai)は既に分けていて、話し言葉と書き言葉は違うとか思う通りを自分に合わせて言葉化すれば、轍が浮かぶ。すこすこ歩きやすいのである。

     

     

     

     

     

     

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  • この黒い目は

     

     

     

    夜、音楽イベントのキャッシャーのバイトをするとわかるが、

     

     

     

    住宅街で人がいるからと大声で話したり、空缶を放置するとか、人にたいして「静かにして下さい」という店員のこの気持ちは、あんまり気付かれないことをわたしは知っている。本当に渋く苦しい。ここから、私は大黒天と繋がったような気がする。

     

     

     

    こういった、何か一人でみて感じて想像できる人物像の限りとは自分そのもので、

     

     

     

    よそに絵で見る、ひとりを、

     

     

     

    考えたこともないひと、を考えたこともない

     

     

    から、

     

     

     

    想像をする、しらない現実を埋めるのに手間かかった。

     

     

    要は、同じ量でも

     

     

     

    選び抜いた苦しさを持てないから、苦しがるうちに明るみで疎まれる。

     

     

     

     

    よその、もう自分は出たひとの苦しみなんて汚いから後で全部手間かけて洗ってる。

     

     

    ひとりではないという考えが命を繋いで、たとえ壁が多くても超えれる。壁は壁で。ひとりにする、ひとりにされる、妄想してもいま、そういう心で対象とも必ずしていないひとの客観的な問とはお化けのようで、主体性を持っていないから問題であり、だらしなさとは、目が行かず、自分には何も無い遠くを見過ぎるから近辺が小さく見え、何も無い有るを自分に遠慮するから感情を知れずそれは普遍だのに、目を瞑る郷は郷に従うごとく仏の模倣や、ひとりではなく一人だという強い手摺や、

     

     

     

    起こってることと、起こってないことが

     

     

     

     

     

    判らないから、

     

     

     

     

    どんな霊? よりもどんな人?を問えないから人動物が大前提の霊を言えない、話しかけるには汚しすぎて遅れるうちに世の波が現れて消える。

     

     

    意識的な問いかけがないから、

     

    神が出ない。

     

     

     

     

     

     

    そいつを一番楽しそうに遊ばせるから、物もないし肉体も守れない。

     

     

     

     

     

    人がパーソナルスペースの守り方がわからない。

     

     

     

     

     

    こう誰かの…賄いはあっても、もっと目出度いことを想像する。

     

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  • 裁判しない理由

     

     

     

     

    仕事に行くとき、体が重くて

     

     

    派遣なら尚更迷ってしまう

     

     

     

    普通の人は、何か見えてるから向かえるのだ。

     

     

     

    川岸に住んでいると、感情が普通に厚くなり

     

    朝、体が重く、何も見えないとき。

     

     

     

     

     

    この何も見えないヒトが心の中にいる、を見るうちで、

     

     

     

     

     

    少なくともこの苦しみの中で何か見る、その抵抗が宝であり、

     

     

     

     

    心の中から、心の奥底から、完全に追い出す為の日々は際限ない。

     

     

     

     

    全くその者が、自分に「いない」ところとは、色々考え客体化を成すには、湧ける感情を自身とし味方にすることである。

     

     

     

     

     

    ちなみに土地霊の知識や、感情認識があると、自浄作用に進化して強くなる。感情が悪いとか気が綺麗だから使うとかでこれみんな使わなかった。激怒だった。ハナシの前、高僧が銀のクリームコンパクトをポケットから落としてた。「あっ」と言いハナシを聞くと知識分解しすぎた高族の末路かな、と思ったが自分だった。

     

     

    光の速度、と自分にたいして比喩して心優しくなれるとしても、ヤミはヤミだとキッパリを付ける人もいる。普通はいくら何の言葉に変換しても受け取ることは出来ない。

    裁判、人は一緒に行くよと言ってくれた。裁判があって場所がある中相手(?)が体面式に顔を見ることの何かを達成するのだともわかった上に次を考えると、道が細かすぎて一緒に行けないことがわかった。だから、止めることを起こした。

    私はただ、自分で裁判所、その近くの神社から大川を見て人知れない人の悩みを知り、ただ泣くことで自浄したら、昔あった緑の色の付いた食器を持ち帰りもう忘れるという法を自分の中に生むこと。それで、昨日になり完全にないことを達成した。こんな詳細な説明は遅れた。

     

     

     

    実際の丘など高所霊がいて、こう祖神と足早に繋がった有形無形の僧が、神を通してその近くの人を見るのだそう。ハナシの光は、働くことの懸命や起きることのショックをこう考え、見せたくないのではなくやんわり決められていた。

     

     

     

     

    伝えれる範囲をしっかり夢に描くことで、謀反といった犯罪を減らしたい。

     

     

     

    過ちのヒトと間違ってる人がいる。時間がないと心の中だとはっきり分けれない。分け方の説明なんか、ない気持ちで無理矢理の中だったら無理にしても、知りたかったら自ずと知れるような精神世界だと、前提を光らせる。

     

    人の世話を焼きたかった、という霊も少なくない。現実でトライするには、「叶いますよう」と、強く自分の言葉をいう。まだ何かあるなら放ってそっとしていても勝手にいなくなる。気が集まるような光から、ひとりで感じるコドクのわからないことの多い中で、人としてリアルな感触を掴めるのはありがたいが、絵だけみて妖怪のヒトを笑うことは被害を被った人を嘲うも同然である。本間に好きだったらフダとかよりは植物に近い世界だろう。オ、ポノポノ、という常夏の明るいハワイに近い波長。たしかに、季節がくっきりあるのは地上。だが、地上からしか高い感覚はない。柔道の道着が、単なる白いふくではなく奥行きが見え来る時。これがまた、完全なる自己の力に留まらないこれを受け入れられる研がれた精神を知る時。

     

    さっきとは、比べようのない緊張した現実があるのである。

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  • むほん

    大黒天は、大阪の四天王寺さんにある。福の神ともいって、笑いを運んでくれる事代主、大陸に禅を起こした達摩導師とする恵比寿様、

     

     

     

     

     

     

    語感が、大国(だいこく、Big Black)といい、阻害されず自由に思う上の存在は危ういが、

     

     

    上には上がいる、例えば区役所の公務員のほうが、龍からして偉くないと昇龍じたいを得れないのである。

     

     

     

     

     

     

     

    しっかりした目を持つことが、汎ゆる天道の掟かもしれない。

     

     

     

     

    伊勢神宮に行き、歩くことで清めをした。

     

    荒祭とは、蟲ーが見つかる前の光の最初のことだったと思う。次に、風日祈願、と書かれたお守り札がある。

     

     

     

    「風」は、また鮮やかさてあり、それにして抵抗量である。早さを司り、それにして強さその意味もまた然り。

     

     

     

    哲学では見えないもの、過去から吹く、風になりたい。

     

     

     

     

     

    こう時代には店が栄え、立ち並び、強い風や速度を持つ多くの風、繊細な風、また風。

     

     

    風の豊富を考えられる事に気付くのである。 

     

     

     

    「日」は、また特別を意味する。

     

     

     

     

     

     

     

     

    今、謀叛「むほん」という重罰がある。

     

     

    昔、民にたいして

     

    橘逸勢 、伴健岑がその罰を働き捕まった。島流しである。それが、はじめて謀叛にたいして警戒の形をした今にもある役職の形を想像する。

     

     

     

     

    悪いひと。海遊館の鯨を思ってもまるで当時の天皇の連れ魚の様に思うが、正気にかえると恥であるから否と解る。

     

     

     

     

     

    こちらから、そう見えること。

     

     

     

    その可笑しみを、こうゆったり見ることができるのは大切かもしれない。

     

     

     

     

     

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  • 現に対峙することか、対面を免れたことかどちらか

     

     

     

    いまの自分にとっては大きな事が、客観的に小さいから主体的に解決出来る。

     

     

     

    命に関わらないのなら、真ぐに生活するのが望みである。時代と共に、その生き方を果敢に習ってやっと未来に教えれるから未来が見えるから、今しか信じなくて良いんだよ、と。

     

     

    それが、見える神託で、

     

    直ぐに生活をする、この神、これを神、神に関わらない人間が、勝手に何かをして良いわけはない。

     

     

     

     

    私は言われた「政治にたいして野球観戦が悪いと言いましたね、これがあなたの本当の敵です。」

     

     

    示唆説明なのかギャグなのか、わからないが本当の敵は自分が自分の味方になって明ける段階のことである。それは、不明を不明と一言にし捉え目標に向けて準備をすることを学ぶのだ。だから、私は仕事を続けるが、最も光に近く自分にたいして得策なのである。日々がそんな日々が単調ではなく、平坦でのっぺりしてると、刻みを付けることと異なってしまうのは、意志というものがもし、自己以内の想像なら、時代なんて一般とする船のようなものはないわけで歩調がほぼ有るような悟りを前提にするから空や光が存在出来るというわけじゃ。だから、地獄があっても、どこか客観視する自我があったり、それとなく緑葉を含んだり、大きな歴史に遭遇したり、また何も見えないそれそのものに着いたヒトの噂もあるのじゃ。

     

     

     

     

    ただ、つまり修練の大きさは、大小を超える為、

     

     

    古くはくちくち言うのじゃ。

     

     

     

    そんな守護が、一日ぽっかり空けた私を「知らん」と言わなければいけなくなるのじゃ。こうした存在は、生きてる自分と同じに考えるほど、生きてる人と愛し合うことを重んじ、大切にせよ、というからには神と同じなのじゃ。

     

     

    聞いても良いが、現時点力のないことがある、養えることがまだまだある、という声をこちらに渡してしまっているぞ。

     

     

    低血圧という自覚を愉しみたいから四時に起きて家を出る7時まで日記や詩作にぼーっと没頭する、健康が平均に直すことでもないなんて見えないのじゃ。

     

    起きてする太極拳。

     

    体操が、緩く、客観性主軸に安定した太極拳ご良いとまでの探す楽しさよりも、太極拳はどうですか?と言うには、侍が多いと言われる臨済宗の寺で習った事その事や、確かに名詞の傾きを考えるに越した事はない等々。要不必要が、問題の量より本人のやる気であると混同して認められず、今も混同されている。「濁し」の言葉を正されたその最中なのじゃ。

     

    伝えたい自主性、その自主を掴みかかりに行ったこと、語りかけるそのことが覚めてもないから照れていること。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    日がな引っかかってはなれないもののことは、

     

    考えられるのは、理想が理想じゃない、つまり理想がしがみついたところからはズレていて発せなくなっている、これを理想が高過ぎると言って、可能事を持たない世界観なのかな、これが「現に」という教える人の現実をストレスでずらして“現に“理想に生きる人にぶつからせている。俯瞰すると、不一致から妄想をうみにして、夢と妄想を混同して「自己」この言葉を喪失しざるを得なくなり、理想つまり目標に向かわずそれから理想がごちゃごちゃになって、邪「よこしま」になっている。斯くして理想がある、ということのポイントじゃ。

    見て抱いたのは、理想に高い低いもないのかなと想像する。わたしの貯金

     

    ことば=ことばより、ことばに言葉があることが生として大切な基盤としたら、問題の、人と取り除くことを意味する邪、つまり祓い。理想を考え戻すこと、と可能とした人とも前方責任を考えるに付加添加価値かもしれない気持ちを超すのである。やってみたら何かなくなって広くなり落ち着いた空気が見えるだろう。どんな事も挑むことには、すっきりした気分である。急に手に戻った自分に緊張する、という高ぶった心地と。二歩下がると、総体として一つの目線の真ん中に有る岩が見える。

     

     

     

    丁寧に絞って取るから、無意識に届くほど広さそのものを感じれるので、自己矛盾の窮屈なまま、必要な身もろとも取るのは修行をやり直さなければいけない!

     

     

    紅葉を狩るのも、捨てることが整え判ってるから、せっせと働くことをやり、制限的時間のうち苔の上に残した赤い葉はとたんに花になるのである。こうして光は、未来に届くという轟の原理は遠方を望むときに必要なのじゃ。力には力みがいらんと言う。

     

     

     

     

     

     

    出来ることをやってみて、

     

    出来るということを私に表現して、

     

     

     

    この異なりに均等が無い如く 

     

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