揶白 (KF)

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  • 人と心配、ウォーリン

    こう思わないだろう。と、自分に重ねて覚えることをして欲しい。

     

     

    こう思うだろう。その中から完全に出て一向に戻ることはない。

     

     

     

     

     

     

    全ての盲念が、二分化されるとして、

     

     

     

    戻ってうだつを述べるにしろ、御託を並べても、一括で拠点が下部にあるとし、

     

    様々は押し通されるだろう。

     

     

     

    しっかり楽しそう、ならともかく、いい加減に自分が歳を重ねているように、次元世界には到底いないものがいて、

     

    そういった者が盲念を買い受け、賢い人が支払いをしている、弱霊的で不気味なオーラのその図は今後も見れるだろう。

     

     

    記号として、何か物々しく、そう威嚇するときはもう弱い、実際的に精神活動を止めた、という知らせであり。

     

     

    記憶の薄れるひと、と解す。

     

     

     

    そのひとたちは、

     

     

    何をしても自分のように何か良いヒントを与えられず、失念的に言語を奪われ迷う。破れかぶれの姿が見える。わざわざ戻り、業を開けてしまうくらいの容易い気持ち。そうして自分の心、自分の部屋、そこに入り込もうとしても、「自分の醜さ、その悪さ、」この一瞬から目を逸らすくらいの視力では自分の光が捉えられず重さが合わないことから、砕け、血が吹き出たり、剃刀負けをしたのだ。一定して変化が見られないのだ。私のいいたいことに気付いてくれ。私は「鉄は熱いうちに打て」と言って、激しい行をしている。

     

     

    私も含め、記憶もきっと上手く行くこと、良いことを覚える、記憶にする!といういみで忘れるひと、と解した。

     

     

     

     

     

     

     

    心でいることが出来るのは、用意がないと人といずらい、と感じるのは、正しく自分とした時に、

     

     

     

     

    はい!頑張ります、約束や証明を手前にするには、心の木枠だと、

     

    礼節は、礼儀、態度としての自分にまだ修まってない形よりも、ラインに合わせると言う事だ。

    共倒れが馬鹿というように、活かしていないと目的がある分は責任的だ。

     

    私はこれから勤怠を休む。復帰後も、何か小さく変わらない勇気で働いている、と思って欲しい。

     

     

     

     

    心が自分以上だから、自分を言った時点に心を失う、こういったかたは生活上でトレーニングして下さい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    その心の態度でこれは火だ水だと自分にわかることをいう、

     

    何も起こさなそうな無心の私のそいつというものの雰囲気は、そのまま一生変わらないの姿なのだ。

     

     

    温厚な動物をつついたとき、怖いという。

     

     

     

    何か起こすなら、何も起こさなくなるまで、どうしてもこうだと思うまでを並べて考え、生きるべきだ。捏ねてみないと何がポロリと出てくるかはわからない。それをしっかり持って暫く握る。この作業までが肝心だ。大変なことがあったのだから、大変なことをしなきゃ取り戻せない。

     

     

     

     

    安心を起こすのは、奇跡的に精神界で出会う他人よりも。

     

     

    「礼」は、安心を与えるのは自分から見ても、近くの人。

     

     

     

    出会い系に対するイカヅチが私の気を起こし、

     

     

    「スピリチュアルメイトか!?って聞いてんだ!」

     

     

    その自分の寝言から、飛び起きたが飲みにくい。

     

     

     

    そもそもこれは、心の広義な意味と精神的な意味が二つある。

     

     

    求めてここから飛び出そう。

     

     

     

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  • 性の考えでわかること

    男女だったら、別れのけじめがある。

     

     

    では「性」とは、

     

     

    人間の考えることとなって、主語が男女じゃなく、人間になり、

     

     

     

     

    活かしの利くことをである。「性格」を磨く、高めるとあるが、

     

     

     

    色や柄、そういったオリジナルの自分の名前の前にある、

     

     

     

    達成可能な考えごと、となる。

     

     

     

     

    それを導く教えが倒れ、洗脳のように人の考えの偏りが強く、悩みが増えた。忘れても良い悩みだったから、たしか悩みが溢れるというほどではなかった。こうしなければ、こう思わなければいきていけない、更にその反感、そう感じることが強かった。

     

     

     

    人の考えが偏るが人として問題ない、と言う事の、この全貌だ。

     

    次に一人としてしっかりした頃、

     

    気乗りや個人的な思い付きで助けなくても良いほど、優しいもの、人の心の相貌、そしてそれが「わかる」となる。

     

     

     

    性として、その性の個性として、

     

     

     

     

    重大なことの防ぎが甘いと言われやすいがそれぞれにある

     

     

     

    男気の強い人が、男性的な客観性のある様子を見て、良いな、と男女ともども思う、

     

     

     

    思うことの立場と、そこに佇み立つ立場と似合っている心の姿勢を笑顔が溢れる程素晴らしいと思う。

     

     

     

    人にちゃんと過去があり、それぞれの学びを握りしめているというこの事だ。

     

     

     

     

     

    仏になっころ起こされた。それは大変なことだった。

     

     

    その人の世界には、自分を憎む者がいて、それを生きることを今ならわかった。

     

     

    よって、自然とやさしさの約束はないが、自分がはっきり証明して追い返してあげれるような、

     

     

    非常にいつも、

     

    探し求めていた言葉はないが、

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分の感情を理解することでもなく、

     

    悲しみを知って欲しいのでもなく、

     

     

     

     

    自分の心を、知られず終わるかもしれない。相手からしたら自分は一界の他人だ、と思う。理解されていない、といった時、何で理解が、国を説明する理解が四角くならないんだろう?

     

    想像して、

     

    その理由を探し求めているのは、色んな核心をつかれるが、

     

     

    必ず取り組もうとする。約束の言葉に立ち戻っている。

     

     

    自分のペースで、

     

     

     

     

    その行が達成されることを祈る。

     

     

     

     

     

     

    「自分」の心の位置がおかしいのは、周りのせいじゃなく、覆われているのは常に説かれているテーマ「蟲ー」が為だ、浮わついた世界観など、全てのこういう風に堕落している原因についてだ。

     

     

     

     

    確かに光となって流れ、現れる説明には何の間違いもないことを、確かに見ている。

     

     

     

     

     

     

    目を開けたら、自分と同じような哲学家が様子だと知ったことで、その人のいつもの顔と世界の安心を得ていたのを思い出した。

     

     

     

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  • 字を教える

    俺は死んでるからわからないけど、

     

    誠心誠意は、

     

     

     

    例として

     

    「被害者と加害者は同じにならないんだなぁ。」

     

     

    苦しい区間に知った事を述べると、真っ白になる。

     

     

     

     

     

    学生時代の万引きは、喉が乾くと思うくらいめちゃくちゃ苦しい後悔をした。

     

     

     

     

     

    万引きしたらひとりで苦しまなければならないが、

     

     

     

    大事ならあなたを苦しめるほどには、神仏だと思う。

     

     

     

    その影にいた町の人だろう。

     

     

     

     

     

    浄罪してすっきりした頭でこういった差違や、実際にある厚みについてはどんどん考えても良いことだと思う。

     

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  • 道をやってみても良い人とやってみても無理なひと

    言葉の灯りが、こんなに栄えるのは、

     

     

     

    「心のブレーキ」が、失敗の全てを物語っている。

     

     

     

     

    こんなことをするのか! こんなことが出来るのか?!

     

     

     

    不安で一杯だ。

     

     

     

    方法案をここに握りしめているが比較的孤立しないものだ。

     

     

     

     

     

    平和のために出来ることは何だろう?わたしの答えと、また実際に抱える質問だ。

     

     

     

    「俺が知ってること」を、集めよう。

     

     

    天よ彼らの意見を、聞かせてくれ。

     

     

     

     

     

     

     

     

    大変なことを教えてあげよう。

     

     

     

    同じ文を読んでも、

     

    気心が昔なら、意味がわかるが、

     

    気心が今なら、街並みに染まってわからなくなる。

     

     

    この目の前の今昔に何か良い線を引いて、誘導するのだ。

     

     

    わたしは昔。わたし=昔

     

     

    わたしは昔から変わってないから、静止させることで、解脱になった。心の火を灯せ! の意味合いを潜って巨大なものの理解をする気持ちだ。大いに心太くいてくれたら良い。

     

     

     

    ものを手離せば手離すほど、何故かもっともっと身を任せて行けるのだ。

     

     

     

     

    こう人間を大事にしながらゆとりある生活をすることで、

     

     

    誘導する人が昔より増えた。

     

     

     

    だから、中間テストの注意だった。となる。

     

     

     

     

     

     

     

    男子禁制、女人禁制、日本の名のある離島にこうした歴史が幾つかあるのだが、

     

     

     

    教えにしたいほどのこれを生み出すくらいの、

     

     

     

    大事なゆかしくある今のことを絶対に

     

     

     

    軽くみてはいない。

     

     

     

     

    それによって、人数という存在が実際に本当に自分に眼前の物であるか自分の物であるかは本当に悩んで、

     

     

    こう厳しく見ていった時に、人数はある。人数はただある。という答えになって、

     

     

     

    初めて解答のシルエット、言い換えて正しい景色を捉えること、

     

     

     

    抽象化出来た、とは、抽象が、こういった方法である。専門的な感覚が強いので黙る時期があった。

     

     

     

    続けるべきは、人はいつもそれを考えないから、それを考えることが出来る。

     

     

     

    日々の空気感、

     

     

    こんな最低限の集中力を取り戻したあとに、そこから動かなくなってはじめてやっと物事を増やすのだ!

     

     

     

    そんなつもりのないひと、そうしようとしてる気持ち、

     

     

    割り算の余りのようにして、それは四捨五入して小数点を捉える、

     

     

     

    そんな約束だけで十分だったのだ。

     

     

     

     

     

    文脈とは、お前が考えたこと止まりを超えないから、詩を組み込んでいると、現実にたいしてズレを解決した。現実にフィットするスパッツ、手頃なもの、それを作るにははみ出したりしてはいけない。詩って凄いなぁ、こう思う時間。文学書も絵アニメも、飛び出ないことの憧れが夢になっているから夢を現実に使ってはいけない。使う場合は人間の訓練を達成するぞくらいの基準を満たしていないといけない。

     

     

    poem、は、詩を指さないのは、字の力量のことではなく、安いか高いか、

     

     

    と「天上天下」を言ってみて、同等性をその人に発見する。何故、正しさに執着するかもわかっただろう。

     

     

    ぽかんとしたとこはぽかんとしたまま、追及心も短く込めれる、自由をなるべく守る本質的な素材の性格から、飛距離が遠い→長く持てる。

     

     

    ただ、眩しい、目映い、となって日よけ出来るようなものを早くほしいと思っている。私は自分の背面では文化的な向上についてひとつ結果となっているんだろなぁ、と思う。

     

     

     

     

    二次元の龍でも厳しさ優しさでも元から持っているもの以上は使わない。慎ましさしか受け入れられることがないのは、

     

    人として認めるからだ。

     

     

     

     

    女は何も考えてはいないが、煩悩のほどは天が伝えているだろう!

     

     

     

     

    こういったとこで、

     

     

    こう街の空で開示しながら、知恵を絞り、何と独自に良いことをしている。

     

     

     

    と初めて人が目をつける。どうだ、幸せの「重さ」がすっきりするだろう。

     

     

    それは計量してみたところで零れない。

     

     

    正しい仏道が、取引の最後であり、それはこれからで、償っていけるというもった善性は必ず見ている。

     

    メタ映えするような、一角の理性が登場したとき等は、「シキリ」が出てくる。ここはすぐ飛ぶのでシキリの消息は知れない。無意味しかないことが、格好が良いと思う。時間の存在を伴っている。

     

     

     

     

    悪いひとは、何らか通らない。

     

     

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  • わたしを許して

    つれと話して、母という言葉を思い出した。

     

    母で関連して思い出して書けるのは変わっていない。

     

     

    友達は、すっかり母国語を勉強していた。

     

     

     

     

    働き先を家にして、その地の虫や花と遊んでる。私の性格はこう。

     

     

     

    働く、はたらく、の想像をリセットし、

    昔イメージした通りの楽しさを

    悪いことをし過ぎなければ理想に出来る

     

     

    朝起きる際に力を鍛える

     

    だるさがよいひともいる

     

    縦積みにすれば、自信になる

     

     

     

    こういった修行に気付きながら、中断しざるを得ないくるしみを気にしてる

     

     

    だから、友達に嫌な顔をしてしまってた。

     

     

     

     

    私と友達になるのが夢なんや、それに気付いた時、なれるかなれないかは努力にかかるとして、ほっとくわけない。

     

     

     

     

    自分の嫌なことは、声かけて確認せんでもいいから断ってな!

     

     

     

     

     

     

     

    →私、初めて私の(出すぎ)さしでがますぎなところに気付いたわ。

     

     

     

    無私を貫く者に、

     

     

     

     

     

     

    理由が、

     

    断る為に、自分ってもんを把握しとくのだった。私は自分の立ち方を知ってる。

     

     

    違う者、として立ち向かう。

     

     

     

     

     

    含笑をすることにきれへん、怒ってるのはその分、その都度今を返して欲しい。

     

    悪い顔をわざわざ見せるからモラル違反三点、絶交

     

     

     

     

    勝手にすすめず、用意してから

     

     

    信じない、

    感情負担追わない

    シネ

     

     

     

    お前の一回きりの人生に合わせ

     

     

    人生までは違うぞ、というとき目が合うけど

     

     

    あなたの言い方が好き

     

     

    人生までは違うぞそれがお前

     

     

    どれも違うのだった

     

     

     

     

     

    友達は、妄突進してしまう自分の心を癒してくれるのかもしれない

     

     

     

    友達も、本当は広くそう思って

     

     

     

     

     

    だから、今のことを今直していくことを諦めないで。

     

     

    それが世界の真実性なのだから

     

     

     

     

     

    真面目に取り組んでいた人間関係一本で十分睨むことができたは、決して感情のやり取りではなく対自分の取り組みだった

     

     

    肩書きは、相関性の含む客観性なのでこちらから見えない現実よりも自分が直面してる現実性のリアルに留めた自分の目に信じれるものがあった。自分を萎えさせるむかつきに止まらないことが、役立っている。振り向くと、あらぬ現実に寝こけるものどもの気配がしたが含み笑い、という家にあるアイテムを睨むことで生計を立てている。怖がられているが、何をゆわれて誰がいて何があっても、回避したい状態とは、面白いがさほどというよりは興味がなかった。理由が、働くことそのものの私は偉い。当然、職があって、この職は、そういうポテンシャルの意味しかなくて。

     

     

    悲しみが全ての結果に出来ないから、今いる、っていった声がこの間何回あるかを同時に数えて自分の心に訴えてほしい。

     

     

    明らかに途中結果である、と今いったのが小さな決め手となったが、これが流すことだとわかってる。

     

     

    きみの途中結果に付き合わされた時間だけは蓄積する。顔面になんの印象もないやつに情が芽生えないくらいの情はある。

     

    何か喋ってたらどうにかなった。一度友達とどんなに強く思おうが、縁さえは確実に消える。人生一回きりです。私はきみを魂から、

     

     

    捨てるのは普通、

     

     

     

     

    こんな劇がある。

     

     

    仏か、わたしだったら、今後はわたしを選ばなければいけない。死にたいなんてゆわないで、なんでこう責められる理由はわかったと思う。地球を考えると、耐えなきゃ。

     

     

     

     

    別にだから、個人的な気持ちなど発祥してなくて、その上で「好きだ」という自覚やその選びにくい方を選んでほしかった。苦さもそう。私は自分の好きだのほうを絶えず選んでいる。愛よりも増すことは、聞こえにくい外部の、「心の音」はかつてとして、聞こえないんじゃなく聞かないと決めた。だいぶ過去になる。

     

    自分の好きだ、知りに行って15年以上経つ。何も言わせないのはその為だ。

     

    言いたいのは、こう思われた、こう誤解されたじゃなく、きみに、あなたに、私のしっぽに私がいなくても構わないから、同時に尚且つここで「人」だと思うことが友達だと知って欲しい。

     

     

    こう描き続ける上に出会う人だけが「その人」だと信じてる。

     

     

     

    この価値に比べれば、色んなたのしさなどマイナス以降なのだ。だから、自分の心がきみをどう思っても切れる。

     

     

    心も信じない、愛も信じない、それでもあたたかみさえあれば、発情する。

     

    素敵と思って描いてついてきてほしい。

     

     

    言語に左右されない精神作り。を、わたしが用意するわけもなく、その手がかりまでは大量にあるから作りたいんやったら作ってみることが一番だし、こういう残念ならあらゆる悲しいよりずっと良いのだ。

     

     

    大事にしてるのは、こう話すのは、なんでかってわかるよね?

     

     

     

    純粋に会いたい気持ちも残ってる。こんな気持ちじゃそんな気持ちがなくなる。その理由だけを先に探して納得する、ことで悪いことをする厳しさが酷しさでないほうに学べたら。

     

     

     

    「誰か」を愛しく考え想像したりする、夢の証なんか手に入らない。

     

     

     

     

    こういったことが、基本に政治が出来ていることを法典の厚みを見ることなどから実質を推理し、これを実際に見るといって初めて気付いた驚きは懐かしい。このささやかな愛で、陥ることを回避している。

     

    この自意識の高い、自分の味方になるもの、それがわかる期にまさか、最後に私は友達でしたか? とは聞かず省略をする。

     

     

     

    友達が先、恋人があと。いい加減家に帰りたい。今、友達にゆってる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    様々な妄念以上にいますよ、というには

     

    思わくをする前の

     

    見たまんま、感想、それが「わたし」です。を、導いて言う。

     

     

    鏡をみるのは、落とし物があるから、ちゃんとそれについて神仏と話せば返ってくる。

     

     

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  • 願い

    南無末法下種の大導師

    神サルタヒコ 向かって大和姫、巫女殿、

     

    そう言い、私は歌を大きく歌う躍りを大切に一行します。

     

     

    「わたしは冬にやり直しますます、増す増す、益々、マスから始まり大きく書く力で一石二鳥。」

     

    願うは、八のような末広がり、皆のその未来。

     

     

     

     

     

    下種とは、種だね物や人を重んじる中で、心身の大切さを言う。

     

     

     

     

    情緒と文書の秋、言い合える夏、友よ!!春、

     

    秋も春も抱えて収まらない。

     

     

     

    この大きな籠を、

     

     

     

    大事にしてくれたら私は一生の恩義を尽くす喜びに、思います。

     

     

     

     

     

     

     

     

    天の伝書鳩のように、神を知った頃に人間自身の良い形の人姿を見る。でもそれは悪い人だと聞く。

     

     

    銅像を真ん中に。「良い、けどそいつはあかん。」まで、踏み込んで伝えたい。踏み込む心を伝えたい。踏み込む力を伝えたい。

     

     

     

     

     

     

     

     

    どう上手く渡すか、伝えるか、

    自分の技巧に集中として、

     

    外向きでない。

     

    もともと、身体として男は狩りにいくよう作られていて、女は家にいる。

     

    名のある神、名のない神、向かう方向を考え愛され進む。

     

     

    ひとりがひとり、人が人、一人じゃないこと。

     

    冬は、ここから貯蓄が許されている、特化する、とわかる。頑張っていけるとわかったら頑張る!やっていける、不安に強くなった。

     

    祈りを見て祈りに尽くす。

     

     

    ぐるりとして、もう一度伝えたいのは、

     

     

    自分を抑える神を自分で持って、そして大きく映えている。じゃなきゃ大きく栄えない。

     

     

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  • 月光

     

     

     

     

     

    巡回のし過ぎが原因です。

     

     

    一歩を踏み込めない恐怖心もありますが、強いるよりもそこを避けることに寄り添いがあります。

     

     

     

     

    視界が遮られる林を、通る中で、

     

     

    蟲ーという、怒りの込み上げる対象を自分と堂々に思わず、

     

     

     

     

    客観的に冷静に見る事です。それは、

     

     

    自分はこうしない、(物事が)そうじゃない、

     

     

    を、冷静に見て「見下し」が付きます。

     

     

    人に上下が無いから、張った肩の力が抜ける事から姿勢の正しさを捉えます。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    自分の根の性格を知れた事で、

     

     

    そこから順序をやり直す意義を強く感じると伴に、

     

     

    身の生活と、理解を平行します。

     

     

     

    自の有する動き、(身体性や、感情と心)

     

     

    ここから、初心忘れるべからずと言いますが、強化を可能とする習いです。

     

     

    ここから、始めたいのです。

     

     

     

     

     

     

    老人の怒ることは、

     

     

    普通は、人道以外のことにたいしてだ、

     

     

     

    と、言っても、人流れとして

     

     

    蟲ーに通用する力を求めるあまり忙しく間に合わせがその時取れなかったと思います。

     

     

     

     

     

    自分の力になる、親しめる、この惑星と言う興味が、

     

     

     

     

    母親の世代とは段差がある。

     

     

     

    お月様と言って、何かファンタジーや、もう一つ「お月見」といった儀式的な想像があった。

     

     

     

     

    ここからはもう自分の事で、亡き母親は関係無いと、「素朴」と言う母の背をこう見て少し泣くのだった。私は今もしっかり生命を感じ、哀しいと思えるのだった。何か妙な形で心内にうつっても、自身生きることを選び、「私が、」母と暮らした時を思い出すのだ。それが供養になることを、私は知っていた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    現実を捨て、遊び過ぎた

     

     

    自分以下で生きてる人と、

     

     

     

    現実を自己で捨て、遊び過ぎた

     

     

    蟲ー、

     

     

     

    が、沼に浮かんでいるのを菩薩と偶然、見ています。

     

     

     

    こんな風に思って見ています。助けるも助けないも自由自在ですが、面倒くさいのと、ほかに自由の限りを尽くす事その考えをしています。

     

     

     

    静と柔、つまり陰気を指す。

     

     

     

     

     

     

    自身の力を必然にまで高めるこれに近づくこと! 前向きにいます。

     

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  • モラルの夜

     

    犯罪者の、良さに転じない人を想像したこともないし、考えればどんな奴だろう?と思うだろう。

     

     

     

    哲学の話をした時に何も答えない時、

     

     

    解決しそうにない俺、って言う存在の理解に間に合った。

     

     

     

    卵、を動物園で模型でも実際見た時、

     

     

     

    もう卵を見ても心が気恥ずかしい、と言う人ほど、卵をしっかり育て上げて欲しい。

     

     

     

     

     

    今日、世界の大温泉スパーワールドで見た魚類が、

     

     

     

     

    落ち込む、という気持ちがわたしからしたらそんなに悪くない、本や音楽、映画観賞を促進する気持ちだから、元から上手くいってることは率先してほっとく、ようなところに、

     

     

    時間とは、カネやそういった知識に非にならないほど大事であるし、

     

     

    そいつの存在さえ覚束ない、覚束ないことは確かだから、それで良いの!

     

     

    そんな怒ってないのにかっかさせる程に、私に悪いことをしたんだと思う、魚の骨みたいな、見たことない奴なんや。否応なく受け入れないといけない福を想像してその話が良いと助けて欲しい。

     

     

     

    そんなやつにあんなイキらせたんや!の声が多かった。

     

    本来光のあたるはずだった人の

     

     

    私とは、

     

     

     

     

    自分でも悪くない後光(生活上の特訓による)として。 

     

     

     

     

    こう乗し上がって生きる私を活かしたみんなで、私が作ったこの体重計には乗してみると、私はささやかな夢に潤んでいるだろう。私が男勝りの女ではないことが助かっているだろう。何か、ちゃんと良いことを考えるこういう男神道という生易しいのも知識に入れていて欲しい。私の神は、美術家という気持ちだけで天空まで自惚れ、次の瞬間は荷物ごと立つくらいの大きな羽ばたきを見せていた。仏が一部なんだという予感にはあった大空を私は見ている!私は、知りすぎたと言って倦怠していないぞ! 功徳、教えと称して優しさを諦めない。今、大事な人の医学的進歩を助けてる、自信よりも弱さで進む、とか陸からする大地の鼓動、その広がりの海を見て頂いている。

     

     

    クジラが亡くなると、こういう風な遠吠えをするんだ、と遥か懐かしい。

     

     

     

    文献を見たけど、あまり手摺になるようなものではなかったら忘れて暮らしている。花瓶を綺麗に割ったように生きている私って誰?ってなる。近親は戻らないが、お年寄りが出ると一つになる。腹減った、食う感性のないやつがおる。

     

     

     

     

    私は私自身の生き方のバランスの悪さに気付いた。

     

     

     

    神は、今まで気にしなかったことを気にせんでもいいんちゃう? と言ってたわ。

     

     

     

    年寄りの、

     

    こんな考え方をするのはまだ早い、と。

     

     

     

    私のしているのは比較ではなく次の確認や!発生する感情、自惚れることと段階を踏もうとしていることと、元の感情が違うよ!

     

     

    偶然的に光った心の活動を、私が必然的に現実で塗り替えた痕跡の貯金で許しているのだぞ、ちゃんと貯蓄管理の強さに良い加減に甘えることを解って!大きな現実とは何だろう?それを考えて何とも自分サイズに纏まってるよ!

     

     

    歪んいるものは歪んいると表現する人の頭上にいるのを、良いように歪めて見せるを

     

    釈のように表現する、

     

     

    通用しない時があるってことだね!

     

     

     

     

    私として、人気欲を何のあれもなしに享受するとして、それは後で何かを伝えるでもなしに法未満を言うとして、

     

     

    私を「牢獄のような己の心」に閉じ込めたイタリアの浪人の神に、

     

    自分だけを信じて生きてる、と言われた。

     

    自分だけを信じて生きるのは私で

     

    あれが本間に悪いやつ、と分かった。背の高い考えになる。

     

     

     

    愛が正しいという考えに翻弄しやすいところを私はここで治している。この、このフレーズだけ見たら爆笑じゃないか。安くあげるよー、

     

     

    映画で観たいくらいの光を考えるにつれ、神話を生きる気持ちならなるが、人になることが神道の最低条件なのに、人とは何に頼れるかの主旨選択が出来ることで、頑張ったわたしというのが、今まで頑張ったあなたを含めて映し出したのであるから、そんな普通の人にこれからは会えない照れくささの方を大切にして、神の名残を感じることにした、私が見送る顔には何の愛想もないが、応援いっぱいの魚ダンスが心に溢れて示せているので、いっかと思った。

    モラルは細かく選んだら良いよ。生まれたモラルは持っておかな、それをあなた一人にゆうわけないわよ、

     

    私を視眼から、睨んでいた。

     

     

    客観的な心意気が、頑張り過ぎると成ることがあるそう。客観が、無鉄砲、向こうみずで好きに行く、それを

    インストラクターが嫌やと言う声を初めて聞き取れた。

     

     

     

    主体に客観性が張り付くわけないのになぁ! 

     

    そや、心意気が主体になるなんて遠いなぁ!

     

     

    自分が誰も見てない心内に浮かばせ描くことが初めて額縁になって、「旅から帰った家人」、男性のような気優しい感じだと恋人と言うだろう。但し、自分が、である。オリジナルという友達。死姦って何?

     

    この切なさを容易に青空に思う真実は素晴らしい、

     

     

     

     

     

     

     

     

    身で暇に耐える。まだ続いてるのは挑戦だ。

     

     

     

    私を魚と書いてる字と、私、は無関係くらいには「間」があった。誰か他の人を連れ込んで甘やかして遊ぶんは、浮気やなく「邪教」っつうんだ。

     

     

    いつか貯めないといけない知識は、えらい重いが、「動物としての自分」の供養になる。

     

     

     

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  • エラソ

    エラソ

     

     

    意味わかれへん、下に見られたって悪く思うが、こうも魂をぞんざいにする奴を許せない。

    初まりは、心で物事の高さを察知する人に、自分の自信の低下を伝えれなかったことと、持ち直すこと、頼っても仕方のないその人、それを考えることから始まってて、

    奴は意中には出来なかった。伝えないんじゃなくて伝えれない。

    私はしっかり見てた。虫便り、ヒト

     

     

     

    見ろよ!こいつぁ気にしてないぞ!

     

     

    フゴー…!!怒

     

     

    あ、今わたしと話していない?

     

     

    ギロリ、

     

    (横に座る)

     

     

    何で座るんでぃ!?

     

     

     

    そうしてそれから

     

    内心、負い目で一杯だった

     

     

     

     

     

     

    あったことで骨格を図る。

     

    そこに、歩いて採集した文献で肉付けをする。

     

     

     

     

    豊国神社を見て、ここは、

     

    有格の地なのだと知った。

     

     

    自分は無格だと解るのは、

     

    格のことを考えていたら、有格の山を見て、格という言葉を知った。

     

     

    無格の山を超えたい、技術に傾く条件だ

     

     

    名はサルタヒコ、猿瑠女を申す為に日々頑張っています

     

     

     

    神札は、普段から自分からねほりはほり聞いておく。誰だかつくとわかりやすい、

     

     

     

     

    大國より、猿田が身正しを引き出した。

     

     

     

    よりともつかぬ、大國は、猿田が見出しを引き出した。

     

     

    大それたことが、出来たら猿瑠女と言ってホームにする、カラス歩きでぴょん、唱え。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    技術は増えることで、覇気を頂く、と腹に合わせた手をぐっと引く事、

     

     

    これが広まれば「心のブレーキ」は叶う。

     

     

    覇気は、面白さ、世の長さ、技…、。

     

     

     

     

    国籍を問わず拾うと良いことがあるかも。こう美味しそうなものがあると、動きによっては

     

     

    動きによっては騒動が起こるを予感する前に、動きによっては手順が違う、と書くには、

     

     

    動きが違う、と、言いたいこと(希望)、

     

    素材を揃える。

     

     

    動き方が違って動きとなる、となる。

     

     

     

    言葉を、気持ちだけ持ち上げる。言葉が自分を連れていくホウキだったら、

     

     

    より身に合わせる様な理解、聞き手の精神力、身に合わせる間につけれる精神力。

     

     

     

     

    更に感情を混ぜる。

     

    料理の味が変わる瞬間、嘘か本当か分からないこのメタファーをしている

     

     

    基本姿勢、初心から離れない体力。体系的技術。

     

     

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  • 道々

     

     

     

     

    目を閉じて話しかければ仕事において力をくれる。

    神話が心的に立つ予感は無意識的にあっただろうが、一極を応呼するスキルに影響する理解が昔に消えていて、それにたいして答えないことに客観的には自然体のイメージがされにくくなっていた。

     

     

    語るにはこういう下りや凹みから、覚えると希望を述べやすくなる。

     

     

     

     

    この暫くの間、日本の神はこうある。

     

    2023/07/14

     

    祈りの方法(擬宝珠など)

    先駆的に神社の多い日本だが、神解りにある程度の平等さがある。今、私が生きていることが、伝えも伝統も、どの国の人も同じ時代という観点から、神を知る。新しいと思うのは、いろんな別の国の人がそれを何と驚いて知り、新しいことにたいする構え方と道だ。

     

    道は、この時、いつでも傍にあるものだと

     

    ここに続してるから、自分という個でしかない私からする意識体が、どんなに小さなこれを聞く。

     

    初心も心のブレーキも、訓練なのならば、憧れる蛙の様な対象を目掛けて実に訓練なのならば伝え遅れるところをその場で拾っているのである。この間に合わせのようにやっていくのは劇化で知っている通りの特別な教えで、この忙しなく間に合うことが恒常的なのだ。何故なら全盛期の夏は野原にて勘があった。次は名を馳すという。その次は休み。勘がそのままブレーキになった頃より、

    自分が選ばれなかったことよりも聞きに行くことは、常に伝えている。私は、そうがどうすればそう伝わるのか考えて書くのは模写している。今言ったことを次に言っても遅い。ニュアンスの違いを見分ける程人は敏感だ。

     

     

    この時だと、躾なければ思い出せなかったのではないだろうか。でも、この時にこの時だといい点呼する限りは自分は偶然、副次的存在である。自分の計脈を辿り自分が自分であるとこの時言えるのは必然であるが。これらを客観的にあやふやにする嘘が、リカイの為の仮縫いとして読むとどこからともなく始まったであろう布が健気にヒラヒラ浮かんでいるのを見る。それが真だとして書き進めて行く態度である。

     

     

    間違わされた~をOLが嫌みなく言う、これを嫌みなく言うことは難しいから目はっとした。天はシンプルに理解していて、無意識体で動くことをする心行を、般若心経を知らない方がやっている。

     

    無意識界は、その価値あるその所で奢り高ぶらない事が本陣であると言える。

     

     

     

     

     

     

    次に自分の話、触れ合っていてもこちらは自分のことだと取り掛かれることは運動会で覚えた身体性による。懐かしいと思う人もいる、どこかがいい加減動けない間は動いても仕方がない。こうしてても出来ることを確実に増やしている身のことを新たに書く字の為に忘れず自信にしておきたい。ちなみにこれはあやふやな間に何も触れずに建てれるしずかな電話ボックスだが、教え方と言うと捕った魚を、端のアラもだしにしたり、そのまま塊ほど大きくスープに入れたり大切に食す。それが本当の贅沢なのだ、と言って来たが、食べ物屋は蟲ーが来たら完全に閉めるものだったことから久しい。ま、何をしたかと言うと、昔は男子も裁縫や花生けをしていたと言うこと。自意識強く、こういった才能を諦める態度こそは大きな自尊であるが、最後の問いかけから方向性を考える。私はここで、自分という意識を持ち、精神性の自負から帰る。

    勘違いを続ける人、という外側に向かう為のキャラカードを引き出す。私は詳しくは解らないが、物語という土着にそっくりと馴染む、人の生き方について着眼があるのだと思う。感じれる完全な社会性をよそに、何か覚えていないといけない自己自身。空気の毎日変わるなかでついて行ける。実体がどんな風に存在しなくても、間合いに真剣な気合いだけはそこに残し記憶に残しているだろう。こうわかって初めて、多分きっと自分とは違うことをしてみようとしたのであろう繊細なシルエットを思うと、全てを間合いに託すことで社会も迷わない決心がついた。

     

    言いたいのは、思いがけずも多く著名そのものよりも人が凄いということ、感覚とは道が平坦になっている敷地に生まれていても、遠いならより心掛けをし生きる、向かって感じればば伸ばすことが出来るからだ。伸ばせた結果こそ、自知の小ささたとえそれであっても嬉しいものだ。

     

    こうした再び捉えることの出来た観点から、前に立つ希望の人に希望を与える、自分の中の神が増える、そう伝えると落ち着くものだ。自分の中の神が増える、理解の良さを日本人の私たちは一つになり言葉を掬い出している。

     

     

     

     

    言葉が小さくなってすまぬ。🐜

     

     

     

     

    さっきのここから自分の話。

     

     

    蟲(ム)ーが、点々といて、敷居を大事にする観念とともに、端まで大事に思う「教え」から、自分とした「私」は蟲(ム)ーじゃないが、想像も意識の方向も地球の公転が関連しているのか合間って、創価の池田会長は蟲(ム)ーだが、(わるいものを地球は早く集めようとするから同じ箇所に2体いる。)当然それらは、強い肉欲で神を嫌うから私たちの意識は神社に行く道の行く行かないを間違えてしまうことが多すぎた。こうして神社は、最近まで敬遠していた。江戸時代でもそんな日々が続いていて、何故なら、当時は国柄の鎖国からよそを知らなかった。当時の釈迦からは、国に外がある、と聞いてかなり驚いた頃だ。「でも、何かがあるから私が知っても意味がない」とする方が多かったと聞く。それはそれで広々としていたと想像で思う。

     

    日本の拠点となる山あいでは、考えたこともない急に浮んだ客観性だが向かって、神にめちゃくちゃ詳しい人々、という考えたこともない~、

    が、山のこだまにあちらこちらから響く。ゆうなれば、誰が誰といってもそこまで話さなかった。恋や愛だと呼称して人にたいして暴れるものを国を無関係に掃いている。

     

    あれがあかん、これがあかん、その声は枯れていて目立った。春、新芽を生やしてほしい。自分も落ち込みから直り、すこしだけ容姿的なって考えたら何か増えるのかな、減るのだったら嫌だな。自らがする、思うというのの客観的な態度の示しが、自分もわかる何か凄い大事な礼儀で先だったら、幸せとして修行の肥やしや、上向き、人生の上達に易くなったら気が向くな。性交渉がもしあって、伝え方がこうなる程には仲そのものを展開して来たのかな。

     

    実直でなくなるような、性格と反する本質的なことをがらんどうに空けたら

     

    何か得るには、何かを捨てなければいけないことが、劇的に昇華され、必要な誰かその影、その神の生き方として思うことに、未知なる世界の世界観のエッジが磨かれて研がれて来ている。研磨という、あらいと、とぎの

     

     

     

    仏教の勤行をは、決まっていつ読んだら良いかわからない。上からそう伝えるのだろう。そして、題にたいして何の決まりを知らない実存主義的態度から、独自に話しかけていく素振りには仏の存在がしっかり表現されるだろう。いきなり行っても理解できるわけない著名寺院を感じていると、確か金閣寺は何もなかったが、京風でそのそれだけを完璧に表せるという。

     

    そう、私もたしか一人になったのはそのへんだ。どうか私の考えをお守り下さい~

     

     

     

     

    何かを、あれに素早く伝えるには日頃の慣れた自分が必要。

    「一人」にどうしても、頑張ろうとかやっていこうとか、はいらないのだ。やっていくには、力みは必ずいらないのだ、やっていく気あんのか、自分でそう思ったことを悔しく思ったらあかんのだ。そう、あれは拭えない自分史上の汚点。甘えたりしたのは、同じ国の人だからとゆうそんな頼りや、国の人だからじゃない。もっと違う単調な感情の吐露のような。感情とも違う。そんな人はここ現地にはいない。聞いて想像を膨らませるが見たことはない、話し手も見たことないとひたすら騒いでいたのだった。寡黙な人も怖しいとちゃんと思うのだった。

     

     

     

    彼らの身体性を見る限り、世界観には到達してたと思うで。動物がいた。良い霊だった。自分が直せる自分のことを言っていた。自分が動物を上回る人間をちゃんと目指してること、蟲ー退治の可能な人だと言ってた。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    気持ちが波打ったり、高鳴ったりドクンとするのは、その土地感にある、海神だ。実際にプールでも浮いてみて、重いものは下に行き軽く浮かぶひかりの体を覚えてみよう。

     

     

     

     

     

    神様に、あれはなんですか?と聞いたら、直で詳しく教えてくれると思う。

     

     

    もっと知りたい!こういう悩みでこういう解決を望むよりも、希望を聞いてくれる。

     

     

     

     

    そういう風に、純粋に興味に向かえたり、

     

     

    持っているこころの運命感などの

     

    不思議な解消が起こる。

     

     

     

     

     

     

     

    様々な伝承のあるなか、想像の真実が曖昧に広がっていくようなものではなく、人間の厚みのもっとしっかりかりある考えに想像の源流の神がいる。目に目映いことだった。何とかしっかり自身が人生に定着して、自分の現実色に取り入れようとする。目にこそ目映ゆかったこと。

     

     

     

     

     

     

     

    日本にいても、同じように理解する人そのものを眼前にする、我らには我らの受難があって良いと考える人の方が多い、考える楽しみで一杯だ。

     

     

    こんな私を、哲学家はどう思うのかひとしきり鏡を思っても、

     

     

    学問的なことは実際気にならないおとうとの方を見ている。

     

     

     

     

     

     

    アジアと言う明るさに向かえない人を見ている。仏を感じていたら神を交え、このようになり知識を取り戻している。

     

    自分は大穴牟遅神、神のポケットの中で色々被ってるが、

     

    今運と天運が二つある、このうち祖が心を守る故に自分は予想だにせず決められていたこの季の希望(キノキボウ)である。

     

    神社に行くと、「この日は有名」と言う。故に待ち構えていた精霊が多い。

     

     

     

     

    儀式が本当に儀式になる時と、神仏の違い

    2022/09/24

     

    蟲ー

     

    生活をする事も大切な儀式。

     

    「紙垂」と言って、これは人の角が大切だといっている。

     

    人の角が大切だというので、人の即ち良いところをムー本人が知らず知らず削ぎ取ったことがわかる。こんなにムーの仕出かす悪いことを覚えている。神は、心に叫ばなくてもわかるから楽しい話をしたい存在のことを、説明するには、脱力して自分のチューニングをとり、「良い加減」での理解をする事が、何かを叶える。何かを聞く為の澄んだ耳をし、佇みをすることで自が叶えたい事を叶えると仰る。お救い下さい、と、願うなら自分の知識を備える事を教える。自分がまた、毎日、人の努力をしてから神と遊ぶことが出来る。

     

     

    仏が在る、私やあなたの心に有るなら、

     

    この限界の中に天上界と言って、

     

    愛されるよう、の言葉一つでもめっきり角が痩せたと思う。角が取れるは良い時の言葉にして全然違う。

    都としては東京より先輩の方である。何が都会かわからないが心ってやつが進歩的だと言う意味で、稲の高さが有る田舎のほうが島の都会だと言うだろう。私は東京訛りがあるが、生まれは大阪だが間もない時に区内にいたことがある。新宿、渋谷、町の響きを親から愛する時間や、そういう美しさを孤立して願えたとき、関西は、感情の幅として埋蔵金のように詰まって、大ぶりに喉を詰まらせていたんだと思い至った。知らなかった感情が有るらしい。お構いなくどぞ良いから知ってほしい。大阪人が期待に弾む胸とは裏腹に、現実を歩く自分には社会が有って、先に守るルールの有る中で必ず会えると思う。願い、それが、誰かであっても仲が先立つ本土の中では惜しかない筈だ、と、別れないようにを願い凌いでおく。この中で、自分が、どこかで役に立とうとする自分よりも、どこかに行って学ぶ自分の方がしっくり来た。「自分、自分」と言わなくて済むから、世話を焼いて貰いやすくなるからだ。

     

    神の悪いとき

    こんな言葉をどう思うだろうか?色んな解釈をして良いことだ。視線を瞼を閉じ45度下にして避けるのは、自分の知る佳(よし)のないことに対してだ。

     

     

    想像力は、良いほうに届くのだ。神が気を流せるから地震と言って、人には命が有り、気を付ける事はお守りになるから、いつも逃げることを考えたい、逃げることまでを考えれて、徒労しなくては進歩出来ない。

    怖さこそが、人にたいして良い意味で有るが、程よく「嫌う」この正しさ。

    一方が、

    恐さ(したごころ)。自分がこれに負けたまま自意識がないと「いらない」と思われる。

     

     

     

     

     

    アッテルは、祈りの時と人間の時の両方があると思う。これをIと云えるなら、いちにんで有るなら愛に慕う。不思議な言葉だがそう思う潔さが有る。

     

     

    自分の強さの邁進を、寺に行ってお願いする。「どうしたらいいか?」思考を、神社へ散歩して伺う。「自分」にとって、寺って何を対照とするだろう?神社は何を、どんな考えを対照とするだろう?

     

     

    「心の中」を、優しく思い描いて頑張る。

     

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