揶白 (KF)

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揶白 (KF)

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  • 役場と、図書館は隣

    物という、くっきりしたもの、これは古来は「虫」といって、

     

     

     

    親しむべき霊なのだ。

     

     

     

     

    こういうやつだ、と天にわかってもらっていたら、信用としての安全的な態度を示している事になる。

     

     

    街並みでは、明るい空想を友にして歩く。

     

    光とともに、

     

    道を歩いても、空想途中の私ひとりの感じと添い寝人、わたしの霊なるセリフの吹き出し、

     

     

    視覚的には村人という目に見える仮世界、背景的な私という言葉、同時に、話しかけたら話すことも出来る現実世界。太陽信仰としてはこのように存在していると解る空白が有れば、時には空間のゆとりもある。

     

    隅から一つ一つを大事にし、

     

    総合した、と言う意味の「霊」が表現されている時、

     

     

    実際の背景にも馴染んで溶けている形を見つける。

     

     

    しかも、形にならない。

     

     

     

    それは無意味なものが、心を彩る様子。

     

     

     

    人の様子が鮮やかなのは、

     

    意味がない、とか、意味を失くすとは異なるから、それを楽しむ。

     

     

     

    それを、驚いて制するのも、

     

     

     

    また許可しているのも

     

     

     

    また菩薩や大霊なのだ。

     

     

     

     

     

    時折思う客観的断辺を、貼り付ける部分を変えたら、メディウムに掛けることが出来る。

     

    街をどうやって「村」で訳すか、

     

     

    と言ったらどうだろう? ある想像があるのをこの目には見える。

     

     

     

    無機質な妄想を押しどかすと、有機的想像が芽を吹いている。

     

     

     

     

    巷で流行っている霊歩行の心配は、

     

     

    もともと取り込み中の内心の周囲を、整理するには使えない変なものを除く。霊の身だしなみに注意しなければならない。ただ向上といった事を主とする広義の霊は、モラルをがっと引っ張っている。何と言っても、モラルをモラル「性」といった人間理性に昇華するためだ。抑える、我慢する、これは動きあるものとして、何もできないとは真逆なんだ。

     

     

     

     

     

    自分の部屋を作る行為が好きな私は、片付けたい思いより、変なものを見つける事から入っているので、余分な客観態度に満ち人のことを一掃したい気持ちなどはとうに跳ね返る。

    なぜこうした方が良いかと言うと、邪(よこしま)なものから退けることでわたしはこうしたいがゆっくり現れる。

     

     

    変なものより、

     

    落ちてる文字塵紙から、一個貰っても誰かを思う事が出来る。念に繋がる。祈りがすすむ。

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  • 次ぐ人と次がない人(編集)

    私の金柑。それに、戸のステンレスの良さを発見している。

     

    このところ、釈迦紛いのアッテルの蟲ーが威勢を張っている。

     

    「次のため」と言っているが、私はエスカレーター式のラクチンな世代があっても良いと思うのだ。それはしかも、成功を授けるのではなく、失敗を恐れない所から来ている。

    これと、としても自分がだれたのは、自分たちのせいだし、私の方にあるしんどい気持ちは紛いもののことで、ハイを楽しむ私には生活は守られても体力など庇われるのは辛すぎ。蟲ーと分かった後に出てきた三つ目は、それと、既にある運がもしあるのならどう進んでいるだろうか。三つ踏まえて五分と良いになる計算が何かあるだろうと期待しながら明日を待つ。待つ=生活から知れる動詞

     

     

     

     

     

    街で人が何か言ってるとき波長を霊という見えないもの

    形のない

     

    と合わすと、背景や空気と活一致する。

     

     

    情報量の重い言葉を持ってしまう、言ってしまう、で悩む人は多い。その間合わせる波長が現実的過ぎるのかも知れない。必ず心の中を検索する時間は回顧心とまず繋げなければいけない、もうちょっと砕いて纏めたら、自分の意識の高さに気付く練習とかして、「ミッ」とロボと感じる記録が出来るのかも。。

     

    私もテスト中。

     

     

     

    自分にある苦いこと、恥ずかしいこと、を普段から把握して、腹を出せるようにならないといけない。ストレス発散をし、良くないと思ってたそれが後に木の光合成に繋がるとわかった。

     

     

    イモい  卑下語。押す言葉ではなく、サゲル。

     

     

    この言葉が鮮やかに甦った。

     

     

     

     

     

    重なる   が、重ならなくなるから、気持ちは意識しないを推奨している。現実に思うことに見たら、色々思い浮かび妄となる今、わたしの目には前があって、

    掛け走るあとで気付くよりも、見て「前」に気付いた。 

     

     

     

    見てもないが、仏道入門中、無格山の水のその内のほとりに出会ったが、そのアッテルは心に思った悪意がそのまま悪事となる為、境涯という透明な存在に気付き、別、他界として閉じる小恋愛を経験した。

     

     

     

     

    この所に、何を選んで良いかわからない苦悩があるが、暫し楽しんでも良いと思う。

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  • 論書

    童の環境「外見の良さは脆い、化粧水パックを使用し丁寧に暮らしている。清潔について色々考えた結果こうなった。命名が諸あるから少ししか言わない。」

     

    仏にたいしての感謝に、気までが体を解る身にたいしては、かなしい。

     

    あらゆる混同してしまった理解が、いらぬ混色のようにしてマリアが肩をおとすような良い色に発光はしなかった。気になる人にどんな色か伝えるとすると、青に灰が混ざってぐちゃぐちゃにしたような感じ。

     

    ただこれが私にとって現実化しないのは、境涯による。それがそのまま現実化される悪人はある。悪い人、良い人がいて二人と数えたとき、同じ時間に「つらさ」という同じ重さのやつをそれぞれ持つ。すると潰れる人と耐える人があり、離れざるを得ない。

     

     

     

    時間軸と言う幅の長い広い物があってその中で瞬発的に遭遇の叶うときはある。

    勢いはある、いける時はいける、こう俗語にて許している事だ。

     

    …こんな言葉から、俗世と天世が別れたことを示し

     

    俗世に引かれる者に対して、境涯を上げる、とか、転生する、とか仏教が現る。

     

     

     

     

    昨日、チョンという既知の想像があることを学び直した。補足すると言語のニュアンスは「バツ」。

     

    チョンペケスミダ、私はそれが挨拶なんて素晴らしいなと感じていた。韓国料理店は近くにも沢山あるが、

     

    基本、「自分を民だと思うとき」

     

    に、これを解る。

     

     

     

    いけるときはあるよ、と尊を人とする者が言う。

    伝達の方法を考えるとして、その方法とは想像より遥かにある。心配いらない。

     

     

     

     

    「私の世界の客観って?」謎の悪党は、自身が村人とわかって、その後ストレスが消えた。

    今は全てを、単に肩凝ってただけだと理解して、「名」が苗字ではなくなった事を知った。

     

     

    先に言いたかったが、

    「南無天孫」は、あなたも祈って良い。

     

     

     

     

    母の始まり

     

     

    子は、如来が何だかはやく理解したい。

     

     

     

    別世界の存在が解る。如来とは、物の器が大きい。個数を意味する時は入らない。

     

     

    金色の予感を張り倒して会いに来てるのは、金迦羅。→自分を失くした痕跡と、体による時差に耐える為、

     

    金伽羅…童子と言う中途半端な形。悪人にはただの人以下に見える。

     

     

     

     

    釈迦文句「強調する言葉を養って下さった親から来た。」

     

     

     

     

    ここは、

     

    嘘でも本当でも、そこで信じたいものを自分で取りに行っている。そこに鍛えの必要な養いなど

     

     

     

    右に罪悪感を、左に自信を、罪悪感を取りに行くのは難しいが、これらを合わせる。罪悪感は、哀しいってのとは違う。

     

    自分に対することは、心の優しさからか気合いを必要とする。

     

    苦い程、それは怖しいと思うが

     

    火に手を入れるくらいの程。

     

    火に手を入れるくらい、と書けば、構造がわかる。

     

     

    合わせた手を、「もう触るようなことはしません!」と、実際に破ることが自身にあっても言う、と、言えたらあなたに神がやっと付きます。

     

     

    神それは私ではなく、私はとっくに神を付けた後の分けれる理解を有する人。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 世間と社会の違い

    人遣い、とは、

     

     

    今が、今、

    自意識が、自意識、

    嫌が、嫌

    好きが難しい、

    趣味が、趣味

     

    こういう、

     

    今が、今といった意識の中で光を作っている。

     

     

    日が射すとはそう言う事だ。

     

     

     

    時間超過、原因が人の気を存在する間を埋めて既に存在する面を退いて無視すると、神使いの枠からはみ出てしまう。それは後で払うと言えることではなく、

     

    電車線路から落下する、命をほかさなければならなくなる。

     

     

     

     

     

    人を認知しない中で戦争を考え、そういった怪しい人を考える、こういった自己研究もある。

     

     

    そんな人は兎に角、世間間の了解がある。もしくは、それを自分で求めることが出来る、その心得がある。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    悪意もないが、うざいと捉えられる言葉もある

     

     

    その際は自分が離れる、とか、

     

    その面を案じる、とか、

     

    時間が経った時それを嫌がらない、とか、

     

    仲良くなれる、を知ったり、

     

    実際の社会に立つ時では出来ることをしていて、

     

     

     

     

    人と力がつくのに、人を知らないと言うと、

     

    自分の世間値を落とす

     

    人の家に、悪意で社会を持つ

     

     

    社会が自分の中に存在しないと高める、と言った

     

    自分と社会との繋がり

     

     

     

    社会は

     

     

    社会性のある私の家に入れない

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  • わたしの回顧心

     

     

    アカるさにたいして躊躇する、

     

     

     

     

    屑は、

     

    五目(ごもく)、芥(あくた)、と言う。

     

     

    大切に思う分、ゴミは、ゴミ箱と身体を働かせる事が出来る。

     

     

    では、今は、「今」となる。

     

     

    二点も持てば、この強さが二倍ということになる。

     

     

    空っほになった大きな空白を、「モノトーン」といって纏めたら

     

    面になり、

     

    それを熟語と書く。

     

    体から解る書くことの意味。

     

     

    持てる情報量が違う、と巨大な筆は言っていた。

     

     

     

    「うち」が強い。

     

     

     

     

    自分でわかってるねん、解ってくれて嬉しいな。

     

     

    これを伝えるための、接続機としたことばをもつ

     

    言葉があったら、なかった時は何言うてたっけ?

     

     

    形のない頃、「自分」の強さを思い出す。

     

     

     

    こうする力として、認めた雨は、、

     

     

    勉強机の中から

     

    死ぬまえに戻れる、

     

     

    タイムマシーン。

     

     

     

     

    大阪は古い。氏は、

     

     

    天宇津女命、

     

     

     

     

    渦のこと。

     

     

    天(あま)を、天(あめ)、そのまま言ったりする。

     

     

     

    雨は、真実にはさらっとしてるか逞しいか、

     

     

     

    そう思う。中に、じとっとした悪い雨は蟲の事だと思ってから、形状を表すために除算したからだ。

     

     

     

    好きになった、雨を。

     

     

     

    例えば「忠臣蔵」と言う演目の裏版に、「四谷怪談」がある。

     

    この裏表の形は、不文律性の極として「生」の表現を高め上げている。

     

    雨を、手捏にして何か作る。どこかに置いて、

     

     

    その作品を、誰かが見る。

     

     

     

     

    体に、体から置いた分、流れ、

     

     

     

    もとからある濁った「液」で、

     

    その時「粉」が要る。

     

     

    固めて、「火」に煎って焼く、この手順が純粋。

     

    美しい好みの煎餅が出来ると、

     

     

    信じて。

     

    オオクニ、例えば別れることなく気持ちが繋がり、

     

     

    顔が判り、壁があったら。

     

     

     

     

    つまり、家の建造と言うこと。

     

     

     

    「泣いてるねん」

     

     

    その顔は、む表情ではない。

     

     

     

     

    わからない

     

     

     

    そういった所から守られてる。

     

     

     

    心と身体が繋がれるという変わらないことである、

     

     

    そういう自然一体があるかな

     

     

     

     

     

     

    別れることなく、雨がある時渦の雲は満ち、体的に鍛えられれば、

     

     

    かんじがわかったら、

     

     

    君がこれ側に入ってくれたら。出られるかわからんけど。おんねん。

     

     

     

    (怨念)

    ただ恨みせず、怨霊になっている体感としては恨みとは全く違うものである。何もしない、と言う決まった点により区別する。しっちゃかめっちゃかになりにくい強さを持っていて感謝を覚えたままの心は気高き事である。

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  • 夢と現実、詰合わせ

    前述の考えの下に、

     

     

    一本杉、のような木。これは、

     

    物凄い暗いようなこのカベともいえる太陽の続き。

     

     

    何と、「続き」があった。

     

     

    この「線」の向こうには、ちゃんと人がいる。

     

    「意識は悪いが、確かめたいことがある。」

     

    良いことも悪いことも想像中は物凄い考えながら、

     

    見離さずにいたい線。

     

    嫌なことでも分離化が出来てるからすすめれること、

     

    があり、理由があるを原因に二分とし、真似してはいけない事も相応して存在する。

     

    恒常的な、その間に愛があったことを、

     

    流れる糸の中でちゃんとある。

     

     

    自分の思う順序に、足してこういったことがあったのだ。流せぬ涙をここに落としておく。

     

     

    抑制し過ぎている感情を、どうにかしたいと願い願われるがわからない。

     

    静かに思う。

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  • いつもの日

    息を使うこと、そうインドダンスのビデオから躍りの練習に取り組んだことがある。

     

    その視点は、

     

    結果的に一見して難読と思うお経の感じ取れる太陽そのものの内容を、理解する。

     

    以下は前向き、前を指し示す目印を詳しく言ってると思う。

     

     

     

     

     

    要は人と並ぶのがまず難しく、難しいと生身で感じるこの事をそのまま難解と読み仏教。問題、わたしのテーマ、並んだ時にめちゃくちゃ綺麗に見える。

     

    宗教と仏教が、別の言葉だと解るが、釈迦が現れた時、宗りとなり、それは教えとしての形ではなくなり、透明であるや無いといった清潔がある。正しい清潔感を予測する。生きてる間、ブレやすい事だ。

     

     

    人と並ぶのがまず難しい。

     

    自分の背景というものが、肢体というものを支えていて

    背景というものが「過去」でもない…。

     

    実感として決して跳ね上がれるような動きのあるダンスじゃないけど、肢体を動かせるという一つはつまらない動作をこなして行く

     

    というダンス、言葉が、全体を見たときに物凄く煌びやかに見える。自意識、意識も含めまた初めて客観性に出会うような意識、太陽そのものを「感じ取れる」、実感する、という事が出来るんだ、と知る。いつものわたしの様子や、世界を考える元の姿勢とは、を思い出せるのだ。

     

     

     

    人から飛び抜けよう!と思っても、良い華を活けれない、

     

    イントネーションの穏やかな美しいことば、があるが、

     

    高揚したままの上り下りした、その言葉が、わたしの肢体と言う人並びを知っていて、

     

    視点を広く持った時、

     

    継続心という希望がそこに表れていて、

     

     

    色んなことがある、というよりは、色んな同一の人がいる。色んなことを通した人がいる。それを同一性といって、激しく働く人には生じる段差を緩める、(米)視線の方向、(日)視線の定まりとして、言葉の個性がある。

     

    わたしがわたしになった時、あなたが生まれる。あなたという抵抗にたいして、新しい道がある。わたし、という公式が違う。その表情は、何故か無理がない。

     

     

     

    あれが美しい、と言う視点からは、

    少し辛い、しなければならないこと、

    それを支える手だて、手掴み、その毎日がある。何もない。

    そう進めば、嫌でもああ思う自分に感性があるインスピレーションその向かえる姿勢となる。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

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  • 考えても考えても忘れやすい蟲ーは忘れて良い(編集)

     

    私は自分で声を出さない、と取ったか、私自身とは字体を再構築化した人で、同じ様に並んでいる事そのものの理解世界だったら…?  気をよそに移して回転させられたメリーゴーランドの人よりも私の方が知っている、となる。どうにか自分が解ったセカイモンの説明をしたい、と思ってチラシを内外から配布する、という行動の途中。

     

     

    私は、相手にしたことはないが、

     

     

     

    仕事、自分の責任と相手が噛み合うかはわからない。

    気持ちをそのまま書いてみるのに四苦八苦、そのままの気持ちを、しかし字を動かせることが出来ない。

     

     

    仕事は七転八倒。

     

     

     

     

    好悪

     

    あることを教えたのを見境えたまま自分の感情に合わせて、心等に触れてくる人と、そっと出来る人が分かれている。

     

     

    だから、これからも優しさがセカイモンに存在して、行く先々でどっちに転んでも、あなたのこと、だからこれからも

     

    その人の考える事実と、現実は別だから。悪人精神上で妄想にとらわれたまま長居するヒトは、人の存在をまず証しようがない。→愛せる可能性がないと予測する

     

     

    多くが心的に関わりの影響がなく、先に共生の力がなくて、

     

    二度と触れてもらわらない為、教えてるが、誰がそんな風に「興味ないもの」に目を向けさせようとするのだろう。ユーチューブに心を走らせ、私がハイエナに憧れ、それからは十分離れたところに立派な象がいる。色がない、賢い、鼻か長い、この口説は、象になるには、そばにいるライオンの物の聞き方から学ぶ。意味ありますか?精神が夢見るのは広大なサバンナ。人間関係を求めるにはふさわしくない精神、人間という豊かな気持ちは心に仕舞う。

     

    心の自然体は素晴らしくあり、感じたことのない形が実現出来たりする。霊が磨かれている。  関わっている面から相関を取り除くと型どった感情が、霊となり出来上がった。わかりにくさもそのまま。後は時間を潰さずにしたいが、自分的には時間はなきものだと言えないから、助けを待っているがこんな事に助けがいるなんて穢らわしく、何か人がしているという理解をしたら二度見はしない。相関性とは、あなたは自分は、「私のこと」をどう感じか、という意味。自分を理解する人が、実際近くにいないわけがないし、それが、

     

    どこか遠くにいるというのは理解出来ない。

     

    だから相関を取り除くと、光は心一体にすこんと馴染み、すこんと器に入る。

     

     

     

    信じると思い込みが違い、念じると「念」が180度違う。

     

     

     

     

    象は、殺人を意味する想像を少し聞いたことがある。耳が大きく広く、きっとよく聞くと思う、身体的な輝きとして強そうだが、太く何でも踏み散らすのが象だという人とは、格好良さが変わる。そういうふうに対象から誤解を受け、色彩を奪われた象、そんなほのがなしい想像をする。

     

     

    ちゃんと苦労から始めた老人というのはは、ちゃんとしんどい人から目をそらさず、間を置いて話しかけてみるという、苦労をする、苦労をしていたが、重なって許されている光のひととき。

     

     

    ついてくるものが、影と言う人もいるが、只の連想の雲をどうにかそれにしようとしただけで、

     

    どうにかそれにしようとする苦しみが、「影」に近く、努力であり、

     

    らくになりたい、というあせや妄想は消える。

     

     

     

    優しさも福祉や区役所に求めたほうが大変な経験をする。知らない世の中にずかずか入るヒトは顔が意地悪だから気にして警戒をする。

     

     

     

    仕事と聞いて丸々社会と言い、

    事が済んでも、世間を踏みながら教化してくれという、

     

     

    光の中で夢を見てると、紛れて来て大きなものを言いふらし、良いものと言い、その後夢を見たり、想像したりすると、分けなかった事が悪いということが始めにくる。

     

    「分けなかった事が悪い」、タイトルを他人の運で決め、そこから現れた内容は自分のお陰だとする。

     

     

    「格がない」のと、一点を張る無格は、似て非なる二つである。

     

     

    何かをしないとは、何もしていないとも違う。

     

     

    普段、悪いことは忘れて生きている。

     

    悪いこと、文章に丁寧に書き自分より小さく持つ。

     

     

    最優先として、自分はとりもちのようにくっつくこういった距離感鈍りすぎた人を、取り除くこと。

     

    祈りの光を思うこと。

     

    この二つだけをずっとしている。気が塞がり、本来頂いた良い物が回らない。

     

     

     

    文明人とはこう忍耐強く光を読誦していたら、まったく争う筈がないことがわかる。ある時代に、大量殺人があったことをテレビで観た。

     

    いつだって文明以下の、その人らしい。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    大阪の心霊神社

     

    あっこの人かっこよくなりたかったんや、きもっ

     

     

    勝手に距離感をあける人をくっつけて、

     

    上から誰かにわからんようにその人に押して

     

    あかんといわれてる蓋をいつまでもかけ

     

    口を塞ぎ

     

    こんなことされたのよって話をしているの、で閉め

     

    人体の上でいつまでもアッテルと話してて

     

    私はフランス人、と言い

     

    自惚れに精神を酔わせ肯定し、上から

     

     

     

     

     

     

    計算上、文明にいれず、魂に結果とか結局かないことから、輪廻があり今蟲ーなら、蟲ーの可能性だと私は見てる。自分は偉いとばかりきこえるが、

     

     

     

     

     

     

    ー金五円、私が無視をしてしまった大阪の門

     

    (一日目…オッケー行けるわ、自転車ぴゅ~)

     

    男「あきませんよ」

     

    (二日目…頭に怪我をしていた、伝え事を伝えきれなかった)

     

    男「う~ん、どうしよう。」途端に忙しい風が吹く

     

    (三日目…もう聞いてくれへんねんやろ)

    年の前後的にその時話しても仕方のない軽薄感を思い込んでいたが、真相がはっきりしなかった

     

    男「そんなこといいなや♪   またっ!」

     

     

    (四日目…行くで! ええか?)

     

    男「理由言わな。」

     

    (五日目…あんたがこうあって、私はこうしていてこれを知ってるからこうやから、こんだけあるからこれが出来る

    )

     

    男「それはこの道で、戸棚にはこう直せて、力はいらない。ふ~ん。」

     

    (六日目…書き出し中

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    こういった大事な会話を聞いていて、

     

    ・これがいい

     

    ・これがこれだけ重い価値のある

     

    ・これに意味がある

     

    ・私が生活上覚える所の重要を点々と消したら誰かがわからなくなる

     

    ポイントだけを覚えて押さえてる気配がする。

     

     

    を、人間を破った上でしているから、何か綺麗だったり、纏めたりは実は出来ない

     

    そのクオリティが、必ず最下層底のものであるばかりが今生きてる運勢を全て劇的に下げる、世捨て人は甘くない、孤独もない。既にクオリティ等という価値の外に来なければならないから。福祉で編むヘアーゴムくらい、には未満。

     

     

     

     

     

     

    上から見たらカス。

    先祖食って生きてる。上は、わざと食わせて、色々な事実確認をされている。

     

     

    姿こそ見えないが、世界に笑いあった光の実在は、ともすると。

     

     

     

     

     

     

     

     

     

    言葉「わたしは愛を知ってるから、それを続けるが出来る。」

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  • はっきり言えるセカイ規制

    大阪さんは、「セカイモン」と、心に流れる光たちを名称している。私もセカイモンと

     

    心にも表面って存在するんだなぁ、と観察してる。

    次元性も、立体性もある。考えようとしている心が目的を見て、それを自我が一本の杖のように支える。

     

    神は、現れるとしゃましゃま、様々、に人はなるから、思いはあってもお隠れであると言う。本来神、人は人とは認め合えるように努力するこういった気持ちでいなければいけないのに、それを支障にする、、

     

     

     

    「心霊その光」が現れる。心と心だから繋がるその時、感情も感性も想像も自分だけのものだから、大事にして欲しい。私は、感情を信じて欲しい。愛する為にある大事なこと、それ自体が心で川のように長い。だからよく考え、考える理性が人と異なり間隔を大切にすることの深さが解る。いつでも心を起点にする、それが理性。これが単なる抑制などとは全く違う。冷たさでも優しさたまでも、確かな人のあたたかさがある、温度がする。これは「ぶっしつ」ではない。ここに仏がいて、それがどのような小ささかが解ると思う。そして大は小を兼ねるものだから、自分が大きくないと、「それが小さい」を捉えられない。

     

    想像は好きにしたら良い。こう心に断言するまで、この自分の合点を正しくしている。

     

    解ることは全て、「自分」が持ってる!

     

    だから助けるのが邪魔だと解る

     

    その我慢の中で

     

    忍耐を学ぶ

     

     

    セカイじゃなくて、自分がしてる

     

     

    セカイは関係性をもったことがない

     

    その観察の上で・出来ることを抽出する

     

     

    上手く行った光は、使わない、人の祈りからあるもの

     

    その間に欲張りな「使う」「何かをする」と言い出す人が現れ、

     

    その人は断定されるほど、輪廻以上に悪人と決まっていた

     

     

     

    何か価値あると思って「邪念」

    しても、

     

    今、何か見れないと感じるのは、堪え性という価値がないか、後から来てそれを見たことある蟲や下級霊、絶体入れない

     

    見合った価値を自分がないとパスは開かない

     

     

    自分が判断して欲しい、それ以上に自分が判断するしかない

     

    自分が生きる、を忘れず、もともと自分の目標の目星だけを頂く

     

     

    これは、文明時代からずっとしている自由な考える態度。

     

    自由な考えを守れる時、繊細な人間の肌にとってしっくりしているものだ。

     

     

    皆は、文明はずっと興味あったが、理解方法は解らなかった。

     

     

     

     

     

    文明霊が見守る中で、

     

     

    常に再度見直され見つめる光の中で、私は考えてみて、こういった大きな光、巨大な光から、ちゃんと「物」や機器の利器性を見ても、いつも持つ、と言うスマホも、利器を繋ぐ接着に関連した「言葉」だと思う。元論とは、「私は神だ、私は考えるを意識するのだ」こう示し、物理論とは、その派生にあたる「能楽」など花にたいする学問を示す。いずれにせよ、人とする自由な考えだ。

     

     

     

     

     

    今日、私が持ち帰った目星。

     

    日の社会のなかて人間関係が簡単に終われる風潮が今あることから、「言葉」の存在する時に、締めない、言葉の語尾がブレて、明るく付けてもそれは同じで、

     

    言葉の語尾に空白を打って海辺に向ける約束を伝えることとは違う。

     

     

     

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  • 考える言葉

    考えは、水を切って考えることのできること。

     

    ・科学の意味する簡素さが大切にされていない、

     

    答えは、精神上遠くにいるから、おそれ、大きく見える。

     

    フランスの仏が言っていた。

     

    米兵は、自分のものを人に譲るのはアメリカ人の侮辱、と言っていた。

     

     

    「生きることに無防備であれ」虚空蔵

     

     

     

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