揶白 (KF)

絵画

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  • 心の休みを作ろう!

    爾〜時、爾時、この期大切なこと。時代の腰を頑張る支えの「見る」技術。

     

    祈りの方https://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=116365

     

    蟲ーhttps://creatorsbank.com/yohaku/diary/?category=131493

     

    それぞれのカテゴリ文で考察を正す。

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  • 大阪とその客観性

     

     

    お笑いライブのことを「ゲキジョウ」と言って、これも私的な客観性と了見から身なり相しく何と本屋地下の若手お笑いライブに毎週出掛けた。吉本超合金Fのテレビ放送があったときに漫才ビデオを同級生に借りた、こんなに面白くて格好の良い物がある。base吉本という建物の以前に「二丁目劇場」という若手芸人の箱が、何とハーゲンダッツのオルゴールの向こうにあった。大阪は豹柄や明るさで表現するが、もっと本好きな人の多い文化の古い地だった。表面とは、えらい違うと言う。誰がいるや町の内容を自身の実力や学心を欠かさせる程には言わない。暗い時には誰も言わない真っ暗だろう。

     

     

    歴史勉強程度という何時も中くらいの答えがある。地元の人自身この道のこう文性のややこしさを思う同じ所にいる。誰でもいれる、更に判断をする、この点だ。宮があり、ストーリーを元に敷くほど国は出来ているんだと、私が、でもないし、対等性が変わらない。来る東京人に過ごして南だと言う優しさがある。それは同じ役人顔というよりはそれなりの形の知識にたいしては橋が見えたから。ギル有り難う。ギル自体どういう形になるのか。注意を思う、前向きな自立的生態に、海ザカナが川を責めてくるとは考えられなかったから引き合えなかった。赤信号の時は赤信号に見えたり、詩が差し演芸がオーロラになるのは元々、硝子細工の職人のいえだからだそう。古くは家という人の骨の思想をこの明るさ、それを祈るのではないか。記号化して「入れてよ」なんて色彩感覚のなさを言えない。だから、黙って字ばかり読む。一個の目、この孤高の世界をモノクロにしてみるとこんな面白い。

     

     

    演芸という字を考えてみて初めて感じることの様に。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    お笑いラジオに悩みをファックスで送ったのを読み上げてもらったブラマヨさんの回答が、この子はすごくスリリングに生きていると、ラジオから思い腰でコメントされるのを聴いた。図星だったのでここに投稿し抜選された自分の喜びとも摩擦して本当にはち切れそうなスリリングを感じていたセーラー服は思う以上に自分に似合っていた。悩みとは、学校に行かないのに行ったと言う工作を日々していることだが、怖しさは靴下を一日履いた状態にすることだった、私はこの事は私のせいで雑音引いて恥ずかしいし、学校に行く理由がよくわからないし行きたくなかったからどうしたら良いかわからなかった、客観的になりどの程度怯えるべきことなのか何となくわかった。慎ましい静かな行動が自分を少し変えるのだと知るのだった。

     

     

     

    例えばこう、良さと悪さを正直に記して、自分の未浄化をせっせと磨く。

     

     

    真相に対して向くと、必ずその対象のどの点も暗くなること。考えること以上にもっと目に見えることに対しては、セカイは寛容なこと。元にあるといえる本当の仲、間隔、壁、壁の数、その距離、だけに自由があり、これが全てを掴ませる。空を四角く考えるやつのそのしたにいて苦しいよ〜

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  • 古典、徒然草

     

    徒然草から、ヒントを訳す。

     

     

    第三段  萬にいみじくとも、色このまざらん男は、いとさう/\しく、玉の巵の當なきこゝちぞすべき。露霜にしほたれて、所さだめずまどひありき、親のいさめ、世のそしりをつゝむに心のいとまなく、あふさきるさに思ひみだれ、さるは獨寢がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ。さりとて、ひたすらたはれたる方にはあらで、女にたやすからずおもはれんこそ、あらまほしかるべきわざなれ。 


    例えばスミレ思う、長く褒め、真を打つ祈り。冷め、ひたすら戯れる人には荒く…これこそ、必要と求める。

      第四段  
    後の世の事心にわすれず、佛の道うとからぬ、こゝろにくし。 

    心がにくい=可愛い、愛おしい

     第五段  
    不幸に愁にしづめる人の、かしらおろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、まつこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。顯基中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覺えぬべし。

    あるかにないかの気持ちで拓く道、月罪なくて見れない、この般若の優しい心。

     第六段  わが身のやんごとなからんにも、まして數ならざらんにも、子といふものなくてありなん。
    前中書王、九條太政大臣、花園左大臣、みな族絶えん事を願ひ給へり。染殿大臣も、「子孫おはせぬぞよく侍る。末のおくれ給へるはわろき事なり」とぞ、世繼の翁の物語にはいへる。聖徳太子の御墓をかねてつかせ給ひける時も、「こゝをきれ。かしこをた
    て。子孫あらせじと思ふなり」と侍りけるとかや。

    ワルイヒトのこと。

    第七段  あだし野の露きゆる時なく、鳥部山の烟立ちさらでのみ住みはつるならひならば、いかに物のあはれもなからん。世はさだめなきこそいみじけれ。命ある物を見るに、人ばかり久しきはなし。かげろふのゆふべをまち、夏の蝉の春秋を知らぬもあるぞかし。

    つく/\と一年をくらすほどだにも、こよなうのどけしや。あかずをしと思はば、千年を過ぐすとも、一夜の夢の心ちこそせめ。住み果てぬ世に、みにくき姿を待ちえて何かはせん。命ながければ辱おほし。ながくとも、四十にたらぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ。
    そのほど過ぎぬれば、かたちをはづる心もなく、人にいでまじらはん事を思ひ、夕の陽に子孫を愛してさかゆく末を見んまでの命をあらまし、ひたすら世をむさぼる心のみふかく、もののあはれも知らずなりゆくなんあさましき。

    物一つが如何に貧しくても、如何にカタチなく合致することや春秋の心や時間を知らない心はなく、意味が深い。
    四十の歳それ以上の物の良さを知りに行きます。数から退くと良い。人より秀でる心から物の浅さと粗末を起こしている者。その自覚のひつよう。

     第八段  
    世の人の心まどはす事、色欲にはしかず。人の心はおろかなるものかな。にほひなどはかりのものなるに、しばらく衣裳に薫物すとしりながら、えならぬにほひには、必ずこゝろときめきするものなり。九米の仙人の、物あらふ女のはぎの白きを見て、通を失ひけんは、誠に手足肌などのきよらに肥えあぶらづきたらんは、外の色ならねば、さもあらんかし。

     

    絵になる姿には必ず心をときめかせる。例えば仙人が鮮やかな衣服と好対照に白い肌をしており、こちらに笑いかけたと思ったら見て「IIを失うからじゃ、バイバイ。」とたんに閉める。身の焼ける心地に、「まことに手足肌などの清らなる肥えあぶらつきの良い」と、客観化させる事。

     

    第九段  女は髪のめでたからんこそ、人のめたつべかめれ。人のほど、心ばへなどは、ものいひたるけはひにこそ、ものごしにも知らるれ。事にふれて、うちあるさまにも人の心をまどはし、すべて女の、うちとけたるいも寢ず、身ををしとも思ひたらず、たふべくもあらぬ業にもよく耐へ忍ぶは、たゞ色を思ふが故なり。まことに愛著の道、その根ふかく源とほし。六塵の樂欲おほしといへども、皆厭離しつべし。其の中に、たゞかのまどひのひとつやめがたきのみぞ、老いたるもわかきも、智あるも愚なるも、かはる所なしとみゆる。されば、女の髪すぢをよれる綱には、大象もよくつながれ、女のはける足駄にて作れる笛には、秋の鹿必ず寄るとぞ言ひ傳へ侍る。みづから戒めて、恐るべく愼むべきは此のまどひなり。

     

    性には、髪のめでたい事この上無い。目立つことの元気と、本間に客観的に主体を持ち良い為り目立つことを研究する。

     

     

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  • 客観性の主体

     

    「私」の長所は、

     

    大きな顔、両の脚太く、白く、

     

    無知。

     

     

    無知でいる勇気は、疑いを弾き返し、疑いを理解出来る。

     

     

     

     

     

    太古の神の様相から、祖のすがたの成り立ちから、受けている「わたし」の教えを聞きますよう。

     

     

     

    美観には天照を見ても煩く、

     

     

     

    これまで知らなかった輝きを見ては、すべて岩戸に隠れた。これは、古事記から知ることが出来た。天照の岩戸隠れ、と年輩から良く聞いた。

     

     

     

     

    「あなた」がすてきだと言ってる。

     

     

     

    しかし、あなたは内容についても長けていた。もう出ていけなくなった。

     

     

     

     

     

    太陽信仰、これがそうなんだ、そうか、と思い至り、なれど、

     

    その自然の豊かさを全身に映し出し、平面のマンガを破り出す、その日々の行による身体性の光こそ、やあ継続する。

     

     

    こういった最高の美術からアイデンティティーを読み解けること。見出した昔の偉い仏は、かまととぶった者だけを光に映す。あの子が真に話したかった美についてのその言葉を残酷に打ち出しながら。鹿島の神と言う噂だ。

     

     

     

    頭を回し、腕を伸ばす!

     

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  • 家を守る

     

    家を守る。そう最初から決まっている。肩に座布団、お洒落すぎ。

     

     

     

     

    他を守る、そこの軸に合わせて、初心を縁取る。その自分の過去未来を超えたところ、に、導きの光が宿るのだ。

     

     

     

     

    私は蟲ーの出現に、本当の他の存在を掴みスピードを肥やした。考察で得るそれがそのまま自己を象るからだ。

     

     

     

     

     

     

     

    方丈記

     

    行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし。』およそ物の心を知れりしよりこのかた、四十あまりの春秋をおくれる間に、世のふしぎを見ることやゝたびたびになりぬ。いにし安元三年四月廿八日かとよ、風烈しく吹きてしづかならざりし夜、戌の時ばかり、都のたつみより火出で來りていぬゐに至る。

     

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  • 人と話す目

    有格無格、いずれも格と説き、

     

     

    苔のむすまで、国歌のこの言葉は、えらい年齢のある…と、いうことをも言う。

     

     

     

     

     

     

     

    見るとこれらを、何かとても大切と思う。

     

    良く触ってみた身の結果では遊びの上等と言う。飛んだり跳ねたり走ったりする。

     

     

     

    こちらは苔であるが、その楽しみが有格になった山。

     

     

    では、このようにないという価値観こそ大事にすべきである。その線引きのエッジが上手く行ってないと迷惑が互いのものとなり、どん底であった、どん底を経験した。そのようにないにかかるのが形が、でもないし、輪郭は一緒といったら大きく違う。

     

     

    これとこれは同じだよ、といって仲良さげに混同せず、違うと距離の説明がついて、二つが光り輝く。

     

    それでも、

     

    いつでも「私の意見」という一人意思が必ずあって、それを「あ」にしてるかな?

     

    意見と思いきや、懐いて喋って楽しむと調子を整えている人や、意見だけが物凄く長い人、

     

     

    人間の心とは、どうやって目を合わせることが出来るだろう?

     

    動物とは、人間という動物のわたし、としたとき相手の古きが見抜けることをするときに、目が合うよ。

     

    人間は、笑うも怒るも表と家も、どれも私、という心だ。

     

    心は理想なんだよ。

     

     

     

     

     

    神様は、人と泳ぎ、転倒しつつお笑いになる。沢山話した。人が話さなければいけないことのうちに光が見える。これは良い。大昔に死んだ人、と聞いた時に考える。人の神様を予測は出来ても現代生きている人から、想像することが物理的に出来ない。この一点と、また飛鳥や歴史の指標から神を考えるとき、この知の不思議や悲しみを感じ取ること、これらと、浄化される存在として、あとは「言葉」が残る。これは、人のことかもしれないし。

     

     

     

     

     

    家は、壁がより壁であるぶん、近づくことが出来る。壁がより壁であるぶん、気持ちが光として通り抜ける。それを渡すのは人に宿れる神、

     

    人を良くしているのに話しかけられない、そういうふうに笑いくださること。

    とても体がいたい。天照様、どこがお戚みですか?…光ですね、やみ(夜)がナイからです。翡翠のお椀から声の話のできる、何と日の裏側につうじてる、道頓堀川のよる。

     

    これはその日本の石。

     

     

     

     

    光土産に

     

     

     

    神様への悟りは早い遅いがあり、早かったら早く何かをいわなければいけない。後がつっかえている言葉の多い林のようなこの中で、こうして聞き受けることが出来る。また霊の中に神様がいても、その人とは、やっぱり人間。伸び伸びあるがまま考える、と追いつく。

     

     

     

     

     

     

    石ついでに、

    家の真ん中にもあるこれは、騒ぐモロ、人魂のうるささを嫌う色だ、静かにしときたい人。

     

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  • パチモン

     

    パチモンとして友達だったあのヒト、その供養をすることは古い。砕かれた本心と物事の極薄さと色彩の軽さ相まって物を持つのは可愛い。私は一緒にお笑いのビデオを見たり、クラブに連れて行ってもらったり、引っ越しに付き合ったり、一緒にバイトしたので心がかなしい。

    何たってその工夫の心が凄い!

     

    「そんなもん。」おじいさんが打ち明けると、そんなにそんなに悪くない。そう思える。

     

     

     

     

     

     

    流れがこのへんは感情が吹きすさみ流れが早すぎた。信頼自分が過ごした時間。しかし、色んな理屈が見つかって開いた心を埋めている。

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  • 川端康成

     

    雪国や、みずうみ、を読んで強く憧れたことがある。

    大阪人と知って、こざっぱり諦らめることの良い主観があることを思い出した。失敗は成功のもと、と言う人だと思う。

     

    本を読みながら私は康成に質問した。近代純文学に関心を寄せる者です。現代文学の、文章が文章化となる固さが、自己自身の事かわかりませんが、私は本を読んで、詩と文章の噛み合いが上手く行っていると感想しました。自分の視界からは新しく感じました。詩的な円滑という考えは昔からあったのでしょうか? 

     

    康成は、もっと頑張ってと言った。

    本を読んで見つけることを私この人が求めている。この為でした。

     

    華道が男も女も昔はあって、自分が土方の兄ちゃんみたいな、剥いても虚しくない、霊でも玉ねぎのようではないしっかりした軸があり、時代を感じても、階層が存在しても、くじけて、そういることに耐えることで、顔を良くする。良さがある。

     

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  • このスローモーション化という圧縮

    輝きとも異なる、光は単純に心の成長として難解さが確かにあり、

     

    黙ることのスタイルが、スタイル性に留まる。我が国を言う時じゃないから、個人的に改められる。

     

    思い出したが光をエネルギーに変えるならわかるが、手間がその中にあるからだ。光からエネルギーを引き取り出すは、光として思う見るの抵抗、物質化を叶えられないのに物に取る。として、歪みが歪みのまま消える格好になる。光が善性である。善悪を考えたもとの考えの区切りがついた。

     

    精神は、精神に対応する。龍には、ハラという考えがある。はらにはら、はらを出すのを、払い、支払い、以って祓いと言う。客観、主観かと思ってた身なりや姿勢から、主体が表れる。そこのそうする壁が、自我。それを考える壁になってくれる。あっとかぎゃっとか、ぼー、とか、無言とか、もっと面白いのとか、小さかったら入れれる。恥ずかしいじゃなく、身なりに戻る。気が数ええる前に人のもので、かぞえた瞬間、人間がいないのは知らないが、闇の秘密だと思う。見えないから見える、異なって忘失から起こるなんて有り得ないからである。

    表で着ぐるみを着るという方法を取っている。主体の真相に感慨深く迫る。私の作り物の習作に、紙がありこれにあらわす、文で現すのだと思う形と、人と話したいはこうはっきり違うから分ける。この切り分けがある。元々、エクリチュールという言語が存在していた。私は身体性を求め動きを内外高める、本来の目的派。

     

    妄想ということば自体が、盗難とか蟲ーから出来ている。客観的に弱い、その上段にある想像には、嶌わらず最期のような点になって滑り落ちるのがこの妄想。

     

     

     

     

     

    いったん集めることのある方は、リズミカルな地球の惑星の自転から従って、空を確認して、戻る。

     

    「光を知覚する」

     

    想像や、流れているものそのものの理解。目が外を向く、客観視する、が甘い。

     

    誰かがいる→とこに? となる。

     

    誰かがいて、

     

     

    何かしているが、何かされている。

    これが混ざって光の信頼がない。→分けたときに、誰かがと述べれる。もっと下ると、誰かがいる、となり、次に、誰? となる。

     

    自己の興味、関心を実感し、戻る。

     

    意識あたいがちがっても話せたが、その人の意とか意識とか太陽とは、ほぼ計算上より早い。

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  • 仏的な輪

     

     

    ・良い想像に落ちることのない何か物凄い楽しみや期待と理想

     

    ・膨大な無駄な時間となる予想が出来る

     

     

    ・いつも見るそんじょそこらの執着、その辺の執着

     

     

    ・おっさんの夢

     

     

    ・生命を頑張っているところに現れる仏のことから、出現の可能性が低いとわかる。

     

    ・出現しない

     

    ・会得した力のおつりで励みを伸ばしている

     

    ・〜「おつりがもっと出来る!」が値をみたしていない。そのものの価値に等しくない

     

    ・こう書いてみてはじめて凄い良い物を、見ている感覚がする、している

     

    ・自分かまだ目撃出来ない良い長所がこの像にあること

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    コピー、転写可です。

     

     

     

     

     

     

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