揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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  • 「わたし」とオリオン座

     

     

    心の中の、夢里に向いて

     

     

    私は「わたし」と言う言葉を確認する為、

     

     

     

     

    今日は、椎名林檎の歌と、宇多田ヒカルの文明文化的PVを聴く。

     

     

    椎名林檎は、南宗の方、更に大国主神の許しから薬師如来の「箱」が光に映る。

     

    歳を取っても、宇多田ヒカルは皆好きになったもので、良いものが甦る感覚は、素直に嬉しい事。

     

    パッション、と祝いの詩

     

     

     

     

    人間が星を鳴らしていく間に神が出来て

     

    きちょうめんに思うラインの確か

     

    それを目に見て

     

    であっても、

     

    ~だから人間は偉い、といことではない

    のは

    万物にしても可能性のあるなしどころかわかり切ってる

     

     

     

     

    神の瞳から、僕の星座を考えている

     

    ほんものの星座とも違う

     

    水瓶座になっても探す…

     

     

    「わたし」は、

     

     

    佇みもして欲しい、

     

    詫び寂び(ワサビ)の道

     

     

     

     

     

    ゴム制型のブレーキ、

     

    (自分の)ツライ時こそに何か熟語を持ちて、興奮を冷ます、熱を冷ませる。

     

    無心↔️作為、心は、

     

    無心。

     

    無心。

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  • 許さない

     

    許さない、とはどういうことか、

     

    覚えてやらないと言うことである。

     

    あった事をそのまま書きレンズでくり貫くと、そいつの存在しなかった現実を見る。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    あったことの記録までは「自分」で、あやふやな存在を浮き出して落とし、そうじゃない事、人、を考える。

     

     

    祓いとして以下三点を実戦している。

     

    霊にはまず「入るな」を伝え、

     

    後は天声を身近にしますようとお祈りし、

     

    これからも生きていけるような帰り道を言う。

     

    今いるのは帰り道か被る最なか、諸(モロ)という。

     

     

     

     

    精神的力やその研磨でも、

     

    目にこそ見えないが、見えているものを見たときにそれを続けて「見たい」と思っていた頃に憧れていた力が付く。この感じ。

     

     

    力んで念じることや、欲のあることは、それだけで重苦しく力に制限がかかる、それだけで沈むからだ。天力に肖っている間で人を痛める、そいつのその力が通過しないと解りそのゆとりに存在性、恒常がある為、放置し、

    自分に人に「異常性の弱い頃」その間に

     

    いくら善意とこういった外部お化けに微笑まれ、逃がす場合のストレスとなる時間は、出来るだけ短縮させたい。

     

     

    憑かれやすいとは、

    異常なものの方と一心同体になるのは、異常性の知りが弱い、

    正常なら、自分を優しいとは考えない。

     

     

     

    意外に、人間が使えるとなるとその浄化を通るという幻の力は、フォルムがくっきりしてたのだ!

     

    色彩とか鮮やかさを連想するそれらならではに、きっと言葉や思想がある。

     

     

    「自分が何かした」って時は黒い光に見えるだろう。しかし、人は失敗しても、人は大体、天部に守られている。見える、これが霊感となるなら意志がある。

     

     

     

     

     

     

    ない可能性を考えるのが無駄で、ちゃんとした説明が遅れた。

     

     

     

     

    自分の目標にたいしてもっとあれやれこれやれ、と投げてくれた親もいる。

     

     

     

     

    そこに、人の上でこんなことがあったと、重い図体で長い話しをする、外部お化けとは、それだけで見えたら引いても良い。

     

     

     

    客体の存在する、まずい意識に取り組まないから、「スゴイ人がひとり」出ている現象が起こる。駄目な意味、「仕置き」として佇む現象学が見れる、仏世界を感じる。

     

     

     

     

     

     

    不思議な鏡

     

    死んだ人の色んな人

     

    色んな人のいる世間

     

     

     

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  • 総合化(編集)

     

     

     

     

     

     

     

    こうだ、と信じている身体に

     

     

    「節」が描かれたとき、

     

     

    ことごとく落とし込まれる精神は、

     

     

    明度の意識を境界線に、

     

     

     

    合ってしまった、

     

    惜しげにも馴染んでしまう、

     

     

     

     

    そこから心より葉緑体の光自身が月ほど昇り、

     

    そこから葉の色彩を帯びた体は「力」に出会っている。

     

     

     

     

     

     

     

    ★重要★この文に、頭を絞り「わたしの目的」というラインを付けた後もう一度書く。

     

     

     

     

     

    こうだ、と信じている身体に

     

     

    「節」が描かれたとき、

     

     

    ことごとくその身体に落とし込まれる精神は、

     

     

    明度の意識を境界線に引かれ、

     

     

    感想の態度として、

     

    合ってしまった、

     

    惜しげにも馴染んでしまう、

     

     

    こういう、

     

     

    そこから心より葉緑体の光自身が月ほど昇り、

     

    そこから葉の色彩を帯びた体は「力」という瞳に出会っている。

     

     

     

     

     

     

     

     

    ★教えて良いのかあやぶまれるが、目的とするラインがいくつもある場合は多いが、紙に一つずつ並べると、幾つもあり全部ひっさげる事も、出来る。

    時間はかかる。・

     

    全て書く、には、ごちゃごちゃな心を一旦紙に出すという見渡しの目的とする秘密の下準備がある。

     

    厚化粧(笑)、厚化粧は元から流行るのか、型でもなく、表面性といっても乏しい。行動するその主観には反した抵抗がない、その著しさがあり、実際、主体として今見分けてる。

     

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  • 遊びに行く兄者、家にいる私(編集)

     

    実際を通した夢日という遺産

     

     

    現実を強く養う者には夢が見えるらしい。

     

    自分にとってその概念は、永遠の輪、とか、裏表の繋がりがある程度円滑に出来ているメヴィウス、精神性、物自体の精神、

     

    こういったことである。

     

     

     

    だから、

     

     

    なにかをしたあと、受け答えできるかの勇気。

    各々自立した言葉と言葉の間を埋める、実際の行動。

     

    (「ホンマモン、ホンモン」という弔いがあるが、墓の立つ畏怖にたいしては、理由として考える余地がないからだ。生きているのなら考えよう。)

     

    言うけれど、これは、どんな本を読んでも掴めないコツである。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    その夢日の中で、ごにょごにょ喋り続ける、と言う「言葉」そのもの、は確かにある。物の丈の長いは、その負を浄化したり、挽回する抵抗を持っていると言うこと。

     

    お城の言い方であるが、

    客観性ではないものに、主観にとどまる「客観」がある。

     

    それは単一の間延びした主観をどうこうと、次は興奮するが、躱したり逃げたりしながら「聞く耳」とはこう持たなければいけない。

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  • お仏像

     

     

     

     

    好きな仏像を選ぶと言っても、守護神は各でも宿られる。

     

     

     

    物に真面目な人ほど気付かなかっただろう。

     

     

     

     

    木が良いか銅が良いかは、普段着込みを期待し試練を飲む我には足が軽い。私が説明しでも損で、それは、好みに求められるポテンシャルスキルがないからだ。

    それでも言えることに、何でもショップ店員に聞き渡る、という特訓が良い。

     

     

     

     

     

    「位」とする場合、客観のあるなしは成り立つ位が必ずある。これは仏語て

     

     

     

     

    創価学会とは人付き合いのことを千度言い、一度で良い話が聞け勉強も出来て拝める、その1000パーセントのわたしを求め、次に嘆く様は大阪さんそのものだった。皆と協力を銘打たれ、気にしていることがあるらしい。池田会長と日蓮の上の一人が蟲ー。

     

     

     

    仏像が好きだ。

     

     

    お仏壇には、好きなご本尊をおずおず置いていた。その一つにあるのはお不動さんである。日蓮系の家族を立てるため、やや自身の信仰の為、そのご本尊を真似てみるような感じ。

     

    自分にわかる、感動した字の意識からも、交信、心の痕跡が上手くいき、念じることなく心を輝かせる。

     

     

     

     

     

    迷ってはいない事がある。

     

     

    色んな良いものが店には置かれている中で、

     

    あれが良い、これが良い、やっぱこれが良かった、こう長い間ぐるぐるしていても、辿り着く時は最も優れた用意をするだろう。

     

     

    宗教について話すと、暗い影があるが見ると大きな楠木があった。村とわかると良く映えた。

     

     

     

     

     

     

     

    仏像の利点

     

    仏像という、何とも見ている側のある中の意識を持つ事で、人に繋がりやすい精神を作れる。

     

    神は、自分のタイマンが何かを知る為のリセット領域。そこに相談という忍耐がいる。人が崇めるものだから、間に人の「言葉」が今あるのだろう。

     

     

     

     

    蟲ーがちゃんとかっこ良く見える時があるのは、コロした人の表情。

     

    蟲ーが一生見つからないとも思える所に逃げるのは、逃げる為に生まれた人がそこに隠れないわけがない、自分がめちゃくちゃ必死ならを想像するという意味。

     

    蟲ーが面白いマヌケの素振りにたいしてそれを疑ったが、その一瞬は本当だった。

     

    蟲ーの中身は常に汗だく。ムッとしている。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 客観性の聖

    前前述の学習にたいして世界世知の格差、これから言っていたが、

     

     

     

    この段差自身が、自身として正か、又は負である。

     

     

     

    正とは、それそのままで、対象と噛み合いが付けれる。無格としてあってもこう意味する。

     

     

     

     

     

    光そのものとして意味する、出現する可能事のなかの、

     

     

    心読は二曲がり三曲がり以上するそう。

     

    誰もまったくしなかった。

     

     

     

    最も「フラット」と言えるようなほぼ立体感のある物として認識するのではなく、慌てたのか、

     

     

    単なる紙と思えるような平面横移動をして、

     

     

    身を引き裂いた。

     

     

    線と面を丸ごと含めたことをフラットといって、簡潔に纏まった語の存在にも驚きがある。

     

     

     

     

    華道のある陸、を見て、村社会である自分を知った。

     

     

     

    内向性のある「うち」に「あの人」が来る、それを思い詰めていた。

     

     

     

     

     

    思うことのアウトラインがはっきりしてると、癒えるときにすっと直る。

     

     

     

    思うことのアウトライン、影とは、

     

     

     

    自信のこと、自意識を自意識として認めたり、

     

     

     

    自分にある問いを整理しておく。

     

     

     

     

    こういった

     

     

     

     

     

    自分一人で出来ること、全体感が必要な事か全体像が必要な事か、

     

     

    向き不向きの「ついていくこと」に対して、

     

     

     

    他、見る側としてほっといて良い、が分けられる。

     

     

     

     

     

     

    自分にある問いを整理しておく、

     

     

     

    こういった事柄のこの意味でも、客観性という言葉の登場は、めでたいものがある。

     

    生んでからが大変、と聞くが、

     

     

     

    頑張って行きたい。

     

     

     

     

     

     

     

    言葉も荒らしいが、

     

     

     

    哲学、生きる上で考えることそのもの

     

     

     

     

    それの万遍ない聖の「子」。

     

     

     

     

    普遍な大きさである。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    森のゆとりの中、

     

     

    してしまったことの手延べとは自分だけの中にある負を検討するである、それをすることに

     

     

    必ず出来ないことがそこにあって

     

     

    差し引いて出来ること、起こること、

     

     

     

     

     

    起こることに

     

    その理解が揃ってる

     

     

    この意味で

     

     

    手助けが間に合ってると言う定上のもとにいる。

     

     

    効果、修行がすすむ。

     

     

     

     

     

     

    今は、一人のときに自意識を透明にすること、

     

     

     

    思い出せるというよりは、

     

     

     

     

    蟲ーというだけで外見上が最悪で、

     

     

     

    無理という答えがある。

     

     

     

     

     

    思い出さない、思い出せない、

     

     

     

     

    ここに否定出来ない悲しみから始まったその言葉としている。

     

     

     

     

     

    蟲ーは、うざい人間ではない。

     

     

     

    だから抵抗として確かにフォルム化し、

     

     

     

    その間の自分の精神性について研究したり、

     

     

     

     

    確認、という行為そのものが研ぎであり、

     

     

     

     

     

    向上を忘れない。

     

     

     

    「約束」に自らの行動を返還させる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    キリスト教のそこから派生する芸術アートは好きだか、宗祖キリストの霊光を見たときに考えは嫌いだとはっきり思う。こう親しみがあるが、あなたは親しみを愛しますか?

     

     

     

     

    十字架を、

     

     

    日本はやや斜めに倒して、置き方としての位置から、物を倒すという身体と、物自体の栄え方。こういった象徴の方法が存在する。

     

     

    ~文学的に、土着の思うそれからの理解~、では、こういう空間法の形に非存在の事物が確かめられる点がある。それが、否定事としての認識が起こされる「それは現実ではない、という意味ではない」を、おさえ風化の阻止、それとしての苦みは生みと祝われる持続。

     

     

     

     

     

    こう知識する聖典を。今から読む。

     

     

    理解の仕方があること、象徴を信じるこの意味が、仏境涯の考える、文化する事のアプローチから、

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    チョン、といった軽蔑語が存在することを、その意味を解読出来ている。

     

    中国人でもない、日本人でもない、韓国人(この時、朝鮮半島全般)でもない。

     

     

    否定にたいするこのことば、

     

     

    妙味、がここにあることが詩に現れるのを見ている。

     

     

     

    「黒いもの」が浮き出るが、人知にたいして美しい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    総体があるこういった事は、皆を誘いたい。

     

     

     

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  • インド学習、常自分

    伝えておきたいのは、

     

    自分が平均化という作業が出来る時、自分が違うものにたいして考えているときの文章は、

     

    わたしの顔、「わたしの表現」を何故にか現せて楽しさを感じる。

     

     

    こういった顔など自分の前にあるものとして、一定の警戒について予感があるのを心に見る。

     

     

    良いことがあったら、悪いことがある、として、

     

    良いことがあったら、問題が起こることを観察している。

     

    驚いて凹みの出る部分である。

     

    24hバイト、仕事、そんな何でも揃えたい宇宙コンビニをその光を見て、

     

     

    無関係だと思っていた諸の事情や、理解できなかったことがある。存在する。

     

     

    もっとも、重要なのは、

     

    理解できなかった、ということに自信を持つ。この一つの手間である。

     

    理解できなかった、という過去を芯に

     

    自信の形成出来る。心強い自分になる。

     

    いい加減には、

     

     

    良いことがあったら、抵抗あることがある、として学びたい

     

    学習という言葉が、深まりを始めるのだ。

     

     

     

     

     

     

    方位の鬼門というのは、そもそも厄払いをしたり、悪いことに対しての抵抗力をつける、

     

    減点ではない、と言う意味がある。

     

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  • 詩の活動

    詩を愛していると、蟲を気にせず人が入れる

     

    ・蟲がアッテルを照らしたもの

     

     

    地蔵がはいってるかのようなリュックと

    死体でもはいっているかのような重いスーツケースを

    ウヌウヌいいながら

    もち上げていたら

    やさしくて細いお兄さんが荷物をグッと持ってくれた。

    その時、なんて自分はズルイ存在なんだろう

    と泣きそうになった。

    出口に到着しても、彼が荷物をもってくれて

    本当に自分はなんて駄目な奴なんだろうと絶望した。

    これから自分でなんでも持てるようになる。

    だれかに甘える癖、本当にやめたいんだ。

    絶対、強くなる。

    5階でもエレベーターは当然ない。

    新しいお家には、

    メキシコで買った変な人形たちが

    お出迎えしてくれる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    ずっと外にいると知らないあいだに手が真っ黒になること

     

     

    あなたは知ってるだろう

     

    爪の中まで黒くなること

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    ずっと外にいると嫌な顔をするだけじゃなく

     

    わざわざ鼻をつまんだりする奴が現れること

     

     

    あなたは知ってるだろう

     

    どんな姿でも、話しかけてくれる人がいること

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    どこにいても話しかけられない孤独な時や場所があること

     

     

    あなたは知ってるだろう

     

    ニューヨークの町だけが特別なこと

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    ずっと内にいると気分が滅入ること

     

     

    あなたはもちろん知ってるだろう

     

    それでも前よりマシなこと

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    ずっと外にいれば汚いものが一瞬で分かること

     

     

    あなたはまえから知ってる

     

    自分のためだけを考えるのはいつだって汚いこと

     

     

    あなたは知ってるだろうか

     

    身内や友人以外にはみんなあんまり優しくないこと

     

     

    あなたは知ってた

     

    それが優しさでもないこと

     

     

    あなたは分かるだろうか

     

    あなたはきっと分かる

     

     

    外にいることも

     

    だから内にいることも

     

     

     

     

     

    ・蟲がおっちゃんを照らしたもの

     

    悲しみを背負った人は美しい

     

     

     

     

     

     

     

     

    昨日まで憂鬱だった毎日が

     

    君と出会ったことで

     

    まったく違う世界にいるみたい

     

     

     

     

    いつからか

     

    いつも頻繁に会っていないせいか

     

    人と会うには勇気がいるし緊張もするし

     

    会うだけのために、金髪にしたときもある

     

    自分に気合いをいれてからじゃないと

     

    人には会えなくなってた

     

     

     

    当日、相手がなにも考えないで

     

    適当な気持ちで現れたり

     

    キャンセルだって当たり前で

     

    元気かどうかみたかったからとか

     

    他愛のない話をした帰り道

     

     

    なんだかすごく悲しかった

     

     

    それで会うのが最後だったらどうかな

     

    あしたは死んでしまうかもしれないし、きょうかも

     

    それを毎日思って過ごして

     

    「また今度でいいか」

     

    なんて思いたくない

     

    会うなら、もっと特別な1日にしたかった

     

     

     

     

    こんな風に考えても

     

    なにもしていない自分が

     

    何を言っても説得力はなくて

     

    どんどん自信がなって家からでられなくなった

     

    少しのショックでさえ、たえれなかった

     

     

     

    心の中をめくって話すのは勇気も時間もいる

     

     

     

    ようやく少し外に出て働けるようになった時

     

    人と会話するとやっぱり傷つく自分がいた

     

    だけどある日突然君は新しくやってきて

     

    慣れない仕事に追われて

     

    休憩中でも会話ができなかった

     

    行動も仕草も喋り方だって

     

    なんだか気になる


    なにも持ってないと嘆く君は

    なにか持っている人よりもあきらかに魅力的だった



    映画にでてくる主人公みたいに君を眺める

    君は特別だから、いわなくても分かることがたくさんある

    どの時も特別だった

    君は会う度に特別をくれたはじめての友達
     

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  • 立つことと、歩くこと

    あなたは神に遊ばれている。と言われると

     

     

     

    プライドが摩擦される。

     

     

    摩擦、という喜びに認める心がある。

     

     

    軽やかさがある。

     

     

     

    安易に傷付いたと言う。安易に生きた人の体に何かを置きかける。

     

    自分を神代だ、とは、神代も思わない。人は感じ取れる心が少ない、

     

     

    自分は闇だ、と名乗る人も同じ。

     

     

    そう呼称するのは光を意味するもので、そう認知出来なかったのだ。含め考え照らす方から言うと「闇でもない、非人」となる。

     

     

    私は神と遊んでいる人だ。

     

     

     

    憧れているなら自覚の力があり、憧れているだけのうちに、間違って犯罪などをしたら闇に見つかる。それは、決まって決定的だった。菩薩や神、果かりしれず境涯を現す心がある。

    心の菩薩を実際見た時、こういったとき受ける感触を闇と言う、したがってそこに神がいる。そこに(ム)蟲ーが同時にいることが多い。とても未知だが自分に可能性(純粋な可不可にたいしての言葉)はある。想像している人間の自分がいて、想像が成り立つのだから、想像出来る宇宙人が対象としても形を伴って存在しても、自分をその突拍子もなく特別な宇宙人と思い何かを破る事は「ない、非人」なのだと思う。

    のめり込んでは、気が弱い。そういった者の現実像が、こうわかったら、どんな大きな肉を付けて見えても、揺れもしない実像が「視える」。視力が、

    自分のたった一つの展開によりある。心も善意もかなり小さい実像を感じる自分とは、自尊の自覚があり、厚みがあり、さい

    分別式が解った。

     

     

    「動かなくなった心」が町を歩いていても見つかる。山と道、工場、これらがあり柵で道が塞がれる。柵横幅三メートル。一つだけ外すことで、

     

    悪いことを考える感覚、道自体が動いている自然と側にいる気持ち、

     

    このような心に光を当てて、柔らかい心身を、子供も大人も育ってほしい。建物自体自然とするなら、スクナビコというまた神が、地球のことを教えてくれる。

     

     

     

     

     

     

     

    剣道は自分自身を当たらせるのを一度に何度も練習する。当たって痛い、痛くない、これくらいだ、と言う安心を体得する。

     

     

     

    単純な動き、自分の体を動かすこと、を繰り返し、

     

     

     

     

    記憶に高められることが出来る。

     

     

    剣道が心だと言われたのは二次派生的大切な言葉として、単純な動きを繰り返すことに、そこに重さがあり、見る目がある、と言われる。

     

     

     

    天も、「座する」を心して勉強されている。

    目がおかしくなって退散、今現在は、光が「視力」にたいしてスポットが当てている。

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  • 三と言う神

    「こんな時に」こそは、恵まれていないわけがないと知る。思えば思うほど。

     

    良いもの、について日本は良く知る。地球が

    、こうあることや、自然の美しさにたいしては、既に表現意識を始めてより長い。近くにいるからだ。

     

    こういう性格だと若さを言っても、いつか歳を言うため

    損保にとしても柱がこうあって良かったと思う。個人的ではなく、普遍の了見がある。

     

    負を退けて法(うちゅう)を立てる、水ではない灯りのある面時もある。負にするは、目的にたいして共通意識だから精神的起点とするのを逸れない。

    上空には千年見てきた菩薩だけがいる。菩薩でもしていない確認をする、その時点で「ヒト」というカタカナの素っ気ない過去世に帰されるのだろう。心力あって、手が延びても先祖霊などは普通に避けられ助かる。

     

     

     

    祈りとしての面からサッカーというスポーツを知ると、オフサイドと言うアウト規定がある。

     

    心的にオッケーラインとデッドラインの極みは簡単にされていて、際は至ってルール説明を聞いても不理解解釈で進む。

     

    観察力と、身体的研磨が増やさず減らず、その実践でしかない。

     

    罰でも何でも持って持ち場で待ってる方に渡しに行きたい。

     

     

    仏教経文にも三回復唱するの欄があるが、民と離れない党理念のように今という時の基本を念じるのは、

     

    真実は、自身が絡まる何かが絡まり続けている。そこから投げられたことばではなく、自分に掛かった問題だ。自分が咀嚼しに行く。自分が理解しに行く。相手はここにいない。この間、出来る想像を知らないから黙ってる。相手などではなく「問題」が有難い。世界を変えるのは自分の他ない、この哲学的理屈が起点なのだから。成長する自分が生まれた理由なら、小さい時から育てられた自分よりも、こういった難読的セカイの想像には合点する。だから、芽生えた情は、この先で遇えると信じていちいち洗っても、自ずと良い色になった。

     

    周りをよくする。わたしは周りから言われて来てる。

     

     

     

     

     

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